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先の先・Ⅱ
しおりを挟む藤一郎も退かずに前へと出た。
しかも、化け物よりさらに低く、ほとんど地面に身を投げ出すような体勢で前に飛んだ。
予想外の動きに、化け物は藤一郎を見失った。
その化け物の下に潜り込む形で、藤一郎は身を捻り、仰向けとなった。
藤一郎が下。
化け物が上。
地べたでもつれるように二人が交差した。
ひいやあぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
もつれ合ったのは一瞬である。
甲高く叫んだ化け物が、垂直に飛び跳ねたのだ。
驚くほど高く飛ぶ。
着地すると、身をひるがえし、土塀を一気に駆けあがると、屋敷の外へと逃げ出した。
土塀を蹴り、藍色の空に浮かび上がった化け物のシルエットは、腰から生えた尻尾に加え、腹からも長い尻尾を生やしていた。
ひいやゃ!
ひいややや!
あひいいいいいやあぁぁぁぁぁぁ!
狂ったような声が遠ざかって行く。
「あなたッ!」
「旦那様ッ!」
庭に仰向けに倒れた藤一郎の元に、妻と下男が駆け寄って来た。
「くくくくくく。
柔らかい腹部を、下から思う存分に切り裂いてやったわ」
藤一郎は笑みを浮かべて、そう言ったが、その顔は紫色に染まり、目の焦点が合っていなかった。
すでに太刀を落としている。
「あれは、死んだのか……」
そこまで言った藤一郎は、ぶくぶくと血に染まった泡を口からこぼし始めた。
「早く、早く、医者を!」
藤一郎の妻に命じられ、下男は泣き出しそうな顔で屋敷を飛び出していった。
★★★
「医者が駆けつけた時、すでに杉原様は、亡くなられていたとのことです」
「なかなか凄まじい話であるな」
薄暗い座敷から届く玄白の声は、やや強張っているように聞こえた。
「その化け物は?」
「朝、不忍池の岸辺で息絶えているところを駕籠かきが見つけ、驚いて番所に届けたということでございます」
研水が答える。
「その死体が、奉行所に運ばれたと言うことか」
「はい」
「研水。麹町の屋敷に出た化け物と不忍池で息絶えていた化け物が、同一の個体と証明できるものはあったのか?」
玄白の言葉に、研水は嬉しくなった。
老い、臥せていようとも、さすがは学問に生涯を捧げた師である。
このような化け物が、二匹も同時に現れることはあるまい。
そういう根拠のない思い込みをしない。
逆に、一匹現れたのなら、二匹、三匹といるのではないかと疑う考え方をするのだ。
「はい」と答え、研水は説明を始めた。
「まず、杉原様が斬りつけたという傷が、右目にありました。
さらに、腹部を深く切り裂かれ、腹腔から腸を溢れさせておりました。
下男が見たという、逃げる化け物の腹から出ていた二本目の尻尾というのは、切り出された腸であったのでしょう」
研水は続けた。
「また、尻尾の先の棘には、布切れが引っ掛かっていたそうです。
これは、杉原様のお召しになっていた、着流しの破れと一致したそうです」
「……その死体は、今も奉行所にあるのか」
「いえ、祟りを恐れ、今朝早く、真言宗の僧侶に供養をさせたうえで、真蔵院の境内に埋葬するとのことでした。
景山様は、埋めてしまう前に、一体、いかなる動物なのか、それとも、真に鵺なのかを知りたいと、私に見せてくださったのです」
「……研水。
その化け物を鵺とみたか?」
「いえ、鵺ではないと」
研水が答える。
「そちが訪ねてきたわけが分かったわ」
玄白が頷いた。
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