神界の器

高菜あやめ

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第三部

一、憧憬

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 張りつめた空気の音が、構えた弓を中心にして波紋を広げる。重なり合う樹木のさざめきも、空を突き抜ける野鳥の鳴き声も、静粛の音に飲み込まれていったその刹那――森の大気を切り裂く矢が、天を駆け抜けていった。
「お見事でございます、飛鳥様」
 飛鳥あすかと呼ばれた男は、明るい賞賛の声に反応して静かに振り返る。視界には、矢を射られて落下する鳥の羽ばたきの残像が、まだ微かに残っていた。
 久しぶりに野鳥狩りに出向いた飛鳥は、いつもの供を一人だけ連れて山へ入った。その供の男こそ、飛鳥に弓矢の扱いを教えてくれた最初の師匠だが、男曰く、飛鳥の腕前はすでに師を遥かに超えている。かつて師と仰がれた男はそれが誇らしく、今ではすっかり飛鳥の狩りの補佐に徹していた。
「仕留められた獲物は、私が取りに参ります。飛鳥様は、先に屋敷へお戻りください」
「いや、俺が取りに行こう」
「ですが、旦那様がご心配されます……黙って出掛けられてる上、じき日が暮れますから」
「それで構わない。みなとには、後で謝ればいい」
 飛鳥は狩衣の袂を翻して、矢を放った方角へと歩を進めた。供の男は仕方ない、と早々に諦めて後を追う。一度言い出したら聞かない飛鳥の性格を、供の男は長年の付き合いで熟知していた。
  志摩国しまのくににある低い山々の連なりは、ここ最近みるみるうちに色づき、徐々に短くなってきた日の光が、赤や黄色に染まった木々を弱々しく照らしていた。これでは屋敷へ戻る頃には、とっぷり日が暮れてしまうだろう。屋敷の主は、さぞや腹を立てるに違いない。
 供の男の憂いとは裏腹に、飛鳥は平然と仕留めた獲物を回収すると、足早に屋敷へと引き返していく。案の定、屋敷に着く頃にはすっかり暗くなったが、今宵は満月なので、特段不便は感じなかった。
 屋敷の正面で供の男と別れた飛鳥は、一人裏庭へと回った。すでに血抜きを済ませた獲物を清める為、水を汲もうと井戸へ足を向けたその時――柔らかな声が縁側から響いた。
「随分とゆっくりなご帰還じゃないか」
 飛鳥は顔を上げると、渡り廊下の柱にもたれながら腕組みをして、こちらを見つめている人物を振り仰いだ。
「遅くなり申し訳ございません、湊」
「まったくだ。日が暮れる前に戻ってこいと、何度言わせるつもりだ」
 湊と呼ばれた屋敷の主人は、面白くなさそうに口を尖らした。夜風が吹く中、薄い着流し姿が寒そうに映り、飛鳥は微かに眉を顰める。
「お説教は後でうかがいますから、先に何か上に羽織ってください。お風邪を召されてしまいます」
「昔のお前じゃあるまいし。これでも体だけは丈夫なんだけどね」
「そのように油断して、いつか丈夫じゃなくなったらいかがされます」
「まあ、私も年だしねえ」
 微笑を浮かべて佇む姿は、天女を思わせる麗しさだ。飛鳥は堪らず目を逸らす……年だなんて、ちっとも感じない。それどころか年を追うごとに、美しさが増している気さえした。





 飛鳥が 匡院宮家きょういんのみやけの屋敷に引き取られてから、早十年が過ぎようとしていた。
 屋敷にやってきた当時まだほんの十歳だった少年は、まるで若木が伸びるようにしなやかに成長し、今や凛々しくも精悍な青年へと変貌を遂げていた。その間、幼名の弥吉を改め飛鳥と名付けられ、いみなを晴海とし、匡院宮飛鳥晴海きょういんのみやあすかはるみとして、立派に公達の仲間入りを果たした。
 だが当の本人である飛鳥は、いわゆる『公達』としての自覚は持ち合わせてなかった。血筋こそ匡院宮家とされるが、育ちは卑しく、田舎育ちの鄙びた男というのが、飛鳥の己に対する自己評価だ。
「まったく、いつまで野山を駆け回っているつもりなんだい」
 差し向かいで夕餉を食べながら、湊の小言は続く。まるで母親のような口振りに面映ゆくもあり、だが同時に焦燥感にも駆られる。いつまでも世話焼きで心配性な兄として振舞うのは、決して超えられない線を何度も引き直されている気がしてならない。
「遊びに行ってきたわけではありません。夕食の材料を獲ってきたまでです」
「まあ、若いから精のつく物が食べたいんだろうけどねえ……」
 飛鳥は、向かいで汁物の椀に口をつける湊の口元を眺める。頬から顎にかけて少し細くなった事に気づいたのは、夏に入る手前だった。暑さで食欲が落ちるのは毎年のことだが、今年は特に食が細くなっているので心配だった。
「そろそろ都へ行く件について、きちんと考えた方がいいな」
「またそれですか……しかもなぜ、そこへ話が飛ぶのです?」
 飛鳥はきっちり背筋を伸ばしたまま、小さくため息を漏らす。夏前から何度か件の話を持ち掛けられ、その度に断り続けてきた。
「なぜって、お前の決心を待っていたら、雪が降る季節になってしまう」
「何度も申し上げた通り、俺は都へ行くつもりはありません。お断りします」
「お前ね、どうしてそんなに都を毛嫌いするの」
「毛嫌いしているわけではありません。興味が無いだけです」
 湊は食べ終えた膳を横へ押しやると、片づけようと腰を上げかけた飛鳥へにじり寄った。
「毛嫌いでなければ、食わず嫌いみたいなものだ。都へ行って見識を広めることに、なぜためらう?」
「見識、ですか。それが一体、何の役に立つと?」
「お前はまだ若い。この田舎にずっと引き籠っていては、お前のためにならないと思ったからだよ」
 飛鳥は片膝をついた体勢のまま、湊の瞳を覗き込む。真意が掴めるようで、だが巧妙に隠そうとする眼差しに、胸の奥が小さく軋んだ。
 湊の胸の内を無理に暴こうとは思わないが、いつまでも秘められた場所に対して、憧憬を向けずにはいられない。だが目を逸らし、知らないままでいたら、少なくともこのまま同じ場所で、変わらぬ月日を重ねていけると、うっかり信じそうになってしまう。
(そんな夢みたいな話、あるはずないのに)
 今言えることは、離れたくない――ただそれだけだ。だから飛鳥は必死だった。
「これまで田舎に引き籠っていた、鄙びた男が都に何の用がございましょう。そんな男が都で学んだことなど、この屋敷では何の役にも立ちませんよ」
「お前は確かに田舎育ちだけど、私は出来る限りのことはしたつもりだよ。教養もあるし、礼儀作法も僕のお墨付きだ。どこへ出しても恥ずかしくない」
「では、都で学ぶことなどございませんね」
「飛鳥、それは違う」
「なぜ、それほどまでに私を都へやりたいのですか。私を遠ざけようとするおつもりか」
「遠ざけようとなど……」
 湊の瞳がわずかに揺れた。飛鳥が掴んだ白い手首は、思いの外細く、少し力を入れれば折れそうだ。引き寄せると、しなやかな肢体が飛鳥の胸に倒れこんだ。
(離れたくない)
 腕の中の存在を抱き締めると、微かに身じろぎされ、それから温かい手が背に回された。
「ふふ、相変わらず甘えん坊だなあ」
 なだめるような手つきで背を撫でられ、飛鳥は複雑な気持ちになる。
 幼い頃は、この手がうれしかった。失った肉親の温もりを感じられ、切なくなるほど幸せを感じた。湊の傍にいる喜びは何物にも代え難く、それは今も変わらない。
 だが月日が流れ、湊より目線が高くなる頃になると、飛鳥の気持ちに微妙な変化が訪れた。湊に対して日々強くなる、焦がれる気持ちを持て余し、戸惑うあまり一時は距離を置こうとした事もあった。
 だが湊は、常に変わらない態度で飛鳥に接してくれた。やがて揺れ動く心が落ち着きを取り戻した頃、飛鳥は一人の男として湊に認められたい、という思いが強くなった。
「仕方ない、これは都に到着してから話すつもりだったけど……飛鳥、向こうでお前に会わせたい人がいるんだ」
 背から温かい手が離れると、それが合図となり、飛鳥もそっと体を離した。湊の変わらない、落ち着いた表情に、飛鳥はそっと胸を撫で下ろす。
 子供の頃と違って、こんな風に触れ合う機会は近頃めっきり減ったが、自然に振舞えていただろうか――そんな不安を抱きつつ、逆に気づいてくれればといいのに、と矛盾する気持ちも沸き上がる。
「ね、いい子だから都へ行こう。なんなら私も一緒についていくよ」
「え、湊も?」
 それは新しい提案だった。飛鳥が言葉に詰まると、湊はしめたとばかり身を乗り出してくる。
「初めからそうすればよかったな。お前は私の傍にいられるし、私はお前を都へ連れていける」
「ですが……」
 湊はおそらく、都を好きではない……そう思ったが、飛鳥は敢えて口に出さなかった。こういう時に、どう振舞えば湊が喜ぶのか、よく分かっていたからだ。
「仕方ないですね。あなたのお供をしますよ」
「よかった」
「でも、あなたの傍から離れませんよ。こちらへ戻る時もそうです」
 飛鳥は、畳に置かれた白い指先を包み込む。すると湊は背を向けて、自ら飛鳥の胸にもたれてきた。
 そっと抱き寄せると、着物の襟から微かに甘い香りがする。着物越しに感じる背の温かさが、体の芯まで伝わってきて、飛鳥の切ない思いをやさしく慰めてくれた。
(ずっと、こうしていられればいいのに)
 飛鳥は静かに目を閉じると、秋の夜長を慰める温もりに身を寄せた。
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