桜の花びらは、いつ散ってくれるのだろうか。

北国

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18. 幸福

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 秋山に連れられて、桜井は久しぶりに外に出た。ずっと暗い部屋にいたからか、夕日がやけに眩しく感じる。

「……それで、どこに向かっているんですか」
「私のお気に入りの場所だよ」
「お気に入り?」

 桜井は詳しく聞こうとしたが、秋山は「着いてからのお楽しみ」と言い、これ以上は教えてもらえなかった。
 二人はしばらく歩き、電車に乗り、駅を降りる。駅を降り、道なりを歩いていると、覚えのある道を歩いていることに気が付いた。そして、今どこに向かっているのか、何となく予想が付いた。
 そして、桜井の予想通り、二人は矢島のギャラリーに到着した。

「ここだったんですね」

 特に驚く様子を見せなかった桜井に、秋山は目をしばたたいた。

「来たことあったのかい?」
「週末、よくここに来るんです。前は広瀬くんと一緒に来ました」
「そうだったのか。私も、よくここに来るんだ。受験勉強に飽きた時、とかね」

 秋山はそう言って、ギャラリーのドアを開けた。扉に付いた鈴がちりん、と軽く鳴った。鈴の音に反応し、矢島が顔を上げた。そして、物珍しそうな目をして二人を見た。

「おや、君たち知り合いだったのかい?」
「ええ。桜井くんは、私の高校の後輩なんですよ」
「そうか。まさか二人が繋がっているとは思わなかったよ」

 はは、と矢島は豪快に笑った。

「ところで、矢島さん。作品、見させていただいても?」
「もちろん。といっても、ここ最近いいアイデアが浮かばなくて、新作はないけれど」
「構いませんよ。矢島さんの作品には、いつも新しい発見をさせられますから」

 秋山はそう言って、桜井を二階に連れた。
 作品のラインナップは、広瀬と一緒に来た時と変わっていない。桜井は前に広瀬と見た『STILL』と名付けられた絵の前に立ち、絵をまじまじと見た。黒い背景に、何色ものうねった線が、円を形作っている。
 前は、その線が可哀そうに見えた。どこに向かおうとしても、足踏みしてその場から動けない。その様が哀れに思えた。
 でも、今ならこの線の気持ちが痛いほど分かる。迷って、迷って、迷い続けて。結局、自分が何をしたいのか、何を求めているのか分からず、ただ籠るように蹲る。そうして、円を形作るように、自分だけの世界を作って、浸って、ふさぎ込む。
 まるで僕みたいだ。桜井は自嘲した。

「この絵、私は好きだよ」

 いつの間にか隣に立っていた秋山が口を開いた。

「いろいろな考え方を知って、考えて、迷って、もがいて。それが線の色、線の太さによく出ている。そうして様々な線は、一つの立派な円を形作る。まるで、自分を形作るように、これが自分なんだと示すように、自分だけの円を作っている」

 秋山は桜井の方を向いた。

「私は、ずっと自分が何者なのか、自分は何のために生まれたのか、ずっと分からなかったんだ」

 桜井は目を丸くして、秋山に視線を移した。秋山は真剣な表情を浮かべていた。

「別に辛い過去や経験があったから、というわけではないよ。ただ、何となく生きていくうちに、そう思っただけさ。だから、前に君に、『自分が何者なのか』を聞いただろう?」

 桜井は「そうでしたね」と、俯きながらその時の記憶を思い出した。あの時は、秋山が何を考えているのか、全く分からなかった。

「絵を覗き込む君の目を初めて見た時、君になら、私のことが分かるんじゃないかって、勝手に期待していたんだ。君の目は、何かを見通すような鋭さを持っていた。だから、この絵の円みたいに、私の形が分かるんじゃないかって思えた」

 秋山は絵に視線を移した。

「もし、君が色んな世界を知って私を見た時、きっと、答えのない問いに答えが見える気がしたんだ。だから美術部に誘ったり、君にヒントを与えたりしたんだ。……でもまさか、そのことが私自身を苦しめるとは、思わなかったけれどね」

 秋山は苦笑いした。

「私が君を好いているのは本当。苦しんでいるとき、そばにいたいと思うのも本当だよ。でも、応えてもらうつもりはない。応えてもらうとも思っていない」

 桜井は顔を上げた。

「今までは、君が広瀬くんに向ける愛情が、私に向けばいいのにって願ってたんだ。だから、広瀬くんには『ムルソーを演じてる』なんて大人げないことを言ってしまったけれどね。
 ただ、君と接していくうちに、愛を向けてほしいって気持ちが薄れたんだ。愛に困惑して、傷ついて、苦しんでいる君を見たら、私の独占欲にも似た愛が醜くて、情けなく思ったよ」

 秋山は苦しそうに目を細めた。

「だからこそ、君を支えたいって気持ちが強くなった。君が愛を返してくれなくても、そばにいられなくてもいい。ただ、純粋に、まっすぐに君を助けたいって思った。その時に、やっと気づいた」
 秋山はそっと目を閉じて、ゆっくりと目を開く。苦しそうな表情は消え、覚悟が決まったような表情に変わった。
「君が好き。それはこの上なく醜いけれど、最高に幸せなことなんだって」

 桜井は目を見開き、息をのんだ。
 秋山はまっすぐ桜井の目を見ていた。その目は強い意志を感じさせるように、眩しく輝いていた。

「……君のしたことは、風の噂で聞いた。確かに君のしたことは、非難されてもおかしくない。不謹慎だと言われても、いじめに発展しても、文句は言えない。だが、君のしたことや君の苦しみは、十分理解できる。だからこそ言うけれど、君が広瀬くんを愛する限り、その苦しみは続く。君にとって、彼を愛することは、自分自身を痛めつけることだ」

 桜井は目を伏せた。

「君は、広瀬くんを愛することが、自分の幸せだと言えるかい?」

 桜井は何も言い返せなかった。
 秋山の問いに、答えはもう出ている。だが、その答えを認めたら、自分が広瀬へ抱く感情が分からなくなりそうで、口には出せなかった。
 桜井が黙り込み、二人の間に沈黙が流れる。ゴー、と空調の音だけが響き渡っていた。
 しばらくして、静寂を断ち切るように、秋山は咳払いをした。

「……まあ、今すぐ答えは見つかるものじゃないよ。私だってそうだったからね。そろそろコーヒーをいただこうか。美味しいコーヒーを飲みながら、ゆっくり考えよう」

 秋山は桜井に微笑みかけた。
 どこからかコーヒーの渋い香りが漂ってくる。桜井は無性にコーヒーの濃い苦みが欲しくなり、回れ右をして、無言で秋山についていく。そのまま二人は階段を下りた。
 階段を降りると、矢島がティーカップにコーヒーを注ぎ込んでいた。

「ちょうどそろそろ、コーヒーが恋しくなるころだと思ってね」

 二人はカウンター席に座った。そして、矢島はコーヒーを二人に出した。

「秋山くん、今日は砂糖いる?」
「もちろん。砂糖なしでは飲めませんから」
「私としては、そのままで飲んでほしいんだけどね。秋山くんはまだまだ子供舌だなあ」

 矢島は砂糖の入ったスティックを二本、秋山に渡した。秋山は小さくお礼を言うと、さらさらとコーヒーに砂糖を入れ始めた。

「桜井くんは、いつもブラックなのかい?」

 秋山が桜井に視線を移した。

「まあ、そうですね」

 今は特にブラックで飲みたい気分だった。コーヒーの苦さを感じながら、喉に流し込みたかった。
 桜井は早速、熱いコーヒーを口に含んだ。コーヒーの独特の苦さが、じわじわと口に広がる。今日のコーヒーの味は、普段より苦く感じる。だが、それが酷く心地良い。

「そうだ。矢島さん、『STILL』見ましたけど、随分と作風が変わったんですね」

 秋山が顔を上げて、矢島を見た。

「まあね。最近色々試しているんだよ。でも、まだこれといって納得できる作風には至ってないんだけど」
「前は確か、水彩画を描いてましたよね。淡い色使いで綺麗だと思いましたよ」
「それは嬉しいね。だが、あれも実は納得がいってないんだ。私自身、今どこに向かっているのか分からないからさ。作風だけじゃない。今までの人生も、迷子の連続だよ」

 桜井はティーカップを静かに置いて、耳を傾けた。

「仕事も恋愛も、迷ってばかりだったなあ。絵の仕事を生業にするかどうかも迷ったし、昔はモテすぎて、どの女の子と付き合おうか迷ったな」

 矢島は能天気そうに笑った。

「今思えば、迷ってる時間は無駄じゃなかったよ。おかげで今好きなことができてるし、綺麗な奥さんと結婚できたし。こんなに幸せでいいのか、って思うぐらいに今が一番幸せかもしれないね」
「幸せ……」

 桜井がぽつんと呟くと、矢島は「おや」と興味深そうに桜井に視線を移した。

「桜井くんは、今幸せじゃないのかい?」
「……そう、かもしれません」
「君はまだ若いからね。今は見つからなくても、きっとこの先、幸せが訪れるはずさ。実際、私も幸せを見つけるのに、随分と時間がかかったものだ。人生は決断の連続、だが決断したとしても、その先に幸せがある保証はない」

 矢島はふっと微笑んだ。

「でも、自分の過去や経験から、ヒントはもらえるんだ。自分が感じた思いや感情を後で振り返って、自分が何に対して喜びを感じたのかを考える。私は絵を描く時間が何よりの喜びだと思ったから、絵を生業にしようと決断できた。そしてそれが幸せにつながった」

 矢島はそう言うと、皿にチョコチップクッキーを乗せて、桜井と秋山に出した。

「桜井くんが何に悩んでいるのか、私には分からない。でも、それは決して悪いことじゃない。これからやってくる決断のための、大切なヒントになるよ」

 矢島の言葉に、秋山は「私もそう思います」と頷いていた。

「ああ、それとクッキーはおまけだよ。青春に迷う若者へのプレゼント」

 桜井は「ありがとうございます」と小さく言い、クッキーを一口食べた。記事はしっとりしていて、控えめな甘さが舌に広がり、体に染みる。甘さからなのか、桜井の口角がほんの少し上がった。
 秋山と矢島は、桜井が浮かべた笑みを見ると、互いに目を合わせ、安心したかのように微笑んだ。

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