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2巻
2-1
しおりを挟むプロローグ
ガチャン、とグラスの割れる不快な音が暗い室内に響いた。
砕けたガラス片が毛足の長い絨毯に飛び散り、窓から忍び込む月の光を受けてキラキラと光を放つ。
「なんなのよ! なんで全然思い通りにいかないの!?」
不機嫌を隠そうともしない少女の声は誰に向けられたものでもなく、誰も反応を返さない。
しかし、少女はそれが気に入らないらしい。鋭い視線をこちらに向けると、淑女とは思えぬ物言いで食ってかかってくる。
「もとはと言えば、あのときクロードさまがわたしのそばにいてくださらなかったのが悪いのよ! そばにさえいてくだされば、あんな失態を晒さなくて済んだし、ふたりが帰ってしまうこともなかったわ!」
「そうでしょう?」と今度は同意を求められ、わたしは慇懃にうなずいた。
少女がここまで腹を立てている原因は、先日行われたこのエルディニア王国の建国祭でのことが原因だ。
王太子の婚約者であるこの少女――エリアーナ様は、様々な失態を犯した。自分が婚約を破棄した相手、しかも姉の婚約者となったばかりの男性に臆面もなくダンスを申し込み、さらには他国の王子を侮辱する言葉を投げかけたのだ。
王太子であるクロード殿下も、そんな彼女をたしなめることもせず、それどころかそのわがままを助長するような有様だった。それを、叔父である王弟に諫められ、自分で選んだ婚約者さえまともに導けていないという実情を貴族たちの集まるパーティの場で晒してしまった。
(あのときくらい、大人しくしていればよかったものを……)
殿下はあのパーティーのあとも、忠臣たちに頭が痛くなるほど諫言を聞かされたことだろう。
彼女とその姉が婚約者を交換してからこれまで、王宮のそこかしこで何度かその姿を見た。
この自由奔放な娘を婚約者にするのには反対だ、と繰り返し何度も説得される彼の姿を。
そんなことも知らずに、彼女はここで癇癪を起こしているのだ。
彼女がなぜ王太子の婚約者になったのか、それを知っている身としては、この少女の行動はなんとも身勝手に思える。けれど彼女は完全に打算で王太子と一緒にいるのだから、王太子がどうであろうと関係ないのかもしれない。
(まあ、だからこそ扱いやすいのだけれど……)
そう、彼女の思惑がなんであれ、最終的な目的がわたしと、そしてあの方と重なっているのであれば問題ないのだ。
加えて無能で扱いやすければ、それに越したことはない。
「ねえ、どうすればいいの? どうすればわたしの欲しいものは手に入るの?」
縋るように意見を求める彼女の姿に、わたしは口の端を持ち上げて笑みの形を作る。
「お嬢様、欲しいものはできるだけご自分の近くに置いておかなければ。もしそれが誰かのものであるなら、その持ち主に気がつかれぬよう……慎重にゆっくり自分のそばへ引き寄せるのですよ」
「慎重に、自分のそばへ……? でも、そんなのどうすれば……」
「わたしに、考えがございます」
眉根を寄せる彼女に、わたしは笑みを絶やさずうなずいた。
正直、そんなことができる性格ではなさそうだが、彼女にはそこまで期待しているわけではないのだから別にいいだろう。それにもしうまくいったら、こちらの手間が省ける。
失敗しても、そのときはきっとこの娘が責任を負うだけだ。
とにかく、向こうに余計な疑念を抱かせてはならない。
少しでも警戒されれば、わたしの望みも、あの方の願いも叶わなくなるかもしれないのだから。
(全ては望みを叶えるため、邪魔となりうるものはひとつ残らず取り除かなければ……)
眩しく輝く月から身を隠すようにしながら、わたしはひっそりとある計画を彼女に伝えるのだった。
第一章
幸せとは、きっとこういうことを言うんだろう。
手首に結ばれた赤い紐が、朝日を受けて艶やかな光を放つ。
(昨日のことは、夢ではなかったのね……)
夜の教会で、ハロルド・メイヤー公爵とふたり、結婚式をした。
もちろん正式なものではない。
ウェディングドレスもなく、参列者は互いの信頼する従者がふたりだけ。
司祭もいない、おままごとのような結婚式。
それでも、わたしにはこれ以上ないほど幸せだった。
妹・エリアーナとの婚約者交換騒動の末、新たにわたしの婚約者となったハロルド様。
ずっと想いを寄せていた彼と、お互いの気持ちが同じであることを知ったのは、それからいくらも経たないうちのことだった。それだけでも十分に幸せだったのに、非公式とはいえ互いに将来を誓い合ったのだ。幸せじゃないはずがない。
「マリーアンネお嬢様、昨夜は本当におめでとうございます」
ゆったりと幸福の余韻に浸るわたしに、鏡の向こうでメイドのルリカが楽しそうに微笑んだ。
機嫌がいいのか、灰緑色のドレスに身を包んだわたしの髪をブラシでとかしながら、軽やかな鼻歌まで歌っている。
それがなんだか無性に気恥ずかしくて、頬がほんのり熱を持つ。
けれど今はそれさえも幸せで、自然と頬がゆるんでしまう。
「全部、ルリカとバルドのおかげだわ……本当にありがとう」
わたしの専属メイドであるルリカと、メイヤー公爵家の執事であるバルド。
このふたりの協力なくして、昨日の結婚式は行えなかっただろう。
心からの感謝を伝えるわたしに、ルリカは満足そうに微笑んだ。
「お礼なんて……私もバルド様も、お嬢様のお力になれてとっても嬉しいのです。それになにより、お嬢様のお幸せがルリカの幸せなのですから、あれくらいのことは当然です!」
それからルリカは「本番はもっと盛大に、美しくお嬢様をドレスアップさせてみせます!」と冗談なのか本気なのかわからない調子で言うと、ドレッサーにブラシを置く。
「さあ、できましたよ」
そう言って微笑むルリカに、わたしは鏡越しに笑みを返す。
その胸元には、プロポーズとともにハロルド様からいただいてから、肌身離さずつけているブルーサファイヤのネックレスが輝いていて──今までにないほどの幸せが、胸を満たすのを感じるのだった。
(……なにかしら?)
支度を終えて食堂へ向かうと、扉の前で使用人たちが妙にソワソワしているのが目に入った。
わたしが来たのに気がつくと、なんだか気まずそうな表情で、慌てたように小さく頭を下げる。
「なにかあったのでしょうか?」
ルリカも不思議そうに首をかしげ、使用人仲間に事情を聞きに向かう。けれどその原因は、食堂から聞こえてきた声ですぐにわかった。
「――だから、お姉さまにお願いすることにしたのよ!」
(わたしに、お願い……?)
廊下まで響くエリアーナの楽しげな声に、よくない予感を抱きながら、そっと食堂へ続く扉をくぐる。
中では、父上と母上が困惑しきった顔でエリアーナと向き合っていた。
「父上、母上。おはようございます」
「……おはよう、マリーアンネ」
わたしが声をかけると、父と母はあからさまにほっとしたような表情を浮かべ、お互いに視線を交わし合っている。
(一体、どうしたというの……?)
煮え切らない様子の両親を視界の隅に留めながら、使用人が引いてくれた椅子に腰かける。
すると、それを待っていたと言わんばかりに、エリアーナがこちらに身を乗り出してきた。
「ねえ、お姉さまにお願いがあるの!」
「……その話は、朝食のあとではダメなの?」
視線を合わせずに、乗り気ではないことを態度で示してみせるけれど、そんなことを察してくれる妹ではない。
「今がいいの! 今聞いてちょうだい!」
エリアーナは食卓の上にさらに身を乗り出すと、その白く華奢な手からは想像できないほどの力で、わたしの手を握った。
驚いて思わず顔を上げると、エリアーナは嬉しそうな笑みを浮かべて、その桃色の唇で言葉を紡ぐ。
「建国祭のパーティーの日、わたしちょっと失敗しちゃったでしょ? それで、早急に王太子妃にふさわしい教養を身につけなければならないって、王妃さまに言われてしまったのよ。でも、外交術と外国語の先生だけがなかなか見つからなくて……」
先日のあの失敗を『ちょっと』で済ませている時点でどうかと思うけれど、それは今言ってもどうしようもないことだ。それよりも、このあとに続くだろうエリアーナの言葉を思うと、握られた手を振りほどいて、耳を塞ぎたくなった。
けれど実際にそんなことができるはずもなく──
「それでね、お姉さまはもう王太子妃教育を完璧に終えられていて、少し前までは王妃さまの公務のお手伝いもしていたでしょう?」
「……ええ」
「その経験を生かして、わたしの講師を引き受けてくれないかしら」
「無理よ」
そう言った声のあまりの冷たさに、自分でも驚いてしまう。
でも無理なものは無理なのだ。こればかりは、エリアーナが苦手とかどうとかいう問題ではない。
そもそも王太子妃教育に関われるのは、王室の選抜試験を突破し、資格を得た者のみと決まっている。いくら王太子妃教育が済んでいても、わたしにその資格はない。
それを伝えると、エリアーナは大きな瞳を何度か瞬かせてから、わかったわ、と言ってなぜか微笑んだ。
「そういうことなら、わたしに任せて。今回はとっても急いでいるから、王妃さまにお願いすれば特例だって認めてくれるはずだわ!」
(特例って……)
自分の努力不足を棚に上げて、こんなことが言えるエリアーナの神経が信じられない。いくら王妃様が好意的とはいえ、あんな失態を演じておいて、お願いできる立場ではないと思うのだけれど。
「王太子妃教育は王妃さまの管轄だから、お姉さまを講師にすることだってきっと難しくないはずよ」
エリアーナは王妃様にお願いすればなんでも叶えてもらえるとでも思っているのだろうか。
妹のあまりの様子に、両親に助けを求める視線を送るけれど、どうやらこのふたりは関わる気がないらしい。苦々しい表情をしてはいるけれど、口は挟んでこなかった。
「ちゃんとお勉強すれば、お姉さまたちに迷惑をかけることもなくなると思うの……だから協力してね、お姉さま!」
「……わたしに決める権利はないわ」
わたしに協力する気があってもなくても、全ては王家が決めることだ。たとえここで断ったとしても、もし王家から依頼されれば、わたしに断る術はない。
(これは、ハロルド様にお報せしたほうがいいかもしれないわね……)
さっきまでの浮き立つような感覚は綺麗さっぱり消え去って、わたしの胸の中にはモヤモヤとした思いが広がりはじめていた。
手早く朝食を済ませて、わたしは足早に自室へ戻る。
そのまま滑るように部屋へ入ると、付き従っていたルリカが我慢できないというように口を開いた。
「エリアーナ様は一体どうして、お嬢様にあのようなお願いができるのですか!?」
静かに怒りを滾らせる彼女の姿に、自分の中にあったモヤモヤした感情が落ち着くのを感じながら、わたしは思わず苦笑を漏らす。
「ルリカ、怒ってくれてありがとう。でも、わたしは大丈夫よ。それにね、あの場ではああ言ったけれど、考えてみれば悪い案でもないと思うの」
「なにをおっしゃっているんですか……! いくらお嬢様が優秀といえど、苦労されるのが目に見えているのですから、お引き受けになるべきではないと思います」
「そうね。でもわたしの意見はきっと関係ないわ……これは王家、ひいては国の未来に関わることだもの」
「それは、そうかもしれませんが……」
わたしの言葉に、ルリカはもどかしそうにうつむいてしまった。
でも、心配してくれるルリカには悪いけれど、大丈夫というのは建前ではなく本心からだ。
資格のないわたしが王太子妃教育をするなんて分不相応だという考えが消えることはない。
(でも、現状を考えればわたしが教えるのが手っ取り早いことに間違いはないのよね……)
エリアーナが素直に講義を受けてくれるかは別として、講師にふさわしい者が見つからない現状への対策としては一番有力な案だろう。まして、あんな騒ぎがあったあとならなおさらだ。
(国王陛下もエリアーナへの教育を急がせているというし、このまま行けばきっと王妃様も許可なさる可能性が高い)
ただし、そうなれば学者たちからの反発の声が上がるのは否めない。なにせ『王太子妃の講師になる』というのは、それだけで一生安泰ともいえる名誉を得るのと同じことなのだ。
この国最高水準の教育ができる人物となれば、どこの貴族も子供の家庭教師に迎えたがる。そうなれば、あとは言わずもがなだ。
学問の探究に没頭したい者は別として、今後のことを考えるならば、みすみすその機会を逃す者はいないだろう。
(でも、そこはきっと王家がなんとかしてしまうのでしょうね……)
理由なんて、探せばいくらでも見つけられるのだから。
「とにかく、ハロルド様にお報せしておいたほうがいいと思うの。手紙を書くから用意してくれる?」
「かしこまりました……」
ルリカはまだなにか言いたげにしながら、渋々といったようにレターセットを準備してくれる。便箋、封筒、ペンにインクと手際よく準備しながら、ルリカはどうしても納得がいかないのかポツポツと話し出す。
「……お嬢様。今回の件、公爵になんとかしていただくことはできないのですか?」
「それはどうかしらね……」
「もし万が一、エリアーナ様の講師になることが決まれば、公爵と過ごすお時間がなくなってしまうかもしれません……せっかく想いが通じ合ったばかりなのに」
ルリカの本心としては、このままエリアーナの事情に巻き込まれることなく、ハロルド様と穏やかに過ごしてほしいというところなのだろう。
本音を言えば、わたしだってルリカと同じ気持ちではある。けれど、そうも言っていられない。
「ルリカ……心配かけてごめんなさいね」
(でも、こればかりはハロルド様にも手出しできるかどうかわからないのよね……)
この間の陛下のお話を聞いた限りでは、ハロルド様は王家に関わることに表だって口を出せない立場らしい。今回の講師の件に関して、陛下に『個人的に』お話はできても、それ以上の要望を通すことはきっとできないだろう。
その上、ただでさえ王太子であるクロード殿下の公務を肩代わりすることが多く、加えて領地の管理もしなければならない。そんな忙しいハロルド様に、これ以上迷惑をかけたくなかった。
(それに、なにがグロリア公爵を刺激するかわからないものね……)
国の功臣。王妃様の貢献人。王太子殿下の後ろ盾。
貴族や王家に対して絶大な権力を誇る彼の公爵は、好々爺然とした見た目とは裏腹に、強欲な貴族たちを裏でまとめ上げている、隙がなく油断ならない人物だ。
それになにより、現在は表面化していないものの、過去にはハロルド様の敵対派閥だった。
(なにがとは言えないけれど、殿下の婚約者だったときから少し苦手だったのよね……)
なんというか、彼の前の立つと、いつも自分が値踏みされているような気分になった。自分に敵対することがないか、公爵にとって益になるか否か。あの、人のよさそうな笑みの下で、グロリア公爵はわたしを一体どう評価していたのだろう……
(とにかくどう転ぶにしても、ハロルド様にご相談してのことならわたしも納得できる)
手早く手紙を書き上げて、封蝋で封をする。
「ルリカ、これをハロルド様へ……できればお返事ももらってくるようにお願いしてくれる?」
「……かしこまりました」
ルリカは手紙を受け取ると、そのまま部屋を出ていく。静かになった部屋の中で、わたしは小さく息を吐いた。
「一難去ってまた一難とは、まさにこのことね……」
秋の終わりの高く澄んだ青空とは裏腹に、わたしの心にはどんよりとした雲が立ち込めはじめるのだった。
ハロルド様から、屋敷に来てほしいと返事が来たのは、その日の午後になってからのことだった。
「急に呼び出してしまってすまない」
「いえ、わたしもお手紙の件で、ハロルド様とお話ししたかったですから」
どこか疲れ切った様子のハロルド様にそう返しながら、わたしは彼の対面に腰を下ろす。
「……では早速だが、今回の講師の件について、俺のほうでわかったことを話そう」
どうやら、こちらが手紙を送ったあとに、ハロルド様のほうで事情を調べておいてくれたらしい。彼が目配せすると、そばに控えていた執事のバルドが数枚の書類をこちらへ差し出した。
「これは……?」
「旦那様と私とで調べうる限りの情報をまとめたものでございます」
「読めばわかると思うが、今回の件に関しては義姉上……王妃の意向が大きく関わっているらしい」
「王妃様の……」
ハロルド様の苦々しげな表情と、『王妃の意向』という言葉に、逃げ道がないことを確信しながら、わたしは受け取った資料に目を通す。そこには、エリアーナの講師に名乗りを上げた者たちが規定の成績を上げられていないことや、そもそも先日ノーディア殿下と騒ぎを起こしたせいで、試験の受験者が少ないことなどが書かれていた。
まあたしかに、あんな公の場で他国の貴族といざこざを起こした令嬢の教育係なんて、苦労をすることが目に見えている。いくらうまくいけば将来が約束されているとはいえ、結果が出せなければその逆もありえるのだから、立候補者が少ないのもうなずけた。
「……この資料を読む限り、エリアーナの外交術と外国語の講師はわたしで内定している状態なのですね」
「俺とバルドが調べたところによれば、あとは兄上の裁可を待つのみという段階らしい……。兄上も今回の件は特に急ぐようにと指示を出していたからな……この結果を見れば義姉上からの提案を反対する可能性は低い」
「けれど、お急ぎということならば、わたしの外交術と外国語の講師をしてくださったセントーニ博士が、他の誰よりも適任だと思うのですが……」
「その通りなのだが、間の悪いことにセントーニは少し前から国を離れているんだ……」
「まあ、そうだったのですね」
カルザス・セントーニ博士──彼は、このエルディニアでも指折りの知識人であり、有能な外交官として名を馳せている人物だ。わたしの講師になる以前から優秀なことで知られていた彼だったが、わたしの教育係を終了した途端、余計に忙しくなったようだった。
「有能すぎるせいか、しょっちゅう各国との折衝に駆り出されていてな……。最近では、一年のうちで国にいる期間のほうが短いと、この前会ったときにぼやいていた」
「先生ほどのお方ともなれば、たしかにお忙しいのでしょう」
「こんなことになるなら、今回のメイトリアとの橋建設に関する交渉には別の者を向かわせるべきだったな……」
エルディニアと隣国メイトリアの間にはグルック大河と呼ばれる大きな川が流れている。現在、そこにはサクリート大橋という橋が架けられており、両国を繋ぐ要所となっていた。しかし建設からかなりの年数が経ち、老朽化が進んだ橋は、架け替えが必要だということになり、現在両国間で話し合いが進められていた。
「先生はメイトリア方面の外交を担当していらっしゃいますから、行かないわけには参りませんよ」
「俺もそれはわかっているんだが……本当に間が悪い」
ハロルド様はため息とともに呟くと、わたしの隣へ席を移した。
「兄上が正式に裁可を下す前に、俺にも相談があるとは思うが……その段階では断れるかどうかわからない。だから、もしマリが本当に嫌だと言うのなら、今からでもその旨を兄上たちに話に行こうと思っているが……どうだ?」
『どうだ』と言いつつも、こちらを覗き込む表情は、いつもより険しく見える。
(ハロルド様は、きっと反対なさりたいのよね……)
でもそれをあからさまに口に出さないのは、わたしの意見を尊重してくださっているからなのだろう。
「正直なところ、お断りしたい気持ちが強いです……相手はあのエリアーナですし、わたしを軽んじている節があるあの子に講義をして、本当に授業になるのか不安ですから。でも……」
「でも……?」
言葉の先を促すような眼差しに、わたしは軽く手を握ってから続ける。
「もし、エリアーナがきちんと講義を受けて、殿下の婚約者としての体裁をなすことができるようになれば、ハロルド様に先日のようなご迷惑をかけることもなくなると思うと、その……断るのもどうかと思って」
それに、今の話を聞いた限り断れる可能性のほうが低いはずだ。
そんな不安と諦めが入り交じった心境をそのまま伝えると、ハロルド様はまるごと包み込むような笑みを浮かべてそっとわたしの手を取った。
「なるほどな。マリの気持ちはわかった。ひとまず、義姉上にお会いしてみることにしよう」
「王妃様にですか……?」
「ああ、王太子妃の教育に関しては、兄上よりも義姉上の権限が優先されることは知っているな?」
「はい」
もちろん、最終決定を下すのは国王だけれど、次代の王妃を育てるのは現王妃の役目という考えが基本としてあるためか、王太子妃の教育に関する事柄については、国王陛下より王妃様の意見が尊重されている。
「実際、この件がどう転ぶかはわからないが、引き受けることになったときのことを考えて、ここから先は、マリの負担を少しでも軽くできるようにしたほうがいいだろう……そのためにも、なるべく早めに義姉上に会う必要がある」
「わかりました。では屋敷に戻って、お会いしていただけるよう王妃様にお手紙を……」
「いや、マリはなにもしなくていい」
「え?」
「ひとまず、この件は俺に任せてくれ」
キョトンとするわたしに、ハロルド様はニッコリと微笑んでそう言った。
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