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19. 決断
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ギャラリーを出て、秋山と別れた後、桜井は家に帰った。玄関の扉を開けると、玄関には、脱ぎっぱなしの母のハイヒールがあった。靴を脱いでリビングへ向かうと、珍しく母がすでに帰宅して、母はソファーに座りながらスマホを眺めていた。
「帰ってたんだ」
桜井がそう言うと、母は「まあね」と軽く流した。
「折角いい男を見つけたっていうのに、別の女の子が気になるからって振られて、予定がキャンセルになったのよ。いい迷惑よ、ホント」
母は軽く溜息をついて、スマホをテーブルに置いた。
「それより、学校から連絡が来たんだけど、最近学校行ってないの?」
桜井は「ごめん」と謝ることしかできなかった。そんな桜井を見て、母は「ふーん」と他人事のように返事をした。
「女の子絡みで悩んでんの?」
桜井は目をしばたたいた。実際、相手は女の子ではないが、図星を突かれた桜井はその場で固まってしまった。
何も言い返さない桜井に、母は桜井の方を向いた。
「え、まじ? 当たった?」
桜井は頷くことも、首を振ることもしなかった。母は目を丸くしながらも「あんたにも、ついにできたのかー」と感慨深そうに言った。
「……なんで、そう思ったの」
桜井は、ふと浮かんだ疑問を母にぶつけた。すると母は「うーん」と首をかしげながら考えた。
「母親のカン、って言いたいところだけど、どっちかというと女のカンってやつ?」
「何それ……」
桜井が苦々しく呟くと、母はふっと挑発的な笑みを浮かべた。
「女にしか分からないものよ。あんたには絶対に理解できないと思うわ。それで? もしかして振られたの?」
別に振られたわけではない。ただ、分からなくなっただけだ。本当に、広瀬を好きなことが、自分の幸せなのか。
桜井は意を決して、母に尋ねた。
「あのさ、お母さんは、人を愛することが幸せだと思う?」
そう言うと、母は目を丸くした。
「どうしたの、急に」
「……何となく、気になっただけ」
きっと夜遊びに耽る母なら、幸せだと肯定するだろう。母の答えは簡単に予想できた。だが、返ってきたのは意外な回答だった。
「……別に、思わないわ」
桜井は驚きのあまり、「は?」と声が出た。
「だって、どうせ別れるんだもの。楽しいとは感じても、幸せまでは思わないわ」
「じゃあ、なんでお母さんは、いつも夜遊びしてるの?」
母はふっと笑いを浮かべた。
「楽しいから、それだけよ。今が楽しければ、私はそれでいいの」
「じゃあ、お母さんの幸せって、何?」
そう言うと、母は目を丸くして戸惑った。だが、桜井の真剣な眼差しに、何かを察したのか、母の顔から、浮かんでいた笑みが消えた。
「そんなもの知らないわ。死ぬ間際になったら分かるんじゃない? ……ああ、でも」
母は何かひらめいたように、ぴくりとほんの少し顔を上げた。
「化粧してるときとか、お洒落なコーデ試してるときとか、『自分は今、誰よりも美人だ』って思うと、気分が上がって、自分が満たされる感じになるのよね。もしかして、これが幸せなのかしら?」
桜井は、はっとした。自分が満たされる感覚。そこに幸せを感じるのだろうか。
広瀬は、自分の無関心な生き方に。
秋山は、桜井を好きだという感情に。
矢島は、絵を描いている時間に。
母は、自分自身への陶酔に。
彼らは、それらに自分が満たされるような感覚を覚えているのだろうか。
なら、自分は何をしたら満たされるのだろう。何に対して喜びを感じるのだろう。
桜井は「参考になった」と言い、足早に自室へ向かった。母はリビングを去る桜井を、どこか嬉しそうに見つめ、再びスマホを持ち上げた。
自室に入り、桜井は本棚から『異邦人』を取り出すと、無心で本を読み始めた。時間を忘れ、読書に夢中になった。
そして、何時間経ったか分からない頃、ようやく読み終わった。
物語の最後、ムルソーは、己の無関心に対する周囲の態度に激しく憤りながらも、死を目の当たりにして、自分自身の生き方に幸せを見出していた。
─私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも正しいのだ。
ムルソーはそう叫びながら、ただ死を待つことに、幸せを感じていた。自分に対し、絶対的な自信を持ち、ゆるぎない喜びにどこまでも満ちていた。
その姿は、広瀬そのものだった。
広瀬は、ムルソーを真に理解し、ムルソーを真似た。そして、彼と同じものに、広瀬は喜びを感じていたのだ。
─なら、僕は何に喜びを感じていた?
桜井はこれまでのことを振り返りながら、必死に考えを巡らせた。
そして、広瀬の言葉が次々と脳裏によみがえる。
『やっぱり、絵のことはよく分からない。でも、君が絵を好きだってことは、分かる』
無関心を装って、その実、優しさを捨てきれずにいた。
『この生き方が、俺にとって、一番幸せだと』
周りが非難しても、無関心な態度を貫いた。
『俺は誰に何と言われようとも、無関心を貫く。─お前を責めるつもりも、お前を苦しみから解放するつもりも、これっぽっちもない』
否定の言葉を前にしても、広瀬は揺るがない。
ふと、桜井の目に、広瀬と初めて会った時の光景が浮かんだ。
美しい桜の花が舞い散る中、背筋を伸ばし、無表情で眺めていた。最初、その端正な顔立ちと、優美な佇まいに目を奪われた。
でも、広瀬の真っすぐでしゃんとした姿勢は、自分を肯定し、絶対の自信を持っていることの表れだったのだ。
─ああ、そうか……。僕は、てっきり広瀬の優しさに惹かれたものだと思っていた。でも、それは少し違う。
悩んでもがいて、苦しみながらも、自分の生き方を貫く姿勢に、僕は惹かれたんだ。
僕が幸せを感じることは、広瀬を愛することじゃない。広瀬が自分の生き方に、喜びを感じることだ。
広瀬は愛を求めていない。ムルソーの生き方の中では、愛は意味のないものでしかない。どれだけの愛を与えても、喜ぶことはしないし、人生が彩られることはない。広瀬もそうだ。『愛していない』と言うのは、まさに、広瀬にとって愛は単なる置物。ただそこにあって、使い道も無く、どうしようもないものに過ぎないからだ。
そして、広瀬を愛することは、自分自身を苦しめるだけだ。広瀬を愛すれば、嫌でも高山への罪悪感と、周囲の非難が付いて回る。他人の感情に敏感な自分は、それらを無視することは、決してできない。
そうして、桜井の胸の内に、ある疑問が沸き上がった。
─僕たちは、別れるべきなのだろうか。
「帰ってたんだ」
桜井がそう言うと、母は「まあね」と軽く流した。
「折角いい男を見つけたっていうのに、別の女の子が気になるからって振られて、予定がキャンセルになったのよ。いい迷惑よ、ホント」
母は軽く溜息をついて、スマホをテーブルに置いた。
「それより、学校から連絡が来たんだけど、最近学校行ってないの?」
桜井は「ごめん」と謝ることしかできなかった。そんな桜井を見て、母は「ふーん」と他人事のように返事をした。
「女の子絡みで悩んでんの?」
桜井は目をしばたたいた。実際、相手は女の子ではないが、図星を突かれた桜井はその場で固まってしまった。
何も言い返さない桜井に、母は桜井の方を向いた。
「え、まじ? 当たった?」
桜井は頷くことも、首を振ることもしなかった。母は目を丸くしながらも「あんたにも、ついにできたのかー」と感慨深そうに言った。
「……なんで、そう思ったの」
桜井は、ふと浮かんだ疑問を母にぶつけた。すると母は「うーん」と首をかしげながら考えた。
「母親のカン、って言いたいところだけど、どっちかというと女のカンってやつ?」
「何それ……」
桜井が苦々しく呟くと、母はふっと挑発的な笑みを浮かべた。
「女にしか分からないものよ。あんたには絶対に理解できないと思うわ。それで? もしかして振られたの?」
別に振られたわけではない。ただ、分からなくなっただけだ。本当に、広瀬を好きなことが、自分の幸せなのか。
桜井は意を決して、母に尋ねた。
「あのさ、お母さんは、人を愛することが幸せだと思う?」
そう言うと、母は目を丸くした。
「どうしたの、急に」
「……何となく、気になっただけ」
きっと夜遊びに耽る母なら、幸せだと肯定するだろう。母の答えは簡単に予想できた。だが、返ってきたのは意外な回答だった。
「……別に、思わないわ」
桜井は驚きのあまり、「は?」と声が出た。
「だって、どうせ別れるんだもの。楽しいとは感じても、幸せまでは思わないわ」
「じゃあ、なんでお母さんは、いつも夜遊びしてるの?」
母はふっと笑いを浮かべた。
「楽しいから、それだけよ。今が楽しければ、私はそれでいいの」
「じゃあ、お母さんの幸せって、何?」
そう言うと、母は目を丸くして戸惑った。だが、桜井の真剣な眼差しに、何かを察したのか、母の顔から、浮かんでいた笑みが消えた。
「そんなもの知らないわ。死ぬ間際になったら分かるんじゃない? ……ああ、でも」
母は何かひらめいたように、ぴくりとほんの少し顔を上げた。
「化粧してるときとか、お洒落なコーデ試してるときとか、『自分は今、誰よりも美人だ』って思うと、気分が上がって、自分が満たされる感じになるのよね。もしかして、これが幸せなのかしら?」
桜井は、はっとした。自分が満たされる感覚。そこに幸せを感じるのだろうか。
広瀬は、自分の無関心な生き方に。
秋山は、桜井を好きだという感情に。
矢島は、絵を描いている時間に。
母は、自分自身への陶酔に。
彼らは、それらに自分が満たされるような感覚を覚えているのだろうか。
なら、自分は何をしたら満たされるのだろう。何に対して喜びを感じるのだろう。
桜井は「参考になった」と言い、足早に自室へ向かった。母はリビングを去る桜井を、どこか嬉しそうに見つめ、再びスマホを持ち上げた。
自室に入り、桜井は本棚から『異邦人』を取り出すと、無心で本を読み始めた。時間を忘れ、読書に夢中になった。
そして、何時間経ったか分からない頃、ようやく読み終わった。
物語の最後、ムルソーは、己の無関心に対する周囲の態度に激しく憤りながらも、死を目の当たりにして、自分自身の生き方に幸せを見出していた。
─私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも正しいのだ。
ムルソーはそう叫びながら、ただ死を待つことに、幸せを感じていた。自分に対し、絶対的な自信を持ち、ゆるぎない喜びにどこまでも満ちていた。
その姿は、広瀬そのものだった。
広瀬は、ムルソーを真に理解し、ムルソーを真似た。そして、彼と同じものに、広瀬は喜びを感じていたのだ。
─なら、僕は何に喜びを感じていた?
桜井はこれまでのことを振り返りながら、必死に考えを巡らせた。
そして、広瀬の言葉が次々と脳裏によみがえる。
『やっぱり、絵のことはよく分からない。でも、君が絵を好きだってことは、分かる』
無関心を装って、その実、優しさを捨てきれずにいた。
『この生き方が、俺にとって、一番幸せだと』
周りが非難しても、無関心な態度を貫いた。
『俺は誰に何と言われようとも、無関心を貫く。─お前を責めるつもりも、お前を苦しみから解放するつもりも、これっぽっちもない』
否定の言葉を前にしても、広瀬は揺るがない。
ふと、桜井の目に、広瀬と初めて会った時の光景が浮かんだ。
美しい桜の花が舞い散る中、背筋を伸ばし、無表情で眺めていた。最初、その端正な顔立ちと、優美な佇まいに目を奪われた。
でも、広瀬の真っすぐでしゃんとした姿勢は、自分を肯定し、絶対の自信を持っていることの表れだったのだ。
─ああ、そうか……。僕は、てっきり広瀬の優しさに惹かれたものだと思っていた。でも、それは少し違う。
悩んでもがいて、苦しみながらも、自分の生き方を貫く姿勢に、僕は惹かれたんだ。
僕が幸せを感じることは、広瀬を愛することじゃない。広瀬が自分の生き方に、喜びを感じることだ。
広瀬は愛を求めていない。ムルソーの生き方の中では、愛は意味のないものでしかない。どれだけの愛を与えても、喜ぶことはしないし、人生が彩られることはない。広瀬もそうだ。『愛していない』と言うのは、まさに、広瀬にとって愛は単なる置物。ただそこにあって、使い道も無く、どうしようもないものに過ぎないからだ。
そして、広瀬を愛することは、自分自身を苦しめるだけだ。広瀬を愛すれば、嫌でも高山への罪悪感と、周囲の非難が付いて回る。他人の感情に敏感な自分は、それらを無視することは、決してできない。
そうして、桜井の胸の内に、ある疑問が沸き上がった。
─僕たちは、別れるべきなのだろうか。
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