上 下
9 / 105

先の先・Ⅱ

しおりを挟む

 藤一郎も退かずに前へと出た。
 しかも、化け物よりさらに低く、ほとんど地面に身を投げ出すような体勢で前に飛んだ。
 予想外の動きに、化け物は藤一郎を見失った。
 その化け物の下に潜り込む形で、藤一郎は身を捻り、仰向けとなった。

 藤一郎が下。
 化け物が上。
 地べたでもつれるように二人が交差した。

 ひいやあぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
 もつれ合ったのは一瞬である。
 甲高く叫んだ化け物が、垂直に飛び跳ねたのだ。
 驚くほど高く飛ぶ。

 着地すると、身をひるがえし、土塀を一気に駆けあがると、屋敷の外へと逃げ出した。
 土塀を蹴り、藍色の空に浮かび上がった化け物のシルエットは、腰から生えた尻尾に加え、腹からも長い尻尾を生やしていた。

 ひいやゃ! 
 ひいややや! 
 あひいいいいいやあぁぁぁぁぁぁ!
 狂ったような声が遠ざかって行く。

 「あなたッ!」
 「旦那様ッ!」
 庭に仰向けに倒れた藤一郎の元に、妻と下男が駆け寄って来た。

 「くくくくくく。
 柔らかい腹部を、下から思う存分に切り裂いてやったわ」
 藤一郎は笑みを浮かべて、そう言ったが、その顔は紫色に染まり、目の焦点が合っていなかった。
すでに太刀を落としている。

 「あれは、死んだのか……」
 そこまで言った藤一郎は、ぶくぶくと血に染まった泡を口からこぼし始めた。
 「早く、早く、医者を!」
 藤一郎の妻に命じられ、下男は泣き出しそうな顔で屋敷を飛び出していった。

  ★★★

 「医者が駆けつけた時、すでに杉原様は、亡くなられていたとのことです」
 「なかなか凄まじい話であるな」
 薄暗い座敷から届く玄白の声は、やや強張っているように聞こえた。

 「その化け物は?」
 「朝、不忍池の岸辺で息絶えているところを駕籠かきが見つけ、驚いて番所に届けたということでございます」
 研水が答える。
 「その死体が、奉行所に運ばれたと言うことか」
 「はい」

 「研水。麹町の屋敷に出た化け物と不忍池で息絶えていた化け物が、同一の個体と証明できるものはあったのか?」
 玄白の言葉に、研水は嬉しくなった。
 老い、臥せていようとも、さすがは学問に生涯を捧げた師である。
 
 このような化け物が、二匹も同時に現れることはあるまい。
 そういう根拠のない思い込みをしない。
 逆に、一匹現れたのなら、二匹、三匹といるのではないかと疑う考え方をするのだ。
 
 「はい」と答え、研水は説明を始めた。
 「まず、杉原様が斬りつけたという傷が、右目にありました。
 さらに、腹部を深く切り裂かれ、腹腔から腸を溢れさせておりました。
 下男が見たという、逃げる化け物の腹から出ていた二本目の尻尾というのは、切り出された腸であったのでしょう」

 研水は続けた。
 「また、尻尾の先の棘には、布切れが引っ掛かっていたそうです。
 これは、杉原様のお召しになっていた、着流しの破れと一致したそうです」

 「……その死体は、今も奉行所にあるのか」
 「いえ、祟りを恐れ、今朝早く、真言宗の僧侶に供養をさせたうえで、真蔵院の境内に埋葬するとのことでした。
景山様は、埋めてしまう前に、一体、いかなる動物なのか、それとも、真に鵺なのかを知りたいと、私に見せてくださったのです」

 「……研水。
 その化け物を鵺とみたか?」
 「いえ、鵺ではないと」
 研水が答える。

 「そちが訪ねてきたわけが分かったわ」
 玄白が頷いた。


しおりを挟む
1 / 3

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

鬼と天狗

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:5

富羅鳥城の陰謀

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:42pt お気に入り:14

恋と桜が散る刻

key
恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:2

夢幻燈

青春 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

シシガミ様

ホラー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

処理中です...