1 / 22
1. 出会い
しおりを挟む
「ふう……」
溜息をついて、桜井 想は窓の外を見つめていた。
今は体育の授業中だが、桜井は体育の授業に出ることができない。というのも、桜井は幼少の頃から狭心症で、運動後はどうしても発作が出てしまうからだ。両親や体育の先生、それから担任とは相談し、学校に診断書を提出し、体育の授業は毎回見学としている。
ただ、本来であれば、授業中は体育館で授業を見学する予定だったのだが、毎回見学している桜井をやっかんで、生徒たちが体育の先生に抗議しはじめた。体育の先生は相手にしていなかったが、生徒たちがしびれを切らし、体育館の隅で体育座りしている桜井に突っかかるようになった。そんな状況を見かねた担任は、体育の先生に「別室で自習させよう」と提案したようで、体育の授業中は教室で一人、自習することとなった。
桜井は、手元のレポート用紙に目を移した。レポート課題と言って、体育の先生に渡されたものだが、ものの10分で片付けてしまった。そのレポートをもう一度読み返す。
課題は『バスケットボールでの生徒たちの様子と、その感想について』だった。
もちろん、体育館でその様子を見学していないから、書きようがなかった。
おそらく、体育館での見学を想定して作ったのだろうが、教室での自習に変更された体育の先生は、作り直す気にならなかったのだろう。体育の先生は担任よりも年下で、職員室では担任に頭が上がらないらしい。風のうわさでそう聞いたが、もし本当なら、体育の先生は桜井に対し、あまり良い感情は持っていない。
正直、複雑な気分だった。こうして生徒たちの僻みから離れ、一人きりの教室で自習ができるのはありがたかった。だが、作り直されていないレポートを渡され、体育の先生からの桜井の印象は悪いと分かると、どうしても良い気分にはなれなかった。
レポート課題を渡されてすぐに、想像で適当にレポートを仕上げた。実際に見学していないし、書きようがなかった。文章を読み返して、我ながら酷く嘘まみれな文章だと自嘲する。こんな嘘まみれの記述だから、採点する体育の先生も内容が嘘だらけだと分かるだろう。でも、どうしようもなかった。
桜井はやることがなくなってしまい、溜息をついて、再び窓の外を見た。
外は快晴で、うららかな春の日差しが、外の広葉樹の葉を照らしている。風が少し強いのか、深い緑色の葉がゆらゆらと揺れている。桜井は席を立ち、窓を開けた。開けた瞬間、心地の良い温度の風が入ってくる。そして、どこからともなく漂う葉の匂いが鼻腔をくすぐった。
「外、出たいなあ……」
桜井はふと思い立った。
今は授業中だから、勝手に外に出てはいけないと分かっている。だが、今はレポートのせいで鬱屈とした気持ちを晴らしたかった。きっと外に出れば、暖かな日差しと風を感じ、この気持ちを晴らしてくれるに違いない。
そう思うと、外に出たい衝動に駆られ、桜井は気が付くと教室のドアを開けていた。廊下を見渡すが、当然授業中なので、誰一人いない。見られていない安心感にほっとしながら、廊下を渡り、玄関で靴を履き替えて外に出た。
玄関を出ると、一瞬にして春の空気に包まれ、桜井の気分は高揚した。
風が吹くと、一気に気分が爽やかになる。桜井は思いっきり深呼吸した。近くの花壇に咲いている沈丁花の香りがする。これがいわゆる春の匂いなんだろう。桜井は肺いっぱいに心地良い空気を吸い、春の匂いを堪能した。
太陽の陽ざしが桜井を優しく、暖かく照らす。すっかり気分が良くなった桜井は、昔、父がよく聞いていた歌を口ずさんだ。父が車の中でよくかけていた曲で、古いアイドルの歌だったことと、キャッチ―なメロディーは覚えている。ただ、誰の歌なのかは知らないし、歌の歌詞もあやふやで覚えていない。それでも何となく歌いたい気分になり、メロディーに適当な歌詞を乗せて歌っていた。途中、小鳥の囀りが聞こえ、何となく一緒に歌っている気分になった。
気が付くと、学校から少し離れた桜の並木道にたどり着いていた。
並木道にはソメイヨシノが、道に沿って規則正しい間隔で植えられている。ソメイヨシノの綺麗な薄桃色の花が、水色の空を覆いつくしている。まるで桜のトンネルのようだった。桜のトンネルを目の前にし、桜井は子供のようにはしゃいだ。桜の花が、こちらを見て微笑みかけているように見えて、桜井は勝手にうれしくなった。空に咲く桜を見上げながら、並木道を堪能するようにゆっくり歩き、近くのベンチに腰を掛けた。
春の風が、桜を揺らしている。揺れるたびに、桜の花びらがひらひらと風に舞う。まるで、美しいバレエを見ているときのような、静かな興奮と感動に胸がいっぱいになった。
しばらく眺めていると、同じ制服を着た男性が、桜を見上げているのが目に入った。すらりと背筋が伸びていて、立てば芍薬という言葉通り、立ち姿が美しく見えた。そして、桜の花たちの隙間から差しこむ陽の光が、男の黒髪を輝かせる。風が吹くと、その黒髪がさざ波のように揺れていた。
その姿にうっとり見とれていると、その目線に気が付いたのか、男がこちらを振り返った。その瞬間、桜井は息をのんだ。切れ長の瞳、小さな鼻、薄く淡い桃色の唇。遠くからでも顔立ちが整っていることが分かるほど、目を引くような容姿だった。絵画に出てきてもおかしくないような美しい男に、桜井は一瞬にして惹かれてしまった。
男が桜井に向かって歩きはじめる。
桜井は慌てて目線を逸らした。じろじろ見られて、きっと彼は自分を変な人として訝しんでいるに違いない。そう思って、桜井は一人気まずくなっていた。
男は桜井の前に立った。そして、小さな口を開いた。
「俺に何か用ですか?」
オルガンのような透き通った声に、桜井ははっとして男を見た。男の瞳は黒曜石のように輝き、それを縁取る長いまつげが影を落としている。こんなに目が綺麗だと思った人は初めてだ。どうしたって引き込まれる。桜井は返答するのも忘れて、ただ男の瞳を覗き込んでいた。
すると、男は桜井の隣に座った。
桜井ははっとした。とにかく、男に謝らなければ。ごめんなさいの一言も言わず、ただ彼の顔を覗き込んでしまって、男は不審がっているに違いない。
「ごめんなさい。つい見惚れて……」
「見惚れた?」
「ああ、いや、その」
完全に言葉選びを間違えた。正直そう思っていたが、初対面の相手に対して見惚れたなどと言ったら、余計不審に思うだろう。それに、桜井は男だ。男から見惚れたなんて言われたら、普通は気持ち悪がる。やってしまった、と桜井は勝手に落ち込んだ。
だが、そんな桜井を気にも留めず、男はそのまま桜井の隣に座り続けた。
気持ち悪がって、普通はすぐに立ちあがるだろう。なのに、男はそのまま座り続けて、ただ風に揺られる桜をぼんやり見つめていた。
「気持ち悪くないんですか?」
「何が?」
「男から見惚れたなんて言われて……」
「別に」
男は桜から目線を外さない。桜井は安堵した。彼は、少なくとも気持ち悪いとは思っていない。言葉だけでなく、座り続けるその態度からもそれは分かった。美しく透き通る声と、静かな佇まいに、先ほど抱えていた不安や焦りが嘘のようにあっさりと消えた。
「その制服、同じ高校ですよね。何年生ですか?」
「二年生」
「同じですね。僕も同じ二年生」
桜井は一気に嬉しくなった。男と同学年という共通点を見つけられて、少しだけ心が躍った。
「名前聞いてもいい?」
「広瀬 涼介」
ひろせりょうすけ……、と桜井は頭の中で名前をなぞった。どこにでもいそうな普通の名前だが、今の桜井には、その名前の響きが特別なものだと感じた。なんだか無性に嬉しくなる。
「僕は桜井想。二年一組なんだ。広瀬は何組?」
「三組」
「そっか。組は違うけどよろしくね」
「ああ」
広瀬は桜を見つめたまま、ぶっきらぼうに答えた。もしかしたら疲れているのかもしれない。そう思って、桜井も黙って桜を見つめた。桜の花びらが風に乗って散っていく。
ひらひら、くるくる。ひらひら、くるくる。
まるでバレリーナだ。桜井は散っていく桜の花びらに愛おしさすら覚えていた。
「綺麗だよね。桜って」
広瀬は疲れているかもしれないのに、つい口に出してしまった。しまった、と思って広瀬の方を向いた。
「あ、ごめん。疲れてるよね……」
「疲れてない」
「そ、そう……?何だかぼんやりしているし」
「ただ、眺めていただけだ」
桜井は、桜を眺める広瀬の横顔をじっと見つめた。すっと通った鼻筋、白くきめ細やかな肌、シャープな輪郭。こんなに美しい男が存在しているとは、しかも同じ高校の同学年にいたとは思ってもいなかった。きっと広瀬のような男を見て、女子たちの間でも黄色い歓声が飛び交っている違いない。それを聞いていなかったから、知らなかっただけかもしれない。
桜井は体育の授業の件もあって、いつも教室では孤立気味だった。元々、性格も明るく活発というわけではなかったので、クラスには友人と呼べるような人はいない。
ただ、教室の端の席で自習し、たまに外を眺めているか、図書室に籠って勉強しているので、誰も桜井を相手にはしていない。クラスでは、ほとんど空気のようなものだった。だから桜井は、広瀬の噂どころか、存在すら知らなかった。
「そういえば」
広瀬が口を開いた。
「授業、サボってるようだけど、時間大丈夫なのか?」
あ、と思い、慌てて左手首につけた時計を見た。現在時刻は12時45分。授業が終わるのは13時だから、そろそろ戻らなければいけない。ここから学校まで徒歩10分なので、そろそろここから立ち去らねばならなかった。
桜井はゆっくり腰を上げて立ち上がった。
「そうだね。そろそろ戻るよ。広瀬くんも戻ろう」
「いや。俺はここにいる」
「次の授業もサボるの?」
「ああ」
広瀬はそう言って立とうとせず、そのままじっと座り続けている。
「怒られるよ?」
「別に、怒られようと怒られまいと、同じことだ」
「同じこと?」
「この桜と同じだ。散ろうと、散らずとも同じこと」
どういうこと、と聞きたがったが、時間がない。急いで戻らなければ授業中に外出していたことがばれてしまう。
仕方なく、広瀬はそれじゃあ、とだけ言って、並木道を後にした。
広瀬はなるべく速足で来た道を引き返した。その間、桜井は広瀬が言った言葉の意味を考えていた。広瀬はきっと、そんなに深い意味を込めたつもりはないのだろう。だが、何故か心の中で引っかかる。
ふと、桜を見上げていた広瀬の表情を思い出した。広瀬はただ桜を見ていただけだった。そこに感嘆も、恍惚も無かった。ただ無表情で見上げていた。広瀬の容姿と声に惹かれて気が付かなかったが、桜を見つめる広瀬の表情は、まるで彫刻のように、全く動いていなかった。もしかしたら、表情が乏しい人だっただけかもしれない。
だが、桜井には、どうしてもそうは思えなかった。言葉にはできない、なにか違和感のようなものが心の中に広がっていく。蟠りとも違う、なにか霧がかった感情に支配されていた。
桜井が教室に戻ると、数人の生徒がすでに着席していた。外出したことがばれてしまったら、先生に報告されるだろう。そう思い、トイレに行っていた体を装って着席した。だが、誰も桜井を気に留めず、外出していた桜井に話かける者はいなかった。
ひとまずほっと息をつき、机に置きっぱなしのレポート課題を体育の先生に提出しに行った。体育準備室のドアをノックして入室する。先生は窓際のデスクで、パソコンのキーボードをカタカタと打っていた。
「先生」
一声かけ、課題を提出する。
先生はああ、と一言だけ言って課題を受け取ると、机の上に投げ置いた。人が時間をかけて…、といっても10分程度だったが、せっかく記入したレポートを乱雑に扱われたことには、少々腹が立つった。だが、今はそれよりも、外出したことがばれていないか心配だった。
だが、先生はただパソコンに向かって何かを打っているだけで、こちらのことは一切気にしていない。外出したことは知られていないだろう。桜井はそう安心して、教室に戻った。
放課後、帰りのホームルームを終え、クラスメイト達は解放感に包まれていた。
「部活行こうぜ」
「ああ。遅刻したら先輩にまた怒られる」
「帰りカラオケ寄らない?」
「あ、それ私も行きたい!」
「いいね。じゃあ3人で行こう」
「俺帰るわ」
「おう、お疲れ」
焦っている声、楽しそうな声、疲れている声。様々な声が飛び交う。その声の隙間を通るように、桜井はいそいそと図書室へ向かった。
放課後は図書館で勉強する。それが桜井のルーティンだ。
実際、家で勉強してもいいのだが、適度な雑音の中で勉強した方が集中できる。
桜井は人であふれた渡り廊下を歩き、図書館へ着くと、持っていたカバンを机に置いて、いつもの席に座った。
いつもの席は、図書館の隅、窓際の一番奥の席。正面の窓からは校門が見え、生徒たちがぞろぞろと帰る光景が広がっている。
桜井はカバンの中から、茶色の筆箱と数学の参考書、そして、マジックで自習用と書かれたノートを取り出した。
そっとカバンを床に下ろし、参考書の折り目のついたページを開く。明日は小テストが控えていて、証明問題を出すと言っていたはずだ。どんな問題が来るかは明日のお楽しみだが、対策して損はないだろう。
桜井はノートを開き、筆箱からいつも使う青いシャーペンを取り出して、参考書の問題を黙々と解いた。
「ねえ。おすすめの本はないの?」
「これ面白いよ」
「ミステリーか…。難しそう」
かちかちかち。ぺらり。
「お前、なんで本好きなの? 漫画の方が良くね?」
「漫画もいいけど、小説の方がハマるんだよ」
「よく分かんねえわ」
ぺらり。ぎい。
「この問題分からないんだけどさ…」
「どこ?」
「ここ。どうしても答えと会わないんだよ」
ぺらり。じぃっ……。
ページをめくる音、椅子を引く音、チャックを引く音、図書館に響くひそひそ声。全てが耳から耳へ流れてくる。その音と感覚に浸りながら、桜井は黙々と、淡々と問題を解き進めた。
桜井は、この時間が何よりも好きだった。適度な雑音があった方が集中できる、というのもそうなのだが、桜井にとっては些細な理由にすぎない。もっと大きな理由は、孤独を感じさせないからだ。
桜井の家は母親と二人暮らしで、母親は基本的に深夜まで仕事をしている。家に帰っても誰もいない。そこにあるのは、時計の秒針の音と、自身から発せられる音だけ。その静寂さが桜井にとっては嫌いだ。静寂さが、自身の心の底にある寂しさを思い起こさせるから。だから、桜井は家に帰らず、図書館で放課後を過ごしている。
雑音の心地よさ、自分が確かに一人ではないと実感させる安心感を、桜井は静かに味わっていた。
ふと、左隣の椅子の引く音がして、桜井はちらりと隣を見た。
その隣にやってきたのは、広瀬だった。広瀬だと分かった瞬間、桜井は問題を解き続ける右手を反射的に止めてしまった。
広瀬は桜井に気が付いていないのか、そのまま椅子に座った。広瀬はカバンの中から薄い文庫本を取り出すと、本のページを開き、挟まっていた栞を取り出して、机にそっと置いた。
桜井は広瀬から目を逸らせずにいた。
本を持つ両手は、日焼けを知らない白くしなやかな手。まるで、繊細なピアニストのような長く細い指が、本にそっと寄り添っている。
しばらくして、広瀬は紙の端を右手の親指と人差し指でつまみ、静かに次のページをめくる。
その所作は実に優しいもので、傍から見ても、本を壊れ物のように大切に扱っているように映った。その広瀬の一つ一つの仕草に、どうしても目が離せない。その姿が、非現実的な光景のように思えて、まるで、古い絵画を眺めるときの引き込まれる感覚になる。
桜井がその感覚に浸っていると、広瀬は人差し指を本に挟めて閉じ、端正な顔を桜井に向けた。
「何か用か?」
桜井ははっとした。一度ならず、二度も広瀬のことをじっと見つめて、怪しい奴だと間違いなく思われている。とにかく弁明しなければならない。桜井は慌てふためいた。
「ご、ごめん。何でもないんだ。ごめん」
「そう。ならいいけど」
広瀬は再び本を開き、目線を本に移した。
結局口から出たのは、謝罪の言葉一つだけだった。桜井は何となく気まずさを感じながら、ノートに書いた解きかけの回答に目線を移した。
そのまま会話もないまま、時間だけが過ぎていく。桜井は何か話そうと、ふと広瀬が読んでいる本の表紙を見た。
表紙には『異邦人』と大きく書かれている。聞いたことのない小説だった。桜井はこれだ、と思い、思い切って顔を広瀬に向けた。
「あのさ、この本、どんな本なの?」
「……くだらない本だよ」
「くだらない?」
「何回も読み返してはいるけど、くだらないと思う」
「じゃあ、どうして読み返しているの?」
桜井がそう言うと、広瀬の顔がこわばった。そしてそのまま、広瀬の一切の動作が固まった。先ほどまで感じていた雰囲気とは違い、無機質な何かを、桜井は直感的に感じた。それは、広瀬が桜を見上げていた時のものと同じだった。
「どうして、だろうね」
広瀬は重そうに口を開いた。
「好きだから、じゃないの?」
「違う。好きでも嫌いでもない」
「それでも、読み返すってことは、面白いからじゃないの?」
「面白いとも違う。くだらないと思う」
「なら、何となく?」
「何となく、とも違う。理由があろうとなかろうと、『同じこと』だと思う」
桜井は、広瀬の言葉に、何となく引っかかりを覚えた。広瀬は、桜を見ていた時もそう言っていた。桜が散ろうと散らずとも『同じこと』。
『同じこと』だったとして、どうして桜を見上げていたのだろう。どうして本を読み返すのだろう。何か理由があってそうしているのではないのか。何となく、でも十分な理由だと思う。だが、それすらも広瀬は否定した。なら、一体なぜ、彼はそうしているのだろう。
桜井は、右手を顎に当てて考えを巡らせた。
すると、広瀬は机の上に置いた栞をページに挟みながら、桜井を見た。
「理由なんて、大した意味はない。面白いとは思ってないし、本が好きとか、何となく気が向いたとか、そういう感情は全くない。ただ読んでいるだけ」
「じゃあ、あの時、桜を見ていたのはどうして? 綺麗だからとかじゃないの?」
「確かに綺麗だとは思う。でもそれだけ。ただ見ていただけだ」
「広瀬くんは、桜は好きなの?」
「好きではない」
「なら、嫌いなの?」
「嫌いでもない。どちらでも同じことだ」
桜井がますます分からなくなって困惑していると、広瀬は、本を閉じてカバンの中にしまい、立ち上がった。
「そうしたいから、とか、何となく、とかそういうことじゃない。ただ見ていた。それだけのこと」
そう言って、広瀬はその場から立ち去った。桜井はただ、その後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
広瀬の考えていることが、桜井にはどうしても分からなかった。考えれば考えるほど、底なし沼にはまるような感覚がして、桜井は頭を悩ませていた。
桜井は頬をつき、解きかけの問題に手を付けようとしたが、全く手が動かなかった。
同じ空間に存在していたとは思えないほど、美しい容姿を持つ男。
だが、その男、広瀬涼介の人間像が全く見えてこない。まるで解説のない絵画の展示のようだ。美しい絵画を目の前にしたときに、この絵画に描かれている人物の思考を、解説や知識無しで紐解く感覚に似ている。
桜井は頭を悩ませながらも、広瀬という人間がどういう人間なのか、探ることに少しの楽しみを覚え始めていた。
溜息をついて、桜井 想は窓の外を見つめていた。
今は体育の授業中だが、桜井は体育の授業に出ることができない。というのも、桜井は幼少の頃から狭心症で、運動後はどうしても発作が出てしまうからだ。両親や体育の先生、それから担任とは相談し、学校に診断書を提出し、体育の授業は毎回見学としている。
ただ、本来であれば、授業中は体育館で授業を見学する予定だったのだが、毎回見学している桜井をやっかんで、生徒たちが体育の先生に抗議しはじめた。体育の先生は相手にしていなかったが、生徒たちがしびれを切らし、体育館の隅で体育座りしている桜井に突っかかるようになった。そんな状況を見かねた担任は、体育の先生に「別室で自習させよう」と提案したようで、体育の授業中は教室で一人、自習することとなった。
桜井は、手元のレポート用紙に目を移した。レポート課題と言って、体育の先生に渡されたものだが、ものの10分で片付けてしまった。そのレポートをもう一度読み返す。
課題は『バスケットボールでの生徒たちの様子と、その感想について』だった。
もちろん、体育館でその様子を見学していないから、書きようがなかった。
おそらく、体育館での見学を想定して作ったのだろうが、教室での自習に変更された体育の先生は、作り直す気にならなかったのだろう。体育の先生は担任よりも年下で、職員室では担任に頭が上がらないらしい。風のうわさでそう聞いたが、もし本当なら、体育の先生は桜井に対し、あまり良い感情は持っていない。
正直、複雑な気分だった。こうして生徒たちの僻みから離れ、一人きりの教室で自習ができるのはありがたかった。だが、作り直されていないレポートを渡され、体育の先生からの桜井の印象は悪いと分かると、どうしても良い気分にはなれなかった。
レポート課題を渡されてすぐに、想像で適当にレポートを仕上げた。実際に見学していないし、書きようがなかった。文章を読み返して、我ながら酷く嘘まみれな文章だと自嘲する。こんな嘘まみれの記述だから、採点する体育の先生も内容が嘘だらけだと分かるだろう。でも、どうしようもなかった。
桜井はやることがなくなってしまい、溜息をついて、再び窓の外を見た。
外は快晴で、うららかな春の日差しが、外の広葉樹の葉を照らしている。風が少し強いのか、深い緑色の葉がゆらゆらと揺れている。桜井は席を立ち、窓を開けた。開けた瞬間、心地の良い温度の風が入ってくる。そして、どこからともなく漂う葉の匂いが鼻腔をくすぐった。
「外、出たいなあ……」
桜井はふと思い立った。
今は授業中だから、勝手に外に出てはいけないと分かっている。だが、今はレポートのせいで鬱屈とした気持ちを晴らしたかった。きっと外に出れば、暖かな日差しと風を感じ、この気持ちを晴らしてくれるに違いない。
そう思うと、外に出たい衝動に駆られ、桜井は気が付くと教室のドアを開けていた。廊下を見渡すが、当然授業中なので、誰一人いない。見られていない安心感にほっとしながら、廊下を渡り、玄関で靴を履き替えて外に出た。
玄関を出ると、一瞬にして春の空気に包まれ、桜井の気分は高揚した。
風が吹くと、一気に気分が爽やかになる。桜井は思いっきり深呼吸した。近くの花壇に咲いている沈丁花の香りがする。これがいわゆる春の匂いなんだろう。桜井は肺いっぱいに心地良い空気を吸い、春の匂いを堪能した。
太陽の陽ざしが桜井を優しく、暖かく照らす。すっかり気分が良くなった桜井は、昔、父がよく聞いていた歌を口ずさんだ。父が車の中でよくかけていた曲で、古いアイドルの歌だったことと、キャッチ―なメロディーは覚えている。ただ、誰の歌なのかは知らないし、歌の歌詞もあやふやで覚えていない。それでも何となく歌いたい気分になり、メロディーに適当な歌詞を乗せて歌っていた。途中、小鳥の囀りが聞こえ、何となく一緒に歌っている気分になった。
気が付くと、学校から少し離れた桜の並木道にたどり着いていた。
並木道にはソメイヨシノが、道に沿って規則正しい間隔で植えられている。ソメイヨシノの綺麗な薄桃色の花が、水色の空を覆いつくしている。まるで桜のトンネルのようだった。桜のトンネルを目の前にし、桜井は子供のようにはしゃいだ。桜の花が、こちらを見て微笑みかけているように見えて、桜井は勝手にうれしくなった。空に咲く桜を見上げながら、並木道を堪能するようにゆっくり歩き、近くのベンチに腰を掛けた。
春の風が、桜を揺らしている。揺れるたびに、桜の花びらがひらひらと風に舞う。まるで、美しいバレエを見ているときのような、静かな興奮と感動に胸がいっぱいになった。
しばらく眺めていると、同じ制服を着た男性が、桜を見上げているのが目に入った。すらりと背筋が伸びていて、立てば芍薬という言葉通り、立ち姿が美しく見えた。そして、桜の花たちの隙間から差しこむ陽の光が、男の黒髪を輝かせる。風が吹くと、その黒髪がさざ波のように揺れていた。
その姿にうっとり見とれていると、その目線に気が付いたのか、男がこちらを振り返った。その瞬間、桜井は息をのんだ。切れ長の瞳、小さな鼻、薄く淡い桃色の唇。遠くからでも顔立ちが整っていることが分かるほど、目を引くような容姿だった。絵画に出てきてもおかしくないような美しい男に、桜井は一瞬にして惹かれてしまった。
男が桜井に向かって歩きはじめる。
桜井は慌てて目線を逸らした。じろじろ見られて、きっと彼は自分を変な人として訝しんでいるに違いない。そう思って、桜井は一人気まずくなっていた。
男は桜井の前に立った。そして、小さな口を開いた。
「俺に何か用ですか?」
オルガンのような透き通った声に、桜井ははっとして男を見た。男の瞳は黒曜石のように輝き、それを縁取る長いまつげが影を落としている。こんなに目が綺麗だと思った人は初めてだ。どうしたって引き込まれる。桜井は返答するのも忘れて、ただ男の瞳を覗き込んでいた。
すると、男は桜井の隣に座った。
桜井ははっとした。とにかく、男に謝らなければ。ごめんなさいの一言も言わず、ただ彼の顔を覗き込んでしまって、男は不審がっているに違いない。
「ごめんなさい。つい見惚れて……」
「見惚れた?」
「ああ、いや、その」
完全に言葉選びを間違えた。正直そう思っていたが、初対面の相手に対して見惚れたなどと言ったら、余計不審に思うだろう。それに、桜井は男だ。男から見惚れたなんて言われたら、普通は気持ち悪がる。やってしまった、と桜井は勝手に落ち込んだ。
だが、そんな桜井を気にも留めず、男はそのまま桜井の隣に座り続けた。
気持ち悪がって、普通はすぐに立ちあがるだろう。なのに、男はそのまま座り続けて、ただ風に揺られる桜をぼんやり見つめていた。
「気持ち悪くないんですか?」
「何が?」
「男から見惚れたなんて言われて……」
「別に」
男は桜から目線を外さない。桜井は安堵した。彼は、少なくとも気持ち悪いとは思っていない。言葉だけでなく、座り続けるその態度からもそれは分かった。美しく透き通る声と、静かな佇まいに、先ほど抱えていた不安や焦りが嘘のようにあっさりと消えた。
「その制服、同じ高校ですよね。何年生ですか?」
「二年生」
「同じですね。僕も同じ二年生」
桜井は一気に嬉しくなった。男と同学年という共通点を見つけられて、少しだけ心が躍った。
「名前聞いてもいい?」
「広瀬 涼介」
ひろせりょうすけ……、と桜井は頭の中で名前をなぞった。どこにでもいそうな普通の名前だが、今の桜井には、その名前の響きが特別なものだと感じた。なんだか無性に嬉しくなる。
「僕は桜井想。二年一組なんだ。広瀬は何組?」
「三組」
「そっか。組は違うけどよろしくね」
「ああ」
広瀬は桜を見つめたまま、ぶっきらぼうに答えた。もしかしたら疲れているのかもしれない。そう思って、桜井も黙って桜を見つめた。桜の花びらが風に乗って散っていく。
ひらひら、くるくる。ひらひら、くるくる。
まるでバレリーナだ。桜井は散っていく桜の花びらに愛おしさすら覚えていた。
「綺麗だよね。桜って」
広瀬は疲れているかもしれないのに、つい口に出してしまった。しまった、と思って広瀬の方を向いた。
「あ、ごめん。疲れてるよね……」
「疲れてない」
「そ、そう……?何だかぼんやりしているし」
「ただ、眺めていただけだ」
桜井は、桜を眺める広瀬の横顔をじっと見つめた。すっと通った鼻筋、白くきめ細やかな肌、シャープな輪郭。こんなに美しい男が存在しているとは、しかも同じ高校の同学年にいたとは思ってもいなかった。きっと広瀬のような男を見て、女子たちの間でも黄色い歓声が飛び交っている違いない。それを聞いていなかったから、知らなかっただけかもしれない。
桜井は体育の授業の件もあって、いつも教室では孤立気味だった。元々、性格も明るく活発というわけではなかったので、クラスには友人と呼べるような人はいない。
ただ、教室の端の席で自習し、たまに外を眺めているか、図書室に籠って勉強しているので、誰も桜井を相手にはしていない。クラスでは、ほとんど空気のようなものだった。だから桜井は、広瀬の噂どころか、存在すら知らなかった。
「そういえば」
広瀬が口を開いた。
「授業、サボってるようだけど、時間大丈夫なのか?」
あ、と思い、慌てて左手首につけた時計を見た。現在時刻は12時45分。授業が終わるのは13時だから、そろそろ戻らなければいけない。ここから学校まで徒歩10分なので、そろそろここから立ち去らねばならなかった。
桜井はゆっくり腰を上げて立ち上がった。
「そうだね。そろそろ戻るよ。広瀬くんも戻ろう」
「いや。俺はここにいる」
「次の授業もサボるの?」
「ああ」
広瀬はそう言って立とうとせず、そのままじっと座り続けている。
「怒られるよ?」
「別に、怒られようと怒られまいと、同じことだ」
「同じこと?」
「この桜と同じだ。散ろうと、散らずとも同じこと」
どういうこと、と聞きたがったが、時間がない。急いで戻らなければ授業中に外出していたことがばれてしまう。
仕方なく、広瀬はそれじゃあ、とだけ言って、並木道を後にした。
広瀬はなるべく速足で来た道を引き返した。その間、桜井は広瀬が言った言葉の意味を考えていた。広瀬はきっと、そんなに深い意味を込めたつもりはないのだろう。だが、何故か心の中で引っかかる。
ふと、桜を見上げていた広瀬の表情を思い出した。広瀬はただ桜を見ていただけだった。そこに感嘆も、恍惚も無かった。ただ無表情で見上げていた。広瀬の容姿と声に惹かれて気が付かなかったが、桜を見つめる広瀬の表情は、まるで彫刻のように、全く動いていなかった。もしかしたら、表情が乏しい人だっただけかもしれない。
だが、桜井には、どうしてもそうは思えなかった。言葉にはできない、なにか違和感のようなものが心の中に広がっていく。蟠りとも違う、なにか霧がかった感情に支配されていた。
桜井が教室に戻ると、数人の生徒がすでに着席していた。外出したことがばれてしまったら、先生に報告されるだろう。そう思い、トイレに行っていた体を装って着席した。だが、誰も桜井を気に留めず、外出していた桜井に話かける者はいなかった。
ひとまずほっと息をつき、机に置きっぱなしのレポート課題を体育の先生に提出しに行った。体育準備室のドアをノックして入室する。先生は窓際のデスクで、パソコンのキーボードをカタカタと打っていた。
「先生」
一声かけ、課題を提出する。
先生はああ、と一言だけ言って課題を受け取ると、机の上に投げ置いた。人が時間をかけて…、といっても10分程度だったが、せっかく記入したレポートを乱雑に扱われたことには、少々腹が立つった。だが、今はそれよりも、外出したことがばれていないか心配だった。
だが、先生はただパソコンに向かって何かを打っているだけで、こちらのことは一切気にしていない。外出したことは知られていないだろう。桜井はそう安心して、教室に戻った。
放課後、帰りのホームルームを終え、クラスメイト達は解放感に包まれていた。
「部活行こうぜ」
「ああ。遅刻したら先輩にまた怒られる」
「帰りカラオケ寄らない?」
「あ、それ私も行きたい!」
「いいね。じゃあ3人で行こう」
「俺帰るわ」
「おう、お疲れ」
焦っている声、楽しそうな声、疲れている声。様々な声が飛び交う。その声の隙間を通るように、桜井はいそいそと図書室へ向かった。
放課後は図書館で勉強する。それが桜井のルーティンだ。
実際、家で勉強してもいいのだが、適度な雑音の中で勉強した方が集中できる。
桜井は人であふれた渡り廊下を歩き、図書館へ着くと、持っていたカバンを机に置いて、いつもの席に座った。
いつもの席は、図書館の隅、窓際の一番奥の席。正面の窓からは校門が見え、生徒たちがぞろぞろと帰る光景が広がっている。
桜井はカバンの中から、茶色の筆箱と数学の参考書、そして、マジックで自習用と書かれたノートを取り出した。
そっとカバンを床に下ろし、参考書の折り目のついたページを開く。明日は小テストが控えていて、証明問題を出すと言っていたはずだ。どんな問題が来るかは明日のお楽しみだが、対策して損はないだろう。
桜井はノートを開き、筆箱からいつも使う青いシャーペンを取り出して、参考書の問題を黙々と解いた。
「ねえ。おすすめの本はないの?」
「これ面白いよ」
「ミステリーか…。難しそう」
かちかちかち。ぺらり。
「お前、なんで本好きなの? 漫画の方が良くね?」
「漫画もいいけど、小説の方がハマるんだよ」
「よく分かんねえわ」
ぺらり。ぎい。
「この問題分からないんだけどさ…」
「どこ?」
「ここ。どうしても答えと会わないんだよ」
ぺらり。じぃっ……。
ページをめくる音、椅子を引く音、チャックを引く音、図書館に響くひそひそ声。全てが耳から耳へ流れてくる。その音と感覚に浸りながら、桜井は黙々と、淡々と問題を解き進めた。
桜井は、この時間が何よりも好きだった。適度な雑音があった方が集中できる、というのもそうなのだが、桜井にとっては些細な理由にすぎない。もっと大きな理由は、孤独を感じさせないからだ。
桜井の家は母親と二人暮らしで、母親は基本的に深夜まで仕事をしている。家に帰っても誰もいない。そこにあるのは、時計の秒針の音と、自身から発せられる音だけ。その静寂さが桜井にとっては嫌いだ。静寂さが、自身の心の底にある寂しさを思い起こさせるから。だから、桜井は家に帰らず、図書館で放課後を過ごしている。
雑音の心地よさ、自分が確かに一人ではないと実感させる安心感を、桜井は静かに味わっていた。
ふと、左隣の椅子の引く音がして、桜井はちらりと隣を見た。
その隣にやってきたのは、広瀬だった。広瀬だと分かった瞬間、桜井は問題を解き続ける右手を反射的に止めてしまった。
広瀬は桜井に気が付いていないのか、そのまま椅子に座った。広瀬はカバンの中から薄い文庫本を取り出すと、本のページを開き、挟まっていた栞を取り出して、机にそっと置いた。
桜井は広瀬から目を逸らせずにいた。
本を持つ両手は、日焼けを知らない白くしなやかな手。まるで、繊細なピアニストのような長く細い指が、本にそっと寄り添っている。
しばらくして、広瀬は紙の端を右手の親指と人差し指でつまみ、静かに次のページをめくる。
その所作は実に優しいもので、傍から見ても、本を壊れ物のように大切に扱っているように映った。その広瀬の一つ一つの仕草に、どうしても目が離せない。その姿が、非現実的な光景のように思えて、まるで、古い絵画を眺めるときの引き込まれる感覚になる。
桜井がその感覚に浸っていると、広瀬は人差し指を本に挟めて閉じ、端正な顔を桜井に向けた。
「何か用か?」
桜井ははっとした。一度ならず、二度も広瀬のことをじっと見つめて、怪しい奴だと間違いなく思われている。とにかく弁明しなければならない。桜井は慌てふためいた。
「ご、ごめん。何でもないんだ。ごめん」
「そう。ならいいけど」
広瀬は再び本を開き、目線を本に移した。
結局口から出たのは、謝罪の言葉一つだけだった。桜井は何となく気まずさを感じながら、ノートに書いた解きかけの回答に目線を移した。
そのまま会話もないまま、時間だけが過ぎていく。桜井は何か話そうと、ふと広瀬が読んでいる本の表紙を見た。
表紙には『異邦人』と大きく書かれている。聞いたことのない小説だった。桜井はこれだ、と思い、思い切って顔を広瀬に向けた。
「あのさ、この本、どんな本なの?」
「……くだらない本だよ」
「くだらない?」
「何回も読み返してはいるけど、くだらないと思う」
「じゃあ、どうして読み返しているの?」
桜井がそう言うと、広瀬の顔がこわばった。そしてそのまま、広瀬の一切の動作が固まった。先ほどまで感じていた雰囲気とは違い、無機質な何かを、桜井は直感的に感じた。それは、広瀬が桜を見上げていた時のものと同じだった。
「どうして、だろうね」
広瀬は重そうに口を開いた。
「好きだから、じゃないの?」
「違う。好きでも嫌いでもない」
「それでも、読み返すってことは、面白いからじゃないの?」
「面白いとも違う。くだらないと思う」
「なら、何となく?」
「何となく、とも違う。理由があろうとなかろうと、『同じこと』だと思う」
桜井は、広瀬の言葉に、何となく引っかかりを覚えた。広瀬は、桜を見ていた時もそう言っていた。桜が散ろうと散らずとも『同じこと』。
『同じこと』だったとして、どうして桜を見上げていたのだろう。どうして本を読み返すのだろう。何か理由があってそうしているのではないのか。何となく、でも十分な理由だと思う。だが、それすらも広瀬は否定した。なら、一体なぜ、彼はそうしているのだろう。
桜井は、右手を顎に当てて考えを巡らせた。
すると、広瀬は机の上に置いた栞をページに挟みながら、桜井を見た。
「理由なんて、大した意味はない。面白いとは思ってないし、本が好きとか、何となく気が向いたとか、そういう感情は全くない。ただ読んでいるだけ」
「じゃあ、あの時、桜を見ていたのはどうして? 綺麗だからとかじゃないの?」
「確かに綺麗だとは思う。でもそれだけ。ただ見ていただけだ」
「広瀬くんは、桜は好きなの?」
「好きではない」
「なら、嫌いなの?」
「嫌いでもない。どちらでも同じことだ」
桜井がますます分からなくなって困惑していると、広瀬は、本を閉じてカバンの中にしまい、立ち上がった。
「そうしたいから、とか、何となく、とかそういうことじゃない。ただ見ていた。それだけのこと」
そう言って、広瀬はその場から立ち去った。桜井はただ、その後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
広瀬の考えていることが、桜井にはどうしても分からなかった。考えれば考えるほど、底なし沼にはまるような感覚がして、桜井は頭を悩ませていた。
桜井は頬をつき、解きかけの問題に手を付けようとしたが、全く手が動かなかった。
同じ空間に存在していたとは思えないほど、美しい容姿を持つ男。
だが、その男、広瀬涼介の人間像が全く見えてこない。まるで解説のない絵画の展示のようだ。美しい絵画を目の前にしたときに、この絵画に描かれている人物の思考を、解説や知識無しで紐解く感覚に似ている。
桜井は頭を悩ませながらも、広瀬という人間がどういう人間なのか、探ることに少しの楽しみを覚え始めていた。
3
あなたにおすすめの小説
僕のために、忘れていて
ことわ子
BL
男子高校生のリュージは事故に遭い、最近の記憶を無くしてしまった。しかし、無くしたのは最近の記憶で家族や友人のことは覚えており、別段困ることは無いと思っていた。ある一点、全く記憶にない人物、黒咲アキが自分の恋人だと訪ねてくるまでは────
バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?
cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき)
ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。
「そうだ、バイトをしよう!」
一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。
教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった!
なんで元カレがここにいるんだよ!
俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。
「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」
「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」
なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ!
もう一度期待したら、また傷つく?
あの時、俺たちが別れた本当の理由は──?
「そろそろ我慢の限界かも」
かわいい美形の後輩が、俺にだけメロい
日向汐
BL
過保護なかわいい系美形の後輩。
たまに見せる甘い言動が受けの心を揺する♡
そんなお話。
【攻め】
雨宮千冬(あめみや・ちふゆ)
大学1年。法学部。
淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。
甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。
【受け】
睦月伊織(むつき・いおり)
大学2年。工学部。
黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。
学校一のイケメンとひとつ屋根の下
おもちDX
BL
高校二年生の瑞は、母親の再婚で連れ子の同級生と家族になるらしい。顔合わせの時、そこにいたのはボソボソと喋る陰気な男の子。しかしよくよく名前を聞いてみれば、学校一のイケメンと名高い逢坂だった!
学校との激しいギャップに驚きつつも距離を縮めようとする瑞だが、逢坂からの印象は最悪なようで……?
キラキライケメンなのに家ではジメジメ!?なギャップ男子 × 地味グループ所属の能天気な男の子
立場の全く違う二人が家族となり、やがて特別な感情が芽生えるラブストーリー。
全年齢
ずっと好きだった幼馴染の結婚式に出席する話
子犬一 はぁて
BL
幼馴染の君は、7歳のとき
「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。
そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。
背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。
結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。
「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」
誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。
叶わない恋だってわかってる。
それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。
君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。
あなたに捧ぐ愛の花
とうこ
BL
余命宣告を受けた青年はある日、風変わりな花屋に迷い込む。
そこにあったのは「心残りの種」から芽吹き咲いたという見たこともない花々。店主は言う。
「心残りの種を育てて下さい」
遺していく恋人への、彼の最後の希いとは。
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
---
いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる