桜の花びらは、いつ散ってくれるのだろうか。

北国

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1. 出会い

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「ふう……」

 溜息をついて、桜井さくらい そうは窓の外を見つめていた。
 今は体育の授業中だが、桜井は体育の授業に出ることができない。というのも、桜井は幼少の頃から狭心症で、運動後はどうしても発作が出てしまうからだ。両親や体育の先生、それから担任とは相談し、学校に診断書を提出し、体育の授業は毎回見学としている。
 ただ、本来であれば、授業中は体育館で授業を見学する予定だったのだが、毎回見学している桜井をやっかんで、生徒たちが体育の先生に抗議しはじめた。体育の先生は相手にしていなかったが、生徒たちがしびれを切らし、体育館の隅で体育座りしている桜井に突っかかるようになった。そんな状況を見かねた担任は、体育の先生に「別室で自習させよう」と提案したようで、体育の授業中は教室で一人、自習することとなった。
 桜井は、手元のレポート用紙に目を移した。レポート課題と言って、体育の先生に渡されたものだが、ものの10分で片付けてしまった。そのレポートをもう一度読み返す。
 課題は『バスケットボールでの生徒たちの様子と、その感想について』だった。
 もちろん、体育館でその様子を見学していないから、書きようがなかった。
 おそらく、体育館での見学を想定して作ったのだろうが、教室での自習に変更された体育の先生は、作り直す気にならなかったのだろう。体育の先生は担任よりも年下で、職員室では担任に頭が上がらないらしい。風のうわさでそう聞いたが、もし本当なら、体育の先生は桜井に対し、あまり良い感情は持っていない。
 正直、複雑な気分だった。こうして生徒たちの僻みから離れ、一人きりの教室で自習ができるのはありがたかった。だが、作り直されていないレポートを渡され、体育の先生からの桜井の印象は悪いと分かると、どうしても良い気分にはなれなかった。
 レポート課題を渡されてすぐに、想像で適当にレポートを仕上げた。実際に見学していないし、書きようがなかった。文章を読み返して、我ながら酷く嘘まみれな文章だと自嘲する。こんな嘘まみれの記述だから、採点する体育の先生も内容が嘘だらけだと分かるだろう。でも、どうしようもなかった。
 桜井はやることがなくなってしまい、溜息をついて、再び窓の外を見た。
 外は快晴で、うららかな春の日差しが、外の広葉樹の葉を照らしている。風が少し強いのか、深い緑色の葉がゆらゆらと揺れている。桜井は席を立ち、窓を開けた。開けた瞬間、心地の良い温度の風が入ってくる。そして、どこからともなく漂う葉の匂いが鼻腔をくすぐった。

「外、出たいなあ……」

 桜井はふと思い立った。
 今は授業中だから、勝手に外に出てはいけないと分かっている。だが、今はレポートのせいで鬱屈とした気持ちを晴らしたかった。きっと外に出れば、暖かな日差しと風を感じ、この気持ちを晴らしてくれるに違いない。
 そう思うと、外に出たい衝動に駆られ、桜井は気が付くと教室のドアを開けていた。廊下を見渡すが、当然授業中なので、誰一人いない。見られていない安心感にほっとしながら、廊下を渡り、玄関で靴を履き替えて外に出た。
 玄関を出ると、一瞬にして春の空気に包まれ、桜井の気分は高揚した。
 風が吹くと、一気に気分が爽やかになる。桜井は思いっきり深呼吸した。近くの花壇に咲いている沈丁花の香りがする。これがいわゆる春の匂いなんだろう。桜井は肺いっぱいに心地良い空気を吸い、春の匂いを堪能した。
 太陽の陽ざしが桜井を優しく、暖かく照らす。すっかり気分が良くなった桜井は、昔、父がよく聞いていた歌を口ずさんだ。父が車の中でよくかけていた曲で、古いアイドルの歌だったことと、キャッチ―なメロディーは覚えている。ただ、誰の歌なのかは知らないし、歌の歌詞もあやふやで覚えていない。それでも何となく歌いたい気分になり、メロディーに適当な歌詞を乗せて歌っていた。途中、小鳥の囀りが聞こえ、何となく一緒に歌っている気分になった。

 気が付くと、学校から少し離れた桜の並木道にたどり着いていた。
 並木道にはソメイヨシノが、道に沿って規則正しい間隔で植えられている。ソメイヨシノの綺麗な薄桃色の花が、水色の空を覆いつくしている。まるで桜のトンネルのようだった。桜のトンネルを目の前にし、桜井は子供のようにはしゃいだ。桜の花が、こちらを見て微笑みかけているように見えて、桜井は勝手にうれしくなった。空に咲く桜を見上げながら、並木道を堪能するようにゆっくり歩き、近くのベンチに腰を掛けた。
 春の風が、桜を揺らしている。揺れるたびに、桜の花びらがひらひらと風に舞う。まるで、美しいバレエを見ているときのような、静かな興奮と感動に胸がいっぱいになった。
 しばらく眺めていると、同じ制服を着た男性が、桜を見上げているのが目に入った。すらりと背筋が伸びていて、立てば芍薬という言葉通り、立ち姿が美しく見えた。そして、桜の花たちの隙間から差しこむ陽の光が、男の黒髪を輝かせる。風が吹くと、その黒髪がさざ波のように揺れていた。
 その姿にうっとり見とれていると、その目線に気が付いたのか、男がこちらを振り返った。その瞬間、桜井は息をのんだ。切れ長の瞳、小さな鼻、薄く淡い桃色の唇。遠くからでも顔立ちが整っていることが分かるほど、目を引くような容姿だった。絵画に出てきてもおかしくないような美しい男に、桜井は一瞬にして惹かれてしまった。
 男が桜井に向かって歩きはじめる。
 桜井は慌てて目線を逸らした。じろじろ見られて、きっと彼は自分を変な人として訝しんでいるに違いない。そう思って、桜井は一人気まずくなっていた。
 男は桜井の前に立った。そして、小さな口を開いた。

「俺に何か用ですか?」

 オルガンのような透き通った声に、桜井ははっとして男を見た。男の瞳は黒曜石のように輝き、それを縁取る長いまつげが影を落としている。こんなに目が綺麗だと思った人は初めてだ。どうしたって引き込まれる。桜井は返答するのも忘れて、ただ男の瞳を覗き込んでいた。
 すると、男は桜井の隣に座った。
 桜井ははっとした。とにかく、男に謝らなければ。ごめんなさいの一言も言わず、ただ彼の顔を覗き込んでしまって、男は不審がっているに違いない。

「ごめんなさい。つい見惚れて……」
「見惚れた?」
「ああ、いや、その」

 完全に言葉選びを間違えた。正直そう思っていたが、初対面の相手に対して見惚れたなどと言ったら、余計不審に思うだろう。それに、桜井は男だ。男から見惚れたなんて言われたら、普通は気持ち悪がる。やってしまった、と桜井は勝手に落ち込んだ。
 だが、そんな桜井を気にも留めず、男はそのまま桜井の隣に座り続けた。
 気持ち悪がって、普通はすぐに立ちあがるだろう。なのに、男はそのまま座り続けて、ただ風に揺られる桜をぼんやり見つめていた。

「気持ち悪くないんですか?」
「何が?」
「男から見惚れたなんて言われて……」
「別に」

 男は桜から目線を外さない。桜井は安堵した。彼は、少なくとも気持ち悪いとは思っていない。言葉だけでなく、座り続けるその態度からもそれは分かった。美しく透き通る声と、静かな佇まいに、先ほど抱えていた不安や焦りが嘘のようにあっさりと消えた。

「その制服、同じ高校ですよね。何年生ですか?」
「二年生」
「同じですね。僕も同じ二年生」

 桜井は一気に嬉しくなった。男と同学年という共通点を見つけられて、少しだけ心が躍った。

「名前聞いてもいい?」
広瀬ひろせ 涼介りょうすけ

 ひろせりょうすけ……、と桜井は頭の中で名前をなぞった。どこにでもいそうな普通の名前だが、今の桜井には、その名前の響きが特別なものだと感じた。なんだか無性に嬉しくなる。

「僕は桜井想。二年一組なんだ。広瀬は何組?」
「三組」
「そっか。組は違うけどよろしくね」
「ああ」

 広瀬は桜を見つめたまま、ぶっきらぼうに答えた。もしかしたら疲れているのかもしれない。そう思って、桜井も黙って桜を見つめた。桜の花びらが風に乗って散っていく。
 ひらひら、くるくる。ひらひら、くるくる。
 まるでバレリーナだ。桜井は散っていく桜の花びらに愛おしさすら覚えていた。

「綺麗だよね。桜って」

 広瀬は疲れているかもしれないのに、つい口に出してしまった。しまった、と思って広瀬の方を向いた。

「あ、ごめん。疲れてるよね……」
「疲れてない」
「そ、そう……?何だかぼんやりしているし」
「ただ、眺めていただけだ」

 桜井は、桜を眺める広瀬の横顔をじっと見つめた。すっと通った鼻筋、白くきめ細やかな肌、シャープな輪郭。こんなに美しい男が存在しているとは、しかも同じ高校の同学年にいたとは思ってもいなかった。きっと広瀬のような男を見て、女子たちの間でも黄色い歓声が飛び交っている違いない。それを聞いていなかったから、知らなかっただけかもしれない。
 桜井は体育の授業の件もあって、いつも教室では孤立気味だった。元々、性格も明るく活発というわけではなかったので、クラスには友人と呼べるような人はいない。
 ただ、教室の端の席で自習し、たまに外を眺めているか、図書室に籠って勉強しているので、誰も桜井を相手にはしていない。クラスでは、ほとんど空気のようなものだった。だから桜井は、広瀬の噂どころか、存在すら知らなかった。

「そういえば」

 広瀬が口を開いた。

「授業、サボってるようだけど、時間大丈夫なのか?」

 あ、と思い、慌てて左手首につけた時計を見た。現在時刻は12時45分。授業が終わるのは13時だから、そろそろ戻らなければいけない。ここから学校まで徒歩10分なので、そろそろここから立ち去らねばならなかった。
 桜井はゆっくり腰を上げて立ち上がった。

「そうだね。そろそろ戻るよ。広瀬くんも戻ろう」
「いや。俺はここにいる」
「次の授業もサボるの?」
「ああ」

 広瀬はそう言って立とうとせず、そのままじっと座り続けている。

「怒られるよ?」
「別に、怒られようと怒られまいと、同じことだ」
「同じこと?」
「この桜と同じだ。散ろうと、散らずとも同じこと」

 どういうこと、と聞きたがったが、時間がない。急いで戻らなければ授業中に外出していたことがばれてしまう。
 仕方なく、広瀬はそれじゃあ、とだけ言って、並木道を後にした。
 広瀬はなるべく速足で来た道を引き返した。その間、桜井は広瀬が言った言葉の意味を考えていた。広瀬はきっと、そんなに深い意味を込めたつもりはないのだろう。だが、何故か心の中で引っかかる。
 ふと、桜を見上げていた広瀬の表情を思い出した。広瀬はただ桜を見ていただけだった。そこに感嘆も、恍惚も無かった。ただ無表情で見上げていた。広瀬の容姿と声に惹かれて気が付かなかったが、桜を見つめる広瀬の表情は、まるで彫刻のように、全く動いていなかった。もしかしたら、表情が乏しい人だっただけかもしれない。
 だが、桜井には、どうしてもそうは思えなかった。言葉にはできない、なにか違和感のようなものが心の中に広がっていく。わだかまりとも違う、なにか霧がかった感情に支配されていた。

 桜井が教室に戻ると、数人の生徒がすでに着席していた。外出したことがばれてしまったら、先生に報告されるだろう。そう思い、トイレに行っていた体を装って着席した。だが、誰も桜井を気に留めず、外出していた桜井に話かける者はいなかった。
 ひとまずほっと息をつき、机に置きっぱなしのレポート課題を体育の先生に提出しに行った。体育準備室のドアをノックして入室する。先生は窓際のデスクで、パソコンのキーボードをカタカタと打っていた。

「先生」

 一声かけ、課題を提出する。
 先生はああ、と一言だけ言って課題を受け取ると、机の上に投げ置いた。人が時間をかけて…、といっても10分程度だったが、せっかく記入したレポートを乱雑に扱われたことには、少々腹が立つった。だが、今はそれよりも、外出したことがばれていないか心配だった。
 だが、先生はただパソコンに向かって何かを打っているだけで、こちらのことは一切気にしていない。外出したことは知られていないだろう。桜井はそう安心して、教室に戻った。

 放課後、帰りのホームルームを終え、クラスメイト達は解放感に包まれていた。

「部活行こうぜ」
「ああ。遅刻したら先輩にまた怒られる」
「帰りカラオケ寄らない?」
「あ、それ私も行きたい!」
「いいね。じゃあ3人で行こう」
「俺帰るわ」
「おう、お疲れ」

 焦っている声、楽しそうな声、疲れている声。様々な声が飛び交う。その声の隙間を通るように、桜井はいそいそと図書室へ向かった。
 放課後は図書館で勉強する。それが桜井のルーティンだ。
 実際、家で勉強してもいいのだが、適度な雑音の中で勉強した方が集中できる。
 桜井は人であふれた渡り廊下を歩き、図書館へ着くと、持っていたカバンを机に置いて、いつもの席に座った。
 いつもの席は、図書館の隅、窓際の一番奥の席。正面の窓からは校門が見え、生徒たちがぞろぞろと帰る光景が広がっている。
 桜井はカバンの中から、茶色の筆箱と数学の参考書、そして、マジックで自習用と書かれたノートを取り出した。
 そっとカバンを床に下ろし、参考書の折り目のついたページを開く。明日は小テストが控えていて、証明問題を出すと言っていたはずだ。どんな問題が来るかは明日のお楽しみだが、対策して損はないだろう。
 桜井はノートを開き、筆箱からいつも使う青いシャーペンを取り出して、参考書の問題を黙々と解いた。

「ねえ。おすすめの本はないの?」
「これ面白いよ」
「ミステリーか…。難しそう」

 かちかちかち。ぺらり。

「お前、なんで本好きなの? 漫画の方が良くね?」
「漫画もいいけど、小説の方がハマるんだよ」
「よく分かんねえわ」

 ぺらり。ぎい。

「この問題分からないんだけどさ…」
「どこ?」
「ここ。どうしても答えと会わないんだよ」

 ぺらり。じぃっ……。

 ページをめくる音、椅子を引く音、チャックを引く音、図書館に響くひそひそ声。全てが耳から耳へ流れてくる。その音と感覚に浸りながら、桜井は黙々と、淡々と問題を解き進めた。
 桜井は、この時間が何よりも好きだった。適度な雑音があった方が集中できる、というのもそうなのだが、桜井にとっては些細な理由にすぎない。もっと大きな理由は、孤独を感じさせないからだ。
 桜井の家は母親と二人暮らしで、母親は基本的に深夜まで仕事をしている。家に帰っても誰もいない。そこにあるのは、時計の秒針の音と、自身から発せられる音だけ。その静寂さが桜井にとっては嫌いだ。静寂さが、自身の心の底にある寂しさを思い起こさせるから。だから、桜井は家に帰らず、図書館で放課後を過ごしている。
 雑音の心地よさ、自分が確かに一人ではないと実感させる安心感を、桜井は静かに味わっていた。
 ふと、左隣の椅子の引く音がして、桜井はちらりと隣を見た。
 その隣にやってきたのは、広瀬だった。広瀬だと分かった瞬間、桜井は問題を解き続ける右手を反射的に止めてしまった。
 広瀬は桜井に気が付いていないのか、そのまま椅子に座った。広瀬はカバンの中から薄い文庫本を取り出すと、本のページを開き、挟まっていた栞を取り出して、机にそっと置いた。
 桜井は広瀬から目を逸らせずにいた。
 本を持つ両手は、日焼けを知らない白くしなやかな手。まるで、繊細なピアニストのような長く細い指が、本にそっと寄り添っている。
 しばらくして、広瀬は紙の端を右手の親指と人差し指でつまみ、静かに次のページをめくる。
 その所作は実に優しいもので、傍から見ても、本を壊れ物のように大切に扱っているように映った。その広瀬の一つ一つの仕草に、どうしても目が離せない。その姿が、非現実的な光景のように思えて、まるで、古い絵画を眺めるときの引き込まれる感覚になる。
 桜井がその感覚に浸っていると、広瀬は人差し指を本に挟めて閉じ、端正な顔を桜井に向けた。

「何か用か?」

 桜井ははっとした。一度ならず、二度も広瀬のことをじっと見つめて、怪しい奴だと間違いなく思われている。とにかく弁明しなければならない。桜井は慌てふためいた。

「ご、ごめん。何でもないんだ。ごめん」
「そう。ならいいけど」

 広瀬は再び本を開き、目線を本に移した。
 結局口から出たのは、謝罪の言葉一つだけだった。桜井は何となく気まずさを感じながら、ノートに書いた解きかけの回答に目線を移した。
 そのまま会話もないまま、時間だけが過ぎていく。桜井は何か話そうと、ふと広瀬が読んでいる本の表紙を見た。
 表紙には『異邦人』と大きく書かれている。聞いたことのない小説だった。桜井はこれだ、と思い、思い切って顔を広瀬に向けた。

「あのさ、この本、どんな本なの?」
「……くだらない本だよ」
「くだらない?」
「何回も読み返してはいるけど、くだらないと思う」
「じゃあ、どうして読み返しているの?」

 桜井がそう言うと、広瀬の顔がこわばった。そしてそのまま、広瀬の一切の動作が固まった。先ほどまで感じていた雰囲気とは違い、無機質な何かを、桜井は直感的に感じた。それは、広瀬が桜を見上げていた時のものと同じだった。

「どうして、だろうね」

 広瀬は重そうに口を開いた。

「好きだから、じゃないの?」
「違う。好きでも嫌いでもない」
「それでも、読み返すってことは、面白いからじゃないの?」
「面白いとも違う。くだらないと思う」
「なら、何となく?」
「何となく、とも違う。理由があろうとなかろうと、『同じこと』だと思う」

 桜井は、広瀬の言葉に、何となく引っかかりを覚えた。広瀬は、桜を見ていた時もそう言っていた。桜が散ろうと散らずとも『同じこと』。
『同じこと』だったとして、どうして桜を見上げていたのだろう。どうして本を読み返すのだろう。何か理由があってそうしているのではないのか。何となく、でも十分な理由だと思う。だが、それすらも広瀬は否定した。なら、一体なぜ、彼はそうしているのだろう。
 桜井は、右手を顎に当てて考えを巡らせた。
 すると、広瀬は机の上に置いた栞をページに挟みながら、桜井を見た。

「理由なんて、大した意味はない。面白いとは思ってないし、本が好きとか、何となく気が向いたとか、そういう感情は全くない。ただ読んでいるだけ」
「じゃあ、あの時、桜を見ていたのはどうして? 綺麗だからとかじゃないの?」
「確かに綺麗だとは思う。でもそれだけ。ただ見ていただけだ」
「広瀬くんは、桜は好きなの?」
「好きではない」
「なら、嫌いなの?」
「嫌いでもない。どちらでも同じことだ」

 桜井がますます分からなくなって困惑していると、広瀬は、本を閉じてカバンの中にしまい、立ち上がった。

「そうしたいから、とか、何となく、とかそういうことじゃない。ただ見ていた。それだけのこと」

 そう言って、広瀬はその場から立ち去った。桜井はただ、その後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
 広瀬の考えていることが、桜井にはどうしても分からなかった。考えれば考えるほど、底なし沼にはまるような感覚がして、桜井は頭を悩ませていた。
 桜井は頬をつき、解きかけの問題に手を付けようとしたが、全く手が動かなかった。
 同じ空間に存在していたとは思えないほど、美しい容姿を持つ男。
 だが、その男、広瀬涼介の人間像が全く見えてこない。まるで解説のない絵画の展示のようだ。美しい絵画を目の前にしたときに、この絵画に描かれている人物の思考を、解説や知識無しで紐解く感覚に似ている。
 桜井は頭を悩ませながらも、広瀬という人間がどういう人間なのか、探ることに少しの楽しみを覚え始めていた。
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