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第1話 パンと誇りと焦げた朝
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――札が貼られていた。
赤い封蝋の、事務的で、容赦のない、現実の印が。
「差し押さえ、ですって。なにそれ、趣味が悪いわ」
口に出しても、意味は変わらない。
侯爵家リースフェルト邸は、昨夜のうちに過去になった。
廊下の白大理石は、音を吸うほど静かで、食堂には椅子の数だけ空席が並んでいる。銀器も、銅鍋も、白磁も、もうない。代わりに漂うのは、薄く残った蝋燭のにおいと、紙のにおいと――少しばかりの、粉のにおい。
「お嬢様」
背後で、低い声がした。
セシル。黒衣は相変わらず皺がなく、髪も乱れていない。いつも通り。
いや、違う。彼だけが、いつも通りでいようとしてくれている。
「セシル。私は、強い女よ。泣かないわ」
「存じ上げております」
短い返事が、落ち着きを置いていく。
その落ち着きに、私は救われる。
「それで、朝食は?」
「申し訳ありませんが、台所の食材は昨夜、差し押さえ業者に回収されました。残っているのは、小麦粉と、塩と、水と、鉄の意志です」
「意志は何グラム?」
「目分量で十分です」
「……わかったわ。焼きましょう、パンを」
「承知しました。では、料理長のいない台所を、お嬢様と二人で」
大きすぎる台所は、ガランとしていて、音がよく響く。
私とセシルの足音だけが、鍋だった頃の影を揺らす。
「小麦粉三杯、塩ひとつまみ。ぬるま湯を少しずつ。手首の内側で温度を測ってください」
「やってみる」
「こねる時は、力ではなく、重さを使って。踊るみたいに、押して、畳む」
「踊るみたいに……ね」
両手にまとわりつく粉と水。粘る感触が指の間から逃げる。
うまくいっているのか、いないのか、それすらわからないけれど、セシルの視線が「大丈夫です」と言う。
「いい感じです。発酵させましょう。布をかけて、窓辺へ」
砂時計の砂鉄が、さらさらと落ちる。
一時間。待つことの長さを、私は初めて、身体で知る。
食堂に戻る。広すぎるテーブル。向かい合う相手はいない。
昨夜、父と母の肖像画の前で頭を下げた。
――ごめんなさい、と。
声に出したかどうか、もう覚えていない。
「発酵、良好です」
台所に戻ると、丸い生地がふっくらと息をしていた。
指でそっと押すと、ゆっくり戻る。かわいい。
「私が育てたの?」
「厳密には酵母です」
「あなた、ロマンを粉に混ぜて台無しにするのが上手ね」
「事実申告です」
成形。並ぶ、ちいさな丸い星。
オーブンの扉を開ける。熱の息が頬を撫でる。
つまみをひねる。火が低くうなる。
「ここからは目を離さず、香りをよく見てください」
「香りを見る?」
「はい。香りは大抵、色を持っています」
「詩人め」
最初は麦の青い匂い。次に、ほのかな甘み。
きつね色の気配が、窓の向こうから忍び寄る。
「セシル、私、できるかもしれな――」
刹那、甘さの縁がぱちりと弾け、香りが黒く転ぶ。
――遅れた。わずかに。
私は慌てて扉を開け、天板を引き出す。
丸パンたちは、一様に黒い薄甲冑をまとい、私の初仕事に苦い祝福を降らせてくれた。
「……」
「泣いても構いません」
「泣かない。私は強い女よ」
「存じ上げております。では、舌で泣いてください」
「絶対にいや!」
黒い朝食を前に、私たちはしばし黙った。
沈黙の中で、私は気づく。
焦げは、失敗の色ではない。時間に置いていかれた証だ。
置いていかれないためには――立つしかない。
「セシル。働くわ。外で」
「承知しました」
「パン屋で働くのはどう? 今のは……予習ってことで」
「この惨事の後にその発想が出てくるお嬢様の勇気に乾杯です。では、まずは換気を。焦げのにおいは敗北感を濃縮します」
「言い方!」
窓を開け、煙を逃がす。
扉の外の空気は驚くほど清らかで、少しだけ冷たい。
◇ ◇ ◇
街へ出る。
馬車の窓から眺めていた景色が、今日からは石畳の震えになって足の裏に伝わる。
露店の果実、揚げ油、革、汗。混ざり合う匂いに目が覚める。
私は昨夜、名前の半分を置いてきた。
エリシア・フォン・リースフェルトから、エリ。
それは敗北ではなく、重さを減らす旅支度だと信じたい。
「靴を買いましょう。歩く仕事に、舞踏会のヒールは不向きです」
「わかってる。……二番目に安い靴にする」
「賢明です。一番安いものは、石畳が骨を攻撃します」
小さな靴屋で、革の靴を選ぶ。
新しい靴は、まだ私の歩き方を知らない。私もこの靴の癖を知らない。
それでも、歩く。歩幅は小さく、しかし確かに。
求人の札を探して何軒も回る。
「元侯爵令嬢」という肩書は、履歴書の端に書くには重たすぎ、働く手のひらの上では軽すぎる。
「未経験はちょっとね」「忙しいから」「また今度」
笑って断る人、目を伏せる人、興味を隠さない人。
誰も、悪人には見えない。ただ、世界は私の都合で止まらない。
昼前、粉の香りに誘われて、私は角の小さな店の前で立ち止まった。
木の看板には「麦猫堂」。パンをかじる猫の絵が、とぼけた顔でこちらを見ている。
「ここ」
扉を押すと、鈴が鳴った。
カウンターの向こうに、腕まくりの女主人。瞳は蜂蜜色、頬は焼きたてのパンのように小麦色。
自分の店に自分のリズムを持っている人の佇まいだ。
「買うの? 見るだけ?」
「働かせてください!」
私の口が、先に走った。
女主人は一瞬目を丸くし、すぐに口角を上げる。
「面白いね。名前は?」
「エリです」
「エリ。あたしはハンナ。ここ、麦猫堂の主。……そっちの黒服は?」
「付属物です」
「執事です」
セシルと私の声が重なった。
ハンナは腹を抱えて笑う。
「付属物つきの応募者は初めてだよ。――その手、粉の匂いがするね」
私は咄嗟に指先を嗅いだ。今朝の粉と、少しの焦げ。
「やってみな。午前の仕込み。できたら午後は売り子。できなきゃ、焼き立てを買って帰りな。金は取るよ。仕事は仕事だ」
「お願いします!」
「礼は終わってからでいい」
粉の袋が、どさりと置かれる。
台の上の木鉢、鉄のスケッパー、布。道具は最小限だ。
私は朝の失敗を胸の真ん中に置いて、同じ工程に入る。混ぜる、こねる、待つ。
違うのは、誰かの視線があること。必要な時だけ差し込まれる短い助言。
「力じゃないよ、重さ」
「温度は舌じゃない。手首で」
「目じゃない、鼻で見る」
セシルの言葉とハンナの言葉が、奇妙に重なる。
私は頷き、指を動かし、息を整える。
一次発酵。ベンチタイム。成形。二次発酵。
窯の前に立つと、ハンナが言った。
「焦げが怖い顔してる」
「見えます?」
「見えるとも。誰でも最初は焦がす。火は約束を守らない。だから、目を離さない。それだけ」
私はうなずき、香りの色が変わる瞬間を待つ。
甘さの縁がふっと明るくなり、麦の声が弾む。
――いま。
「出します!」
天板を引き出す。
ころん、と軽い音。丸パンが揺れ、光を吸ったきつね色が、私の胸に灯る。
焦げのまだら――ない。
ハンナが口笛を鳴らした。
「いいじゃないか、エリ」
肩の力が抜ける。ずっと握っていた何かが、音もなくほどけていく。
セシルが、いつもの無表情のまま、目尻だけを柔らかくした。
「お嬢様。強い女は、時に涙腺を洗浄します」
「泣かないって言ってるでしょう」
「存じ上げております。では、笑ってください」
笑う。
笑いながら、少しだけ目が熱くなる。
そのとき、鈴が鳴り、昼前の客がどっと入ってきた。
「焼き立て、ください」「二つずつ」「子どもがね、ここの丸いの好きで」
声が重なり、紙袋が鳴る。
私は袋を開き、パンを入れ、釣銭を渡す。ぎこちない動作が少しずつ流れになっていく。
「新顔だね、お嬢ちゃん。笑顔がいい」
「ありがとうございます!」
「その黒服は護衛かい?」
「付属物です」
「執事です」
また重なる。客たちが笑う。
空気が少し甘くなった気がした。
――その甘さを裂くように、嬌声。
「まあ。ここにいたのね、エリシア?」
扉のところに、絹のドレスの女。
彼の従妹、アマンダ=ド=トラヴェール。噂話の女王。
体のどこにも汗がなく、目だけがいつも乾いている人。
「パン屋さんで働くなんて、可愛らしい。昨日の式場、キャンセル料が――」
「お客様。列にお並びください」
セシルの声は刃だった。
アマンダが眉をひそめる。
「下僕が口を挟むの?」
「執事です」
「同じでしょう」
「違います。執事は、お嬢様と、お客様の時間を守ります」
ぴん、と空気が張る。
ハンナが、カウンターを指先で軽く叩いた。
「はい、次の方。焼き立ては待ってくれないよ。人の噂は寝かさないほうがいいらしいが、パンは寝かすと怒る」
客たちが前に進む。アマンダは周囲の視線を測り、唇を尖らせ、居心地悪そうに踵を返した。
鈴が、胸のつかえを払い落とすように鳴る。
「助かったわ」
「仕事中の雑音を排除しました」
「ありがとう」
「礼は仕事の後で」
――仕事。
与えられる役目ではなく、自分の手で引き受ける責任。
私の胸に、その言葉が音を立てて落ちる。
午後も焼き、売り、拭き、並べ、笑った。
いつのまにか身体が勝手に動く。
足は痛い。けれど、痛みの向こう側に新しい地図が見える。
夕方、棚が空になり、ハンナが「売り切れ」の札を出した。
帳面をぱたんと閉じ、こちらを見る。
「よく働いた。今日の分だよ」
掌に落ちた硬貨は、小さな月のかけらみたいに冷たく、重かった。
数える。指の腹に数字の現実が触れる。
私はセシルを見る。
「二万五千リラまで、あとどれくらい?」
「二万四千九百九十二リラです」
「正確ね」
「事実申告です」
笑い合う。
その笑いは、さっきより少し深く、足元に根を下ろしていた。
「明日も来な。試用三日。三日持ったら本採用。朝は日の出前。遅刻厳禁。黒服は外回り。店の内側で指図するのは、あたしか、ここで働く者だけ。いいね?」
「はい。お願いします!」
「よろしい。じゃ、明日、暗いうちから」
ハンナは手をひらりと振り、裏へ消えた。
店を出る。夕暮れが街を蜜柑色に染めている。
新しい靴の内側で、足がじんじんと主張する。
それでも、嫌いじゃない痛みだ。
「お嬢様」
「なに?」
「本日の焦げ、午前に一回。午後はゼロ」
「最後に刺してくるのね?」
「事実申告です。……それと」
「それと?」
「お嬢様の誇りは、差し押さえの対象外です」
夕風が粉の匂いを運ぶ。
私は笑った。泣きたくなるほど笑って、息を吸う。
焦げた朝の苦味が、いつのまにか、明日の香りに混ざっている。
「帰りましょう、セシル。明日は出勤よ。日の出前に」
「承知しました。では、起床の段取りを。目覚ましは差し押さえられましたので、わたくしが鳴ります」
「法的に鳴る目覚まし、セシル。頼もしいわ」
「事実申告です」
石畳を踏む音が、二つ。
没落は終わりではなかった。
パン窯の余熱みたいに、次の火を待つための、温い始まりだった。
◇ ◇ ◇
📜本日の収支記録
項目 内容 金額(リラ)
収入 麦猫堂アルバイト初日(試用報酬) +10
合計 +10
借金残高 25,000 → 24,990
セシルの一口メモ:
初任給発生。労働の価値は数字で確認するのが一番です。
赤い封蝋の、事務的で、容赦のない、現実の印が。
「差し押さえ、ですって。なにそれ、趣味が悪いわ」
口に出しても、意味は変わらない。
侯爵家リースフェルト邸は、昨夜のうちに過去になった。
廊下の白大理石は、音を吸うほど静かで、食堂には椅子の数だけ空席が並んでいる。銀器も、銅鍋も、白磁も、もうない。代わりに漂うのは、薄く残った蝋燭のにおいと、紙のにおいと――少しばかりの、粉のにおい。
「お嬢様」
背後で、低い声がした。
セシル。黒衣は相変わらず皺がなく、髪も乱れていない。いつも通り。
いや、違う。彼だけが、いつも通りでいようとしてくれている。
「セシル。私は、強い女よ。泣かないわ」
「存じ上げております」
短い返事が、落ち着きを置いていく。
その落ち着きに、私は救われる。
「それで、朝食は?」
「申し訳ありませんが、台所の食材は昨夜、差し押さえ業者に回収されました。残っているのは、小麦粉と、塩と、水と、鉄の意志です」
「意志は何グラム?」
「目分量で十分です」
「……わかったわ。焼きましょう、パンを」
「承知しました。では、料理長のいない台所を、お嬢様と二人で」
大きすぎる台所は、ガランとしていて、音がよく響く。
私とセシルの足音だけが、鍋だった頃の影を揺らす。
「小麦粉三杯、塩ひとつまみ。ぬるま湯を少しずつ。手首の内側で温度を測ってください」
「やってみる」
「こねる時は、力ではなく、重さを使って。踊るみたいに、押して、畳む」
「踊るみたいに……ね」
両手にまとわりつく粉と水。粘る感触が指の間から逃げる。
うまくいっているのか、いないのか、それすらわからないけれど、セシルの視線が「大丈夫です」と言う。
「いい感じです。発酵させましょう。布をかけて、窓辺へ」
砂時計の砂鉄が、さらさらと落ちる。
一時間。待つことの長さを、私は初めて、身体で知る。
食堂に戻る。広すぎるテーブル。向かい合う相手はいない。
昨夜、父と母の肖像画の前で頭を下げた。
――ごめんなさい、と。
声に出したかどうか、もう覚えていない。
「発酵、良好です」
台所に戻ると、丸い生地がふっくらと息をしていた。
指でそっと押すと、ゆっくり戻る。かわいい。
「私が育てたの?」
「厳密には酵母です」
「あなた、ロマンを粉に混ぜて台無しにするのが上手ね」
「事実申告です」
成形。並ぶ、ちいさな丸い星。
オーブンの扉を開ける。熱の息が頬を撫でる。
つまみをひねる。火が低くうなる。
「ここからは目を離さず、香りをよく見てください」
「香りを見る?」
「はい。香りは大抵、色を持っています」
「詩人め」
最初は麦の青い匂い。次に、ほのかな甘み。
きつね色の気配が、窓の向こうから忍び寄る。
「セシル、私、できるかもしれな――」
刹那、甘さの縁がぱちりと弾け、香りが黒く転ぶ。
――遅れた。わずかに。
私は慌てて扉を開け、天板を引き出す。
丸パンたちは、一様に黒い薄甲冑をまとい、私の初仕事に苦い祝福を降らせてくれた。
「……」
「泣いても構いません」
「泣かない。私は強い女よ」
「存じ上げております。では、舌で泣いてください」
「絶対にいや!」
黒い朝食を前に、私たちはしばし黙った。
沈黙の中で、私は気づく。
焦げは、失敗の色ではない。時間に置いていかれた証だ。
置いていかれないためには――立つしかない。
「セシル。働くわ。外で」
「承知しました」
「パン屋で働くのはどう? 今のは……予習ってことで」
「この惨事の後にその発想が出てくるお嬢様の勇気に乾杯です。では、まずは換気を。焦げのにおいは敗北感を濃縮します」
「言い方!」
窓を開け、煙を逃がす。
扉の外の空気は驚くほど清らかで、少しだけ冷たい。
◇ ◇ ◇
街へ出る。
馬車の窓から眺めていた景色が、今日からは石畳の震えになって足の裏に伝わる。
露店の果実、揚げ油、革、汗。混ざり合う匂いに目が覚める。
私は昨夜、名前の半分を置いてきた。
エリシア・フォン・リースフェルトから、エリ。
それは敗北ではなく、重さを減らす旅支度だと信じたい。
「靴を買いましょう。歩く仕事に、舞踏会のヒールは不向きです」
「わかってる。……二番目に安い靴にする」
「賢明です。一番安いものは、石畳が骨を攻撃します」
小さな靴屋で、革の靴を選ぶ。
新しい靴は、まだ私の歩き方を知らない。私もこの靴の癖を知らない。
それでも、歩く。歩幅は小さく、しかし確かに。
求人の札を探して何軒も回る。
「元侯爵令嬢」という肩書は、履歴書の端に書くには重たすぎ、働く手のひらの上では軽すぎる。
「未経験はちょっとね」「忙しいから」「また今度」
笑って断る人、目を伏せる人、興味を隠さない人。
誰も、悪人には見えない。ただ、世界は私の都合で止まらない。
昼前、粉の香りに誘われて、私は角の小さな店の前で立ち止まった。
木の看板には「麦猫堂」。パンをかじる猫の絵が、とぼけた顔でこちらを見ている。
「ここ」
扉を押すと、鈴が鳴った。
カウンターの向こうに、腕まくりの女主人。瞳は蜂蜜色、頬は焼きたてのパンのように小麦色。
自分の店に自分のリズムを持っている人の佇まいだ。
「買うの? 見るだけ?」
「働かせてください!」
私の口が、先に走った。
女主人は一瞬目を丸くし、すぐに口角を上げる。
「面白いね。名前は?」
「エリです」
「エリ。あたしはハンナ。ここ、麦猫堂の主。……そっちの黒服は?」
「付属物です」
「執事です」
セシルと私の声が重なった。
ハンナは腹を抱えて笑う。
「付属物つきの応募者は初めてだよ。――その手、粉の匂いがするね」
私は咄嗟に指先を嗅いだ。今朝の粉と、少しの焦げ。
「やってみな。午前の仕込み。できたら午後は売り子。できなきゃ、焼き立てを買って帰りな。金は取るよ。仕事は仕事だ」
「お願いします!」
「礼は終わってからでいい」
粉の袋が、どさりと置かれる。
台の上の木鉢、鉄のスケッパー、布。道具は最小限だ。
私は朝の失敗を胸の真ん中に置いて、同じ工程に入る。混ぜる、こねる、待つ。
違うのは、誰かの視線があること。必要な時だけ差し込まれる短い助言。
「力じゃないよ、重さ」
「温度は舌じゃない。手首で」
「目じゃない、鼻で見る」
セシルの言葉とハンナの言葉が、奇妙に重なる。
私は頷き、指を動かし、息を整える。
一次発酵。ベンチタイム。成形。二次発酵。
窯の前に立つと、ハンナが言った。
「焦げが怖い顔してる」
「見えます?」
「見えるとも。誰でも最初は焦がす。火は約束を守らない。だから、目を離さない。それだけ」
私はうなずき、香りの色が変わる瞬間を待つ。
甘さの縁がふっと明るくなり、麦の声が弾む。
――いま。
「出します!」
天板を引き出す。
ころん、と軽い音。丸パンが揺れ、光を吸ったきつね色が、私の胸に灯る。
焦げのまだら――ない。
ハンナが口笛を鳴らした。
「いいじゃないか、エリ」
肩の力が抜ける。ずっと握っていた何かが、音もなくほどけていく。
セシルが、いつもの無表情のまま、目尻だけを柔らかくした。
「お嬢様。強い女は、時に涙腺を洗浄します」
「泣かないって言ってるでしょう」
「存じ上げております。では、笑ってください」
笑う。
笑いながら、少しだけ目が熱くなる。
そのとき、鈴が鳴り、昼前の客がどっと入ってきた。
「焼き立て、ください」「二つずつ」「子どもがね、ここの丸いの好きで」
声が重なり、紙袋が鳴る。
私は袋を開き、パンを入れ、釣銭を渡す。ぎこちない動作が少しずつ流れになっていく。
「新顔だね、お嬢ちゃん。笑顔がいい」
「ありがとうございます!」
「その黒服は護衛かい?」
「付属物です」
「執事です」
また重なる。客たちが笑う。
空気が少し甘くなった気がした。
――その甘さを裂くように、嬌声。
「まあ。ここにいたのね、エリシア?」
扉のところに、絹のドレスの女。
彼の従妹、アマンダ=ド=トラヴェール。噂話の女王。
体のどこにも汗がなく、目だけがいつも乾いている人。
「パン屋さんで働くなんて、可愛らしい。昨日の式場、キャンセル料が――」
「お客様。列にお並びください」
セシルの声は刃だった。
アマンダが眉をひそめる。
「下僕が口を挟むの?」
「執事です」
「同じでしょう」
「違います。執事は、お嬢様と、お客様の時間を守ります」
ぴん、と空気が張る。
ハンナが、カウンターを指先で軽く叩いた。
「はい、次の方。焼き立ては待ってくれないよ。人の噂は寝かさないほうがいいらしいが、パンは寝かすと怒る」
客たちが前に進む。アマンダは周囲の視線を測り、唇を尖らせ、居心地悪そうに踵を返した。
鈴が、胸のつかえを払い落とすように鳴る。
「助かったわ」
「仕事中の雑音を排除しました」
「ありがとう」
「礼は仕事の後で」
――仕事。
与えられる役目ではなく、自分の手で引き受ける責任。
私の胸に、その言葉が音を立てて落ちる。
午後も焼き、売り、拭き、並べ、笑った。
いつのまにか身体が勝手に動く。
足は痛い。けれど、痛みの向こう側に新しい地図が見える。
夕方、棚が空になり、ハンナが「売り切れ」の札を出した。
帳面をぱたんと閉じ、こちらを見る。
「よく働いた。今日の分だよ」
掌に落ちた硬貨は、小さな月のかけらみたいに冷たく、重かった。
数える。指の腹に数字の現実が触れる。
私はセシルを見る。
「二万五千リラまで、あとどれくらい?」
「二万四千九百九十二リラです」
「正確ね」
「事実申告です」
笑い合う。
その笑いは、さっきより少し深く、足元に根を下ろしていた。
「明日も来な。試用三日。三日持ったら本採用。朝は日の出前。遅刻厳禁。黒服は外回り。店の内側で指図するのは、あたしか、ここで働く者だけ。いいね?」
「はい。お願いします!」
「よろしい。じゃ、明日、暗いうちから」
ハンナは手をひらりと振り、裏へ消えた。
店を出る。夕暮れが街を蜜柑色に染めている。
新しい靴の内側で、足がじんじんと主張する。
それでも、嫌いじゃない痛みだ。
「お嬢様」
「なに?」
「本日の焦げ、午前に一回。午後はゼロ」
「最後に刺してくるのね?」
「事実申告です。……それと」
「それと?」
「お嬢様の誇りは、差し押さえの対象外です」
夕風が粉の匂いを運ぶ。
私は笑った。泣きたくなるほど笑って、息を吸う。
焦げた朝の苦味が、いつのまにか、明日の香りに混ざっている。
「帰りましょう、セシル。明日は出勤よ。日の出前に」
「承知しました。では、起床の段取りを。目覚ましは差し押さえられましたので、わたくしが鳴ります」
「法的に鳴る目覚まし、セシル。頼もしいわ」
「事実申告です」
石畳を踏む音が、二つ。
没落は終わりではなかった。
パン窯の余熱みたいに、次の火を待つための、温い始まりだった。
◇ ◇ ◇
📜本日の収支記録
項目 内容 金額(リラ)
収入 麦猫堂アルバイト初日(試用報酬) +10
合計 +10
借金残高 25,000 → 24,990
セシルの一口メモ:
初任給発生。労働の価値は数字で確認するのが一番です。
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なみゆき
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典子、アラフィフ独身女性。 結婚も恋愛も経験せず、気づけば父の介護と職場の理不尽に追われる日々。 兄姉からは、都合よく扱われ、父からは暴言を浴びせられ、職場では責任を押しつけられる。 人生のほとんどを“搾取される側”として生きてきた。
過労で倒れた彼女が目を覚ますと、そこは異世界。 7歳の伯爵令嬢セレナとして転生していた。 前世の記憶を持つ彼女は、今度こそ“誰かの犠牲”ではなく、“誰かの支え”として生きることを決意する。
魔法と貴族社会が息づくこの世界で、セレナは前世の知識を活かし、友人達と交流を深める。
そこに割り込む怪しい聖女ー語彙力もなく、ワンパターンの行動なのに攻略対象ぽい人たちは次々と籠絡されていく。
これはシナリオなのかバグなのか?
その原因を突き止めるため、全ての証拠を記録し始めた。
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