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2巻
2-2
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王妃様とお会いする日時が決まった、とハロルド様から手紙が届いたのは、あれから二日後の朝のことだった。
「ルリカ、急なのだけれど、今日の午後に王妃様のところへ伺うことになったわ」
「かしこまりました。では早速準備に取りかかりますね」
「ええ、お願い」
ハロルド様がどんな内容の手紙を送ったのかはわからないけれど、用件が用件だ。きっと王妃様も、早く話し合いたいということなのだろう。
テーブルにあったベルを鳴らして、ルリカが控えているメイドたちに指示を出す。
一通りの指示とドレス選びを終えたルリカは、少し不安そうな面持ちでわたしのそばへ戻ってきた。
「あのお嬢様……差し出がましいことをお聞きしますが、今日はおひとりで王宮に行かれるのですか?」
今回の講師の件に関して、全力で反対の意を表明しているルリカにしてみれば、わたしが王宮に行くこと自体反対なのだろう。
王妃様に頭を下げられれば、どんな事情があるにせよ、講師の件を引き受けざるをえない。まあそもそも、今回の件は逃げ道など用意されていないようだけれど、ルリカはまだそれを知らない。だから余計に心配してくれているのだろう。
そんなルリカの不安を少しでも取り除きたくて、わたしは微笑んで首を横に振った。
「大丈夫よ、今日はハロルド様もご一緒してくださるわ」
「公爵様がご一緒してくださるなら安心ですね」
(でも、ハロルド様はどうなさるおつもりなのかしら……?)
わたしの負担が減るようにすると言っていたけれど、実際のところハロルド様がなにを要求するつもりなのかは知らない。
(ハロルド様のことだから、悪いようにはならないと思うのだけれど……)
ルリカたちが慌ただしく準備を整えているのを鏡越しに見ながら、わたしはつらつらとそんなことを考えていた。
無事に支度を終えると、まるでそれを待っていたかのように、公爵家の馬車が我が家の門をくぐってくるのが見えた。
藤色のドレスを着た自分の姿をもう一度鏡で確認する。最後にハロルド様からもらったネックレスと、教会で交換した組紐のブレスレットを身につけているのを確かめてから、わたしは部屋を出てエントランスへ向かった。
「ハロルド様、わざわざお迎えに来てくださりありがとうございます」
「婚約者を迎えに来るのは当然のことだろう? それに今回の件を言い出したのは俺のほうだしな」
黒のオーバーフロックコートを身にまとったハロルド様は、優しくわたしの手の甲にキスを落とすと、そのまま手を引いて馬車へ逆戻りする。
彼にしては性急な足取りに戸惑い、視線を向けると、困ったような笑みが返ってきた。
「急かしてすまない……しかし、今ここに長居しないほうがいい気がしてな」
多分、エリアーナが来たら面倒なことになるのを予想しているのだろう。そうでなくても、エリアーナはなにかと理由を見つけては、わたしやハロルド様と一緒に過ごそうとする傾向がある。
エリアーナもハロルド様の訪れに気がついているだろうから、たしかにここへ来る前に出てしまったほうがいい。
御者にもすぐに出ることを伝えてあったのか、わたしたちが乗り込んで扉を閉めると、馬車は合図をしていないにもかかわらず、王宮に向かって走り出す。
しばらくして、馬車が屋敷の門をくぐる頃、わたしは気になっていたことを確認すべく口を開いた。
「あの、ハロルド様」
「ん? どうした」
「先日おっしゃっていた……講師の件でわたしの負担を減らすというのは、一体どうなさるおつもりなんですか?」
「そのことか。マリが心配に思うほどたいしたことではないんだが……」
ハロルド様は眉尻を下げて微笑むと、ゆっくりと話し出した。
「今回の件は、いわば王家の都合による無茶振りだろう? それに応じてやるからには、『講師以外』の仕事をわざわざやってやる必要はない」
要するに、エリアーナを『教える』以外の雑務を、他の者にやらせようということらしい。
たしかに、わたしが王太子妃教育を受けていた際も、講師の方々は多忙を極めていた。
わたしへの授業はもちろんのこと、先々の講義内容を王妃様へ確認していただくための詳細な計画書の作成、それに各国の情勢や流行を組み込んだ課題の作成、月に一度行う試験問題の考案、成績報告書の作成など、挙げはじめればきりがない。
「学者たちなら、研究計画書提出や学生たちへの講義でそういうことへの対応も慣れているだろうが、マリはそうじゃないだろう?」
「はい……セントーニ先生から教えていただいた知識はありますが、そういう細かいところに関しては、まったくわかりません」
「どうやら、義姉上もその件に関してはお考えが及んでいない様子だからな、諸々が始まってから慌てる前に、マリに助手をつけることを提案する……それと、マリの講師就任期間は、あくまでセントーニ博士が戻るまでの短期間でと願うつもりだ」
「そうしていただけるとわたしも嬉しいですが……でも、いいのでしょうか……?」
「なにがだ?」
「セントーニ先生はお忙しい方なのに……なんだか面倒事を押しつけてしまっているような気がして……」
「それは気にしなくていい。その分セントーニの仕事を俺のほうでできる限り請け負うことにする。そうなれば、彼もしばらく自国で過ごせるし、普段の仕事からも解放されるのだから、どちらにとっても悪くない話だ。メイトリアに行っているセントーニにも、すでにその旨の手紙は送ってあるから、じきに返事がくるだろう。それに……」
ハロルド様はそこで言葉を切ると、わたしの手を取り、優しく指先を絡めて口づけた。
「せっかくこうして想いが通じ合ったのに、マリとともに過ごす時間が減るのは困るからな」
「っ!」
するりと手の甲を撫でた指先が、そのまま手首まで滑って赤い組紐に触れる。
そのこそばゆい感触にドキリとしながら、言葉よりも雄弁に想いを告げてくるエメラルドグリーンの瞳に、わたしは痛いくらいに胸が高鳴るのを感じていた。
「王妃様は、温室でお待ちです」
そう言われてわたしたちが通されたのは、王宮の奥まった場所にある王族専用の温室庭園だった。
ガラス張りの美しい建物の中は、すでに肌寒い晩秋の風などものともせず、まるで常春かのようにぽかぽかと温かい。そこに咲き乱れる花々も、外の季節など素知らぬ顔で、可憐な花びらを広げている。
そんな楽園のような庭園の最奥。ソファやクッションなどを置いて、寛げるようにしつらえられたスペースに王妃様はいた。
「ハロルド様、それにマリ、わざわざ足を運ばせて悪かったわね」
ゆったりと微笑む王妃様に、わたしとハロルド様は並んで頭を下げる。
「こちらこそ、お忙しいのにお時間を割いていただいて申し訳ありません。王妃様」
「あらあら、私的な集まりなのだから堅苦しいのはやめてちょうだい。ここにはわたしの気心の知れた者しかいないのだから、楽にして」
その言葉が合図だったかのように、侍従たちが椅子を引き、侍女たちがお茶を運んでくる。
促されるままに席について、お茶をひとくち飲んだところで、王妃様がのんびりとした口調で話を切り出した。
「それで、今日ふたりが話したいことと言うのは、マリの講師就任の件でよかったかしら?」
「はい、義姉上」
「えぇと……ハロルド様からの手紙では、今回のわたしのお願いをあまり好意的には受け取ってくれていないようだけれど……」
王妃様はこてんと首をかしげ、頬に手を当てると、困ったように微笑んだ。
「ハロルド様も知っているでしょう? 今回の件は陛下もおっしゃった通り急ぎのことなのよ。もちろんあなたたちの間にあったことは承知しているし、申し訳ないとは今でも思っているけれど、今はどうしてもマリの協力が必要なの。それだけは理解してくれると嬉しいわ」
「ええ、もちろん私もマリも理解はしています。ですが、今回の件は王室の規則を無視した形で事が進められる。そのせいでマリが批判を受けるようなことになるのは避けたいのです。……これは、義姉上の今後のためにも大事なことでしょう?」
「……ええ、そうね。貴方の言う通りだわ」
″全ては、王室の厳格な規則通りに。
ほかの誰にも文句など言われないように。
王太子妃として、一分の隙もないように〟
それが王太子妃教育の基本理念だ。けれど今回はその基本理念を無視して全てが進もうとしている。
(一歩間違えれば、エリアーナやわたしだけでなく、王妃様まで批判の的になりかねない)
だからこそ、とハロルド様は淡々とした調子で言葉を続ける。
「今回は王家が容認した特例であるということを全貴族に報せた上で、マリに助手をつけていただきたい」
「そうね……陛下にご相談して、できる限りあなたたちの希望に添えるようにします。助手の件も、早急に適任者を探しましょう」
「講義が始まれば、マリはきっとエリアーナ嬢につきっきりになるでしょうから、講義以外の業務を任せられる者をお願いします」
「わかったわ」
「それと、マリの講師就任期間に関しては、あくまでセントーニ博士がメイトリアから戻るまでの間としていただきたい」
ここで初めて、王妃様はかすかに眉間に皺を寄せた。
「それは……セントーニ博士のご意見も伺わないとなんとも言えないことじゃないかしら?」
「勝手なこととは思いましたが、彼とはもう話が済んでいます。戻り次第、彼の業務をわたしが肩代わりするのを条件に、講師を引き受けてくださるとのことです」
「……そう、たしかに彼ならマリの講師をした経験もあるし、反対する者もほとんどいないでしょうね」
少し思案したあと、王妃様は小さくうなずいた。講師の途中交代など、異例に異例を重ねる話だけれど、今回の件はそもそも始まりが普通ではないのだ。今さらひとつふたつ増えたくらいで批判の大きさはたいして変わらないだろう。
(すごく、トントン拍子だわ……)
ハロルド様の言葉になんの抵抗もなくうなずく王妃様の姿に、拍子抜けしてしまう。
ここに来てから今まで、わたしが口を挟む隙なんてほとんどなく、どんどんこちらの負担が減る方向で話が進んでいく。
(やっぱり、ハロルド様がお相手だからなのかしら……)
きっと王妃様と話しているのがわたしだったら、こんなにスムーズにはいかなかった。『考えてみるわ』と言ってくださることはあっても、ここまで明確に答えてくださることはなかっただろう。
「マリから、講師をするにあたって他になにか希望はあるか?」
「わたしの希望、ですか……?」
(そういえば、この前お会いしたときに考えておくようにとハロルド様に言われたのだったわ……)
今になってそのことを思い出し、慌てて考えを巡らせる。
「それなら……必須外国語の、トーリア語とフルデンス語、それにハリア語を話せる方を、講義に参加させていただけますでしょうか」
王太子妃は、自国言語を含めて最低四カ国語を自在に操れなければならない。
外交における基本的な決まりとして『訪問したほうが、訪れた国の言語を話す』というものがあるからだ。
もちろん通訳も存在してはいるけれど、通訳を介しての会話が許されるのは中級官僚までで、高級官僚と王族に関しては自身で話すことが最低限のマナーになっている。
「言語習得における一番の近道は話すことです。エリアーナの場合、わたしのように時間があるわけではありませんので、クラリンス家の屋敷でも常に話せる者をそばに置いておきたいのです」
そう告げたわたしに、王妃様はなにかを思い出したように手を叩く。
「そうだわ! すっかり忘れていたのだけれど、講義開始後のエリアーナ嬢とマリーアンネの住居に関して、ふたりに話さなければならないことがあるのだった」
「マリの住居とは、一体なんのことです……?」
突然の話題転換に戸惑いを隠しきれず、わたしとハロルド様は顔を見合わせる。そんなわたしたちに、王妃様は花が綻ぶように微笑んで、その桜色の唇を開いた。
「これまでに話した通り、エリアーナ嬢の教育が急務だということはふたりもわかってくれたわよね」
「……はい」
「まあ、そうですね」
なんだか嫌な予感がして、わたしたちはぎこちなく返事をする。そんなこちらの様子など気にも留めず、まるで内緒話を打ち明ける子供のように、楽しそうな様子で王妃様は言った。
「王太子妃教育が始まったら、マリーアンネとエリアーナ嬢には王宮に住んでもらうことになったのよ」
予想もしていなかったその言葉に、わたしもハロルド様も、ただ目を見張ることしかできなかった。
「お嬢様、お目覚めになってください。今朝はいつもより早く公爵様がお迎えにいらっしゃるのでしょう?」
「ん……そうだったわ……」
ルリカに肩を揺すられて、わたしは眠い目を擦りながら身体を起こす。目の前に広がる自室とは違う光景になんだか不思議な気分になりながら、温かなベッドからなんとか抜け出すと、ルリカがすかさずモーニングティーをサイドテーブルに置いた。
「こちらの茶葉は、昨日王妃様からいただいたものです。ミントが入っているので、朝の目覚めにはちょうどいいそうですよ」
「本当ね……とてもスッキリした香りがするわ」
清涼感のある香りのお茶で眠気を覚ましながら、わたしは火が灯された暖炉の前へ移動した。
秋も終盤に差しかかってきたからか、庭園の木々はすっかり葉を落とし、朝晩は気温がぐんと下がって冷え込むことが増えた。それでも王宮の庭園では、この時期に咲く花々が窓から見える景色を彩ってくれていた。
(……まさか、こんな形で王宮の庭園を眺めることになるとは思わなかったわ)
エリアーナの講師となるべく、険しい表情のハロルド様の手を借りて王宮に居を移したのは昨日のことだ。
(結局、ハロルド様は最後まで反対されていたものね……)
納得できないと言わんばかりの厳しい表情を思い出して苦笑しながら、二週間前──王妃様と会った日のことを思い返す。
「義姉上、マリを王宮に住まわせるというのは……一体どういうことですか?」
一気に声音を硬くしたハロルド様が、眉根を寄せて王妃様を見た。けれど、王妃様はそんなハロルド様の変化など意に介さず、ふわりと柔らかい笑みを浮かべたまま、ハロルド様を見つめ返した。
「どういうこともなにも、言葉通りの意味よ。基本的に王太子妃教育に関わる学者たちが、王宮内の専用宿舎に寝泊まりするのは、ふたりも知っているでしょう?」
「はい……たしか、部外者からの干渉を避けるためにそうしているのですよね?」
「そう、マリーアンネの言う通りよ」
王太子妃教育に携わる者は、必然的に王族との関わりが深くなる。その縁を狙って、講師たちを買収したりする者が出ないよう、講師たちは王太子妃教育を手がけている間、特別な理由がない限り、王宮の所定の場所から出ることが許されない。これは、王太子教育に携わる講師陣に対するものと同様の処遇だった。
「しかし、マリは侯爵令嬢です。普通の講師陣とはわけが違う……講師用の宿舎が警備の厳重な場所であることは知っていますが、私は反対です。そもそも、彼女が王宮に滞在する必要はないはずだ」
(ハロルド様……)
侯爵令嬢で、メイヤー公爵の婚約者。自分で言うのもなんだが、それなりに高い身分に属しているわたしを、買収しようとする者がいるとは思えない。それになんと言っても、今回は『特例』なのだ。だから処遇に関しても特例が適用されるべきだとハロルド様は言いたいのだろう。
明確に反対の意を告げるハロルド様に、王妃様は困ったというように頬に手を当て、軽く首をかしげた。
「滞在する必要性については、警護のためと移動時間の有効活用のためと言えばわかってもらえるかしら? 最初にも話した通り、今回の件は反対している者も少なくないわ。だから、マリの身柄の安全のためにも、王宮にいてほしいの。それに滞在場所については、ここ……王妃宮の一室を使ってもらうようにするわ。講師用の宿舎に泊めるなんてことはしないから安心して」
これでどうかしら、と眉尻を下げて微笑む王妃様に、ハロルド様は苦々しげな表情で一度大きく息を吐いた。どうあがいても、この提案からは逃れられないことを感じたのだろう、憮然とした様子でこちらを見た。
「マリは……それでも構わないか?」
「そうですね……できれば、侯爵邸からの通いがよかったのですけれど……」
「ダメよ。もし万が一マリになにかあったりしたら、それこそハロルド様にも陛下にも申し訳がたたないもの」
「わ、わかりました……」
柔らかい声音だけれど、きっぱりとした口調で言い切られて、わたしはうなずくことしかできなかった。
あの日から昨日まで、ハロルド様はどうにも納得しがたいという様子でわたしの引っ越し準備を手伝ってくれた。最終的になぜか『できる限り、ハロルド様の執務室でお茶をする時間を取る』という約束を取りつけると、ようやく少し納得した様子を見せてくれたのだった。
「お嬢様、今日は講義を手伝ってくださる方と打ち合わせをなさるんですよね?」
「ええ、ご挨拶と講義内容の相談をする予定なの。エリアーナの講義が本格的に始まるのは四日後だから、その前にいろいろと準備しておかないとならないし」
「では、ドレスは身動きが取りやすいものにしたほうがよろしいですね。髪型も邪魔にならないように、後ろでひとつにまとめましょうか」
「そうね、そうしてくれると嬉しいわ」
お茶を飲み終えたカップをサイドテーブルに置いて、わたしは早速ルリカの手を借り朝の身支度を済ませる。シンプルなドレスに身を包み、簡単に髪を結い上げてもらう。鏡に映るその姿に、わたし自身はとても満足したのだけれど、ルリカが不満そうに唸り声を上げた。
「うーん……お嬢様、今日は今から公爵様とお過ごしになるんですよね? そのあと、そのまま打ち合わせをなさる」
「ええ、そうよ」
うなずくわたしに、ルリカはさらに悩ましげな表情で唸った。
「ルリカ、どうしたの? どこか変かしら?」
「そんな、お嬢様が変なはずありません! ただ、こう……公爵様にお会いするなら、お嬢様を飾り立てたいという、私の欲がですね……」
ルリカはそのあともしばし唸り声を上げ、結い上げた髪に髪飾りをひとつ挿すと、渋々といった様子で、迎えに来たハロルド様にわたしを預けたのだった。
「そういえば、助手になる者が誰なのかマリはもう聞いているのか?」
場所を執務室に移し、軽食と紅茶に舌鼓を打つわたしに、ハロルド様はそう尋ねた。
「いえ、それがどうやら選考に手間取ってしまったらしくて……今日このあと、初めてお会いするんです。王妃様が気を遣ってくださって、女性の方を探してくださったのだけは知っているのですけれど……」
「女性の学者か……それは手間取っただろうな」
ハロルド様は眉尻を下げつつ微笑むと、持っていたカップを置いた。
「エルディニアには、まだまだ女性学者が少ない……ハークと比べると雲泥の差だ」
「でも、最近は上級学舎に進む方も増えてきたそうですよ。それもこれも、陛下やハロルド様が、法を一新するために身を粉にしてくださったおかげです」
「そうだといいんだが……」
現国王陛下が王位に立たれる前まで、このエルディニアには、『女性が修学できるのは、中級学舎まで』という法が存在していた。だから女性はどんなに優秀でも、上級学舎に進むことができず、中級学舎卒業後は家の手伝いに励むか、結婚をするかしか選べなかった。それは『女性は家を管理し、夫を助けるもの』という考えがあったからだ。そこには『初代国王サルバトールの妻は、内助の功で夫を支えた賢妃である』という神話の一節が関係している。
女性たちは幼い頃から、賢妃のように夫を支えることを求められてきたのだ。
(でも、多くの国々との交流を重ねるようになって、人々の考えは変わってきた)
それでも、変化を嫌う上級貴族たちはこれまで有り様を変えるのにひどく難色を示したという。けれどそんな彼らを、陛下と王妃様、そしてハロルド様が説き伏せ、女性にも学びの機会が与えられるようになった。
しかし、考えが変わって、法が変わっても、状況というのは一朝一夕に変化するものではない。昔からの因習や人々の目というのは強固な鎖となって、今でも女性たちの学ぶ意欲に二の足を踏ませている。
「この先、先駆者となる女性たちが地位を築き上げれば、きっと今よりも女性の学者は増えるはずです。そうなるように、わたしたちが陛下をお助けしましょう……一緒に」
「ああ、そうだな」
これからもこの先も、ハロルド様と一緒ならきっとどんなことも頑張れる。そう感じながら、テーブル越しに手を重ねると、交換し合ったブレスレットの赤が重なった。鮮やかなその色は、幸せな気持ちとともに安心感をわたしに与えてくれる。今自分は、彼と同じ気持ちで前を向いているんだと教えてくれるから。
「とにかく、この先長い付き合いになるだろうから、マリが気兼ねしない相手であることを願うよ。もしなにか困ったことがあれば言ってくれ。すぐに対応するから」
約束だと言うように、ハロルド様はわたしの手の甲に口づけを落とす。その仕草にすっかり慣れはじめている自分に驚きながら、わたしは愛おしさを込めてうなずいた。
「ありがとうございます、ハロルド様」
「俺がしてやれることはこれくらいしかないからな……遠慮はなしだぞ」
「はい」
ハロルド様の気遣いが嬉しくて、自然と頬が綻ぶ。
彼がいるから、今回の講師の件もこんなに前向きに考えられているのだ。そうでなければ、きっと憂鬱な気分で講義当日を迎えていたことだろう。
(本当に……ハロルド様には感謝しなくてはね。そうだわ、このことが済んだら、わたしからハロルド様をお出かけにお誘いしてみましょう。どこか景色の綺麗な場所で、一日一緒にゆっくり過ごせるように……)
エリアーナの講義が日程通りに進み、セントーニ博士が期日通りにエルディニアに戻ってきさえすれば、遅くとも雪が深くなる前にはお役目を終えることができるだろう。
(そしたら、一緒に雪景色を楽しむのもきっと素敵ね……それに、新年のパーティーもご一緒できるといいのだけれど……)
ハロルド様と一緒に過ごす日々を想像して、自然と心が浮き立つ。
たとえ、お出かけができなくても、雪景色を一緒に見られなくても、きっと彼さえ隣にいてくれるなら、結局わたしは幸せなのだろう。そう思うとなんだかおかしくて、思わず笑ってしまう。
「マリ? なんだか楽しそうだが、なにを考えてるんだ?」
「ふふ、内緒です……でもきっとあとでお教えします。今回のことが全部終わったら」
「なら、マリの役目が早く終わるように、セントーニの帰国を急がせるか」
「まあ、そんなことをしてはセントーニ博士に怒られてしまいますよ」
「気にしないさ……彼の愚痴を聞くのはいつものことだからな」
そう言って、ハロルド様が軽やかに微笑む姿に、わたしはまた笑った。
少しだけ開けていた窓から、秋の冷たい風が吹き込んできて、わたしたちの間を通り抜けていく。けれど、その冷たさも気にならないくらい、晩秋の日差しは暖かくて、ハロルド様との時間は穏やかだ。
だから、わたしは気がつかなかったのかもしれない。
これが、これから始まる嵐の前の静けさであるということに──
「ルリカ、急なのだけれど、今日の午後に王妃様のところへ伺うことになったわ」
「かしこまりました。では早速準備に取りかかりますね」
「ええ、お願い」
ハロルド様がどんな内容の手紙を送ったのかはわからないけれど、用件が用件だ。きっと王妃様も、早く話し合いたいということなのだろう。
テーブルにあったベルを鳴らして、ルリカが控えているメイドたちに指示を出す。
一通りの指示とドレス選びを終えたルリカは、少し不安そうな面持ちでわたしのそばへ戻ってきた。
「あのお嬢様……差し出がましいことをお聞きしますが、今日はおひとりで王宮に行かれるのですか?」
今回の講師の件に関して、全力で反対の意を表明しているルリカにしてみれば、わたしが王宮に行くこと自体反対なのだろう。
王妃様に頭を下げられれば、どんな事情があるにせよ、講師の件を引き受けざるをえない。まあそもそも、今回の件は逃げ道など用意されていないようだけれど、ルリカはまだそれを知らない。だから余計に心配してくれているのだろう。
そんなルリカの不安を少しでも取り除きたくて、わたしは微笑んで首を横に振った。
「大丈夫よ、今日はハロルド様もご一緒してくださるわ」
「公爵様がご一緒してくださるなら安心ですね」
(でも、ハロルド様はどうなさるおつもりなのかしら……?)
わたしの負担が減るようにすると言っていたけれど、実際のところハロルド様がなにを要求するつもりなのかは知らない。
(ハロルド様のことだから、悪いようにはならないと思うのだけれど……)
ルリカたちが慌ただしく準備を整えているのを鏡越しに見ながら、わたしはつらつらとそんなことを考えていた。
無事に支度を終えると、まるでそれを待っていたかのように、公爵家の馬車が我が家の門をくぐってくるのが見えた。
藤色のドレスを着た自分の姿をもう一度鏡で確認する。最後にハロルド様からもらったネックレスと、教会で交換した組紐のブレスレットを身につけているのを確かめてから、わたしは部屋を出てエントランスへ向かった。
「ハロルド様、わざわざお迎えに来てくださりありがとうございます」
「婚約者を迎えに来るのは当然のことだろう? それに今回の件を言い出したのは俺のほうだしな」
黒のオーバーフロックコートを身にまとったハロルド様は、優しくわたしの手の甲にキスを落とすと、そのまま手を引いて馬車へ逆戻りする。
彼にしては性急な足取りに戸惑い、視線を向けると、困ったような笑みが返ってきた。
「急かしてすまない……しかし、今ここに長居しないほうがいい気がしてな」
多分、エリアーナが来たら面倒なことになるのを予想しているのだろう。そうでなくても、エリアーナはなにかと理由を見つけては、わたしやハロルド様と一緒に過ごそうとする傾向がある。
エリアーナもハロルド様の訪れに気がついているだろうから、たしかにここへ来る前に出てしまったほうがいい。
御者にもすぐに出ることを伝えてあったのか、わたしたちが乗り込んで扉を閉めると、馬車は合図をしていないにもかかわらず、王宮に向かって走り出す。
しばらくして、馬車が屋敷の門をくぐる頃、わたしは気になっていたことを確認すべく口を開いた。
「あの、ハロルド様」
「ん? どうした」
「先日おっしゃっていた……講師の件でわたしの負担を減らすというのは、一体どうなさるおつもりなんですか?」
「そのことか。マリが心配に思うほどたいしたことではないんだが……」
ハロルド様は眉尻を下げて微笑むと、ゆっくりと話し出した。
「今回の件は、いわば王家の都合による無茶振りだろう? それに応じてやるからには、『講師以外』の仕事をわざわざやってやる必要はない」
要するに、エリアーナを『教える』以外の雑務を、他の者にやらせようということらしい。
たしかに、わたしが王太子妃教育を受けていた際も、講師の方々は多忙を極めていた。
わたしへの授業はもちろんのこと、先々の講義内容を王妃様へ確認していただくための詳細な計画書の作成、それに各国の情勢や流行を組み込んだ課題の作成、月に一度行う試験問題の考案、成績報告書の作成など、挙げはじめればきりがない。
「学者たちなら、研究計画書提出や学生たちへの講義でそういうことへの対応も慣れているだろうが、マリはそうじゃないだろう?」
「はい……セントーニ先生から教えていただいた知識はありますが、そういう細かいところに関しては、まったくわかりません」
「どうやら、義姉上もその件に関してはお考えが及んでいない様子だからな、諸々が始まってから慌てる前に、マリに助手をつけることを提案する……それと、マリの講師就任期間は、あくまでセントーニ博士が戻るまでの短期間でと願うつもりだ」
「そうしていただけるとわたしも嬉しいですが……でも、いいのでしょうか……?」
「なにがだ?」
「セントーニ先生はお忙しい方なのに……なんだか面倒事を押しつけてしまっているような気がして……」
「それは気にしなくていい。その分セントーニの仕事を俺のほうでできる限り請け負うことにする。そうなれば、彼もしばらく自国で過ごせるし、普段の仕事からも解放されるのだから、どちらにとっても悪くない話だ。メイトリアに行っているセントーニにも、すでにその旨の手紙は送ってあるから、じきに返事がくるだろう。それに……」
ハロルド様はそこで言葉を切ると、わたしの手を取り、優しく指先を絡めて口づけた。
「せっかくこうして想いが通じ合ったのに、マリとともに過ごす時間が減るのは困るからな」
「っ!」
するりと手の甲を撫でた指先が、そのまま手首まで滑って赤い組紐に触れる。
そのこそばゆい感触にドキリとしながら、言葉よりも雄弁に想いを告げてくるエメラルドグリーンの瞳に、わたしは痛いくらいに胸が高鳴るのを感じていた。
「王妃様は、温室でお待ちです」
そう言われてわたしたちが通されたのは、王宮の奥まった場所にある王族専用の温室庭園だった。
ガラス張りの美しい建物の中は、すでに肌寒い晩秋の風などものともせず、まるで常春かのようにぽかぽかと温かい。そこに咲き乱れる花々も、外の季節など素知らぬ顔で、可憐な花びらを広げている。
そんな楽園のような庭園の最奥。ソファやクッションなどを置いて、寛げるようにしつらえられたスペースに王妃様はいた。
「ハロルド様、それにマリ、わざわざ足を運ばせて悪かったわね」
ゆったりと微笑む王妃様に、わたしとハロルド様は並んで頭を下げる。
「こちらこそ、お忙しいのにお時間を割いていただいて申し訳ありません。王妃様」
「あらあら、私的な集まりなのだから堅苦しいのはやめてちょうだい。ここにはわたしの気心の知れた者しかいないのだから、楽にして」
その言葉が合図だったかのように、侍従たちが椅子を引き、侍女たちがお茶を運んでくる。
促されるままに席について、お茶をひとくち飲んだところで、王妃様がのんびりとした口調で話を切り出した。
「それで、今日ふたりが話したいことと言うのは、マリの講師就任の件でよかったかしら?」
「はい、義姉上」
「えぇと……ハロルド様からの手紙では、今回のわたしのお願いをあまり好意的には受け取ってくれていないようだけれど……」
王妃様はこてんと首をかしげ、頬に手を当てると、困ったように微笑んだ。
「ハロルド様も知っているでしょう? 今回の件は陛下もおっしゃった通り急ぎのことなのよ。もちろんあなたたちの間にあったことは承知しているし、申し訳ないとは今でも思っているけれど、今はどうしてもマリの協力が必要なの。それだけは理解してくれると嬉しいわ」
「ええ、もちろん私もマリも理解はしています。ですが、今回の件は王室の規則を無視した形で事が進められる。そのせいでマリが批判を受けるようなことになるのは避けたいのです。……これは、義姉上の今後のためにも大事なことでしょう?」
「……ええ、そうね。貴方の言う通りだわ」
″全ては、王室の厳格な規則通りに。
ほかの誰にも文句など言われないように。
王太子妃として、一分の隙もないように〟
それが王太子妃教育の基本理念だ。けれど今回はその基本理念を無視して全てが進もうとしている。
(一歩間違えれば、エリアーナやわたしだけでなく、王妃様まで批判の的になりかねない)
だからこそ、とハロルド様は淡々とした調子で言葉を続ける。
「今回は王家が容認した特例であるということを全貴族に報せた上で、マリに助手をつけていただきたい」
「そうね……陛下にご相談して、できる限りあなたたちの希望に添えるようにします。助手の件も、早急に適任者を探しましょう」
「講義が始まれば、マリはきっとエリアーナ嬢につきっきりになるでしょうから、講義以外の業務を任せられる者をお願いします」
「わかったわ」
「それと、マリの講師就任期間に関しては、あくまでセントーニ博士がメイトリアから戻るまでの間としていただきたい」
ここで初めて、王妃様はかすかに眉間に皺を寄せた。
「それは……セントーニ博士のご意見も伺わないとなんとも言えないことじゃないかしら?」
「勝手なこととは思いましたが、彼とはもう話が済んでいます。戻り次第、彼の業務をわたしが肩代わりするのを条件に、講師を引き受けてくださるとのことです」
「……そう、たしかに彼ならマリの講師をした経験もあるし、反対する者もほとんどいないでしょうね」
少し思案したあと、王妃様は小さくうなずいた。講師の途中交代など、異例に異例を重ねる話だけれど、今回の件はそもそも始まりが普通ではないのだ。今さらひとつふたつ増えたくらいで批判の大きさはたいして変わらないだろう。
(すごく、トントン拍子だわ……)
ハロルド様の言葉になんの抵抗もなくうなずく王妃様の姿に、拍子抜けしてしまう。
ここに来てから今まで、わたしが口を挟む隙なんてほとんどなく、どんどんこちらの負担が減る方向で話が進んでいく。
(やっぱり、ハロルド様がお相手だからなのかしら……)
きっと王妃様と話しているのがわたしだったら、こんなにスムーズにはいかなかった。『考えてみるわ』と言ってくださることはあっても、ここまで明確に答えてくださることはなかっただろう。
「マリから、講師をするにあたって他になにか希望はあるか?」
「わたしの希望、ですか……?」
(そういえば、この前お会いしたときに考えておくようにとハロルド様に言われたのだったわ……)
今になってそのことを思い出し、慌てて考えを巡らせる。
「それなら……必須外国語の、トーリア語とフルデンス語、それにハリア語を話せる方を、講義に参加させていただけますでしょうか」
王太子妃は、自国言語を含めて最低四カ国語を自在に操れなければならない。
外交における基本的な決まりとして『訪問したほうが、訪れた国の言語を話す』というものがあるからだ。
もちろん通訳も存在してはいるけれど、通訳を介しての会話が許されるのは中級官僚までで、高級官僚と王族に関しては自身で話すことが最低限のマナーになっている。
「言語習得における一番の近道は話すことです。エリアーナの場合、わたしのように時間があるわけではありませんので、クラリンス家の屋敷でも常に話せる者をそばに置いておきたいのです」
そう告げたわたしに、王妃様はなにかを思い出したように手を叩く。
「そうだわ! すっかり忘れていたのだけれど、講義開始後のエリアーナ嬢とマリーアンネの住居に関して、ふたりに話さなければならないことがあるのだった」
「マリの住居とは、一体なんのことです……?」
突然の話題転換に戸惑いを隠しきれず、わたしとハロルド様は顔を見合わせる。そんなわたしたちに、王妃様は花が綻ぶように微笑んで、その桜色の唇を開いた。
「これまでに話した通り、エリアーナ嬢の教育が急務だということはふたりもわかってくれたわよね」
「……はい」
「まあ、そうですね」
なんだか嫌な予感がして、わたしたちはぎこちなく返事をする。そんなこちらの様子など気にも留めず、まるで内緒話を打ち明ける子供のように、楽しそうな様子で王妃様は言った。
「王太子妃教育が始まったら、マリーアンネとエリアーナ嬢には王宮に住んでもらうことになったのよ」
予想もしていなかったその言葉に、わたしもハロルド様も、ただ目を見張ることしかできなかった。
「お嬢様、お目覚めになってください。今朝はいつもより早く公爵様がお迎えにいらっしゃるのでしょう?」
「ん……そうだったわ……」
ルリカに肩を揺すられて、わたしは眠い目を擦りながら身体を起こす。目の前に広がる自室とは違う光景になんだか不思議な気分になりながら、温かなベッドからなんとか抜け出すと、ルリカがすかさずモーニングティーをサイドテーブルに置いた。
「こちらの茶葉は、昨日王妃様からいただいたものです。ミントが入っているので、朝の目覚めにはちょうどいいそうですよ」
「本当ね……とてもスッキリした香りがするわ」
清涼感のある香りのお茶で眠気を覚ましながら、わたしは火が灯された暖炉の前へ移動した。
秋も終盤に差しかかってきたからか、庭園の木々はすっかり葉を落とし、朝晩は気温がぐんと下がって冷え込むことが増えた。それでも王宮の庭園では、この時期に咲く花々が窓から見える景色を彩ってくれていた。
(……まさか、こんな形で王宮の庭園を眺めることになるとは思わなかったわ)
エリアーナの講師となるべく、険しい表情のハロルド様の手を借りて王宮に居を移したのは昨日のことだ。
(結局、ハロルド様は最後まで反対されていたものね……)
納得できないと言わんばかりの厳しい表情を思い出して苦笑しながら、二週間前──王妃様と会った日のことを思い返す。
「義姉上、マリを王宮に住まわせるというのは……一体どういうことですか?」
一気に声音を硬くしたハロルド様が、眉根を寄せて王妃様を見た。けれど、王妃様はそんなハロルド様の変化など意に介さず、ふわりと柔らかい笑みを浮かべたまま、ハロルド様を見つめ返した。
「どういうこともなにも、言葉通りの意味よ。基本的に王太子妃教育に関わる学者たちが、王宮内の専用宿舎に寝泊まりするのは、ふたりも知っているでしょう?」
「はい……たしか、部外者からの干渉を避けるためにそうしているのですよね?」
「そう、マリーアンネの言う通りよ」
王太子妃教育に携わる者は、必然的に王族との関わりが深くなる。その縁を狙って、講師たちを買収したりする者が出ないよう、講師たちは王太子妃教育を手がけている間、特別な理由がない限り、王宮の所定の場所から出ることが許されない。これは、王太子教育に携わる講師陣に対するものと同様の処遇だった。
「しかし、マリは侯爵令嬢です。普通の講師陣とはわけが違う……講師用の宿舎が警備の厳重な場所であることは知っていますが、私は反対です。そもそも、彼女が王宮に滞在する必要はないはずだ」
(ハロルド様……)
侯爵令嬢で、メイヤー公爵の婚約者。自分で言うのもなんだが、それなりに高い身分に属しているわたしを、買収しようとする者がいるとは思えない。それになんと言っても、今回は『特例』なのだ。だから処遇に関しても特例が適用されるべきだとハロルド様は言いたいのだろう。
明確に反対の意を告げるハロルド様に、王妃様は困ったというように頬に手を当て、軽く首をかしげた。
「滞在する必要性については、警護のためと移動時間の有効活用のためと言えばわかってもらえるかしら? 最初にも話した通り、今回の件は反対している者も少なくないわ。だから、マリの身柄の安全のためにも、王宮にいてほしいの。それに滞在場所については、ここ……王妃宮の一室を使ってもらうようにするわ。講師用の宿舎に泊めるなんてことはしないから安心して」
これでどうかしら、と眉尻を下げて微笑む王妃様に、ハロルド様は苦々しげな表情で一度大きく息を吐いた。どうあがいても、この提案からは逃れられないことを感じたのだろう、憮然とした様子でこちらを見た。
「マリは……それでも構わないか?」
「そうですね……できれば、侯爵邸からの通いがよかったのですけれど……」
「ダメよ。もし万が一マリになにかあったりしたら、それこそハロルド様にも陛下にも申し訳がたたないもの」
「わ、わかりました……」
柔らかい声音だけれど、きっぱりとした口調で言い切られて、わたしはうなずくことしかできなかった。
あの日から昨日まで、ハロルド様はどうにも納得しがたいという様子でわたしの引っ越し準備を手伝ってくれた。最終的になぜか『できる限り、ハロルド様の執務室でお茶をする時間を取る』という約束を取りつけると、ようやく少し納得した様子を見せてくれたのだった。
「お嬢様、今日は講義を手伝ってくださる方と打ち合わせをなさるんですよね?」
「ええ、ご挨拶と講義内容の相談をする予定なの。エリアーナの講義が本格的に始まるのは四日後だから、その前にいろいろと準備しておかないとならないし」
「では、ドレスは身動きが取りやすいものにしたほうがよろしいですね。髪型も邪魔にならないように、後ろでひとつにまとめましょうか」
「そうね、そうしてくれると嬉しいわ」
お茶を飲み終えたカップをサイドテーブルに置いて、わたしは早速ルリカの手を借り朝の身支度を済ませる。シンプルなドレスに身を包み、簡単に髪を結い上げてもらう。鏡に映るその姿に、わたし自身はとても満足したのだけれど、ルリカが不満そうに唸り声を上げた。
「うーん……お嬢様、今日は今から公爵様とお過ごしになるんですよね? そのあと、そのまま打ち合わせをなさる」
「ええ、そうよ」
うなずくわたしに、ルリカはさらに悩ましげな表情で唸った。
「ルリカ、どうしたの? どこか変かしら?」
「そんな、お嬢様が変なはずありません! ただ、こう……公爵様にお会いするなら、お嬢様を飾り立てたいという、私の欲がですね……」
ルリカはそのあともしばし唸り声を上げ、結い上げた髪に髪飾りをひとつ挿すと、渋々といった様子で、迎えに来たハロルド様にわたしを預けたのだった。
「そういえば、助手になる者が誰なのかマリはもう聞いているのか?」
場所を執務室に移し、軽食と紅茶に舌鼓を打つわたしに、ハロルド様はそう尋ねた。
「いえ、それがどうやら選考に手間取ってしまったらしくて……今日このあと、初めてお会いするんです。王妃様が気を遣ってくださって、女性の方を探してくださったのだけは知っているのですけれど……」
「女性の学者か……それは手間取っただろうな」
ハロルド様は眉尻を下げつつ微笑むと、持っていたカップを置いた。
「エルディニアには、まだまだ女性学者が少ない……ハークと比べると雲泥の差だ」
「でも、最近は上級学舎に進む方も増えてきたそうですよ。それもこれも、陛下やハロルド様が、法を一新するために身を粉にしてくださったおかげです」
「そうだといいんだが……」
現国王陛下が王位に立たれる前まで、このエルディニアには、『女性が修学できるのは、中級学舎まで』という法が存在していた。だから女性はどんなに優秀でも、上級学舎に進むことができず、中級学舎卒業後は家の手伝いに励むか、結婚をするかしか選べなかった。それは『女性は家を管理し、夫を助けるもの』という考えがあったからだ。そこには『初代国王サルバトールの妻は、内助の功で夫を支えた賢妃である』という神話の一節が関係している。
女性たちは幼い頃から、賢妃のように夫を支えることを求められてきたのだ。
(でも、多くの国々との交流を重ねるようになって、人々の考えは変わってきた)
それでも、変化を嫌う上級貴族たちはこれまで有り様を変えるのにひどく難色を示したという。けれどそんな彼らを、陛下と王妃様、そしてハロルド様が説き伏せ、女性にも学びの機会が与えられるようになった。
しかし、考えが変わって、法が変わっても、状況というのは一朝一夕に変化するものではない。昔からの因習や人々の目というのは強固な鎖となって、今でも女性たちの学ぶ意欲に二の足を踏ませている。
「この先、先駆者となる女性たちが地位を築き上げれば、きっと今よりも女性の学者は増えるはずです。そうなるように、わたしたちが陛下をお助けしましょう……一緒に」
「ああ、そうだな」
これからもこの先も、ハロルド様と一緒ならきっとどんなことも頑張れる。そう感じながら、テーブル越しに手を重ねると、交換し合ったブレスレットの赤が重なった。鮮やかなその色は、幸せな気持ちとともに安心感をわたしに与えてくれる。今自分は、彼と同じ気持ちで前を向いているんだと教えてくれるから。
「とにかく、この先長い付き合いになるだろうから、マリが気兼ねしない相手であることを願うよ。もしなにか困ったことがあれば言ってくれ。すぐに対応するから」
約束だと言うように、ハロルド様はわたしの手の甲に口づけを落とす。その仕草にすっかり慣れはじめている自分に驚きながら、わたしは愛おしさを込めてうなずいた。
「ありがとうございます、ハロルド様」
「俺がしてやれることはこれくらいしかないからな……遠慮はなしだぞ」
「はい」
ハロルド様の気遣いが嬉しくて、自然と頬が綻ぶ。
彼がいるから、今回の講師の件もこんなに前向きに考えられているのだ。そうでなければ、きっと憂鬱な気分で講義当日を迎えていたことだろう。
(本当に……ハロルド様には感謝しなくてはね。そうだわ、このことが済んだら、わたしからハロルド様をお出かけにお誘いしてみましょう。どこか景色の綺麗な場所で、一日一緒にゆっくり過ごせるように……)
エリアーナの講義が日程通りに進み、セントーニ博士が期日通りにエルディニアに戻ってきさえすれば、遅くとも雪が深くなる前にはお役目を終えることができるだろう。
(そしたら、一緒に雪景色を楽しむのもきっと素敵ね……それに、新年のパーティーもご一緒できるといいのだけれど……)
ハロルド様と一緒に過ごす日々を想像して、自然と心が浮き立つ。
たとえ、お出かけができなくても、雪景色を一緒に見られなくても、きっと彼さえ隣にいてくれるなら、結局わたしは幸せなのだろう。そう思うとなんだかおかしくて、思わず笑ってしまう。
「マリ? なんだか楽しそうだが、なにを考えてるんだ?」
「ふふ、内緒です……でもきっとあとでお教えします。今回のことが全部終わったら」
「なら、マリの役目が早く終わるように、セントーニの帰国を急がせるか」
「まあ、そんなことをしてはセントーニ博士に怒られてしまいますよ」
「気にしないさ……彼の愚痴を聞くのはいつものことだからな」
そう言って、ハロルド様が軽やかに微笑む姿に、わたしはまた笑った。
少しだけ開けていた窓から、秋の冷たい風が吹き込んできて、わたしたちの間を通り抜けていく。けれど、その冷たさも気にならないくらい、晩秋の日差しは暖かくて、ハロルド様との時間は穏やかだ。
だから、わたしは気がつかなかったのかもしれない。
これが、これから始まる嵐の前の静けさであるということに──
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