没落令嬢、バイト始めました 〜毒舌執事と返済ライフ〜

いっぺいちゃん

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第2話 夜明け前、粉の匂い

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夜がまだ終わらないうちに、鐘がひとつ鳴った。
 その音が、夢と現のあいだを切り裂く。
 ――セシルが、鳴っていた。

「お嬢様。起床の時間です。目覚ましセシル、定刻通りに作動いたしました」

「……あなた、音量が一定すぎて腹が立つわ」

「事実申告です。二度寝防止仕様になっております」

「……停止ボタンは?」

「ございません」

 枕を投げても、彼は微動だにしない。
 暗い部屋の窓から、かすかな朝の灰色が差し込む。
 外はまだ静まり返っているのに、麦の粉のような冷たい空気が、明け方の匂いを運んでいた。

「今日は初出勤です。焦げの再現は不要です」

「言わなくていいのよ……!」

 顔を洗い、髪を結う。
 鏡の中の自分は、もう侯爵令嬢ではなかった。
 代わりにそこにいるのは、眠気と少しの誇りでできた働く人の顔。

     ◇ ◇ ◇

 麦猫堂は、まだ街が眠っている時間から動き出していた。
 扉の前でハンナが腕を組んで待っていた。

「早いね、エリ。いい心がけだよ」

「おはようございます!」

「声もでかい。よし、合格。じゃ、今日の担当は裏だ」

「裏?」

「表で売るためには、まず裏で仕込む。粉を量って、混ぜて、まとめて、発酵させる。地味で、退屈で、間違えたら全部パー。仕事ってのは、大体そういうもんだよ」

「はいっ!」

「威勢がいいのはいいが、威勢じゃパンは膨らまない。気持ちは練るもんじゃなく、寝かせるもんだ」

 言いながら、ハンナは粉袋を肩で抱え、台の上にどさりと置いた。
 白い煙のように舞い上がる粉塵が、朝の光を斜めに切る。

「混ぜる順番、覚えてるかい?」

「小麦粉、塩、水、……気合い!」

「気合いは後半にしな!」

 ハンナが笑い、セシルは静かに頷く。
 私は袖をまくり、粉に手を入れる。
 指の間を抜ける感触は、昨日よりも確かだった。

「……この感じ、好きかもしれない」

「なら、いい仕事に出会ったんだね」

「でも、まだお金になってません」

「セシル、それを言うな」
 ハンナが笑いながら肩をすくめた。
 「パンは、気持ちが膨らんでから稼ぐもんだよ。」

「詩的な表現ですね」とセシルがぼそりと呟き、ハンナが「黙んな」と笑う。
 その空気が、少しだけ温かかった。

 そんな調子で始まった初出勤の朝。
 発酵室に生地を並べ、温度を見て、布をかける。
 初めて扱う大きな窯の前で、私は少しだけ息を呑んだ。

「火の加減、任せるよ」

「はい!」

 ハンナは奥で他の生地を捏ねている。
 セシルは店先の掃除を引き受けていた。
 私は一人で窯と向き合う。

 炎が息づく音。
 パンを包む熱気。
 その中に、昨日と同じ焦げの影を見た気がした。
 私は温度をほんの少し下げ、扉を閉め直す。――その瞬間。

 ばふん。

「……?」

 窯の奥で、奇妙な音。
 開けた瞬間、白い煙が勢いよく吹き出した。

「きゃっ!?」

 発酵しすぎたパン生地が、勢い余って爆ぜたのだ。
 窯の中は、まるで雪が降ったみたいに粉まみれ。

 ハンナが走ってきて、すぐに扉を閉めた。

「……まあ、初日はこれくらいで済めば御の字だね」

「ご、ごめんなさい……!」

「謝るより、掃除しな。火を止める。落ち着いてやれば、次は失敗しない」

 手際の良さに、私はただ頷くしかなかった。
 セシルが布を持って駆け寄る。

「お嬢様。やはり気合いの分量が多すぎたようです」

「あなた、ほんとに刺してくるのね」

「事実申告です」

 煙の中で笑いながら、私は布で粉を拭った。
 白い粉が光を反射して、まるで朝霧みたいに美しい。
 失敗すら、少しだけ優しく見える瞬間。

     ◇ ◇ ◇

 昼前。
 再び焼き上げたパンは、ふっくらときつね色に膨らんだ。
 表面の艶を見て、ハンナが頷く。

「よし。朝の失敗、取り返したね」

「ありがとうございます!」

「礼はまだ早い。午後も働くんだよ。昼食は、ほら」

 差し出されたのは、少し欠けた丸パン。
 まだ温かい。香りは、昨日よりも柔らかい。
 私はひと口かじる。ほろり、と崩れる。
 涙が出るほどおいしかった。

「……ハンナさん、これ、お金払わせてください!」

「バカだね、まかないだよ」

「まかない……」

「働いた奴は、食っていい。仕事ってのはそういうもんだ」

 胸が熱くなった。
 昨日の焦げも、朝の失敗も、全部この一口で報われた気がした。

     ◇ ◇ ◇

 夕暮れ。
 粉袋を片づけ、店を掃除し終えたとき、ハンナが硬貨を渡してきた。

「はい、今日の分」

「ありがとうございます!」

「あと、今朝の爆発パンの件な。自分で掃除したから、弁償は三割引きにしとくよ」

「……助かります」

「働いた分は、ちゃんと数字で返すのが筋だからね」

 苦笑いしながら硬貨を受け取る。
 セシルは外で、猫と戯れていた。
 麦猫堂の看板に似た、白と灰のまだら猫。
 その姿を見て、私は思わず笑った。

「セシル」

「はい?」

「あなた、猫にも事実申告してそうね」

「申告しました。撫でると癒やされますと」

「それは事実ね」

 街の灯がひとつ、またひとつ、灯る。
 今日も、少しだけ前に進んだ気がする。
 まだ借金は遠い。でも、数字の向こうに、香ばしい匂いがある。

     ◇ ◇ ◇

📜本日の収支記録
項目 内容 金額(リラ)
収入 日給・チップなど +13
合計 +13
借金残高 24,990 → 24,977

セシルの一口メモ:
お嬢様、給料袋を何度も開け閉めして確認する癖は早めに直しましょう。
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