桜の花びらは、いつ散ってくれるのだろうか。

北国

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4. 思考

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 次の日、午前の授業を終えて、桜井は疲労感から溜息をついた。今日の数学の授業はついていくのがやっとなほどスピーディーで、内容が難しかった。正直、全く理解できていないところもある。今日習ったところをすぐ復習しないと、次の授業も理解できないかもしれない。桜井は再び溜息をついた。
 クラス内がざわつき始め、会話が聞こえてくる。桜井はどこかから聞こえてくる雑談に耳を傾けながら、カバンから巾着に入った弁当を取り出した。
 いつものように、巾着の紐を解こうとした。その時だった。

「桜井くん、いる?」

 ピアノのような高らかに弾む声が聞こえて、ドアのほうを向いた。そこに立っていたのは、黄色い弁当包みを持った高山だった。高山は片手で弁当包みを持ち、もう片方の手で手招きをした。
 桜井は席を立って、速足で高山に近づいた。

「ごめんね、急に。私、これから広瀬くんとご飯を食べるんだけど、桜井くんもどうかな?」

 僕は目をしばたたいた。誰かから、昼ごはんの誘いを受けるのは初めてだったから、高山の誘いには驚いた。高山の誘いは、純粋に嬉しく思う。だが、自分が言っても邪魔になるだけなのではないか。桜井は嬉しさ反面、不安も感じた。

「広瀬くんと、二人で食べなくていいの? 僕が言っても邪魔になるんじゃ……」

 そう言うと、高山は「大丈夫だよ」と笑って答えた。

「桜井くんは広瀬くんと知り合いだし、私の友達でしょ? 何の問題も無いよ。一緒に食べよう」

 高山の屈託のない笑顔を見て、桜井は頷くことしかできなかった。まだ、不安が拭えないが、高山の笑顔に押され、桜井は巾着を持って、高山についていった。クラスメイト達が怪訝そうな目で桜井を見ていたが、桜井は気付かなかったふりをした。
 二人は人気のない渡り廊下を進み、図書室のある廊下を右に曲がり、その奥にある空き教室に着いた。高山がドアをがらがらと開けると、そこには、椅子に座って本を読む広瀬の姿があった。
 やはり、広瀬は美しかった。足を組んで本に耽る姿は、芸術品のような崇高さを感じさせた。広瀬は本から目線を外し、ゆっくりと顔を上げた。

「広瀬くん。今日は桜井くんも一緒にいいかな」

 高山がそう言うと、広瀬は「ああ」とぶっきらぼうに答えた。ひとまず断られなかったことに桜井は安堵し、高山と一緒に広瀬と向かい合う形で座った。
 桜井は持ってきた巾着から弁当を取り出した。今日の弁当は、焼いた鮭と卵焼き、そして茹でたブロッコリー、そして白米を適当に詰めたものだった。桜井が弁当の蓋を開けると、高山は目を輝かせた。

「すごい、美味しそうだね。お母さんが作ったの?」
「いや、自分で作ったよ。母は滅多に家に帰ってこないから」
「へえ。自分で作れるなんてすごいよ、ね、広瀬くん」

 高山は、広瀬に目を配った。広瀬は桜井の弁当を覗き込むと「ああ」と一言だけ言った。
 そして、広瀬は本を太ももの上に置き、代わりに太ももの上に置いてあった菓子パンの袋を開けた。高山も持参した弁当を開けて、それぞれ食べ始めた。桜井も箸を取り出して、卵焼きを頬張った。

「広瀬くんも見習わないとね。いつも購買の菓子パンだけだもの。栄養偏るよ?」
「別に食べられれば、なんだって構わない」
「不摂生は体に良くないでしょ。いつかお腹が出て、太るよ?」
「別に気にしない」
「気にしなくても、いつか体に出てくるのよ」

 二人のやり取りを見て、まるで親子みたいだと思った。偏食な息子と、心配する母親。桜井はなんだか可笑しくなって、つい、ふふっと笑ってしまった。

「桜井くんも何か言ってやって。野菜食べろ、とか何でもいいから」
「なら、ブロッコリーを分けてあげるよ」

 桜井はブロッコリーを箸でつまんだ。それを見た高山も、トマトを小さなピックで刺した。

「いいね。じゃあ、私もトマト、分けてあげる」
「いらない」
「遠慮することないじゃない。それとも野菜、嫌いなの?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ食べれるよね」

 そう言って、高山は広瀬の口の前に、トマトを差し出した。広瀬は眉間にしわを寄せながらも、差し出されたトマトを食べた。十回ほど噛んだ後、広瀬はトマトを飲み込む。その喉仏の動きに、何故か桜井の心臓の鼓動が高まった。

「桜井くんも、ブロッコリー食べさせなよ」

 高山が桜井を見る。その顔はこれからいたずらを仕掛けようとする悪い顔だった。

「え、でもほら、高山さんから食べさせた方がいいと思うけど……」
「細かいことはいいの。広瀬くんのためよ」

 ほら、と高山に背中を軽くたたかれ、断れないと思った桜井は、箸でつまんだブロッコリーを広瀬の口の前に差し出した。広瀬は躊躇いなくブロッコリーを食べた。
 噛んだ時の頬と顎の動き、飲み込むときの喉仏の上下に、桜井は目を奪われる。
 やはり、この男は芸術品の様ようだ。それ以外にどうも思えない。日常の中にいようといまいと、広瀬は美しい。いや、美しいという言葉の檻では形容できない、高次の何かを秘めている。その何かは、桜井には理解できない。だが、間違いなく目を引くその動作に、桜井の心は、かつてないほど高揚していた。
 そして、ブロッコリーを飲み込んだ広瀬は、再びパンに口を付けた。

「まだ野菜足りていないし、明日も食べさせなきゃ。桜井くんも、明日も野菜分けてあげてよ」
「それって、明日も一緒に食べようってこと?」
「もちろん。二人より三人の方が楽しいでしょ?」

 高山は笑っていた。正直、広瀬のことをもっと見たいという気持ちはある。それに、高山とこうして三人でご飯を食べて、日常の中の広瀬をもっと知りたいという気持ちも芽生えはじめた。
 だが、果たして、彼氏彼女の時間をこれ以上邪魔していいものなのだろうか。高山は、自分のことを邪魔と言わないが、広瀬はどう思うのだろうか。他の人なら、彼女との時間を大切にしたいと思うだろう。だが、この男はどうか。全く本質が見えない男は、果たして高山との時間をどう思うのか。自分がその時間に割って入ってどう思うのか。

「広瀬くんが良いっていうなら」

 桜井にはそれしか言えなかった。桜井は不安げな目で広瀬を見た。広瀬は顔一つ変えず、パンを頬張っている。

「だってさ。広瀬くん、どうかな?」
「別に構わない」

 広瀬は素っ気なく答えた。とりあえず断られなかったことに、桜井は安堵した。だが、結局、二人の時間を邪魔していいのかという疑問は、胸に残ったままだった。
 そのまま昼食を食べ終え、三人は教室から出た。先ほどまで人気のなかった渡り廊下には、生徒たちがまばらに歩いていた。

「次の授業、私は数学なんだけど、広瀬くんと桜井くんは次なんの授業?」
「僕は英語だよ。広瀬くんは?」
「体育」

 桜井はふと、自分の左腕に付けていた腕時計を見た。次の授業まであと10分を切っていた。その様子を見た高山は「今何時?」と、桜井の腕時計を覗き込もうとしたので、桜井は高山に腕時計を見せた。

「体育なら、そろそろ着替えないとまずくない? チャイムが鳴る前に集合しないと、先生に怒られるよ」
「別に。着替えならすぐ済む」

 広瀬がそう言い切ると、高山は肩をすくめた。

「それならいいけど。でも体育の先生って、なんで妙に風当り厳しいんだろう。遅刻したからって、あんなにぐちぐち言わなくてもいいと思わない? 私一回怒られたけど、遅刻ってだけで10分も怒られてさ。しかも授業中も、出来なかったら責めるような言い方して、運動音痴を馬鹿にしてる。桜井くんもそう思わない?」

 桜井は返答に迷った。
 桜井は狭心症で、体育の授業に出ることができない。だから体育の授業中の先生の様子も知らない。体育館で見学していた時期もあったけれど、あの時はただぼんやりと眺めていただけで、そんな詳しい様子までは知らなかった。
 ただ、正直に言ってしまえば、体育の授業に参加しない桜井を妬む生徒たちのように、何か言われるかもしれない。そう思ってしまったら、素直に事情を説明するのは、たとえ高山相手でも出来なかった。

「そ、そうだね……」

 桜井はあいまいな返事をした。「でしょ?」と高山は笑っていたが、桜井は笑えなかった。その様子を広瀬はただ眺めていた。
 そうして話すうちに、広瀬は体育館に向かうため、途中で別れ、桜井と高山は二人で廊下を歩いていた。

「……実を言うとさ、広瀬くんと二人で食べるの、何だか気が引けたんだ」

 高山は笑ってはいたが、その瞳は曇っていた。

「広瀬くんに『好きじゃない』って言われて、私、落ち込んでたから。桜井くんはそのままでいいって言ってくれたけど、やっぱり、何となく気まずくて。桜井くんがいてくれて助かったよ。明日も、いや、明日だけじゃなくても、一緒に食べてくれると嬉しいな」

 桜井は静かに頷いた。高山は安堵した表情で、「良かった」と言葉を漏らした。

 その日の放課後、桜井は美術部へ向かった。美術室には秋山先輩がいて、壁に立てかけてあった絵を、じっと観察するように眺めていた。

「お疲れ様です」

 桜井が声をかけると、秋山は、はっとして桜井の方を向いた。

「おや、桜井くん。来ていたのかい? 気が付かなかったよ」
「今しがた来たところです」

 桜井は持っていたカバンを部屋の隅に置いて、周りを見渡す。高山はまだ来ていなかった。

「高山さんはまだ来ていないみたいですね」
「どうやら補習らしい。メッセージで、『英語の補習があるので今日は休みます』って連絡がきたよ。今日は君と二人きりだ」

 秋山はそう言うと、再び絵の方を向いた。桜井は秋山に近づく。秋山が見ていたのは、描きかけの桜の油彩画だった。桜を下から覗き込んでいるようなアングルで描かれている。空の青色、その空のもとに咲く桜の桃色、木の幹の茶色がざっくりと塗られているが、細部はまだ塗り込まれていない。

「これは高山さんの作品なんだ。これほど大まかに塗られていようと、大体どんな絵が出来上がるのか、想像できてしまうね」
「ええ。そうですね」
「実に彼女らしい作品だと思わないかい? 青空の下、のびやかに花を咲かせる桜。彼女の内面からにじみ出る明るさが表現されている。この絵の完成が待ち遠しいよ」

 秋山は微笑んだ。高山の絵は確かに引き込まれる。描きかけとはいえ、高山がどんな目で桜を見ているのか、絵というフィルターを通して感じることができる。桜は美しいものだが、何となくそこに晴れやかさを感じるのは、悠々と咲く桜に、彼女は自由を感じ取ったからなのかもしれない。
 しばらく桜井が高山の絵から目を離せずにいると、秋山はそんな桜井を見てふふ、と笑った。

「すごいね。やはり絵に引き込まれているときの君の目は、本当に綺麗だ」

 桜井が秋山の方を向くと、秋山は桜井の目をじっと見つめていた。何だか恥ずかしくなって、桜井は思わず赤面し、俯いた。

「君のその反応はなかなか面白いね。まるで熟れたりんごのように、真っ赤になっていく」
「か、からかわないでください」
「他意は無いよ。純粋に、君の反応が面白かっただけさ。君の瞳の煌めきも、その赤面した顔も、中々興味深いよ」

 桜井は恥ずかしさのあまり固まってしまった。秋山はそんな桜井をよそに、言葉を続けた。

「それと同時に、純粋な疑問が湧き上がってくる」

 桜井が顔を上げると、秋山は真顔だった。

「桜井くんは、自分のことをどう見るのかな? その瞳に、自分はどう映っている?」

 秋山のまっすぐな瞳が桜井を射抜く。桜井は、その視線を逸らせずにいた。

「秋山淳という作品を、君はどう見る?」

 桜井は目を逸らさぬまま、考えを巡らせる。
 秋山と最初に話した時、純粋に怖かった。心の奥の恥ずかしいところまで、全てを見抜く視線。今も同じ目で桜井をじっと、まっすぐ見つめている。そこには何の輝きも陰りも無い。単なる好奇心だけが、そこにはある。

「好奇心が旺盛で、純粋で、ある意味で正直な人、ですか?」

 桜井は、恐る恐る、自分の考えを声に出した。すると、秋山はすっと目を閉じて、何かを考えた後、再び目を開けた。

「本当にそれだけかい?」
「え?」
「君が見ている私は、単なる一側面に過ぎない。本当にそれだけなのか?」

 桜井は目をしばたたいた。そして、秋山は桜井に一歩近づいた。あまりの距離の近さに、桜井は一歩下がろうとした。だが、秋山の鋭い眼差しに、桜井は恐怖のあまり委縮し、動けずにいた。

「何が、言いたいんですか」

 桜井の声は震えていた。

「聞きたいだけさ。自分は何者なのか。自分という人間の本質を、相手はどう見るのか。どう答えるのか。そこに理由なんてない」

 理由なんてない。その言葉に、広瀬のことを思い出した。理由も無く、ただ桜を見上げる広瀬。そして、理由も無く、ただ本を読み返す広瀬の姿を、桜井は無意識に、秋山の姿に重ね合わせていた。
 桜井は考えを巡らせるが、全く思い浮かばない。
 秋山がどんな人間で、どんな人なのか。表面的に分かっていても、秋山の言う本質は、全く分からない。大体、昨日会ったばかりだというのに、いきなり自分の本質を聞いてくるなんて、やっぱり、秋山は得体の知れない男だ。
 桜井がしばらく考え込んで黙っていると、秋山がそっと桜井の顔に触れた。桜井は驚いて身を引こうとする。しかし、先ほどの陰も輝きも無い視線とは違い、秋山の鋭い眼差しの中には、凍てついた何かが含まれていた。その何かを感じ取った桜井の体は、恐怖からなのか、哀れみからなのか、動けなくなっていた。
 しばらくして、秋山の肩が小刻みに震える。そして、秋山は大声で笑い始めた。
 桜井は何が何だか理解できず、ただ呆然としていた。

「はははは。これはすまない。からかいすぎたね」

 そう言うと、秋山は桜井の顔から手を離し、一歩後ろに下がった。
 そして、桜井の瞳を真っすぐ見た。

「だが、君はもう少し人を見たほうがいい。より深く、思考の底まで」

 秋山は再び、高山の絵を眺めはじめた。桜井は、何事も無かったかのように振る舞う秋山のその態度が、どうも気に食わなかった。

「……どうして、僕をからかったんですか」

 桜井が不満げにそう言うと、秋山は優しく微笑んだ。

「君に少しばかり、ヒントを与えたかったからだよ」
「ヒント? それって何の……」
「まあ、役に立つかは君の行動次第ってところかな」

 秋山の発言の意図が全く掴めず、桜井はただ困惑していた。秋山はその様子を面白そうに見つめていた。
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