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戸田川の渡しを下りて地蔵坂を越えたというもの、蕨の宿から幾ばくも歩いてはいない。それでも新平の体には応えたらしく、榎木の大木にもたれかかって休んでいる。
縁切榎木、土地の者はこの榎木のことをそう呼んでいる。嫁入りの日にこの下を通ると必ず不幸に見舞われるという。朽ちかけた大木だが、太い幹には夥しい数の絵馬が掛けられており、行き交う旅人の目を誘っている。この幹の皮を煎じて飲ませれば男女の縁を断ち切れるともいう。おそらく、縁を絶ちきりたいと願う者が多い土地柄なのだろう。
厳しい残暑の続く七月も盆を間近にした昼下がり。中仙道は坂本の宿を出立してから五日を過ぎて、ようよう江戸も目の前だ。おなつと常助は、この大木の木陰を慕うかのように、そこに腰を下ろしたまま一向に歩き出そうとしない新平に仕方なく付き合った。
今朝方蕨の宿を発ってから、歩いたのはほんの二里ばかり。あともう一息で江戸の町なのだ。それなのに、この男は一体何処まで迷惑をかけるのか。ついさっき、志村の一里塚のところでも、あれだけ休んだじゃないか。常助は忌々しくて仕方がない。大体、今年の暑さは何なんだ。去年は、夏でもたき火が欲しくなるくらいの低温で全く米が育たなかった。ところがどうだ。今年は焼け付くような日照り続きで、全く雨が降らない。田んぼも干上がっている。道中見かけたあちらこちらの稲穂も、相当育ちが悪いように見える。
一方、息苦しそうに喘いでいる新平の傍らで、おなつは甲斐甲斐しく介抱に余念がない。長旅の疲労が重なって持病が酷くなった新平の様態は、日毎に悪化してくるようにみえる。それでいて、少しでも早く江戸に行こうと、このお侍は必死の形相でここまで歩き続けてきたのだ。そんな新平の姿に、おなつは手を貸さずにはおれないのだ。新平が旅を急ぐのには、それなりの理由があるんだろう。とはいえ、碓氷峠を下りた坂本の宿では丸二日寝たっきりだったのだ。幾分回復してきたとはいえ、やはり江戸まで歩くことなんて無茶だ。何とかここまで辿り着けたのも、おなつが肩を借してきたからだ。碓氷峠越えの熊野権現様で苦しそうに身体を曲げて座っていた。そこで声をかけてから、おなつと常助が道連れになって介抱しながら旅を続けたのだ。おなつと常助にしたって、物見遊山の旅ではない。それでも、峠を下りた坂本の宿で、新平の体を気遣って二日も逗留した。新平にしてみれば、おなつと出会ったのは全く権現様の救いだったのだ。
この三人の道行きは、行き交う人々の目には、奇妙に見えたに違いない。おなつはようやっと今年で十七歳、小柄な童顔で質素な身なりの村娘である。その小娘の肩にしがみつくようにして、二本差しに深編笠の若侍が、力無い足を引きずりながら通り過ぎていくのだ。行きずりの人々が、怪訝な顔でさもしい陰口の一つくらい囁いたって文句は言えまい。
そんな二人を尻目に見やり、常助は何時も苦虫を潰したような顔つきで、何やら小声で愚痴を零しながらついて歩く。おなつと二人ならもうとっくに江戸に着いていた筈だ。盆までには家に帰りたい。おなつの奉公口を決めて、一刻も早くその先借り金を持って帰らねばならない。それなのに、この見も知らぬ男の為に遅々として旅が進まないのだ。
大体これ程情けないお侍など見たことが無い。いくら苦しくても人前ではじっと堪えて顔に出さないのがお侍じゃないのかい。オレとおなつの二人なら、三日もあれば江戸に着いたものを。おなつが新平を拾ったもんだから、五日経っても江戸にたどり着けない。その上、日を重ねるごとに、おなつに頼り切ったような態度をみせるのは何なのだ。腹が差し込むくらいのことは、ふんどしの紐をぎゅっと堅く閉めて、体を動かして働いてりゃあ、忘れてしまうってもんだ。気持ちが弱いんだよ。だいたい、今朝だって飯を一人前以上に食っていたじゃないか。おなつもおなつだ。五年前に上田の町の反物屋から、岩村田のわが家を遠戚として頼って来てからというもの、義兄にあたるオレには殆ど無口だっただろう。それが、新平の前では打って変わって元気に振る舞ってるじゃないか。忌々しい。爺っさまが老衰のため床に臥しがちになっちまった。だから、オレは一家を養っていく責任があるのだ。そのためには義妹を犠牲にすることだって仕方の無い事なんだ。
町屋で育ったお嬢さんだから何も出来ねえだろうと思ってたら、これがよく働く。畑仕事やお蚕の世話や、何でもテキパキと体が動く。おまけに、読み書きが達者で、そろばんもよく出来るから重宝だ。うちじゃあオレと並ぶ働き頭だ。爺っさまの縁を頼ってうちに来た娘だ。そりゃあ、身よりもなくして可哀想だ。オレだってそんな優しい気持ちもあるのだ。でも、今は爺っさまが寝たっきり。元々うちには養女を入れて口数を増やす余裕なんぞ無かったのだ。それが去年の大飢饉だ。家族みんなを飢え死にさせる訳にはいかねえ。可哀想だがおなつに働きに出てもらおう。口減らしにもなる。おなつだってイヤとは言えねえはずだ。それを、当て付けがましく赤の他人の新平にばかり陽気に振る舞い、身内の自分には一言も口を開こうとしないおなつを見ていると、無性に腹が立つ。
やはり心じゃあ恨みに思っているのだろうか。ただ、後ろめたさもある。奉公に出すとは言いながら、見も知らない土地に売り飛ばしてしまうのだ。だから義妹の顔をまともには見ることが出来ない。おなつのやる事にそうも強くは口出しができないのだ。
一方、新平にはこの心易げなおなつの態度が煩わしい。ただでさえ、世間から酷い中傷を受けている己れなのだ。悪評というものは遠慮無く耳に入ってくる。その酷い悪評が、道中江戸に近づいてくる程に日増しに酷くなってくる。顔見知りにこんなところを見られでもしたら又どんな風に言われるか知れたものじゃない。おなつの肩に掴まって歩きながらも、ふらつく頭に浮かんでくることといえばそんな世間体ばかりだ。
いよいよ江戸だぞ。蕨の宿を出たらすぐ江戸だ。
しかし、今朝から新平は心穏やかではとても居れない。それを知ってか知らないでか、そんな顔をしている時に限っておなつが特に馴れ馴れしい口の利き方をして、態と新平を苛立たせる。人目の多い往来では離れていたいのに、この娘は態とくっついてくるのだ。
「こらっ、離れぬか!」
病の身で此処まで旅を続ける事ができたのはこの娘のおかげだ。そうは思っていても、時折思わず鬱積した不満のやりどころ無く、全て彼女にぶちまける。簡単に術中に嵌って激しく罵る新平に、娘は屈託のない目をして微笑み返す。それで新平の不快気な表情が和らいでいくのだ。二日ほど坂本の宿で介抱して、新平の扱いにはもう慣れた。
つい今朝ほど、蕨の宿を出発してすぐ、おなつは野辺に咲いた一輪の赤い花を見つけて、やたらとご機嫌になって話し出した。
「わあ、野カンゾウが咲いてる。わたしの一番好きな花だ。野カンゾウってね、朝早くこんなきれいな花を咲かせるの。でも、夕方になったら枯れてしまうのよ。だから、自分のことを忘れないでって、一日を一生懸命咲いているの」
往来で人影を見ると離れて歩こうとする新平に追いついては、そんな風に話しかけてくる。
「野カンゾウかあ。あの若い葉っぱは食えるんだ」
義兄が横から口を挟む。それには何も応えず、
「野カンゾウはね、ワスレ草とも言うの。『どうぞ私のことはお忘れください』っていうことなんだそうだけど、わたしには『いやなことは忘れなさい』って言ってるように見えるんだよね」と、夢見たような顔をして言っていた。
仇討ちの本懐成就。初めてその朗報を小耳に挟んだ時は、新平も理屈抜きで嬉しかった。運悪くその場に居合わせることができなかった。とはいえ、三年にも及んだ労苦だった。その甲斐あって江戸の妹が仇を見事討ち取ったのだ。誰の手柄というのじゃない。やっと心の重荷を下ろすことができるのだ。本懐成就の喜びを分かち合いたいのはもちろんだ。しかし、それ以上にこれまでの労苦から解放されたい。その思いから江戸への道を急いだ。運良く父の仇を討ち果たした妹は「烈女ちせ」「孝女ちせ」と賞賛された。それは誇らしいことだ。決して「烈女ちせ」の妹が妬ましい訳ではない。兄としても嬉しい。ところが、世間という奴は意地が悪い。晴れがましい噂が大きくなるにつれ、やがて世間の目は新平に向いてくる。人の噂は怖いものだ。次第に事実と噂がかけ離れていく。
「嫡男の方は、仇を追って江戸を出立したまま、行方知れずになったままだそうな」
「端から仇を討つことなんか、これっぽっちも考えていなかったのだ」
「きっと返り討ちを恐れて、出て来れなんだに違いない」
「上方辺りで楽しい思いでもしてるんじゃあないのかい」
あれやこれやと勝手な詮索を始め出し、口づてにあっという間に広まった。。
自分なりにこの三年の歳月、一心に仇を求め、日々探索に費やしてきたのだ。大変な心痛だった。一時として気が休まらなかった。それなのに、妹の評判は益々高まり、それに併せて己れへの悪評は酷くなる。新平の側から言えばまさに迷惑この上ない、下世話な勘ぐりというものだ。何時の間にやら卑怯者呼ばわり。江戸の噂は、日を追うごとに街道沿いに遠国までも広がっていく。
そうした噂が、和田峠の辺りから新平の耳にも入ってきた。最初は仇討ち成就の賞賛ばかりが聞こえてきた。はやる気持ちで江戸への道を急いでいた。ところが、峠を越えて長久保の宿辺りでは、すでに相当あくどい噂に変わっている。そんな風聞を小耳に挟む都度、耐え難い苛立ちを覚えた。それに逆らいはやる気持ちから、無理してその日暮れ時には笠取峠を越えていた。長久保で一日休めば良かったのだ。
「和田峠を越えてその日のうちに笠取峠を越えようなんて、そりゃあ無茶だ」
そう望月の宿で亭主に言われた。無理が祟った。結局、望月で永く休むことになった。心痛とも相まって一気に体力が萎えていく。気が焦るほど足が動かなくなる。益々苛ついてたまらない。腹の差し込みがますます強くなった。元々、子供の時分から癪をよく起こした。常備薬として丸薬を腰の印籠に入れている。赤子の頃から夜泣き疳の虫によく飲まされた丸薬だ。いまだに、不思議と具合が悪いときにそれを飲んだら、どんな痛みも治まるのだ。ところが諏訪のあたりでそれが無くなった。最初は印籠の中の匂いを嗅ぐだけで何とか治まった。ところが直きに匂いもしなくなる。買おうにも最早路銀も厳しい状況だ。無いと思えばなおさら痛みが酷くなった。ただ腰の印籠を握りしめて、早よ治まれと祈る以外に方法が無い。江戸が近くなるにつれて、その痛みがますます増幅した。
くそっ、こんな事で帰参が遅れてどうするのだ。
そんな心の焦りを知ってか知らんでか、新平が表情をこわばらせている刻に限って、おなつは特に馴れ馴れしい口の利き方をしてくる。態と新平を怒らせるのだ。おなつは詳しい事など知らない。しかし、この若いお侍は悪い人ではない、絶対に間違ったことなんかしていない。そう堅く信じている。世間の噂なんて端から信じられない。これまで厭な思いを随分してきたから、自分の直感が一番正しいと信じて疑わない。兎に角、この五日ばかりの旅の間、自分を頼りにしてくれるこの若いお侍が気に入ってしまったのだ。義兄よりも義父よりも、この男の方がずっと信頼出来る。五年前に両親を失い、三人の姉妹がそれぞれ引き離され縁戚に引き取られて以来、これほど屈託なく話せた相手はいなかった。
窶れきったこの若者の容姿に、乙女心を擽るような魅力がある訳もない。しかし、この若いお侍は自分を頼りにしてくれている。そして、自分は見も知らぬ広い江戸の町で、明日からはただ一人働かねばならない心細い身の上だ。今、こうして新平の世話を焼けることが、どれだけ心の救いになっていたことか。
「兄さん、早いけど今日はこの板橋でゆっくりしようよ。新平さまを休ませてあげたいの」
やっと目を覚ました新平から離れて、おなつは義兄に言った。
常助は不承不承頷いた。まだこれから歩けば、日暮れ時までには日本橋まで足を延ばせる時刻だ。早いところ金を手に里へ帰りたいところだが、おなつの言葉を無下にはねのける訳にも行かない。何しろ借金の手立てなのだ。それをおなつに見透かされている。家族を養うため、仕方ないことなのだ。おなつも年季奉公に出ることは納得ずくだ。そうは思う。しかし、やはりおなつに無理を言われれば、どうにも後ろめたくて嫌とは言えない。厄介な奴だ!とでも言いたげに、新平の方を一瞥した。
縁切榎木、土地の者はこの榎木のことをそう呼んでいる。嫁入りの日にこの下を通ると必ず不幸に見舞われるという。朽ちかけた大木だが、太い幹には夥しい数の絵馬が掛けられており、行き交う旅人の目を誘っている。この幹の皮を煎じて飲ませれば男女の縁を断ち切れるともいう。おそらく、縁を絶ちきりたいと願う者が多い土地柄なのだろう。
厳しい残暑の続く七月も盆を間近にした昼下がり。中仙道は坂本の宿を出立してから五日を過ぎて、ようよう江戸も目の前だ。おなつと常助は、この大木の木陰を慕うかのように、そこに腰を下ろしたまま一向に歩き出そうとしない新平に仕方なく付き合った。
今朝方蕨の宿を発ってから、歩いたのはほんの二里ばかり。あともう一息で江戸の町なのだ。それなのに、この男は一体何処まで迷惑をかけるのか。ついさっき、志村の一里塚のところでも、あれだけ休んだじゃないか。常助は忌々しくて仕方がない。大体、今年の暑さは何なんだ。去年は、夏でもたき火が欲しくなるくらいの低温で全く米が育たなかった。ところがどうだ。今年は焼け付くような日照り続きで、全く雨が降らない。田んぼも干上がっている。道中見かけたあちらこちらの稲穂も、相当育ちが悪いように見える。
一方、息苦しそうに喘いでいる新平の傍らで、おなつは甲斐甲斐しく介抱に余念がない。長旅の疲労が重なって持病が酷くなった新平の様態は、日毎に悪化してくるようにみえる。それでいて、少しでも早く江戸に行こうと、このお侍は必死の形相でここまで歩き続けてきたのだ。そんな新平の姿に、おなつは手を貸さずにはおれないのだ。新平が旅を急ぐのには、それなりの理由があるんだろう。とはいえ、碓氷峠を下りた坂本の宿では丸二日寝たっきりだったのだ。幾分回復してきたとはいえ、やはり江戸まで歩くことなんて無茶だ。何とかここまで辿り着けたのも、おなつが肩を借してきたからだ。碓氷峠越えの熊野権現様で苦しそうに身体を曲げて座っていた。そこで声をかけてから、おなつと常助が道連れになって介抱しながら旅を続けたのだ。おなつと常助にしたって、物見遊山の旅ではない。それでも、峠を下りた坂本の宿で、新平の体を気遣って二日も逗留した。新平にしてみれば、おなつと出会ったのは全く権現様の救いだったのだ。
この三人の道行きは、行き交う人々の目には、奇妙に見えたに違いない。おなつはようやっと今年で十七歳、小柄な童顔で質素な身なりの村娘である。その小娘の肩にしがみつくようにして、二本差しに深編笠の若侍が、力無い足を引きずりながら通り過ぎていくのだ。行きずりの人々が、怪訝な顔でさもしい陰口の一つくらい囁いたって文句は言えまい。
そんな二人を尻目に見やり、常助は何時も苦虫を潰したような顔つきで、何やら小声で愚痴を零しながらついて歩く。おなつと二人ならもうとっくに江戸に着いていた筈だ。盆までには家に帰りたい。おなつの奉公口を決めて、一刻も早くその先借り金を持って帰らねばならない。それなのに、この見も知らぬ男の為に遅々として旅が進まないのだ。
大体これ程情けないお侍など見たことが無い。いくら苦しくても人前ではじっと堪えて顔に出さないのがお侍じゃないのかい。オレとおなつの二人なら、三日もあれば江戸に着いたものを。おなつが新平を拾ったもんだから、五日経っても江戸にたどり着けない。その上、日を重ねるごとに、おなつに頼り切ったような態度をみせるのは何なのだ。腹が差し込むくらいのことは、ふんどしの紐をぎゅっと堅く閉めて、体を動かして働いてりゃあ、忘れてしまうってもんだ。気持ちが弱いんだよ。だいたい、今朝だって飯を一人前以上に食っていたじゃないか。おなつもおなつだ。五年前に上田の町の反物屋から、岩村田のわが家を遠戚として頼って来てからというもの、義兄にあたるオレには殆ど無口だっただろう。それが、新平の前では打って変わって元気に振る舞ってるじゃないか。忌々しい。爺っさまが老衰のため床に臥しがちになっちまった。だから、オレは一家を養っていく責任があるのだ。そのためには義妹を犠牲にすることだって仕方の無い事なんだ。
町屋で育ったお嬢さんだから何も出来ねえだろうと思ってたら、これがよく働く。畑仕事やお蚕の世話や、何でもテキパキと体が動く。おまけに、読み書きが達者で、そろばんもよく出来るから重宝だ。うちじゃあオレと並ぶ働き頭だ。爺っさまの縁を頼ってうちに来た娘だ。そりゃあ、身よりもなくして可哀想だ。オレだってそんな優しい気持ちもあるのだ。でも、今は爺っさまが寝たっきり。元々うちには養女を入れて口数を増やす余裕なんぞ無かったのだ。それが去年の大飢饉だ。家族みんなを飢え死にさせる訳にはいかねえ。可哀想だがおなつに働きに出てもらおう。口減らしにもなる。おなつだってイヤとは言えねえはずだ。それを、当て付けがましく赤の他人の新平にばかり陽気に振る舞い、身内の自分には一言も口を開こうとしないおなつを見ていると、無性に腹が立つ。
やはり心じゃあ恨みに思っているのだろうか。ただ、後ろめたさもある。奉公に出すとは言いながら、見も知らない土地に売り飛ばしてしまうのだ。だから義妹の顔をまともには見ることが出来ない。おなつのやる事にそうも強くは口出しができないのだ。
一方、新平にはこの心易げなおなつの態度が煩わしい。ただでさえ、世間から酷い中傷を受けている己れなのだ。悪評というものは遠慮無く耳に入ってくる。その酷い悪評が、道中江戸に近づいてくる程に日増しに酷くなってくる。顔見知りにこんなところを見られでもしたら又どんな風に言われるか知れたものじゃない。おなつの肩に掴まって歩きながらも、ふらつく頭に浮かんでくることといえばそんな世間体ばかりだ。
いよいよ江戸だぞ。蕨の宿を出たらすぐ江戸だ。
しかし、今朝から新平は心穏やかではとても居れない。それを知ってか知らないでか、そんな顔をしている時に限っておなつが特に馴れ馴れしい口の利き方をして、態と新平を苛立たせる。人目の多い往来では離れていたいのに、この娘は態とくっついてくるのだ。
「こらっ、離れぬか!」
病の身で此処まで旅を続ける事ができたのはこの娘のおかげだ。そうは思っていても、時折思わず鬱積した不満のやりどころ無く、全て彼女にぶちまける。簡単に術中に嵌って激しく罵る新平に、娘は屈託のない目をして微笑み返す。それで新平の不快気な表情が和らいでいくのだ。二日ほど坂本の宿で介抱して、新平の扱いにはもう慣れた。
つい今朝ほど、蕨の宿を出発してすぐ、おなつは野辺に咲いた一輪の赤い花を見つけて、やたらとご機嫌になって話し出した。
「わあ、野カンゾウが咲いてる。わたしの一番好きな花だ。野カンゾウってね、朝早くこんなきれいな花を咲かせるの。でも、夕方になったら枯れてしまうのよ。だから、自分のことを忘れないでって、一日を一生懸命咲いているの」
往来で人影を見ると離れて歩こうとする新平に追いついては、そんな風に話しかけてくる。
「野カンゾウかあ。あの若い葉っぱは食えるんだ」
義兄が横から口を挟む。それには何も応えず、
「野カンゾウはね、ワスレ草とも言うの。『どうぞ私のことはお忘れください』っていうことなんだそうだけど、わたしには『いやなことは忘れなさい』って言ってるように見えるんだよね」と、夢見たような顔をして言っていた。
仇討ちの本懐成就。初めてその朗報を小耳に挟んだ時は、新平も理屈抜きで嬉しかった。運悪くその場に居合わせることができなかった。とはいえ、三年にも及んだ労苦だった。その甲斐あって江戸の妹が仇を見事討ち取ったのだ。誰の手柄というのじゃない。やっと心の重荷を下ろすことができるのだ。本懐成就の喜びを分かち合いたいのはもちろんだ。しかし、それ以上にこれまでの労苦から解放されたい。その思いから江戸への道を急いだ。運良く父の仇を討ち果たした妹は「烈女ちせ」「孝女ちせ」と賞賛された。それは誇らしいことだ。決して「烈女ちせ」の妹が妬ましい訳ではない。兄としても嬉しい。ところが、世間という奴は意地が悪い。晴れがましい噂が大きくなるにつれ、やがて世間の目は新平に向いてくる。人の噂は怖いものだ。次第に事実と噂がかけ離れていく。
「嫡男の方は、仇を追って江戸を出立したまま、行方知れずになったままだそうな」
「端から仇を討つことなんか、これっぽっちも考えていなかったのだ」
「きっと返り討ちを恐れて、出て来れなんだに違いない」
「上方辺りで楽しい思いでもしてるんじゃあないのかい」
あれやこれやと勝手な詮索を始め出し、口づてにあっという間に広まった。。
自分なりにこの三年の歳月、一心に仇を求め、日々探索に費やしてきたのだ。大変な心痛だった。一時として気が休まらなかった。それなのに、妹の評判は益々高まり、それに併せて己れへの悪評は酷くなる。新平の側から言えばまさに迷惑この上ない、下世話な勘ぐりというものだ。何時の間にやら卑怯者呼ばわり。江戸の噂は、日を追うごとに街道沿いに遠国までも広がっていく。
そうした噂が、和田峠の辺りから新平の耳にも入ってきた。最初は仇討ち成就の賞賛ばかりが聞こえてきた。はやる気持ちで江戸への道を急いでいた。ところが、峠を越えて長久保の宿辺りでは、すでに相当あくどい噂に変わっている。そんな風聞を小耳に挟む都度、耐え難い苛立ちを覚えた。それに逆らいはやる気持ちから、無理してその日暮れ時には笠取峠を越えていた。長久保で一日休めば良かったのだ。
「和田峠を越えてその日のうちに笠取峠を越えようなんて、そりゃあ無茶だ」
そう望月の宿で亭主に言われた。無理が祟った。結局、望月で永く休むことになった。心痛とも相まって一気に体力が萎えていく。気が焦るほど足が動かなくなる。益々苛ついてたまらない。腹の差し込みがますます強くなった。元々、子供の時分から癪をよく起こした。常備薬として丸薬を腰の印籠に入れている。赤子の頃から夜泣き疳の虫によく飲まされた丸薬だ。いまだに、不思議と具合が悪いときにそれを飲んだら、どんな痛みも治まるのだ。ところが諏訪のあたりでそれが無くなった。最初は印籠の中の匂いを嗅ぐだけで何とか治まった。ところが直きに匂いもしなくなる。買おうにも最早路銀も厳しい状況だ。無いと思えばなおさら痛みが酷くなった。ただ腰の印籠を握りしめて、早よ治まれと祈る以外に方法が無い。江戸が近くなるにつれて、その痛みがますます増幅した。
くそっ、こんな事で帰参が遅れてどうするのだ。
そんな心の焦りを知ってか知らんでか、新平が表情をこわばらせている刻に限って、おなつは特に馴れ馴れしい口の利き方をしてくる。態と新平を怒らせるのだ。おなつは詳しい事など知らない。しかし、この若いお侍は悪い人ではない、絶対に間違ったことなんかしていない。そう堅く信じている。世間の噂なんて端から信じられない。これまで厭な思いを随分してきたから、自分の直感が一番正しいと信じて疑わない。兎に角、この五日ばかりの旅の間、自分を頼りにしてくれるこの若いお侍が気に入ってしまったのだ。義兄よりも義父よりも、この男の方がずっと信頼出来る。五年前に両親を失い、三人の姉妹がそれぞれ引き離され縁戚に引き取られて以来、これほど屈託なく話せた相手はいなかった。
窶れきったこの若者の容姿に、乙女心を擽るような魅力がある訳もない。しかし、この若いお侍は自分を頼りにしてくれている。そして、自分は見も知らぬ広い江戸の町で、明日からはただ一人働かねばならない心細い身の上だ。今、こうして新平の世話を焼けることが、どれだけ心の救いになっていたことか。
「兄さん、早いけど今日はこの板橋でゆっくりしようよ。新平さまを休ませてあげたいの」
やっと目を覚ました新平から離れて、おなつは義兄に言った。
常助は不承不承頷いた。まだこれから歩けば、日暮れ時までには日本橋まで足を延ばせる時刻だ。早いところ金を手に里へ帰りたいところだが、おなつの言葉を無下にはねのける訳にも行かない。何しろ借金の手立てなのだ。それをおなつに見透かされている。家族を養うため、仕方ないことなのだ。おなつも年季奉公に出ることは納得ずくだ。そうは思う。しかし、やはりおなつに無理を言われれば、どうにも後ろめたくて嫌とは言えない。厄介な奴だ!とでも言いたげに、新平の方を一瞥した。
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