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2. 友情
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桜井はその後2時間ほど勉強してから、家路についた。
家の鍵を開け、扉を開く。
「ただいま」
そう言ったが、返事は帰ってこない。
桜井は母親と二人暮らしで、母親は夜遅くまで水商売の仕事をしている。母親が帰ってくるのは早くても朝方で、桜井が学校に行ってから帰ってくることのほうが多い。だから基本的に、家に帰れば誰もいない。
桜井は靴を脱ぎ、自分の部屋に荷物を置いた。そして、桜井は壁にかけている時計を見た。時計の秒針が静かに刻む音だけが、虚しく響き渡る。
桜井にとって、この瞬間が何よりも嫌いだった。一人きりの家には、この音しかない。その音こそが、自分が今一人であることを認識させ、悲しい気持ちにさせる。
はあ、と溜息をつき、ネクタイを解いて制服を脱いだ。制服をハンガーにかけ、適当なパーカーとジャージのズボンを着る。
そして、桜井は台所へと向かった。冷蔵庫を開け、昨日自分で作った野菜炒めと、ラップに包んで冷凍した米を電子レンジに入れた。
電子レンジの無機質な機械音が、静かな部屋を支配する。
そんな中で桜井は、ふと母親のことを考えた。
幼い頃、休日にゆっくりしていた母親に、仕事について尋ねた時のことだ。
その時の母親は、長くウェーブのかかった自慢の金髪を、くるくると指で遊びながら笑っていた。
「私はね、男の人に夢を与えているの」
「夢? それって?」
「男の人って、良くも悪くも馬鹿なのよ。特に女の人が絡めばね。見た目がいい女なら特にそう。色目を使えば、一瞬で男は恋に落ちる。そういう夢を与えるだけでいい。しかもそれだけで、お金がたくさん手に入る。だから私にとっては天職なのよ」
「じゃあ、僕のお父さんにも、夢を与えていたの?」
「ええ、そうよ。あの人、しつこいのよね。離婚する前とか『別れないでくれ』って執着してさ。そういう縛られるのって嫌いなのよ。確かに男の人とデートするときは楽しいけど、もう少しお気楽な気持ちで接してくれればいいのに。あの人、事あるごとに私に、『自分を本当に愛しているのか』って聞いてくるからさ。執着心の化け物相手に、いちいち構ってられないのよ」
幼いころの桜井は、それを聞いてひどく悲しい気持ちになった。自分に対して優しかった父親を侮辱したことも悲しかったが、それ以上に、本当にこの人は自分を愛しているのだろうか、そう思ってしまったことが何よりも悲しかった。
そして、それからというもの、母親の帰りは朝方になることが多くなり、家で母の顔を全く見ない日が増えた。学校から帰ってきたら、お金がテーブルの上に置いてあるだけ。休日は全く帰ってこない。だから、母親と夜ご飯も朝ごはんも一緒に食べた記憶は殆どない。
そんな母親は、今何をしているのだろう。どこで、誰と遊んでいるのだろう。
幼い頃は、ただ仕事が忙しいから帰りが遅くなるものだと思っていた。だが、成長し、どうもそうではないことを察した。恐らく、母親は男をとっかえひっかえして、夜遊びを楽しんでいるのだろう。きっと、息子の事を何一つ思ってはいない。そう考えるのに時間はかからなかった。
重たいため息をついていると、チン、と電子レンジの音が鳴った。桜井は電子レンジから米を取り出す。茶碗に移し、野菜炒めのラップを剥がして、それらをテーブルの上に載せた。
テーブルの端には、母親が置いていった千円札が2枚重なっていた。だが、桜井はそれをそのままにし、箸箱から箸を取り出して、野菜炒めを食べ始めた。野菜炒めは少々味が薄かったが、特に気にせず食べ続けた。
そのまま夜ご飯を食べ終え、食器を洗い、風呂も済ませた桜井は、自室の本棚から一冊の画集を取った。
昔、父親が誕生日プレゼントに、と買ってくれた画集だった。
父親は優しい人だった。よく本を読む人で物静かだったが、幼かった桜井には優しく接してくれた。もう昔の話なので、今では父親の顔や声も思い出せないが、愛してくれたことは確かに覚えている。
桜井は画集のとあるページを開いた。
そのページには、クロード・モネの『散歩、日傘をさす女』が載っていた。
日が傾き始めた青空。鮮やかな緑が茂る丘で、日傘を持ち、白い洋服を着た女性が、優しそうな眼差しでこちらを見ている。少し離れた場所には、麦わら帽子をかぶった少年が立っていて、女性と同様、こちらをじっと見ている。風が少し吹いているのか、女性のスカーフと裾の長いスカートがたなびいている。
桜井はそのページに載っていた解説文をそっとなぞった。どうやら日傘をさす女性はカミーユという、モネの恋人で、そのカミーユのそばの子供は、モネとの子供らしい。
桜井は絵をじっと眺めていた。若緑の草に伸びる女性の影や、雲に映る柔らかな光の具合から、午後3時くらいだろうか。昼ご飯を一緒に食べて、腹ごなしに散歩しているのだろう。カミーユとその子供の目線から、その目線の先にモネがいて、仲良く三人で時を過ごしている。あるいは、目線の先に小川があって、ゆったりとした水の流れを見ながら、安らぎを得ているのだろうか。
桜井は絵画を見て、自分でストーリーを作るのが好きだった。
絵画に描かれた人物がどんなことを想って、どんなことを感じて、どんな行動をして、それからどうするのか。そのことを考えるのが、桜井にとって図書館で過ごすことと同じくらい好きだった。桜井自身、絵画にはあまり詳しくはないし、この絵を描いたモネのことはあまり詳しくはない。
ただ、絵に描かれている人物の物語や背景、想いを汲み取って、妄想することが、桜井にとっては、家での孤独感を紛らわせることのできる唯一の方法だった。
その時ふと、広瀬のことが桜井の脳裏によぎった。
広瀬も、この絵画のように綺麗だ。自然豊かな緑の地に立つカミーユのように、ほのかに淡い美しさを感じさせる。はて、広瀬は今、何をしているのだろう。あの『異邦人』という本の続きを読んでいるのだろうか。それとも、外に出て夜空を眺めているのだろうか。もしかしたら音楽を聴いているのかもしれない。クラシックとか好きそうだ。いや、もしかしたらジャズかもしれない。
『そうしたいから、とか、何となく、とかそういうことじゃない。ただ見ていた。それだけのこと』
桜井の心に、広瀬の言葉が浮かぶ。
あの後、図書室で言葉の意味を考えていたが、何も思いつかなかった。広瀬に言わせてみれば『それだけのこと』かもしれないが、やはり納得できない。
言葉の意味は分かるが、ならどうして本を読み返していたのだろう。どうして桜を見ていたのだろう。考えを巡らせても、結局、振出しに戻ってしまう。
この、なんとももやもやする気持ちに、拭えない違和感がありながらも、桜井は、広瀬のことを考える時間に僅かな面白さと楽しさを見出していた。
桜井の胸からは、先ほどまで渦巻いていた寂しさはとっくに消え失せていた。
次の日の放課後も、桜井の足は図書室に向かっていた。
もしかしたら、広瀬もまた図書館に来るかもしれない。そう思うと心が弾むような思いがした。
桜井は昨日のように、窓際の一番奥の席に座る。そして、カバンの中から、筆箱と英語の問題集を取り出した。筆箱からいつも使っている青いシャーペンを取り出し、問題集を開いて黙々と問題を解き進めていた。
心地よい雑音に浸りながら、時々、持っていたシャーペンを回す。
くるくる、くるくる。
まるで、昨日見た桜の花びらのよう。そう思うと、不思議とまた桜を見に行きたい、外に行きたいという気持ちが芽生え始めた。
そうして、桜井はふと窓の外を見た。
窓の外には、二人の男女が手をつなぎながら話す光景が映っていた。
その男は、並木道で出会った広瀬だった。
そして広瀬と手をつなぐ女は、楽しそうに腕をぶんぶん振りながら、広瀬の顔を覗き込んでいる。
桜井は、無意識にシャーペンを回す手を止めてしまった。全身の熱が一気に冷え、全ての時が止まったような感覚になる。
桜井の脳裏に、広瀬の姿がよぎった。
端正な顔立ち、黒曜石の瞳と、長い睫毛が作る影。絹のようなきめ細かく白い肌、風に靡く黒い髪。そして、桜散る綺麗な光景でひときわ目を引く佇まい。
そんな男になら、彼女の一人や二人ぐらいいてもおかしくはないだろう。そう分かっていても、なぜか心が痛んだ。
あの時、広瀬の姿に惹かれたのは事実だ。
だが、今味わっているのは、心に傷をつける痛みではない。心自体が、枯葉のようにぼろぼろと崩れていく痛みだ。
多分、広瀬がこの世に存在していない、まるで絵画を見るような目で見ていたからだと思う。桜を見つめる広瀬の姿に、絵画の絵のように、この世とはかけ離れた何かがあると、本能的に錯覚していた。広瀬が同じ高校に通っていて、自分と同い年であることを知っても、並木道や図書室で一緒に過ごしても、そう思った。だが、広瀬はただの一男子高生でしかないのだ。その事実がこれだ。手をつなぐカップル。傍から見たらただの青春の一ページに過ぎない。
だが、桜井にとっては、自分の中の想像が崩れた瞬間だった。
持っていたシャーペンがノートの上に落ちた。
その音で桜井ははっとした。シャーペンを持ち直し、窓の外を見ると、もう誰もいなかった。
「はは……」
桜井は、一人静かに乾いた笑いを浮かべた。さっきまで聞こえていた雑音は、桜井の耳には入っては来なかった。もう勉強どころではなくなってしまった。桜井はシャーペンを静かに置くと、そのまま席を立つ。そして席の反対側にある本棚へと向かい、一冊の適当な画集を取った。
桜井はそのまま席に戻り、画集を開く。そこに描かれていた絵は、ジャック=ルイ・ダヴィッドの『アンティオコスとストラトニケ』だった。
中世ヨーロッパの王子、アンティオコスの私室には、病に伏せるアンティオコスと、それを見舞う恋人のストラトニケの姿が描かれている。また、アンティオコスのそばには、ストラトニケを指差した医師と冠をかぶった王の姿。ストラトニケのそばには遣いの女性がいて、その様子を4人の男女が見ている。
解説にはそれ以上の事は書いていなかった。この後、アンティオコスには病から立ち直る喜劇が待っているのか、死という悲劇が待っているのかは全く分からない。
正直、絵は何だっていい。広瀬のことでショックを受けた事実を忘れられるなら、それでよかった。
桜井は必死に、この絵のストーリーを考えた。アンティオコスには許嫁がいて、彼をたぶらかしたストラトニケを許さんと、事実を知る医師が王に知らせている。彼女は彼に悲しませまいと、慈愛に満ちた表情を浮かべる。その表情を見たアンティオコスは、彼女の懸命な優しさに心を打たれたのだろう。
思い描くストーリーを次々と飛躍させていく。そのストーリーを考えることで頭がいっぱいになった頃には、胸が痛む感情もすっかり忘れていた。
その時、誰かが桜井の肩を叩いた。
桜井が振り返ると、そこには眼鏡をかけた冴えない男が立っていた。
「読書中、すまないね。今、時間良いかな」
「は、はあ……」
正直、まだこの絵に浸っていたかったが、突然のことで断ることもできなかった。
男は桜井の隣に静かに座ると、開いていた画集のページを指差した。
「この絵、『アンティオコスとストラトニケ』だね。君、すごく目を凝らして見てたから、絵が好きなのかと思ってね」
「まあ、絵を見るのは好きです」
「この画家は、確かジャック=ルイ・ダヴィッドだったかな。好きなのかい?」
「画家のことは、あまりよく知りません。その、すみません」
「謝らなくたっていい。でも、君が絵を見ているとき、すごくいい目をしていたからね。まるで、その絵の中の世界を覗き込んでいるような目。その君の目に、自分は興味を抱いたのさ」
まるで風変わりな話し方に、桜井は、何だかすべてを見透かされたような気分になって、落ち着かなかった。
広瀬と同じ、まるで得体の知れない男。桜井の瞳には、男の姿がそう映っていた。
男はふっと笑って、人差し指を自分の顎に当てた。
「さて、本題に入ろう。君、美術部には興味あるかい?」
「美術部?」
桜井は特に部活動には入っていない。というのも単純に興味が無かったからだ。体育会系の部活には、体の事もあるので当然入れない。それ以外の文化系の部活も、桜井の興味を特段引くものはこれといってなかった。
「実は、美術部は今部員が2人しかいない。自分と後輩一人だけだ。だから今度、新入生勧誘会があるだろう? それすらも出られなくてね。人数が足りていないから、部活動として存続要件を満たしていないと、先生が言っていたよ。今の美術部は、いわば非公認の同好会のようなものなのさ。自分としては、非公認同好会で構わないのだけど。ただ、先生が部活動として認められたいから、と人数集めに躍起になっているのさ。そんな先生の姿を、放ってはおけなくてね」
「は、はあ……」
桜井があいまいな返事をすると、男は、桜井の左手を両手で包み込んだ。ぎょっとして男を見るが、男は笑みを崩さなかった。
「だから、君に美術部に入ってほしいんだ。君の絵に向ける純粋無垢な瞳がほしい。
美術部だからといって、必ずしも絵を描く必要はない。絵を描く手が無くとも、絵に対する審美眼が本物であれば、それでいい。自分はそう思うんだ。実際、自分も絵はそんなに描いていないし、絵を描いても、他人と比べたら素人同然だからね。絵の才が無くとも入る資格はあるよ。そして、その資格は君の中にある。絵を覗き込む君の瞳に、その資格を感じたよ」
男は黒い瞳を輝かせながら、桜井の目をまっすぐ見つめた。あまりの真剣な眼差しに、桜井は狼狽えた。
「といっても、いきなり入部なんて……」
「ふふ。時には、未知の世界に飛び込む勇気も必要なのさ。その経験が、未来の君への道標となるからね。もし君が入部を迷っているのなら、お試しで1か月間、仮入部してから考えるのもいいだろう。時間とは貴重なものだからね。何もしなければ始まらない。さて、どうかな?」
『未知の世界に、飛び込む勇気……』桜井は男の言葉を脳内で反芻させた。
桜井にとっては、部活は未知のものだった。
今までクラスの中では空気であったし、生徒たちが騒いでいる中で、存在を噛み締めることができればそれでいい。だから、友情や敬意、恋愛といった、名前の付く繋がりがなくても、確かに自分が存在しているという、名もなき繋がりさえあれば十分だと思っていた。
だが、部活に入れば、その繋がりに名前が付く。今まで一方的に世界を覗き、浸り、勝手に満足していた自分が、今度はその世界の住人となる。
桜井は困惑した。繋がりを欲する飢えた感情、寂しさからの逃避ができるかもしれない期待。それだけではない。このままでいいのかという疑問と、未知の世界に飛び込む恐怖。何もしないという安心感の要求。様々な感情が入り混じり、桜井は答えを出せず、黙り込んだ。
その様子を見た男は、ふむ、と声を漏らすと、包んでいた桜井の左手の人差し指を、親指でそっとなぞった。
「君は、どうやら未知の世界というものに、複雑な思いを抱いているようだ。君の心は葛藤に満ちている。
こんな言葉を知っているかな?『青春は、友情の葛藤』、太宰治の言葉さ。君が美術部に入れば、少なくとも自分と、後輩の二人分、友情が手に入るだろう。そしてその友情の中で、君が何を感じ、何を思うか。その中で葛藤が生まれるだろう。それこそが青春なのさ。
まあ、今の君は、友情とは関係なく、葛藤を感じているけれど、葛藤は何も悪いことではない。むしろ、人生に彩りを添えてくれる花さ。無味乾燥な世界よりも、色とりどりの花溢れる、青春という世界の方が、君に似合っていると思うよ」
男のロマンチックな言葉に、桜井の心は揺れ動いた。
自分の葛藤を見透かされた気がしてならないが、自分の感情を肯定してくれたことに、僅かな喜びを感じた。この人と一緒にいてもいい。『友情』という、名前の繋がりがあってもいい。そのことにすでに恐怖心は消えた。
桜井の心は決まった。
「分かりました。仮入部、します」
そう言うと、男は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう。仮入部してくれて嬉しいよ。そうだね、まずは美術室に案内しよう。ついてきてくれ。後輩の一人も後ほど紹介するよ」
男が席を立ち、桜井も荷物をまとめて、一緒に図書室を後にした。
騒がしい渡り廊下を歩き、階段を下りる。階段の窓から差し込む夕日の光に、桜井は少し眩しさを覚えて、目を細めた。
男は笑みを浮かべて、桜井の方を向いた。
「ああ、そうだ。自己紹介がまだだったね。自分は秋山 淳。三年生で、一応部長ということにはなっているけど、部活動とは言えないから、部長でもないかな。君の名前は?」
秋山は、かけていた丸いフレームの眼鏡をくいっと上げた。
「桜井想、二年生です」
そう言うと、秋山はふふっ、と静かに笑った。
「そうか、二年生か。これから君に紹介する後輩も、同じ二年生さ。明るく朗らかだから、君ともすぐに打ち解けると思うよ」
そうして階段を下りた先、薄暗い廊下を歩き、二人は美術室に到着した。
秋山が扉を開けると、そこに見覚えのある女が立っていた。
桜井は思わず目を見開いた。
先ほど、広瀬と手をつないでいた女ではないか。一人で勝手に味わったあの気まずさがぶり返し、桜井はその場から逃げ出したい気持ちになった。
「やあやあ、高山さん。遅れてしまってすまないね」
「いいですよ。これといって、特にやることはありませんし。ところで秋山先輩、この人は?」
「ああ、紹介するよ。今日から1か月間仮入部することになった、桜井想くん。君と同じ二年生だ」
秋山がそう言うと、女が桜井に近寄った。女の髪は後ろで束ねられていて、前髪も切りそろえられている。大きな丸い瞳と小さく丸い鼻、潤いのある厚い唇。そして優しい顔立ち。
女は屈託のない笑顔を桜井に向け、桜井に右手を差し出した。
「私は高山 聖奈。桜井くん、よろしくね」
「よ、よろしく……」
桜井はおずおずと手を出し、握手を交わした。高山は明るく笑っていた。
「せっかくだし、お茶しようよ。といっても、ティーポットは無いし、自動販売機のペットボトルか缶だけど」
「入れ物は何だっていいさ。折角だ、ここは自分がご馳走しよう。高山さん、何がいいかな?」
「やった!じゃあ、オレンジジュースで。あ、私が買ってきますよ。秋山先輩は何がいいですか?」
「それでは、ホットミルクティにしよう。桜井くんは何がいいかな?」
「え、えっと……。りんごジュースで」
「分かった。高山くん、ついでに茶菓子も頼もうか。千円で足りるかな?」
秋山が美術室の隅に置いたカバンから、茶色の革財布を取り出した。何年も使っているのか、遠目で見ても、財布が色あせているのが分かった。
「十分です。足りなかったら私から出しますよ。折角の新入部員のためですから、私からも出したいですし」
「そうか、よろしく頼むよ」
「はーい。いってきます」
高山は元気よく返事し、肩まで伸びるポニーテールを揺らしながら、教室を出た。
秋山はその様子を見届けると、教室の隅に大量に置かれた、背もたれのない木製の椅子を一つ持って、教室の中央に置いた。その様子を見た桜井も手伝おうと、教室に入って、椅子を一つ持ち上げた。
「おや、すまないね。新入部員をこき使う真似はしたくなかったのだが……」
「大丈夫です、このくらい。僕も手伝いますよ」
「ふふ。やはり君は優しいね。では、丸机を運んでくるから、椅子を囲むように並べてくれ」
「分かりました」
桜井は椅子を教室の中央まで運び、そっと降ろした。もう一つも運んで、輪になるように置いた。
秋山の方を見ると、白い丸机のまえで「はて、どうしたものかな」とひとり呟いていた。そんな秋山を放っておけず、桜井は協力を申し出ようと、秋山の近くに歩み寄った。
「手伝いますよ」
「ありがとう。助かるよ」
桜井は秋山と協力して、二人で机を持ち上げた。少し重いが、大した重さではなかった。
そして椅子の輪の中心に、丸机を降ろした。
「すまないね。非力だから持ち上げられなくて。助かったよ」
いえ、と桜井が返事すると、秋山は椅子に座った。桜井もその隣に座る。秋山は足を組んで、前のめりになって、右手を顎に当てた。その様はロダンの彫刻『考える人』のポーズそのままだった。
「ところで、高山さんと君は知り合いなのかい?」
「いえ、初めてお会いしました」
そう言うと、秋山は目を細めた。
「そうは見えなかったよ。まあ、君の反応から察するに、彼女と話したことはないけれど、彼女を見たことがあるように思うんだ。そこに、何となく気まずさのようなものを感じたよ」
桜井は思わず心臓が飛び出そうになった。図書室での会話からも分かっていたことだが、秋山は相当、人をよく見ている。メガネのレンズの奥にある真っ黒な瞳に、全てが映っているように感じ、桜井は畏怖した。
「気まずさは、その、感じていません」
桜井はとっさに嘘をつき、俯いた。広瀬と高山が手をつないでいるところを見て、ひとり勝手に気まずくなったとは、さすがに言えなかった。
秋山は、ふむ、と声を漏らして、桜井の表情をじっと眺めていた。
「まあ、彼女の人となりは素晴らしいものだよ。先ほど彼女を『明るく、朗らか』と評したけれど、それだけではない。彼女には人を引き込むオーラがある。まるで太陽の光だ。誰に対しても誠実で公正。実に魅力的な女性だ。
そして、自分が一番魅力的に感じるのは、彼女の慈悲の精神さ。困ったことは率先して手伝う。悩んでいたらそばに寄り添う。簡単なことのように思えるけれど、人間だれしもができることではない。だが、彼女にはそれが簡単にできてしまうのさ。それは君も同じだよ」
「え、僕ですか?」
「うむ。君は先ほど、椅子を運ぶのを手伝ってくれただろう。それは、君が周りをよく見ている証拠さ。なるほど、君の絵画を見つめていたその瞳は、一点を見ているようで、実は世界そのものを見ていたのだね」
秋山は満足そうに笑みを浮かべていた。桜井はその様子に少しの戸惑いを覚えた。
その時、廊下から誰かが走っている足音が聞こえ、それはすぐに高山のものだと分かった。高山が大きなレジ袋を持って、息を切らしながら美術室に入ってきた。
「買ってきました。飲み物と、お菓子いっぱい。購買のおばさんに、サービスまでしてもらいましたよ。とはいえ、お菓子買いすぎて、千円超えてしまいました」
そう言って、高山はレジ袋を丸机の上に置き、レジ袋の中からジュースとお菓子を取り出した。クッキーにポテトチップス、チョコレート、それから煎餅。果たして三人でこんなに食べきれるのだろうか、と思わざるを得ないほどの量だった。
「いいじゃないか。こんなに茶菓子があれば、会話も弾むというものだ」
「ああ、それから、秋山先輩のミルクティーと、桜井くんのりんごジュースもどうぞ」
高山がそう言うと、秋山先輩にミルクティーを渡した。
そして、りんごジュースの入ったペットボトルを桜井に差し出す。桜井は少々ためらいながらも受け取って、「ありがとう」と礼を言った。
「いいのいいの。新入部員のため、私の新しい友達のためよ」
「友達……?」
「そうでしょ? 私たち同じ学年だし、こうして部活仲間になったんだもの」
だから、友達。彼女は笑って言った。
桜井は呆気にとられた。こうもあっさりと、高山との繋がりに名前が付き、なんだか拍子抜けした。美術室に来るまで、繋がりに名がつくことに対し、尻込みしていた自分が馬鹿みたいだ。桜井の心がすとん、と落ちるのが分かった。そして、先ほどまで感じていたはずの気まずさは、いつの間にかどこかに消えてしまった。
一方、高山は、袋から自分のオレンジジュースのペットボトルを取り出すと、空いている席に座った。そして高山はペットボトルのキャップを外し、勢いよく飲み始めた。
ふんわりとした優しい顔立ちからは、全く想像できない飲みっぷりだった。
そして、ぷは、とペットボトルの口から唇を離すと、桜井の方を向いた。
「そういえば、私四組なんだけど、桜井君は何組?」
「一組だよ」
「そっか。一組の担任、優しいから羨ましいなあ。四組の担任はすごく怖いんだよ。ほら、『若年寄』って呼ばれている先生。忘れ物とか、課題未提出とかあれば授業中に怒鳴られるんだよ。あんなに怒らなくてもいいのに」
「君は怒られたの?」
「前に一度、辞書を忘れて怒られたよ。あの時は怖かったなあ。こんな顔してさ」
高山は目尻に指をあてて上に引っ張った。高山の丸い目が吊り上がり、顔立ちに似合わない、なんとも変な顔になる。それを見た秋山は静かに笑った。
「ふふ。きっとそれは彼からの愛の鞭だったんだよ。飴と鞭をうまく使い分けているのさ」
「若年寄が生徒に、飴を与えてるところなんて見たことありませんよ」
「だが、彼は曲がりなりにも教育者なのだから、きっと知らないところで褒めているはずさ。ところで……」
秋山は組んでいた足を降ろし、真剣なまなざしで高山を見た。
「例の広瀬くんとは、あれから上手くいっているのかい?」
桜井は思わず身を固くした。桜井の脳裏に、広瀬と高山が幸せそうに手を繋いでいた光景がよみがえる。正直、今広瀬の事を聞きたい気分ではない。耳をふさげるならそうしたい。
だが、そんな桜井に構いなく、秋山は話を続けた。
「やはり彼は、君のことが好きではないのかい?」
「ええ。あれからわたしのことが好きか、思い切って聞いてみたんですけど、はっきり言われました。『好きじゃない』って」
桜井は目を丸くした。一体どういうことなのか、全く理解できずにいた。広瀬が、高山を好きではないのなら、なぜ手を繋いでいたのだろうか。一瞬、自分の記憶違いを疑ったが、あの光景を見た後の胸の痛みは、間違いなく本物だった。桜井は唇を軽く噛んだ。
そして、その様子を見た秋山は目を細めた。
「おや、桜井くんが置いてけぼりになってしまったね。これは失礼」
「いえ、お構いなく」
桜井は俯いた。今、秋山に顔を見られたら、何もかも洞察されそうで怖くなった。その時、そうだ、と高山はピアノのように弾む声を上げた。
「そうだ。桜井くんはさ、広瀬くんのこと知ってる? 広瀬涼介。三組の男子で、一応私の彼氏なんだけど……」
桜井はどう答えるべきか、少し迷った。知らない、と言って嘘をつきたかった。だが、秋山には嘘だと分かるだろう。秋山の瞳には全てが映っている。見え透いた嘘なんて、秋山には通用しない。桜井は、記憶を探っているふりをして、仕方なく正直に話すことにした。
「知ってるよ。少しだけ話したことはある」
そう言うと、高山の表情が明るくなった。それはまるで、太陽の光を浴びたヒマワリのようだった。
「本当? あのさ。桜井くんから見て、広瀬くんって、どんな人に見える?」
「自分も気になるよ。君の審美眼に、彼がどう映っているのか。教えてくれないだろうか」
高山と秋山は目を輝かせながら、桜井を見ていた。桜井は二人の曇りなき眼差しから逃れたかったが、桜井にはできなかった。二人の眼差しが、獲物を定める鷲の目のように煌めいている。桜井は、たどたどしく、できるだけ慎重に言葉を選んでいく。
「二回だけしか、話したことが無いですけど、その、広瀬くんは、絵画みたいなひとだと、思います」
そう言うと、高山は不思議そうな顔になった。
「絵画みたいに、綺麗な人だと思うっていうのもあるんですけど、でも、何かしているときは、無表情で。一切楽しそうじゃないから。考えていることが、全く見えてこないんです。まあ、二回話をしたぐらいですし、その、広瀬くんのことは、そんなに深く知っているわけではないですけど。でも、話していても、よく分からないんです。まるで、解説のない絵画を見ているようで……」
そう言うと、秋山はなるほど、と目を見開いた。
「なるほど。確かにそうかもしれないね。自分も高山さんから話を聞くぐらいだから、実際に彼とは話したことはないけれど、確かにそういう気持ちにはさせてくれるよ。絵画を一目見た時、その絵に描かれている人物を見て、綺麗だとか悲しそうだとか、見ているこちら側を様々な感情にさせる。
だが、その絵に描かれたストーリーや、画家のバックボーンを知らなければ、絵画の中の人物は何を思っているのか、すべて想像で考えるしかない。そして、その想像はあくまで個人の考えでしかないから、実際に彼がどう思っているのかは、解説がない限り、全くの未知。解説のない絵画、か。実にいい例えだ」
秋山は桜井を見て満足そうに頷いた。だが、高山は、言っている意味がよく分かっていないのか、戸惑っているようで、その様子を見た秋山は、「少し難しかったかな」と優しく笑った。
「詰まる所、広瀬くんの人物像が全く掴めない、ということだよ」
秋山がそう言うと、高山はがっくりと肩を落とした。
「そうですよね。私、彼と付き合って半年経つんですけど、全く彼の事が見えてこないんですよね。広瀬くん、自分のことはあまり話さないし。でも、これから知ればいい話ですよね。きっと広瀬くんがどんな人なのか。いつか分かるときが来る。そう信じます」
そう言って、高山は微笑んだ。だが、その微笑みの中にわずかな陰りがあることを、桜井は見逃さなかった。
その時、6時を知らせるチャイムが鳴った。そろそろ帰ろう、と秋山が提案し、三人で残りの菓子を分け合った後、丸机と椅子を片付けて、教室を後にした。
外に出ると、空がオレンジ色に染まり、三羽のカラスが固まって空を飛んでいた。
一体、あのカラスたちはどこへ帰るのだろう。桜井は春の肌寒さを感じながら、空を見上げた。秋山と高山も、夕焼け空を眺め、三人は上を向きながら歩いた。
「今日は美しい夕焼け空だね。思わずうっとりしてしまいそうだ」
「秋山先輩はどの空を見ても、常にうっとりしてるじゃないですか。曇りの日も、雨の日だって」
「おや。どんな時も、空の雄大さには惚れ惚れするものだよ。私も、あの空の一部になりたいと常々願っているものさ」
「空の一部になったら、感動も味わえないんじゃないですか?」
「ふふ。だが、あの空や緑の大地、冷たい空気や柔らかな風。そういった世界を構成するもの、自然と一体になることができるなら、きっと幸せだろうね」
桜井が秋山の方を向くと、秋山は恍惚とした表情を浮かべていた。秋山の眼鏡のレンズ越しには、夕焼け空が映っている。桜井は、その眼鏡のレンズに映る景色を眺めていた。その視線に気が付いたのか、秋山が桜井に笑いかけた。
「何かもの言いたげだね。もしかして、自分に惚れてしまったかい?」
桜井はしまった、と内心慌てた。目と目が合い、桜井は思わず緊張した。
「す、すみません。そうではなくて、その、つい……」
「後輩をからかうのはよして下さいよ、秋山先輩」
「おっと。それはすまないね。からかったつもりはなかったのだが」
「そういうところですよ、秋山先輩。変人、ってよく言われる理由」
「もちろん、自覚しているとも。変人とは、実に光栄だ。歴史上の偉人たちは変人が多いからね」
「絶対分かってないです、それ」
桜井は二人のやり取りを見て、静かに微笑んだ。
未知の世界に飛び込んで、繋がりに名前がつくことに恐怖を感じていたのに、こんなに良いものだったなんて。未知の世界はこんなに温かいなんて知らなかった。思い切って飛び込んで正解だったのかもしれない。
桜井は、夕焼けの光の優しい温もりを肌で感じ取った。
家の鍵を開け、扉を開く。
「ただいま」
そう言ったが、返事は帰ってこない。
桜井は母親と二人暮らしで、母親は夜遅くまで水商売の仕事をしている。母親が帰ってくるのは早くても朝方で、桜井が学校に行ってから帰ってくることのほうが多い。だから基本的に、家に帰れば誰もいない。
桜井は靴を脱ぎ、自分の部屋に荷物を置いた。そして、桜井は壁にかけている時計を見た。時計の秒針が静かに刻む音だけが、虚しく響き渡る。
桜井にとって、この瞬間が何よりも嫌いだった。一人きりの家には、この音しかない。その音こそが、自分が今一人であることを認識させ、悲しい気持ちにさせる。
はあ、と溜息をつき、ネクタイを解いて制服を脱いだ。制服をハンガーにかけ、適当なパーカーとジャージのズボンを着る。
そして、桜井は台所へと向かった。冷蔵庫を開け、昨日自分で作った野菜炒めと、ラップに包んで冷凍した米を電子レンジに入れた。
電子レンジの無機質な機械音が、静かな部屋を支配する。
そんな中で桜井は、ふと母親のことを考えた。
幼い頃、休日にゆっくりしていた母親に、仕事について尋ねた時のことだ。
その時の母親は、長くウェーブのかかった自慢の金髪を、くるくると指で遊びながら笑っていた。
「私はね、男の人に夢を与えているの」
「夢? それって?」
「男の人って、良くも悪くも馬鹿なのよ。特に女の人が絡めばね。見た目がいい女なら特にそう。色目を使えば、一瞬で男は恋に落ちる。そういう夢を与えるだけでいい。しかもそれだけで、お金がたくさん手に入る。だから私にとっては天職なのよ」
「じゃあ、僕のお父さんにも、夢を与えていたの?」
「ええ、そうよ。あの人、しつこいのよね。離婚する前とか『別れないでくれ』って執着してさ。そういう縛られるのって嫌いなのよ。確かに男の人とデートするときは楽しいけど、もう少しお気楽な気持ちで接してくれればいいのに。あの人、事あるごとに私に、『自分を本当に愛しているのか』って聞いてくるからさ。執着心の化け物相手に、いちいち構ってられないのよ」
幼いころの桜井は、それを聞いてひどく悲しい気持ちになった。自分に対して優しかった父親を侮辱したことも悲しかったが、それ以上に、本当にこの人は自分を愛しているのだろうか、そう思ってしまったことが何よりも悲しかった。
そして、それからというもの、母親の帰りは朝方になることが多くなり、家で母の顔を全く見ない日が増えた。学校から帰ってきたら、お金がテーブルの上に置いてあるだけ。休日は全く帰ってこない。だから、母親と夜ご飯も朝ごはんも一緒に食べた記憶は殆どない。
そんな母親は、今何をしているのだろう。どこで、誰と遊んでいるのだろう。
幼い頃は、ただ仕事が忙しいから帰りが遅くなるものだと思っていた。だが、成長し、どうもそうではないことを察した。恐らく、母親は男をとっかえひっかえして、夜遊びを楽しんでいるのだろう。きっと、息子の事を何一つ思ってはいない。そう考えるのに時間はかからなかった。
重たいため息をついていると、チン、と電子レンジの音が鳴った。桜井は電子レンジから米を取り出す。茶碗に移し、野菜炒めのラップを剥がして、それらをテーブルの上に載せた。
テーブルの端には、母親が置いていった千円札が2枚重なっていた。だが、桜井はそれをそのままにし、箸箱から箸を取り出して、野菜炒めを食べ始めた。野菜炒めは少々味が薄かったが、特に気にせず食べ続けた。
そのまま夜ご飯を食べ終え、食器を洗い、風呂も済ませた桜井は、自室の本棚から一冊の画集を取った。
昔、父親が誕生日プレゼントに、と買ってくれた画集だった。
父親は優しい人だった。よく本を読む人で物静かだったが、幼かった桜井には優しく接してくれた。もう昔の話なので、今では父親の顔や声も思い出せないが、愛してくれたことは確かに覚えている。
桜井は画集のとあるページを開いた。
そのページには、クロード・モネの『散歩、日傘をさす女』が載っていた。
日が傾き始めた青空。鮮やかな緑が茂る丘で、日傘を持ち、白い洋服を着た女性が、優しそうな眼差しでこちらを見ている。少し離れた場所には、麦わら帽子をかぶった少年が立っていて、女性と同様、こちらをじっと見ている。風が少し吹いているのか、女性のスカーフと裾の長いスカートがたなびいている。
桜井はそのページに載っていた解説文をそっとなぞった。どうやら日傘をさす女性はカミーユという、モネの恋人で、そのカミーユのそばの子供は、モネとの子供らしい。
桜井は絵をじっと眺めていた。若緑の草に伸びる女性の影や、雲に映る柔らかな光の具合から、午後3時くらいだろうか。昼ご飯を一緒に食べて、腹ごなしに散歩しているのだろう。カミーユとその子供の目線から、その目線の先にモネがいて、仲良く三人で時を過ごしている。あるいは、目線の先に小川があって、ゆったりとした水の流れを見ながら、安らぎを得ているのだろうか。
桜井は絵画を見て、自分でストーリーを作るのが好きだった。
絵画に描かれた人物がどんなことを想って、どんなことを感じて、どんな行動をして、それからどうするのか。そのことを考えるのが、桜井にとって図書館で過ごすことと同じくらい好きだった。桜井自身、絵画にはあまり詳しくはないし、この絵を描いたモネのことはあまり詳しくはない。
ただ、絵に描かれている人物の物語や背景、想いを汲み取って、妄想することが、桜井にとっては、家での孤独感を紛らわせることのできる唯一の方法だった。
その時ふと、広瀬のことが桜井の脳裏によぎった。
広瀬も、この絵画のように綺麗だ。自然豊かな緑の地に立つカミーユのように、ほのかに淡い美しさを感じさせる。はて、広瀬は今、何をしているのだろう。あの『異邦人』という本の続きを読んでいるのだろうか。それとも、外に出て夜空を眺めているのだろうか。もしかしたら音楽を聴いているのかもしれない。クラシックとか好きそうだ。いや、もしかしたらジャズかもしれない。
『そうしたいから、とか、何となく、とかそういうことじゃない。ただ見ていた。それだけのこと』
桜井の心に、広瀬の言葉が浮かぶ。
あの後、図書室で言葉の意味を考えていたが、何も思いつかなかった。広瀬に言わせてみれば『それだけのこと』かもしれないが、やはり納得できない。
言葉の意味は分かるが、ならどうして本を読み返していたのだろう。どうして桜を見ていたのだろう。考えを巡らせても、結局、振出しに戻ってしまう。
この、なんとももやもやする気持ちに、拭えない違和感がありながらも、桜井は、広瀬のことを考える時間に僅かな面白さと楽しさを見出していた。
桜井の胸からは、先ほどまで渦巻いていた寂しさはとっくに消え失せていた。
次の日の放課後も、桜井の足は図書室に向かっていた。
もしかしたら、広瀬もまた図書館に来るかもしれない。そう思うと心が弾むような思いがした。
桜井は昨日のように、窓際の一番奥の席に座る。そして、カバンの中から、筆箱と英語の問題集を取り出した。筆箱からいつも使っている青いシャーペンを取り出し、問題集を開いて黙々と問題を解き進めていた。
心地よい雑音に浸りながら、時々、持っていたシャーペンを回す。
くるくる、くるくる。
まるで、昨日見た桜の花びらのよう。そう思うと、不思議とまた桜を見に行きたい、外に行きたいという気持ちが芽生え始めた。
そうして、桜井はふと窓の外を見た。
窓の外には、二人の男女が手をつなぎながら話す光景が映っていた。
その男は、並木道で出会った広瀬だった。
そして広瀬と手をつなぐ女は、楽しそうに腕をぶんぶん振りながら、広瀬の顔を覗き込んでいる。
桜井は、無意識にシャーペンを回す手を止めてしまった。全身の熱が一気に冷え、全ての時が止まったような感覚になる。
桜井の脳裏に、広瀬の姿がよぎった。
端正な顔立ち、黒曜石の瞳と、長い睫毛が作る影。絹のようなきめ細かく白い肌、風に靡く黒い髪。そして、桜散る綺麗な光景でひときわ目を引く佇まい。
そんな男になら、彼女の一人や二人ぐらいいてもおかしくはないだろう。そう分かっていても、なぜか心が痛んだ。
あの時、広瀬の姿に惹かれたのは事実だ。
だが、今味わっているのは、心に傷をつける痛みではない。心自体が、枯葉のようにぼろぼろと崩れていく痛みだ。
多分、広瀬がこの世に存在していない、まるで絵画を見るような目で見ていたからだと思う。桜を見つめる広瀬の姿に、絵画の絵のように、この世とはかけ離れた何かがあると、本能的に錯覚していた。広瀬が同じ高校に通っていて、自分と同い年であることを知っても、並木道や図書室で一緒に過ごしても、そう思った。だが、広瀬はただの一男子高生でしかないのだ。その事実がこれだ。手をつなぐカップル。傍から見たらただの青春の一ページに過ぎない。
だが、桜井にとっては、自分の中の想像が崩れた瞬間だった。
持っていたシャーペンがノートの上に落ちた。
その音で桜井ははっとした。シャーペンを持ち直し、窓の外を見ると、もう誰もいなかった。
「はは……」
桜井は、一人静かに乾いた笑いを浮かべた。さっきまで聞こえていた雑音は、桜井の耳には入っては来なかった。もう勉強どころではなくなってしまった。桜井はシャーペンを静かに置くと、そのまま席を立つ。そして席の反対側にある本棚へと向かい、一冊の適当な画集を取った。
桜井はそのまま席に戻り、画集を開く。そこに描かれていた絵は、ジャック=ルイ・ダヴィッドの『アンティオコスとストラトニケ』だった。
中世ヨーロッパの王子、アンティオコスの私室には、病に伏せるアンティオコスと、それを見舞う恋人のストラトニケの姿が描かれている。また、アンティオコスのそばには、ストラトニケを指差した医師と冠をかぶった王の姿。ストラトニケのそばには遣いの女性がいて、その様子を4人の男女が見ている。
解説にはそれ以上の事は書いていなかった。この後、アンティオコスには病から立ち直る喜劇が待っているのか、死という悲劇が待っているのかは全く分からない。
正直、絵は何だっていい。広瀬のことでショックを受けた事実を忘れられるなら、それでよかった。
桜井は必死に、この絵のストーリーを考えた。アンティオコスには許嫁がいて、彼をたぶらかしたストラトニケを許さんと、事実を知る医師が王に知らせている。彼女は彼に悲しませまいと、慈愛に満ちた表情を浮かべる。その表情を見たアンティオコスは、彼女の懸命な優しさに心を打たれたのだろう。
思い描くストーリーを次々と飛躍させていく。そのストーリーを考えることで頭がいっぱいになった頃には、胸が痛む感情もすっかり忘れていた。
その時、誰かが桜井の肩を叩いた。
桜井が振り返ると、そこには眼鏡をかけた冴えない男が立っていた。
「読書中、すまないね。今、時間良いかな」
「は、はあ……」
正直、まだこの絵に浸っていたかったが、突然のことで断ることもできなかった。
男は桜井の隣に静かに座ると、開いていた画集のページを指差した。
「この絵、『アンティオコスとストラトニケ』だね。君、すごく目を凝らして見てたから、絵が好きなのかと思ってね」
「まあ、絵を見るのは好きです」
「この画家は、確かジャック=ルイ・ダヴィッドだったかな。好きなのかい?」
「画家のことは、あまりよく知りません。その、すみません」
「謝らなくたっていい。でも、君が絵を見ているとき、すごくいい目をしていたからね。まるで、その絵の中の世界を覗き込んでいるような目。その君の目に、自分は興味を抱いたのさ」
まるで風変わりな話し方に、桜井は、何だかすべてを見透かされたような気分になって、落ち着かなかった。
広瀬と同じ、まるで得体の知れない男。桜井の瞳には、男の姿がそう映っていた。
男はふっと笑って、人差し指を自分の顎に当てた。
「さて、本題に入ろう。君、美術部には興味あるかい?」
「美術部?」
桜井は特に部活動には入っていない。というのも単純に興味が無かったからだ。体育会系の部活には、体の事もあるので当然入れない。それ以外の文化系の部活も、桜井の興味を特段引くものはこれといってなかった。
「実は、美術部は今部員が2人しかいない。自分と後輩一人だけだ。だから今度、新入生勧誘会があるだろう? それすらも出られなくてね。人数が足りていないから、部活動として存続要件を満たしていないと、先生が言っていたよ。今の美術部は、いわば非公認の同好会のようなものなのさ。自分としては、非公認同好会で構わないのだけど。ただ、先生が部活動として認められたいから、と人数集めに躍起になっているのさ。そんな先生の姿を、放ってはおけなくてね」
「は、はあ……」
桜井があいまいな返事をすると、男は、桜井の左手を両手で包み込んだ。ぎょっとして男を見るが、男は笑みを崩さなかった。
「だから、君に美術部に入ってほしいんだ。君の絵に向ける純粋無垢な瞳がほしい。
美術部だからといって、必ずしも絵を描く必要はない。絵を描く手が無くとも、絵に対する審美眼が本物であれば、それでいい。自分はそう思うんだ。実際、自分も絵はそんなに描いていないし、絵を描いても、他人と比べたら素人同然だからね。絵の才が無くとも入る資格はあるよ。そして、その資格は君の中にある。絵を覗き込む君の瞳に、その資格を感じたよ」
男は黒い瞳を輝かせながら、桜井の目をまっすぐ見つめた。あまりの真剣な眼差しに、桜井は狼狽えた。
「といっても、いきなり入部なんて……」
「ふふ。時には、未知の世界に飛び込む勇気も必要なのさ。その経験が、未来の君への道標となるからね。もし君が入部を迷っているのなら、お試しで1か月間、仮入部してから考えるのもいいだろう。時間とは貴重なものだからね。何もしなければ始まらない。さて、どうかな?」
『未知の世界に、飛び込む勇気……』桜井は男の言葉を脳内で反芻させた。
桜井にとっては、部活は未知のものだった。
今までクラスの中では空気であったし、生徒たちが騒いでいる中で、存在を噛み締めることができればそれでいい。だから、友情や敬意、恋愛といった、名前の付く繋がりがなくても、確かに自分が存在しているという、名もなき繋がりさえあれば十分だと思っていた。
だが、部活に入れば、その繋がりに名前が付く。今まで一方的に世界を覗き、浸り、勝手に満足していた自分が、今度はその世界の住人となる。
桜井は困惑した。繋がりを欲する飢えた感情、寂しさからの逃避ができるかもしれない期待。それだけではない。このままでいいのかという疑問と、未知の世界に飛び込む恐怖。何もしないという安心感の要求。様々な感情が入り混じり、桜井は答えを出せず、黙り込んだ。
その様子を見た男は、ふむ、と声を漏らすと、包んでいた桜井の左手の人差し指を、親指でそっとなぞった。
「君は、どうやら未知の世界というものに、複雑な思いを抱いているようだ。君の心は葛藤に満ちている。
こんな言葉を知っているかな?『青春は、友情の葛藤』、太宰治の言葉さ。君が美術部に入れば、少なくとも自分と、後輩の二人分、友情が手に入るだろう。そしてその友情の中で、君が何を感じ、何を思うか。その中で葛藤が生まれるだろう。それこそが青春なのさ。
まあ、今の君は、友情とは関係なく、葛藤を感じているけれど、葛藤は何も悪いことではない。むしろ、人生に彩りを添えてくれる花さ。無味乾燥な世界よりも、色とりどりの花溢れる、青春という世界の方が、君に似合っていると思うよ」
男のロマンチックな言葉に、桜井の心は揺れ動いた。
自分の葛藤を見透かされた気がしてならないが、自分の感情を肯定してくれたことに、僅かな喜びを感じた。この人と一緒にいてもいい。『友情』という、名前の繋がりがあってもいい。そのことにすでに恐怖心は消えた。
桜井の心は決まった。
「分かりました。仮入部、します」
そう言うと、男は嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう。仮入部してくれて嬉しいよ。そうだね、まずは美術室に案内しよう。ついてきてくれ。後輩の一人も後ほど紹介するよ」
男が席を立ち、桜井も荷物をまとめて、一緒に図書室を後にした。
騒がしい渡り廊下を歩き、階段を下りる。階段の窓から差し込む夕日の光に、桜井は少し眩しさを覚えて、目を細めた。
男は笑みを浮かべて、桜井の方を向いた。
「ああ、そうだ。自己紹介がまだだったね。自分は秋山 淳。三年生で、一応部長ということにはなっているけど、部活動とは言えないから、部長でもないかな。君の名前は?」
秋山は、かけていた丸いフレームの眼鏡をくいっと上げた。
「桜井想、二年生です」
そう言うと、秋山はふふっ、と静かに笑った。
「そうか、二年生か。これから君に紹介する後輩も、同じ二年生さ。明るく朗らかだから、君ともすぐに打ち解けると思うよ」
そうして階段を下りた先、薄暗い廊下を歩き、二人は美術室に到着した。
秋山が扉を開けると、そこに見覚えのある女が立っていた。
桜井は思わず目を見開いた。
先ほど、広瀬と手をつないでいた女ではないか。一人で勝手に味わったあの気まずさがぶり返し、桜井はその場から逃げ出したい気持ちになった。
「やあやあ、高山さん。遅れてしまってすまないね」
「いいですよ。これといって、特にやることはありませんし。ところで秋山先輩、この人は?」
「ああ、紹介するよ。今日から1か月間仮入部することになった、桜井想くん。君と同じ二年生だ」
秋山がそう言うと、女が桜井に近寄った。女の髪は後ろで束ねられていて、前髪も切りそろえられている。大きな丸い瞳と小さく丸い鼻、潤いのある厚い唇。そして優しい顔立ち。
女は屈託のない笑顔を桜井に向け、桜井に右手を差し出した。
「私は高山 聖奈。桜井くん、よろしくね」
「よ、よろしく……」
桜井はおずおずと手を出し、握手を交わした。高山は明るく笑っていた。
「せっかくだし、お茶しようよ。といっても、ティーポットは無いし、自動販売機のペットボトルか缶だけど」
「入れ物は何だっていいさ。折角だ、ここは自分がご馳走しよう。高山さん、何がいいかな?」
「やった!じゃあ、オレンジジュースで。あ、私が買ってきますよ。秋山先輩は何がいいですか?」
「それでは、ホットミルクティにしよう。桜井くんは何がいいかな?」
「え、えっと……。りんごジュースで」
「分かった。高山くん、ついでに茶菓子も頼もうか。千円で足りるかな?」
秋山が美術室の隅に置いたカバンから、茶色の革財布を取り出した。何年も使っているのか、遠目で見ても、財布が色あせているのが分かった。
「十分です。足りなかったら私から出しますよ。折角の新入部員のためですから、私からも出したいですし」
「そうか、よろしく頼むよ」
「はーい。いってきます」
高山は元気よく返事し、肩まで伸びるポニーテールを揺らしながら、教室を出た。
秋山はその様子を見届けると、教室の隅に大量に置かれた、背もたれのない木製の椅子を一つ持って、教室の中央に置いた。その様子を見た桜井も手伝おうと、教室に入って、椅子を一つ持ち上げた。
「おや、すまないね。新入部員をこき使う真似はしたくなかったのだが……」
「大丈夫です、このくらい。僕も手伝いますよ」
「ふふ。やはり君は優しいね。では、丸机を運んでくるから、椅子を囲むように並べてくれ」
「分かりました」
桜井は椅子を教室の中央まで運び、そっと降ろした。もう一つも運んで、輪になるように置いた。
秋山の方を見ると、白い丸机のまえで「はて、どうしたものかな」とひとり呟いていた。そんな秋山を放っておけず、桜井は協力を申し出ようと、秋山の近くに歩み寄った。
「手伝いますよ」
「ありがとう。助かるよ」
桜井は秋山と協力して、二人で机を持ち上げた。少し重いが、大した重さではなかった。
そして椅子の輪の中心に、丸机を降ろした。
「すまないね。非力だから持ち上げられなくて。助かったよ」
いえ、と桜井が返事すると、秋山は椅子に座った。桜井もその隣に座る。秋山は足を組んで、前のめりになって、右手を顎に当てた。その様はロダンの彫刻『考える人』のポーズそのままだった。
「ところで、高山さんと君は知り合いなのかい?」
「いえ、初めてお会いしました」
そう言うと、秋山は目を細めた。
「そうは見えなかったよ。まあ、君の反応から察するに、彼女と話したことはないけれど、彼女を見たことがあるように思うんだ。そこに、何となく気まずさのようなものを感じたよ」
桜井は思わず心臓が飛び出そうになった。図書室での会話からも分かっていたことだが、秋山は相当、人をよく見ている。メガネのレンズの奥にある真っ黒な瞳に、全てが映っているように感じ、桜井は畏怖した。
「気まずさは、その、感じていません」
桜井はとっさに嘘をつき、俯いた。広瀬と高山が手をつないでいるところを見て、ひとり勝手に気まずくなったとは、さすがに言えなかった。
秋山は、ふむ、と声を漏らして、桜井の表情をじっと眺めていた。
「まあ、彼女の人となりは素晴らしいものだよ。先ほど彼女を『明るく、朗らか』と評したけれど、それだけではない。彼女には人を引き込むオーラがある。まるで太陽の光だ。誰に対しても誠実で公正。実に魅力的な女性だ。
そして、自分が一番魅力的に感じるのは、彼女の慈悲の精神さ。困ったことは率先して手伝う。悩んでいたらそばに寄り添う。簡単なことのように思えるけれど、人間だれしもができることではない。だが、彼女にはそれが簡単にできてしまうのさ。それは君も同じだよ」
「え、僕ですか?」
「うむ。君は先ほど、椅子を運ぶのを手伝ってくれただろう。それは、君が周りをよく見ている証拠さ。なるほど、君の絵画を見つめていたその瞳は、一点を見ているようで、実は世界そのものを見ていたのだね」
秋山は満足そうに笑みを浮かべていた。桜井はその様子に少しの戸惑いを覚えた。
その時、廊下から誰かが走っている足音が聞こえ、それはすぐに高山のものだと分かった。高山が大きなレジ袋を持って、息を切らしながら美術室に入ってきた。
「買ってきました。飲み物と、お菓子いっぱい。購買のおばさんに、サービスまでしてもらいましたよ。とはいえ、お菓子買いすぎて、千円超えてしまいました」
そう言って、高山はレジ袋を丸机の上に置き、レジ袋の中からジュースとお菓子を取り出した。クッキーにポテトチップス、チョコレート、それから煎餅。果たして三人でこんなに食べきれるのだろうか、と思わざるを得ないほどの量だった。
「いいじゃないか。こんなに茶菓子があれば、会話も弾むというものだ」
「ああ、それから、秋山先輩のミルクティーと、桜井くんのりんごジュースもどうぞ」
高山がそう言うと、秋山先輩にミルクティーを渡した。
そして、りんごジュースの入ったペットボトルを桜井に差し出す。桜井は少々ためらいながらも受け取って、「ありがとう」と礼を言った。
「いいのいいの。新入部員のため、私の新しい友達のためよ」
「友達……?」
「そうでしょ? 私たち同じ学年だし、こうして部活仲間になったんだもの」
だから、友達。彼女は笑って言った。
桜井は呆気にとられた。こうもあっさりと、高山との繋がりに名前が付き、なんだか拍子抜けした。美術室に来るまで、繋がりに名がつくことに対し、尻込みしていた自分が馬鹿みたいだ。桜井の心がすとん、と落ちるのが分かった。そして、先ほどまで感じていたはずの気まずさは、いつの間にかどこかに消えてしまった。
一方、高山は、袋から自分のオレンジジュースのペットボトルを取り出すと、空いている席に座った。そして高山はペットボトルのキャップを外し、勢いよく飲み始めた。
ふんわりとした優しい顔立ちからは、全く想像できない飲みっぷりだった。
そして、ぷは、とペットボトルの口から唇を離すと、桜井の方を向いた。
「そういえば、私四組なんだけど、桜井君は何組?」
「一組だよ」
「そっか。一組の担任、優しいから羨ましいなあ。四組の担任はすごく怖いんだよ。ほら、『若年寄』って呼ばれている先生。忘れ物とか、課題未提出とかあれば授業中に怒鳴られるんだよ。あんなに怒らなくてもいいのに」
「君は怒られたの?」
「前に一度、辞書を忘れて怒られたよ。あの時は怖かったなあ。こんな顔してさ」
高山は目尻に指をあてて上に引っ張った。高山の丸い目が吊り上がり、顔立ちに似合わない、なんとも変な顔になる。それを見た秋山は静かに笑った。
「ふふ。きっとそれは彼からの愛の鞭だったんだよ。飴と鞭をうまく使い分けているのさ」
「若年寄が生徒に、飴を与えてるところなんて見たことありませんよ」
「だが、彼は曲がりなりにも教育者なのだから、きっと知らないところで褒めているはずさ。ところで……」
秋山は組んでいた足を降ろし、真剣なまなざしで高山を見た。
「例の広瀬くんとは、あれから上手くいっているのかい?」
桜井は思わず身を固くした。桜井の脳裏に、広瀬と高山が幸せそうに手を繋いでいた光景がよみがえる。正直、今広瀬の事を聞きたい気分ではない。耳をふさげるならそうしたい。
だが、そんな桜井に構いなく、秋山は話を続けた。
「やはり彼は、君のことが好きではないのかい?」
「ええ。あれからわたしのことが好きか、思い切って聞いてみたんですけど、はっきり言われました。『好きじゃない』って」
桜井は目を丸くした。一体どういうことなのか、全く理解できずにいた。広瀬が、高山を好きではないのなら、なぜ手を繋いでいたのだろうか。一瞬、自分の記憶違いを疑ったが、あの光景を見た後の胸の痛みは、間違いなく本物だった。桜井は唇を軽く噛んだ。
そして、その様子を見た秋山は目を細めた。
「おや、桜井くんが置いてけぼりになってしまったね。これは失礼」
「いえ、お構いなく」
桜井は俯いた。今、秋山に顔を見られたら、何もかも洞察されそうで怖くなった。その時、そうだ、と高山はピアノのように弾む声を上げた。
「そうだ。桜井くんはさ、広瀬くんのこと知ってる? 広瀬涼介。三組の男子で、一応私の彼氏なんだけど……」
桜井はどう答えるべきか、少し迷った。知らない、と言って嘘をつきたかった。だが、秋山には嘘だと分かるだろう。秋山の瞳には全てが映っている。見え透いた嘘なんて、秋山には通用しない。桜井は、記憶を探っているふりをして、仕方なく正直に話すことにした。
「知ってるよ。少しだけ話したことはある」
そう言うと、高山の表情が明るくなった。それはまるで、太陽の光を浴びたヒマワリのようだった。
「本当? あのさ。桜井くんから見て、広瀬くんって、どんな人に見える?」
「自分も気になるよ。君の審美眼に、彼がどう映っているのか。教えてくれないだろうか」
高山と秋山は目を輝かせながら、桜井を見ていた。桜井は二人の曇りなき眼差しから逃れたかったが、桜井にはできなかった。二人の眼差しが、獲物を定める鷲の目のように煌めいている。桜井は、たどたどしく、できるだけ慎重に言葉を選んでいく。
「二回だけしか、話したことが無いですけど、その、広瀬くんは、絵画みたいなひとだと、思います」
そう言うと、高山は不思議そうな顔になった。
「絵画みたいに、綺麗な人だと思うっていうのもあるんですけど、でも、何かしているときは、無表情で。一切楽しそうじゃないから。考えていることが、全く見えてこないんです。まあ、二回話をしたぐらいですし、その、広瀬くんのことは、そんなに深く知っているわけではないですけど。でも、話していても、よく分からないんです。まるで、解説のない絵画を見ているようで……」
そう言うと、秋山はなるほど、と目を見開いた。
「なるほど。確かにそうかもしれないね。自分も高山さんから話を聞くぐらいだから、実際に彼とは話したことはないけれど、確かにそういう気持ちにはさせてくれるよ。絵画を一目見た時、その絵に描かれている人物を見て、綺麗だとか悲しそうだとか、見ているこちら側を様々な感情にさせる。
だが、その絵に描かれたストーリーや、画家のバックボーンを知らなければ、絵画の中の人物は何を思っているのか、すべて想像で考えるしかない。そして、その想像はあくまで個人の考えでしかないから、実際に彼がどう思っているのかは、解説がない限り、全くの未知。解説のない絵画、か。実にいい例えだ」
秋山は桜井を見て満足そうに頷いた。だが、高山は、言っている意味がよく分かっていないのか、戸惑っているようで、その様子を見た秋山は、「少し難しかったかな」と優しく笑った。
「詰まる所、広瀬くんの人物像が全く掴めない、ということだよ」
秋山がそう言うと、高山はがっくりと肩を落とした。
「そうですよね。私、彼と付き合って半年経つんですけど、全く彼の事が見えてこないんですよね。広瀬くん、自分のことはあまり話さないし。でも、これから知ればいい話ですよね。きっと広瀬くんがどんな人なのか。いつか分かるときが来る。そう信じます」
そう言って、高山は微笑んだ。だが、その微笑みの中にわずかな陰りがあることを、桜井は見逃さなかった。
その時、6時を知らせるチャイムが鳴った。そろそろ帰ろう、と秋山が提案し、三人で残りの菓子を分け合った後、丸机と椅子を片付けて、教室を後にした。
外に出ると、空がオレンジ色に染まり、三羽のカラスが固まって空を飛んでいた。
一体、あのカラスたちはどこへ帰るのだろう。桜井は春の肌寒さを感じながら、空を見上げた。秋山と高山も、夕焼け空を眺め、三人は上を向きながら歩いた。
「今日は美しい夕焼け空だね。思わずうっとりしてしまいそうだ」
「秋山先輩はどの空を見ても、常にうっとりしてるじゃないですか。曇りの日も、雨の日だって」
「おや。どんな時も、空の雄大さには惚れ惚れするものだよ。私も、あの空の一部になりたいと常々願っているものさ」
「空の一部になったら、感動も味わえないんじゃないですか?」
「ふふ。だが、あの空や緑の大地、冷たい空気や柔らかな風。そういった世界を構成するもの、自然と一体になることができるなら、きっと幸せだろうね」
桜井が秋山の方を向くと、秋山は恍惚とした表情を浮かべていた。秋山の眼鏡のレンズ越しには、夕焼け空が映っている。桜井は、その眼鏡のレンズに映る景色を眺めていた。その視線に気が付いたのか、秋山が桜井に笑いかけた。
「何かもの言いたげだね。もしかして、自分に惚れてしまったかい?」
桜井はしまった、と内心慌てた。目と目が合い、桜井は思わず緊張した。
「す、すみません。そうではなくて、その、つい……」
「後輩をからかうのはよして下さいよ、秋山先輩」
「おっと。それはすまないね。からかったつもりはなかったのだが」
「そういうところですよ、秋山先輩。変人、ってよく言われる理由」
「もちろん、自覚しているとも。変人とは、実に光栄だ。歴史上の偉人たちは変人が多いからね」
「絶対分かってないです、それ」
桜井は二人のやり取りを見て、静かに微笑んだ。
未知の世界に飛び込んで、繋がりに名前がつくことに恐怖を感じていたのに、こんなに良いものだったなんて。未知の世界はこんなに温かいなんて知らなかった。思い切って飛び込んで正解だったのかもしれない。
桜井は、夕焼けの光の優しい温もりを肌で感じ取った。
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雨宮千冬(あめみや・ちふゆ)
大学1年。法学部。
淡いピンク髪、甘い顔立ちの砂糖系イケメン。
甘く切ないラブソングが人気の、歌い手「フユ」として匿名活動中。
【受け】
睦月伊織(むつき・いおり)
大学2年。工学部。
黒髪黒目の平凡大学生。ぶっきらぼうな口調と態度で、ちょっとずぼら。恋愛は初心。
学校一のイケメンとひとつ屋根の下
おもちDX
BL
高校二年生の瑞は、母親の再婚で連れ子の同級生と家族になるらしい。顔合わせの時、そこにいたのはボソボソと喋る陰気な男の子。しかしよくよく名前を聞いてみれば、学校一のイケメンと名高い逢坂だった!
学校との激しいギャップに驚きつつも距離を縮めようとする瑞だが、逢坂からの印象は最悪なようで……?
キラキライケメンなのに家ではジメジメ!?なギャップ男子 × 地味グループ所属の能天気な男の子
立場の全く違う二人が家族となり、やがて特別な感情が芽生えるラブストーリー。
全年齢
ずっと好きだった幼馴染の結婚式に出席する話
子犬一 はぁて
BL
幼馴染の君は、7歳のとき
「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。
そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。
背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。
結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。
「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」
誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。
叶わない恋だってわかってる。
それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。
君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。
あなたに捧ぐ愛の花
とうこ
BL
余命宣告を受けた青年はある日、風変わりな花屋に迷い込む。
そこにあったのは「心残りの種」から芽吹き咲いたという見たこともない花々。店主は言う。
「心残りの種を育てて下さい」
遺していく恋人への、彼の最後の希いとは。
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
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いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
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