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5. 空虚
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その日の夜、桜井はベッドの中で考え事に更けていた。
秋山はなぜ急に、自分の本質を聞いてきたのだろうか。理由がないからといって、急に自分についてどう思うかなんて、聞かないはずだ。もしかしたら、自分を試そうとしているのかもしれない。だが、自分を試したところで、それが何になるんだ。
桜井は、霧がかった気持ちが拭えず、目を閉じて寝ようにも寝られなかった。
その時、枕の隣に置いていたスマホが光った。ロック画面には、高山からのメッセージが表示されていた。
『明後日の土曜日、広瀬くんと一緒に水族館に行くんだけど、桜井くんもどうかな?』
桜井は思わず目を見開いた。そもそも休日に誰かからお出かけの誘われること自体、今までの人生で一度も無かったからだ。
桜井はどう返信したものか、考えながらメッセージアプリを開いた。
誘ってくれたこと自体は嬉しい。それに明後日の土曜日は空いているから、行こうと思えば行ける。だが、冷静に考えて、彼氏彼女の時間を、これ以上邪魔をするのはいかがなものだろうか。昼ご飯の時間は広瀬と高山が良いと言ってくれたから良かったものの、デートの時間まで邪魔をするのは、流石に桜井も気が引けた。
とりあえず、断ろう。桜井はそう決めて、慣れない手つきで文字を入力する。
その途中で、高山から再びメッセージが届いた。
『二人で行くのは、やっぱり少し気まずいの。私の友達にも連絡したんだけど、断られちゃって。だから、頼れるのは桜井くんしかいないの。お願い!』
桜井は迷った。どうしたものか。頼れるのは自分しかいない、と言われて、簡単に断ることはできない。だが、やはり、二人の時間に水を差すのは気が引ける。
桜井は迷った挙句、書きかけのメッセージを消して、新たなメッセージを打ち込んだ。
『ありがとう。でも、本当に僕と一緒でいいの? 大事なデートの時間にまでお邪魔するのは、さすがに気が進まないよ』
桜井は打ち込んだメッセージを確認して、送信した。するとすぐに、高山から返信が帰ってきた。
『そこは大丈夫! 広瀬くんも良いって言ってるよ』
そのメッセージの後、うさぎのキャラクターが『お願い!』と土下座をしているスタンプが送られてきた。
本当に大丈夫なんだろうか、やはり疑問を感じざるを得ない。広瀬は本当に自分が行くのを許してくれているのだろうか。不安は拭えないが、広瀬に会えると思うと、行きたい気持ちが強くなった。桜井は意を決して、返事を打ち込んだ。
『分かった。行くよ』
『やった! じゃあ、明後日の10時に幌橋駅の前に集合ね。あと学生証も忘れずに!』
その後『よろしく!』と、うさぎのキャラクターが親指を立てるスタンプが送られてきた。
正直、高山のメッセージを読んでも、桜井の中の不安は残ったままだった。だが、約束してしまった以上、一緒に行くしかない。桜井は腹をくくり、スマホの電源を切って、静かに目を閉じた。
二日後、桜井は家を出て、幌橋駅の前で高山と広瀬を待っていた。二人の時間を邪魔しているのに、待たせるのは悪いと思い、集合時間の20分前には幌橋駅に着いた。
駅前には、たくさんの人がいた。杖を突いてゆっくり歩く老人、手を繋ぎながら歩く親子、スーツを着たサラリーマン、友人とはしゃぎながら歩く若者。実に多くの人が行き交う光景を、桜井はただ眺めていた。
その中に、一際目を引く姿があった。グレーの長いカーディガンに、黒色のシャツとスキニーパンツ。黒の革靴と、シルバーのチェーンの通った黒いポシェット。そして背筋の伸びた姿勢と、気品あふれる美しい佇まい。桜井は目が離せなかった。そして、その男が振り返る。
その顔は広瀬だった。広瀬は桜井の姿に気が付くと、桜井のそばに近づいた。
桜井は片手を上げた。
「や、やあ」
「ん」
互いに簡単に挨拶を交わす。桜井はまじまじと広瀬の全身を見た。黒いシャツにはしわ一つない。腰には、やや細めの黒のベルトが巻き付いていて、シルバーのバックルが良いアクセントになっている。派手さはなく、モノトーンなコーデでシンプルに纏まっている。
「すごく、お洒落なんだね」
「お洒落かどうかは、よく分からない。マネキンが着ていたものを、そのまま買っただけだ」
「そうなんだ。でも、マネキンコーデを真似しても、普通はここまで着こなせないよ。すごいね、広瀬くん」
そう言うと、広瀬は黙り、会話が途切れた。
桜井は、何となく気まずくなり、とにかく何か話そうと、必死に話題を考えた。だが、何を話していいものか分からず、桜井と広瀬の間に、沈黙が流れた。
そのまま五分ほど経った時、広瀬は小さな口を開いた。
「お前、早いんだな」
「え?」
「そんなに早く来て、意味ないだろ」
「……ただでさえ、二人のデートをお邪魔している身なのに、待たせたら悪いと思って」
「別に邪魔だと思ってない。二人だろうと、三人だろうと同じことだ」
広瀬は淡々としていた。だが桜井は、本当は二人で出かけたかったのでは、と気がかりだった。
「広瀬くん、本当は二人で出かけたかったんじゃ……」
思わず不安が声に出た。不安げな桜井をよそに、広瀬は表情を変えることはなかった。
「別に、思ってない」
「でも、彼氏彼女でしょう? 二人の時間は特別なんじゃないの?」
「ただ、高山がそこにいる。それだけのことだ。特別と思ったことはない」
桜井は目を見開いた。広瀬は、本当に高山のことが好きじゃないのか。なら、なぜ高山と付き合っているのだろうか。広瀬は、高山の事を本当はどう思っているのだろうか。桜井の中で、ふつふつと疑問が沸き上がる。桜井は、広瀬のことがますます分からなくなった。
その時、「おーい!」と声がした。桜井と広瀬が声の方を向くと、白色のワンピースに、紺色のデニムジャケットを着た高山がいた。高山は片手に持っていた茶色の小さなバッグを、ぶんぶんと振りながら、二人の方へ歩いてきた。
「ごめん。待たせちゃって」
髪を降ろし、白のカチューシャを付けている。いつものポニーテールではない、見慣れない姿に、桜井は少し落ち着かなかった。
「桜井くん、来てくれてありがとう。やっぱり人数は多い方が楽しいよね。早速、水族館に出発しよう!」
三人は駅構内を進み、快速電車に乗った。電車の中は人が多く、席は空いていない。三人は吊革につかまりながら、電車に揺られていた。
広瀬はポシェットから本を取り出すと、片手で器用に本を読み始めた。やはり、本のタイトルは『異邦人』だった。
「前々から気になってたんだけど、広瀬くんってさ、その本ずっと読んでるよね。面白いの?」
広瀬の右隣に立っていた高山は、その本を覗き込んだ。
「くだらないよ」
「ふうん。何か難しそうな本だよね。私、活字苦手だからこういうの読めないや。どんな話なの?」
「ある男の一生について」
「ざっくりしすぎよ。もうちょっとこう、具体的に!」
「具体的に言っても、高山には理解できない」
「ちょっと酷くない?」
高山は口をへの字に曲げた。桜井はその様子を観察していた。
どうしてこの二人は付き合い始めたのだろう。付き合うって、普通は互いが愛し合って始まるものではないのか。
桜井は実際に誰かと付き合った経験は無い。だから、自分の知識や想像で考えるしかない。桜井にとって恋愛とは、二人の想いが通じ合って、確かめ合うものだと思っている。でも、広瀬はそうじゃない。高山のことを好きじゃないと否定し、デートも特別でないと言っている。
かといって、高山を明確に拒絶しているわけではない。本当に嫌いだったら、広瀬は別れを告げているはずだ。なのに、それをしない。一体、なぜ広瀬は、高山と付き合うことを受け入れているのだろうか。
「……くん、桜井くん?」
名前を呼ぶ声がして、桜井ははっとした。高山は心配そうな顔で桜井を見つめていた。
「桜井くん、どうかしたの? ボーっとして」
「ああ、いや。考え事をしていただけだよ。大丈夫」
「そう? それならいいけど」
高山は安堵し、再び広瀬に話しかけた。桜井は窓に映る光景を見る。そこにはマリンブルーの海が広がり、水面を輝かせていた。まるで宝石のような眩い煌めきに、桜井は目を細めた。
その後、三人は目的の駅で降り、無事に水族館に到着した。受付前の発券機で入場券を人数分買い、入場券を受付に出した。
「学生証はお持ちですか?」
三人はそれぞれのカバンから、学生証を取り出し、受付に見せた。そして、それを確認した後、学生証と端を切り取った入場券を返された。
「ようこそ。素敵な時間をお楽しみください」
三人はそのまま水族館の中に進んだ。
「やってきました。水族館! ねえ、どこから見て回る?」
高山が興奮した様子で二人に話しかける。高山は、まるで小さい子供のようにはしゃいでいた。
「二人に合わせるよ。広瀬くんは、何か見たいものとかある?」
「特にない」
桜井は奥にある通路を見た。どうやら通路は左右二つに分かれている。桜井は近くに置いてあったパンフレットを取り、館内図を確認した。水族館は本館と別館があり、本館は二階建てになっている。見たところ、どちらの通路を通っても問題はなさそうだ。
桜井は奥の通路を指差した。
「左右分かれているけど、どっちから行く?」
「うーん。じゃあ左!」
三人は左の通路へと進んだ。進んだ先にはパノラマの水槽があり、サメやエイ、カメなど、さまざまな魚が優雅に泳いでいた。
高山はスマホを取り出し、写真を撮り始めた。
「かわいいよね。エイとか特にかわいいなあ」
高山は、水槽の中を泳ぐ魚たちにうっとりしていた。桜井はそばにあった解説を読む。どうやら、高山の見ているエイはホシエイといって、背面の白い小さな斑点が星のように見えることから名づけられたらしい。
「このエイ、ホシエイっていうらしいよ」
「へえ。ホシって干すほうのホシ?」
「いや、スターの方のホシだよ」
「なら、なおさら可愛いね!」
高山はきらきらと目を輝かせながら、水槽の中の魚たちを見ていた。
桜井はふと、広瀬に目を向けた。広瀬はぼんやりと水槽を眺めている。
「広瀬くん、次行こう!」
そう言って高山は、広瀬の手を掴んで先に進む。その光景を、桜井は後ろから微笑ましく見ていたが、ふと違和感を覚えた。
広瀬が高山に向ける眼差しが、水槽の魚を見る眼差しと全く同じだったのだ。
その瞳には何も映っていない。無機質な視線だった。
そういえば、初めて会って桜を一緒に見た時も、本を読んでいるときも、一緒にご飯を食べているときも、同じ瞳だった。
桜井は、二人の様子をじっくりと観察する。
高山は実に幸せそうな顔をしていた。高山の瞳には、広瀬への温かな愛と、喜びを感じる。後ろから見ていても、高山の瞳は、電車の中で見た海の煌めきのように、眩い光を宿している。
対して広瀬の瞳は、輝き一つ感じない。そこに温度も感情もない。空虚な瞳だ。まるで、どこか遠くから『ただ』眺めているだけのようで……。
─桜井は気が付いた。もしかして、広瀬にとって、水槽を泳ぐ魚も、美しい桜も、いつも読み返す本も、そして彼女である高山も、すべて同じなのではないか。そして、それは、何であろうと、同じだ。だから、きっと、彼女が高山でなくとも、広瀬にとっては同じことなのだ。
桜井は無性に悲しくなった。この男は、きっと誰も愛さない。そもそも、誰かを愛するという概念がない。そして『友情』だとか、『彼女』だとか、決して繋がりに名前を付けようとしない。分ける必要がない。みんな同じだから。当然、自分も、広瀬の世界では、今ここにいる魚たちと同類項だ。
桜井は無意識に下唇を噛んだ。唇から少しだけ血が滲み、僅かな痛みと鉄の味を感じた。
その後、イルカショーやペンギンショーなど色々見て回ったが、やはり広瀬はイルカにも、ペンギンにも、同じ眼差しを向けていた。桜井は、自分の考えが間違いではないと確信し、結局、心から楽しむことができなかった。
水族館を出る頃には、日が沈みかけ、周りが暗くなっていた。そのまま三人は帰りの電車に乗り、幌橋駅に着くと、その場は解散となった。帰る途中に色々話したが、広瀬のことで頭がいっぱいになっていた桜井には、その会話の内容が、全く耳に入ってこなかった。
秋山はなぜ急に、自分の本質を聞いてきたのだろうか。理由がないからといって、急に自分についてどう思うかなんて、聞かないはずだ。もしかしたら、自分を試そうとしているのかもしれない。だが、自分を試したところで、それが何になるんだ。
桜井は、霧がかった気持ちが拭えず、目を閉じて寝ようにも寝られなかった。
その時、枕の隣に置いていたスマホが光った。ロック画面には、高山からのメッセージが表示されていた。
『明後日の土曜日、広瀬くんと一緒に水族館に行くんだけど、桜井くんもどうかな?』
桜井は思わず目を見開いた。そもそも休日に誰かからお出かけの誘われること自体、今までの人生で一度も無かったからだ。
桜井はどう返信したものか、考えながらメッセージアプリを開いた。
誘ってくれたこと自体は嬉しい。それに明後日の土曜日は空いているから、行こうと思えば行ける。だが、冷静に考えて、彼氏彼女の時間を、これ以上邪魔をするのはいかがなものだろうか。昼ご飯の時間は広瀬と高山が良いと言ってくれたから良かったものの、デートの時間まで邪魔をするのは、流石に桜井も気が引けた。
とりあえず、断ろう。桜井はそう決めて、慣れない手つきで文字を入力する。
その途中で、高山から再びメッセージが届いた。
『二人で行くのは、やっぱり少し気まずいの。私の友達にも連絡したんだけど、断られちゃって。だから、頼れるのは桜井くんしかいないの。お願い!』
桜井は迷った。どうしたものか。頼れるのは自分しかいない、と言われて、簡単に断ることはできない。だが、やはり、二人の時間に水を差すのは気が引ける。
桜井は迷った挙句、書きかけのメッセージを消して、新たなメッセージを打ち込んだ。
『ありがとう。でも、本当に僕と一緒でいいの? 大事なデートの時間にまでお邪魔するのは、さすがに気が進まないよ』
桜井は打ち込んだメッセージを確認して、送信した。するとすぐに、高山から返信が帰ってきた。
『そこは大丈夫! 広瀬くんも良いって言ってるよ』
そのメッセージの後、うさぎのキャラクターが『お願い!』と土下座をしているスタンプが送られてきた。
本当に大丈夫なんだろうか、やはり疑問を感じざるを得ない。広瀬は本当に自分が行くのを許してくれているのだろうか。不安は拭えないが、広瀬に会えると思うと、行きたい気持ちが強くなった。桜井は意を決して、返事を打ち込んだ。
『分かった。行くよ』
『やった! じゃあ、明後日の10時に幌橋駅の前に集合ね。あと学生証も忘れずに!』
その後『よろしく!』と、うさぎのキャラクターが親指を立てるスタンプが送られてきた。
正直、高山のメッセージを読んでも、桜井の中の不安は残ったままだった。だが、約束してしまった以上、一緒に行くしかない。桜井は腹をくくり、スマホの電源を切って、静かに目を閉じた。
二日後、桜井は家を出て、幌橋駅の前で高山と広瀬を待っていた。二人の時間を邪魔しているのに、待たせるのは悪いと思い、集合時間の20分前には幌橋駅に着いた。
駅前には、たくさんの人がいた。杖を突いてゆっくり歩く老人、手を繋ぎながら歩く親子、スーツを着たサラリーマン、友人とはしゃぎながら歩く若者。実に多くの人が行き交う光景を、桜井はただ眺めていた。
その中に、一際目を引く姿があった。グレーの長いカーディガンに、黒色のシャツとスキニーパンツ。黒の革靴と、シルバーのチェーンの通った黒いポシェット。そして背筋の伸びた姿勢と、気品あふれる美しい佇まい。桜井は目が離せなかった。そして、その男が振り返る。
その顔は広瀬だった。広瀬は桜井の姿に気が付くと、桜井のそばに近づいた。
桜井は片手を上げた。
「や、やあ」
「ん」
互いに簡単に挨拶を交わす。桜井はまじまじと広瀬の全身を見た。黒いシャツにはしわ一つない。腰には、やや細めの黒のベルトが巻き付いていて、シルバーのバックルが良いアクセントになっている。派手さはなく、モノトーンなコーデでシンプルに纏まっている。
「すごく、お洒落なんだね」
「お洒落かどうかは、よく分からない。マネキンが着ていたものを、そのまま買っただけだ」
「そうなんだ。でも、マネキンコーデを真似しても、普通はここまで着こなせないよ。すごいね、広瀬くん」
そう言うと、広瀬は黙り、会話が途切れた。
桜井は、何となく気まずくなり、とにかく何か話そうと、必死に話題を考えた。だが、何を話していいものか分からず、桜井と広瀬の間に、沈黙が流れた。
そのまま五分ほど経った時、広瀬は小さな口を開いた。
「お前、早いんだな」
「え?」
「そんなに早く来て、意味ないだろ」
「……ただでさえ、二人のデートをお邪魔している身なのに、待たせたら悪いと思って」
「別に邪魔だと思ってない。二人だろうと、三人だろうと同じことだ」
広瀬は淡々としていた。だが桜井は、本当は二人で出かけたかったのでは、と気がかりだった。
「広瀬くん、本当は二人で出かけたかったんじゃ……」
思わず不安が声に出た。不安げな桜井をよそに、広瀬は表情を変えることはなかった。
「別に、思ってない」
「でも、彼氏彼女でしょう? 二人の時間は特別なんじゃないの?」
「ただ、高山がそこにいる。それだけのことだ。特別と思ったことはない」
桜井は目を見開いた。広瀬は、本当に高山のことが好きじゃないのか。なら、なぜ高山と付き合っているのだろうか。広瀬は、高山の事を本当はどう思っているのだろうか。桜井の中で、ふつふつと疑問が沸き上がる。桜井は、広瀬のことがますます分からなくなった。
その時、「おーい!」と声がした。桜井と広瀬が声の方を向くと、白色のワンピースに、紺色のデニムジャケットを着た高山がいた。高山は片手に持っていた茶色の小さなバッグを、ぶんぶんと振りながら、二人の方へ歩いてきた。
「ごめん。待たせちゃって」
髪を降ろし、白のカチューシャを付けている。いつものポニーテールではない、見慣れない姿に、桜井は少し落ち着かなかった。
「桜井くん、来てくれてありがとう。やっぱり人数は多い方が楽しいよね。早速、水族館に出発しよう!」
三人は駅構内を進み、快速電車に乗った。電車の中は人が多く、席は空いていない。三人は吊革につかまりながら、電車に揺られていた。
広瀬はポシェットから本を取り出すと、片手で器用に本を読み始めた。やはり、本のタイトルは『異邦人』だった。
「前々から気になってたんだけど、広瀬くんってさ、その本ずっと読んでるよね。面白いの?」
広瀬の右隣に立っていた高山は、その本を覗き込んだ。
「くだらないよ」
「ふうん。何か難しそうな本だよね。私、活字苦手だからこういうの読めないや。どんな話なの?」
「ある男の一生について」
「ざっくりしすぎよ。もうちょっとこう、具体的に!」
「具体的に言っても、高山には理解できない」
「ちょっと酷くない?」
高山は口をへの字に曲げた。桜井はその様子を観察していた。
どうしてこの二人は付き合い始めたのだろう。付き合うって、普通は互いが愛し合って始まるものではないのか。
桜井は実際に誰かと付き合った経験は無い。だから、自分の知識や想像で考えるしかない。桜井にとって恋愛とは、二人の想いが通じ合って、確かめ合うものだと思っている。でも、広瀬はそうじゃない。高山のことを好きじゃないと否定し、デートも特別でないと言っている。
かといって、高山を明確に拒絶しているわけではない。本当に嫌いだったら、広瀬は別れを告げているはずだ。なのに、それをしない。一体、なぜ広瀬は、高山と付き合うことを受け入れているのだろうか。
「……くん、桜井くん?」
名前を呼ぶ声がして、桜井ははっとした。高山は心配そうな顔で桜井を見つめていた。
「桜井くん、どうかしたの? ボーっとして」
「ああ、いや。考え事をしていただけだよ。大丈夫」
「そう? それならいいけど」
高山は安堵し、再び広瀬に話しかけた。桜井は窓に映る光景を見る。そこにはマリンブルーの海が広がり、水面を輝かせていた。まるで宝石のような眩い煌めきに、桜井は目を細めた。
その後、三人は目的の駅で降り、無事に水族館に到着した。受付前の発券機で入場券を人数分買い、入場券を受付に出した。
「学生証はお持ちですか?」
三人はそれぞれのカバンから、学生証を取り出し、受付に見せた。そして、それを確認した後、学生証と端を切り取った入場券を返された。
「ようこそ。素敵な時間をお楽しみください」
三人はそのまま水族館の中に進んだ。
「やってきました。水族館! ねえ、どこから見て回る?」
高山が興奮した様子で二人に話しかける。高山は、まるで小さい子供のようにはしゃいでいた。
「二人に合わせるよ。広瀬くんは、何か見たいものとかある?」
「特にない」
桜井は奥にある通路を見た。どうやら通路は左右二つに分かれている。桜井は近くに置いてあったパンフレットを取り、館内図を確認した。水族館は本館と別館があり、本館は二階建てになっている。見たところ、どちらの通路を通っても問題はなさそうだ。
桜井は奥の通路を指差した。
「左右分かれているけど、どっちから行く?」
「うーん。じゃあ左!」
三人は左の通路へと進んだ。進んだ先にはパノラマの水槽があり、サメやエイ、カメなど、さまざまな魚が優雅に泳いでいた。
高山はスマホを取り出し、写真を撮り始めた。
「かわいいよね。エイとか特にかわいいなあ」
高山は、水槽の中を泳ぐ魚たちにうっとりしていた。桜井はそばにあった解説を読む。どうやら、高山の見ているエイはホシエイといって、背面の白い小さな斑点が星のように見えることから名づけられたらしい。
「このエイ、ホシエイっていうらしいよ」
「へえ。ホシって干すほうのホシ?」
「いや、スターの方のホシだよ」
「なら、なおさら可愛いね!」
高山はきらきらと目を輝かせながら、水槽の中の魚たちを見ていた。
桜井はふと、広瀬に目を向けた。広瀬はぼんやりと水槽を眺めている。
「広瀬くん、次行こう!」
そう言って高山は、広瀬の手を掴んで先に進む。その光景を、桜井は後ろから微笑ましく見ていたが、ふと違和感を覚えた。
広瀬が高山に向ける眼差しが、水槽の魚を見る眼差しと全く同じだったのだ。
その瞳には何も映っていない。無機質な視線だった。
そういえば、初めて会って桜を一緒に見た時も、本を読んでいるときも、一緒にご飯を食べているときも、同じ瞳だった。
桜井は、二人の様子をじっくりと観察する。
高山は実に幸せそうな顔をしていた。高山の瞳には、広瀬への温かな愛と、喜びを感じる。後ろから見ていても、高山の瞳は、電車の中で見た海の煌めきのように、眩い光を宿している。
対して広瀬の瞳は、輝き一つ感じない。そこに温度も感情もない。空虚な瞳だ。まるで、どこか遠くから『ただ』眺めているだけのようで……。
─桜井は気が付いた。もしかして、広瀬にとって、水槽を泳ぐ魚も、美しい桜も、いつも読み返す本も、そして彼女である高山も、すべて同じなのではないか。そして、それは、何であろうと、同じだ。だから、きっと、彼女が高山でなくとも、広瀬にとっては同じことなのだ。
桜井は無性に悲しくなった。この男は、きっと誰も愛さない。そもそも、誰かを愛するという概念がない。そして『友情』だとか、『彼女』だとか、決して繋がりに名前を付けようとしない。分ける必要がない。みんな同じだから。当然、自分も、広瀬の世界では、今ここにいる魚たちと同類項だ。
桜井は無意識に下唇を噛んだ。唇から少しだけ血が滲み、僅かな痛みと鉄の味を感じた。
その後、イルカショーやペンギンショーなど色々見て回ったが、やはり広瀬はイルカにも、ペンギンにも、同じ眼差しを向けていた。桜井は、自分の考えが間違いではないと確信し、結局、心から楽しむことができなかった。
水族館を出る頃には、日が沈みかけ、周りが暗くなっていた。そのまま三人は帰りの電車に乗り、幌橋駅に着くと、その場は解散となった。帰る途中に色々話したが、広瀬のことで頭がいっぱいになっていた桜井には、その会話の内容が、全く耳に入ってこなかった。
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いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
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