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4. 思考
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次の日、午前の授業を終えて、桜井は疲労感から溜息をついた。今日の数学の授業はついていくのがやっとなほどスピーディーで、内容が難しかった。正直、全く理解できていないところもある。今日習ったところをすぐ復習しないと、次の授業も理解できないかもしれない。桜井は再び溜息をついた。
クラス内がざわつき始め、会話が聞こえてくる。桜井はどこかから聞こえてくる雑談に耳を傾けながら、カバンから巾着に入った弁当を取り出した。
いつものように、巾着の紐を解こうとした。その時だった。
「桜井くん、いる?」
ピアノのような高らかに弾む声が聞こえて、ドアのほうを向いた。そこに立っていたのは、黄色い弁当包みを持った高山だった。高山は片手で弁当包みを持ち、もう片方の手で手招きをした。
桜井は席を立って、速足で高山に近づいた。
「ごめんね、急に。私、これから広瀬くんとご飯を食べるんだけど、桜井くんもどうかな?」
僕は目をしばたたいた。誰かから、昼ごはんの誘いを受けるのは初めてだったから、高山の誘いには驚いた。高山の誘いは、純粋に嬉しく思う。だが、自分が言っても邪魔になるだけなのではないか。桜井は嬉しさ反面、不安も感じた。
「広瀬くんと、二人で食べなくていいの? 僕が言っても邪魔になるんじゃ……」
そう言うと、高山は「大丈夫だよ」と笑って答えた。
「桜井くんは広瀬くんと知り合いだし、私の友達でしょ? 何の問題も無いよ。一緒に食べよう」
高山の屈託のない笑顔を見て、桜井は頷くことしかできなかった。まだ、不安が拭えないが、高山の笑顔に押され、桜井は巾着を持って、高山についていった。クラスメイト達が怪訝そうな目で桜井を見ていたが、桜井は気付かなかったふりをした。
二人は人気のない渡り廊下を進み、図書室のある廊下を右に曲がり、その奥にある空き教室に着いた。高山がドアをがらがらと開けると、そこには、椅子に座って本を読む広瀬の姿があった。
やはり、広瀬は美しかった。足を組んで本に耽る姿は、芸術品のような崇高さを感じさせた。広瀬は本から目線を外し、ゆっくりと顔を上げた。
「広瀬くん。今日は桜井くんも一緒にいいかな」
高山がそう言うと、広瀬は「ああ」とぶっきらぼうに答えた。ひとまず断られなかったことに桜井は安堵し、高山と一緒に広瀬と向かい合う形で座った。
桜井は持ってきた巾着から弁当を取り出した。今日の弁当は、焼いた鮭と卵焼き、そして茹でたブロッコリー、そして白米を適当に詰めたものだった。桜井が弁当の蓋を開けると、高山は目を輝かせた。
「すごい、美味しそうだね。お母さんが作ったの?」
「いや、自分で作ったよ。母は滅多に家に帰ってこないから」
「へえ。自分で作れるなんてすごいよ、ね、広瀬くん」
高山は、広瀬に目を配った。広瀬は桜井の弁当を覗き込むと「ああ」と一言だけ言った。
そして、広瀬は本を太ももの上に置き、代わりに太ももの上に置いてあった菓子パンの袋を開けた。高山も持参した弁当を開けて、それぞれ食べ始めた。桜井も箸を取り出して、卵焼きを頬張った。
「広瀬くんも見習わないとね。いつも購買の菓子パンだけだもの。栄養偏るよ?」
「別に食べられれば、なんだって構わない」
「不摂生は体に良くないでしょ。いつかお腹が出て、太るよ?」
「別に気にしない」
「気にしなくても、いつか体に出てくるのよ」
二人のやり取りを見て、まるで親子みたいだと思った。偏食な息子と、心配する母親。桜井はなんだか可笑しくなって、つい、ふふっと笑ってしまった。
「桜井くんも何か言ってやって。野菜食べろ、とか何でもいいから」
「なら、ブロッコリーを分けてあげるよ」
桜井はブロッコリーを箸でつまんだ。それを見た高山も、トマトを小さなピックで刺した。
「いいね。じゃあ、私もトマト、分けてあげる」
「いらない」
「遠慮することないじゃない。それとも野菜、嫌いなの?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ食べれるよね」
そう言って、高山は広瀬の口の前に、トマトを差し出した。広瀬は眉間にしわを寄せながらも、差し出されたトマトを食べた。十回ほど噛んだ後、広瀬はトマトを飲み込む。その喉仏の動きに、何故か桜井の心臓の鼓動が高まった。
「桜井くんも、ブロッコリー食べさせなよ」
高山が桜井を見る。その顔はこれからいたずらを仕掛けようとする悪い顔だった。
「え、でもほら、高山さんから食べさせた方がいいと思うけど……」
「細かいことはいいの。広瀬くんのためよ」
ほら、と高山に背中を軽くたたかれ、断れないと思った桜井は、箸でつまんだブロッコリーを広瀬の口の前に差し出した。広瀬は躊躇いなくブロッコリーを食べた。
噛んだ時の頬と顎の動き、飲み込むときの喉仏の上下に、桜井は目を奪われる。
やはり、この男は芸術品の様ようだ。それ以外にどうも思えない。日常の中にいようといまいと、広瀬は美しい。いや、美しいという言葉の檻では形容できない、高次の何かを秘めている。その何かは、桜井には理解できない。だが、間違いなく目を引くその動作に、桜井の心は、かつてないほど高揚していた。
そして、ブロッコリーを飲み込んだ広瀬は、再びパンに口を付けた。
「まだ野菜足りていないし、明日も食べさせなきゃ。桜井くんも、明日も野菜分けてあげてよ」
「それって、明日も一緒に食べようってこと?」
「もちろん。二人より三人の方が楽しいでしょ?」
高山は笑っていた。正直、広瀬のことをもっと見たいという気持ちはある。それに、高山とこうして三人でご飯を食べて、日常の中の広瀬をもっと知りたいという気持ちも芽生えはじめた。
だが、果たして、彼氏彼女の時間をこれ以上邪魔していいものなのだろうか。高山は、自分のことを邪魔と言わないが、広瀬はどう思うのだろうか。他の人なら、彼女との時間を大切にしたいと思うだろう。だが、この男はどうか。全く本質が見えない男は、果たして高山との時間をどう思うのか。自分がその時間に割って入ってどう思うのか。
「広瀬くんが良いっていうなら」
桜井にはそれしか言えなかった。桜井は不安げな目で広瀬を見た。広瀬は顔一つ変えず、パンを頬張っている。
「だってさ。広瀬くん、どうかな?」
「別に構わない」
広瀬は素っ気なく答えた。とりあえず断られなかったことに、桜井は安堵した。だが、結局、二人の時間を邪魔していいのかという疑問は、胸に残ったままだった。
そのまま昼食を食べ終え、三人は教室から出た。先ほどまで人気のなかった渡り廊下には、生徒たちがまばらに歩いていた。
「次の授業、私は数学なんだけど、広瀬くんと桜井くんは次なんの授業?」
「僕は英語だよ。広瀬くんは?」
「体育」
桜井はふと、自分の左腕に付けていた腕時計を見た。次の授業まであと10分を切っていた。その様子を見た高山は「今何時?」と、桜井の腕時計を覗き込もうとしたので、桜井は高山に腕時計を見せた。
「体育なら、そろそろ着替えないとまずくない? チャイムが鳴る前に集合しないと、先生に怒られるよ」
「別に。着替えならすぐ済む」
広瀬がそう言い切ると、高山は肩をすくめた。
「それならいいけど。でも体育の先生って、なんで妙に風当り厳しいんだろう。遅刻したからって、あんなにぐちぐち言わなくてもいいと思わない? 私一回怒られたけど、遅刻ってだけで10分も怒られてさ。しかも授業中も、出来なかったら責めるような言い方して、運動音痴を馬鹿にしてる。桜井くんもそう思わない?」
桜井は返答に迷った。
桜井は狭心症で、体育の授業に出ることができない。だから体育の授業中の先生の様子も知らない。体育館で見学していた時期もあったけれど、あの時はただぼんやりと眺めていただけで、そんな詳しい様子までは知らなかった。
ただ、正直に言ってしまえば、体育の授業に参加しない桜井を妬む生徒たちのように、何か言われるかもしれない。そう思ってしまったら、素直に事情を説明するのは、たとえ高山相手でも出来なかった。
「そ、そうだね……」
桜井はあいまいな返事をした。「でしょ?」と高山は笑っていたが、桜井は笑えなかった。その様子を広瀬はただ眺めていた。
そうして話すうちに、広瀬は体育館に向かうため、途中で別れ、桜井と高山は二人で廊下を歩いていた。
「……実を言うとさ、広瀬くんと二人で食べるの、何だか気が引けたんだ」
高山は笑ってはいたが、その瞳は曇っていた。
「広瀬くんに『好きじゃない』って言われて、私、落ち込んでたから。桜井くんはそのままでいいって言ってくれたけど、やっぱり、何となく気まずくて。桜井くんがいてくれて助かったよ。明日も、いや、明日だけじゃなくても、一緒に食べてくれると嬉しいな」
桜井は静かに頷いた。高山は安堵した表情で、「良かった」と言葉を漏らした。
その日の放課後、桜井は美術部へ向かった。美術室には秋山先輩がいて、壁に立てかけてあった絵を、じっと観察するように眺めていた。
「お疲れ様です」
桜井が声をかけると、秋山は、はっとして桜井の方を向いた。
「おや、桜井くん。来ていたのかい? 気が付かなかったよ」
「今しがた来たところです」
桜井は持っていたカバンを部屋の隅に置いて、周りを見渡す。高山はまだ来ていなかった。
「高山さんはまだ来ていないみたいですね」
「どうやら補習らしい。メッセージで、『英語の補習があるので今日は休みます』って連絡がきたよ。今日は君と二人きりだ」
秋山はそう言うと、再び絵の方を向いた。桜井は秋山に近づく。秋山が見ていたのは、描きかけの桜の油彩画だった。桜を下から覗き込んでいるようなアングルで描かれている。空の青色、その空のもとに咲く桜の桃色、木の幹の茶色がざっくりと塗られているが、細部はまだ塗り込まれていない。
「これは高山さんの作品なんだ。これほど大まかに塗られていようと、大体どんな絵が出来上がるのか、想像できてしまうね」
「ええ。そうですね」
「実に彼女らしい作品だと思わないかい? 青空の下、のびやかに花を咲かせる桜。彼女の内面からにじみ出る明るさが表現されている。この絵の完成が待ち遠しいよ」
秋山は微笑んだ。高山の絵は確かに引き込まれる。描きかけとはいえ、高山がどんな目で桜を見ているのか、絵というフィルターを通して感じることができる。桜は美しいものだが、何となくそこに晴れやかさを感じるのは、悠々と咲く桜に、彼女は自由を感じ取ったからなのかもしれない。
しばらく桜井が高山の絵から目を離せずにいると、秋山はそんな桜井を見てふふ、と笑った。
「すごいね。やはり絵に引き込まれているときの君の目は、本当に綺麗だ」
桜井が秋山の方を向くと、秋山は桜井の目をじっと見つめていた。何だか恥ずかしくなって、桜井は思わず赤面し、俯いた。
「君のその反応はなかなか面白いね。まるで熟れたりんごのように、真っ赤になっていく」
「か、からかわないでください」
「他意は無いよ。純粋に、君の反応が面白かっただけさ。君の瞳の煌めきも、その赤面した顔も、中々興味深いよ」
桜井は恥ずかしさのあまり固まってしまった。秋山はそんな桜井をよそに、言葉を続けた。
「それと同時に、純粋な疑問が湧き上がってくる」
桜井が顔を上げると、秋山は真顔だった。
「桜井くんは、自分のことをどう見るのかな? その瞳に、自分はどう映っている?」
秋山のまっすぐな瞳が桜井を射抜く。桜井は、その視線を逸らせずにいた。
「秋山淳という作品を、君はどう見る?」
桜井は目を逸らさぬまま、考えを巡らせる。
秋山と最初に話した時、純粋に怖かった。心の奥の恥ずかしいところまで、全てを見抜く視線。今も同じ目で桜井をじっと、まっすぐ見つめている。そこには何の輝きも陰りも無い。単なる好奇心だけが、そこにはある。
「好奇心が旺盛で、純粋で、ある意味で正直な人、ですか?」
桜井は、恐る恐る、自分の考えを声に出した。すると、秋山はすっと目を閉じて、何かを考えた後、再び目を開けた。
「本当にそれだけかい?」
「え?」
「君が見ている私は、単なる一側面に過ぎない。本当にそれだけなのか?」
桜井は目をしばたたいた。そして、秋山は桜井に一歩近づいた。あまりの距離の近さに、桜井は一歩下がろうとした。だが、秋山の鋭い眼差しに、桜井は恐怖のあまり委縮し、動けずにいた。
「何が、言いたいんですか」
桜井の声は震えていた。
「聞きたいだけさ。自分は何者なのか。自分という人間の本質を、相手はどう見るのか。どう答えるのか。そこに理由なんてない」
理由なんてない。その言葉に、広瀬のことを思い出した。理由も無く、ただ桜を見上げる広瀬。そして、理由も無く、ただ本を読み返す広瀬の姿を、桜井は無意識に、秋山の姿に重ね合わせていた。
桜井は考えを巡らせるが、全く思い浮かばない。
秋山がどんな人間で、どんな人なのか。表面的に分かっていても、秋山の言う本質は、全く分からない。大体、昨日会ったばかりだというのに、いきなり自分の本質を聞いてくるなんて、やっぱり、秋山は得体の知れない男だ。
桜井がしばらく考え込んで黙っていると、秋山がそっと桜井の顔に触れた。桜井は驚いて身を引こうとする。しかし、先ほどの陰も輝きも無い視線とは違い、秋山の鋭い眼差しの中には、凍てついた何かが含まれていた。その何かを感じ取った桜井の体は、恐怖からなのか、哀れみからなのか、動けなくなっていた。
しばらくして、秋山の肩が小刻みに震える。そして、秋山は大声で笑い始めた。
桜井は何が何だか理解できず、ただ呆然としていた。
「はははは。これはすまない。からかいすぎたね」
そう言うと、秋山は桜井の顔から手を離し、一歩後ろに下がった。
そして、桜井の瞳を真っすぐ見た。
「だが、君はもう少し人を見たほうがいい。より深く、思考の底まで」
秋山は再び、高山の絵を眺めはじめた。桜井は、何事も無かったかのように振る舞う秋山のその態度が、どうも気に食わなかった。
「……どうして、僕をからかったんですか」
桜井が不満げにそう言うと、秋山は優しく微笑んだ。
「君に少しばかり、ヒントを与えたかったからだよ」
「ヒント? それって何の……」
「まあ、役に立つかは君の行動次第ってところかな」
秋山の発言の意図が全く掴めず、桜井はただ困惑していた。秋山はその様子を面白そうに見つめていた。
クラス内がざわつき始め、会話が聞こえてくる。桜井はどこかから聞こえてくる雑談に耳を傾けながら、カバンから巾着に入った弁当を取り出した。
いつものように、巾着の紐を解こうとした。その時だった。
「桜井くん、いる?」
ピアノのような高らかに弾む声が聞こえて、ドアのほうを向いた。そこに立っていたのは、黄色い弁当包みを持った高山だった。高山は片手で弁当包みを持ち、もう片方の手で手招きをした。
桜井は席を立って、速足で高山に近づいた。
「ごめんね、急に。私、これから広瀬くんとご飯を食べるんだけど、桜井くんもどうかな?」
僕は目をしばたたいた。誰かから、昼ごはんの誘いを受けるのは初めてだったから、高山の誘いには驚いた。高山の誘いは、純粋に嬉しく思う。だが、自分が言っても邪魔になるだけなのではないか。桜井は嬉しさ反面、不安も感じた。
「広瀬くんと、二人で食べなくていいの? 僕が言っても邪魔になるんじゃ……」
そう言うと、高山は「大丈夫だよ」と笑って答えた。
「桜井くんは広瀬くんと知り合いだし、私の友達でしょ? 何の問題も無いよ。一緒に食べよう」
高山の屈託のない笑顔を見て、桜井は頷くことしかできなかった。まだ、不安が拭えないが、高山の笑顔に押され、桜井は巾着を持って、高山についていった。クラスメイト達が怪訝そうな目で桜井を見ていたが、桜井は気付かなかったふりをした。
二人は人気のない渡り廊下を進み、図書室のある廊下を右に曲がり、その奥にある空き教室に着いた。高山がドアをがらがらと開けると、そこには、椅子に座って本を読む広瀬の姿があった。
やはり、広瀬は美しかった。足を組んで本に耽る姿は、芸術品のような崇高さを感じさせた。広瀬は本から目線を外し、ゆっくりと顔を上げた。
「広瀬くん。今日は桜井くんも一緒にいいかな」
高山がそう言うと、広瀬は「ああ」とぶっきらぼうに答えた。ひとまず断られなかったことに桜井は安堵し、高山と一緒に広瀬と向かい合う形で座った。
桜井は持ってきた巾着から弁当を取り出した。今日の弁当は、焼いた鮭と卵焼き、そして茹でたブロッコリー、そして白米を適当に詰めたものだった。桜井が弁当の蓋を開けると、高山は目を輝かせた。
「すごい、美味しそうだね。お母さんが作ったの?」
「いや、自分で作ったよ。母は滅多に家に帰ってこないから」
「へえ。自分で作れるなんてすごいよ、ね、広瀬くん」
高山は、広瀬に目を配った。広瀬は桜井の弁当を覗き込むと「ああ」と一言だけ言った。
そして、広瀬は本を太ももの上に置き、代わりに太ももの上に置いてあった菓子パンの袋を開けた。高山も持参した弁当を開けて、それぞれ食べ始めた。桜井も箸を取り出して、卵焼きを頬張った。
「広瀬くんも見習わないとね。いつも購買の菓子パンだけだもの。栄養偏るよ?」
「別に食べられれば、なんだって構わない」
「不摂生は体に良くないでしょ。いつかお腹が出て、太るよ?」
「別に気にしない」
「気にしなくても、いつか体に出てくるのよ」
二人のやり取りを見て、まるで親子みたいだと思った。偏食な息子と、心配する母親。桜井はなんだか可笑しくなって、つい、ふふっと笑ってしまった。
「桜井くんも何か言ってやって。野菜食べろ、とか何でもいいから」
「なら、ブロッコリーを分けてあげるよ」
桜井はブロッコリーを箸でつまんだ。それを見た高山も、トマトを小さなピックで刺した。
「いいね。じゃあ、私もトマト、分けてあげる」
「いらない」
「遠慮することないじゃない。それとも野菜、嫌いなの?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ食べれるよね」
そう言って、高山は広瀬の口の前に、トマトを差し出した。広瀬は眉間にしわを寄せながらも、差し出されたトマトを食べた。十回ほど噛んだ後、広瀬はトマトを飲み込む。その喉仏の動きに、何故か桜井の心臓の鼓動が高まった。
「桜井くんも、ブロッコリー食べさせなよ」
高山が桜井を見る。その顔はこれからいたずらを仕掛けようとする悪い顔だった。
「え、でもほら、高山さんから食べさせた方がいいと思うけど……」
「細かいことはいいの。広瀬くんのためよ」
ほら、と高山に背中を軽くたたかれ、断れないと思った桜井は、箸でつまんだブロッコリーを広瀬の口の前に差し出した。広瀬は躊躇いなくブロッコリーを食べた。
噛んだ時の頬と顎の動き、飲み込むときの喉仏の上下に、桜井は目を奪われる。
やはり、この男は芸術品の様ようだ。それ以外にどうも思えない。日常の中にいようといまいと、広瀬は美しい。いや、美しいという言葉の檻では形容できない、高次の何かを秘めている。その何かは、桜井には理解できない。だが、間違いなく目を引くその動作に、桜井の心は、かつてないほど高揚していた。
そして、ブロッコリーを飲み込んだ広瀬は、再びパンに口を付けた。
「まだ野菜足りていないし、明日も食べさせなきゃ。桜井くんも、明日も野菜分けてあげてよ」
「それって、明日も一緒に食べようってこと?」
「もちろん。二人より三人の方が楽しいでしょ?」
高山は笑っていた。正直、広瀬のことをもっと見たいという気持ちはある。それに、高山とこうして三人でご飯を食べて、日常の中の広瀬をもっと知りたいという気持ちも芽生えはじめた。
だが、果たして、彼氏彼女の時間をこれ以上邪魔していいものなのだろうか。高山は、自分のことを邪魔と言わないが、広瀬はどう思うのだろうか。他の人なら、彼女との時間を大切にしたいと思うだろう。だが、この男はどうか。全く本質が見えない男は、果たして高山との時間をどう思うのか。自分がその時間に割って入ってどう思うのか。
「広瀬くんが良いっていうなら」
桜井にはそれしか言えなかった。桜井は不安げな目で広瀬を見た。広瀬は顔一つ変えず、パンを頬張っている。
「だってさ。広瀬くん、どうかな?」
「別に構わない」
広瀬は素っ気なく答えた。とりあえず断られなかったことに、桜井は安堵した。だが、結局、二人の時間を邪魔していいのかという疑問は、胸に残ったままだった。
そのまま昼食を食べ終え、三人は教室から出た。先ほどまで人気のなかった渡り廊下には、生徒たちがまばらに歩いていた。
「次の授業、私は数学なんだけど、広瀬くんと桜井くんは次なんの授業?」
「僕は英語だよ。広瀬くんは?」
「体育」
桜井はふと、自分の左腕に付けていた腕時計を見た。次の授業まであと10分を切っていた。その様子を見た高山は「今何時?」と、桜井の腕時計を覗き込もうとしたので、桜井は高山に腕時計を見せた。
「体育なら、そろそろ着替えないとまずくない? チャイムが鳴る前に集合しないと、先生に怒られるよ」
「別に。着替えならすぐ済む」
広瀬がそう言い切ると、高山は肩をすくめた。
「それならいいけど。でも体育の先生って、なんで妙に風当り厳しいんだろう。遅刻したからって、あんなにぐちぐち言わなくてもいいと思わない? 私一回怒られたけど、遅刻ってだけで10分も怒られてさ。しかも授業中も、出来なかったら責めるような言い方して、運動音痴を馬鹿にしてる。桜井くんもそう思わない?」
桜井は返答に迷った。
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「そ、そうだね……」
桜井はあいまいな返事をした。「でしょ?」と高山は笑っていたが、桜井は笑えなかった。その様子を広瀬はただ眺めていた。
そうして話すうちに、広瀬は体育館に向かうため、途中で別れ、桜井と高山は二人で廊下を歩いていた。
「……実を言うとさ、広瀬くんと二人で食べるの、何だか気が引けたんだ」
高山は笑ってはいたが、その瞳は曇っていた。
「広瀬くんに『好きじゃない』って言われて、私、落ち込んでたから。桜井くんはそのままでいいって言ってくれたけど、やっぱり、何となく気まずくて。桜井くんがいてくれて助かったよ。明日も、いや、明日だけじゃなくても、一緒に食べてくれると嬉しいな」
桜井は静かに頷いた。高山は安堵した表情で、「良かった」と言葉を漏らした。
その日の放課後、桜井は美術部へ向かった。美術室には秋山先輩がいて、壁に立てかけてあった絵を、じっと観察するように眺めていた。
「お疲れ様です」
桜井が声をかけると、秋山は、はっとして桜井の方を向いた。
「おや、桜井くん。来ていたのかい? 気が付かなかったよ」
「今しがた来たところです」
桜井は持っていたカバンを部屋の隅に置いて、周りを見渡す。高山はまだ来ていなかった。
「高山さんはまだ来ていないみたいですね」
「どうやら補習らしい。メッセージで、『英語の補習があるので今日は休みます』って連絡がきたよ。今日は君と二人きりだ」
秋山はそう言うと、再び絵の方を向いた。桜井は秋山に近づく。秋山が見ていたのは、描きかけの桜の油彩画だった。桜を下から覗き込んでいるようなアングルで描かれている。空の青色、その空のもとに咲く桜の桃色、木の幹の茶色がざっくりと塗られているが、細部はまだ塗り込まれていない。
「これは高山さんの作品なんだ。これほど大まかに塗られていようと、大体どんな絵が出来上がるのか、想像できてしまうね」
「ええ。そうですね」
「実に彼女らしい作品だと思わないかい? 青空の下、のびやかに花を咲かせる桜。彼女の内面からにじみ出る明るさが表現されている。この絵の完成が待ち遠しいよ」
秋山は微笑んだ。高山の絵は確かに引き込まれる。描きかけとはいえ、高山がどんな目で桜を見ているのか、絵というフィルターを通して感じることができる。桜は美しいものだが、何となくそこに晴れやかさを感じるのは、悠々と咲く桜に、彼女は自由を感じ取ったからなのかもしれない。
しばらく桜井が高山の絵から目を離せずにいると、秋山はそんな桜井を見てふふ、と笑った。
「すごいね。やはり絵に引き込まれているときの君の目は、本当に綺麗だ」
桜井が秋山の方を向くと、秋山は桜井の目をじっと見つめていた。何だか恥ずかしくなって、桜井は思わず赤面し、俯いた。
「君のその反応はなかなか面白いね。まるで熟れたりんごのように、真っ赤になっていく」
「か、からかわないでください」
「他意は無いよ。純粋に、君の反応が面白かっただけさ。君の瞳の煌めきも、その赤面した顔も、中々興味深いよ」
桜井は恥ずかしさのあまり固まってしまった。秋山はそんな桜井をよそに、言葉を続けた。
「それと同時に、純粋な疑問が湧き上がってくる」
桜井が顔を上げると、秋山は真顔だった。
「桜井くんは、自分のことをどう見るのかな? その瞳に、自分はどう映っている?」
秋山のまっすぐな瞳が桜井を射抜く。桜井は、その視線を逸らせずにいた。
「秋山淳という作品を、君はどう見る?」
桜井は目を逸らさぬまま、考えを巡らせる。
秋山と最初に話した時、純粋に怖かった。心の奥の恥ずかしいところまで、全てを見抜く視線。今も同じ目で桜井をじっと、まっすぐ見つめている。そこには何の輝きも陰りも無い。単なる好奇心だけが、そこにはある。
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桜井は、恐る恐る、自分の考えを声に出した。すると、秋山はすっと目を閉じて、何かを考えた後、再び目を開けた。
「本当にそれだけかい?」
「え?」
「君が見ている私は、単なる一側面に過ぎない。本当にそれだけなのか?」
桜井は目をしばたたいた。そして、秋山は桜井に一歩近づいた。あまりの距離の近さに、桜井は一歩下がろうとした。だが、秋山の鋭い眼差しに、桜井は恐怖のあまり委縮し、動けずにいた。
「何が、言いたいんですか」
桜井の声は震えていた。
「聞きたいだけさ。自分は何者なのか。自分という人間の本質を、相手はどう見るのか。どう答えるのか。そこに理由なんてない」
理由なんてない。その言葉に、広瀬のことを思い出した。理由も無く、ただ桜を見上げる広瀬。そして、理由も無く、ただ本を読み返す広瀬の姿を、桜井は無意識に、秋山の姿に重ね合わせていた。
桜井は考えを巡らせるが、全く思い浮かばない。
秋山がどんな人間で、どんな人なのか。表面的に分かっていても、秋山の言う本質は、全く分からない。大体、昨日会ったばかりだというのに、いきなり自分の本質を聞いてくるなんて、やっぱり、秋山は得体の知れない男だ。
桜井がしばらく考え込んで黙っていると、秋山がそっと桜井の顔に触れた。桜井は驚いて身を引こうとする。しかし、先ほどの陰も輝きも無い視線とは違い、秋山の鋭い眼差しの中には、凍てついた何かが含まれていた。その何かを感じ取った桜井の体は、恐怖からなのか、哀れみからなのか、動けなくなっていた。
しばらくして、秋山の肩が小刻みに震える。そして、秋山は大声で笑い始めた。
桜井は何が何だか理解できず、ただ呆然としていた。
「はははは。これはすまない。からかいすぎたね」
そう言うと、秋山は桜井の顔から手を離し、一歩後ろに下がった。
そして、桜井の瞳を真っすぐ見た。
「だが、君はもう少し人を見たほうがいい。より深く、思考の底まで」
秋山は再び、高山の絵を眺めはじめた。桜井は、何事も無かったかのように振る舞う秋山のその態度が、どうも気に食わなかった。
「……どうして、僕をからかったんですか」
桜井が不満げにそう言うと、秋山は優しく微笑んだ。
「君に少しばかり、ヒントを与えたかったからだよ」
「ヒント? それって何の……」
「まあ、役に立つかは君の行動次第ってところかな」
秋山の発言の意図が全く掴めず、桜井はただ困惑していた。秋山はその様子を面白そうに見つめていた。
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嫉妬をしても、「友達なんやから面倒なこというなって」と笑われ、遂にはお泊りまでしたと聞き……
「そっちがその気なら、もういい!」
堪忍袋の緒が切れたつむぎは、別れを切り出す。すると、渉は意外な反応を……?
倦怠期を乗り越えて、もう一度恋をする。幼なじみオメガバースBLです♡
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
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「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。
僕のために、忘れていて
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男子高校生のリュージは事故に遭い、最近の記憶を無くしてしまった。しかし、無くしたのは最近の記憶で家族や友人のことは覚えており、別段困ることは無いと思っていた。ある一点、全く記憶にない人物、黒咲アキが自分の恋人だと訪ねてくるまでは────
【本編完結】才色兼備の幼馴染♂に振り回されるくらいなら、いっそ赤い糸で縛って欲しい。
ホマレ
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才色兼備で『氷の王子』と呼ばれる幼なじみ、藍と俺は気づけばいつも一緒にいた。
その関係が当たり前すぎて、壊れるなんて思ってなかった——藍が「彼女作ってもいい?」なんて言い出すまでは。
胸の奥がざわつき、藍が他の誰かに取られる想像だけで苦しくなる。
それでも「友達」のままでいられるならと思っていたのに、藍の言葉に行動に振り回されていく。
運命の赤い糸が見えていれば、この関係を紐解けるのに。
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