65 / 132
第64話 届いた報せと、揺れる決意
しおりを挟む
翌朝の麦猫堂は、まだ静かな光に包まれていた。
窓から差し込む柔らかな日差しと、捏ね台の上の生地の感触が、いつもの朝を知らせてくれる。
エリは、昨日よりほんの少しだけ深く息を吸えた。
(今日も……ちゃんと、ここに立ててる)
だが胸の奥のざわつきは、まだ完全には消えない。
「エリ。無理はしていませんか」
セシルが生地の様子を見ながら声をかけてくる。
「うん、大丈夫。昨日よりは……落ち着いてるよ」
「それなら良いのですが」
その時だった。
トントン。
店の扉が控えめに叩かれた。
「まだ開店前だよ? 誰だろうねえ」
ハンナが首をかしげながら扉へ向かう。
扉を開いたハンナの眉が、驚きでわずかに上がった。
「……あんたは確か、クレアル邸の」
「アンナです。朝早くに失礼いたします」
家令補佐のアンナが、きちんと姿勢を正して立っていた。
エリの心臓が一度だけ強く跳ねた。
「エリさん、少しお時間をいただけますか」
アンナは、まっすぐエリを見ている。
「は、はい……どうかしましたか」
アンナは懐から封筒を取り出した。
濃紺の封蝋が、不思議と昨日の不安を連想させる。
「奥様より伝言がございます。
ただの連絡であり、恐がる必要はありません」
エリは唾を飲み込み、封筒を受け取った。
封を切ると、丁寧な筆跡が目に飛び込んでくる。
――街の一部で、あなたの名が軽率に扱われています。
――不用意に動く人々もおります。
――決して一人で考え込まぬように。
文章は短いが、ルチアの気遣いがにじんでいた。
読み終わると、手がわずかに震えていた。
「エリさん。
奥様は、あなたに何かあればと大変案じておられます」
アンナが静かに続ける。
「……どうして、そこまで心配してくれるんだろう」
「理由は一つではないでしょう。
ですが奥様は、無用な危険に晒される若い女性を見過ごす方ではありません」
エリは視線を落とした。
また守られている。
そう思ったとき、胸が少し苦しくなった。
(守られるだけじゃ……だめだよね)
セシルが横で、アンナへ丁寧に礼を述べる。
「情報をありがとうございます。こちらでも注意を払います」
アンナは頷き、帰り際にふとエリへ向き直った。
「エリさん。
どうか、焦らずに。
あなたが思う以上に、あなたを気にかける人は多いのです」
その言葉は、静かに胸へ染み込んだ。
◇ ◇ ◇
アンナが去ったあと、厨房に沈黙が落ちる。
「……エリ」
セシルが口を開いた。
「必要以上に怯える必要はありません。
ただし、誰かの配慮に甘えすぎてもいけません」
「……うん、分かってる」
「エリが進みたい道を、あなた自身が選ぶためにも、
今は慎重に、けれど前へ進む姿勢だけは失わないでください」
エリは、生地に触れながら目を閉じた。
(私は……どうしたいんだろう)
逃げたいわけじゃない。
戻りたいわけでもない。
でも、怯えたままではいたくない。
ゆっくり目を開き、前を向いた。
「セシル。
もう少し……ちゃんと自分で考えたい。
でもその上で、進みたいと思った道があったら……その時は」
セシルが穏やかに頷いた。
「ええ。どんな道でも、あなたが選ぶなら支えます」
胸の奥で、小さな決意が芽を出すのを感じた。
◇ ◇ ◇
開店準備が進む中、
ふと窓の外を見ると、朝の光が街路に長く影を落としていた。
その影の奥にある不安は消えない。
けれどエリは、ひとつ息を吸って思った。
(影を見ても、歩くことはやめない。
私は……前へ進む)
その静かな決意が、胸にゆっくり灯った。
本日の収支記録
項目 内容 金額(リラ)
収入 店頭販売(控えめ) +18
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +38
借金残高 22,500 → 22,462リラ
セシルの一口メモ
守られることと、依存することは違います。
自分で選び、誰かに支えられる――
その一歩が、エリを確かな未来へ導くのです。
窓から差し込む柔らかな日差しと、捏ね台の上の生地の感触が、いつもの朝を知らせてくれる。
エリは、昨日よりほんの少しだけ深く息を吸えた。
(今日も……ちゃんと、ここに立ててる)
だが胸の奥のざわつきは、まだ完全には消えない。
「エリ。無理はしていませんか」
セシルが生地の様子を見ながら声をかけてくる。
「うん、大丈夫。昨日よりは……落ち着いてるよ」
「それなら良いのですが」
その時だった。
トントン。
店の扉が控えめに叩かれた。
「まだ開店前だよ? 誰だろうねえ」
ハンナが首をかしげながら扉へ向かう。
扉を開いたハンナの眉が、驚きでわずかに上がった。
「……あんたは確か、クレアル邸の」
「アンナです。朝早くに失礼いたします」
家令補佐のアンナが、きちんと姿勢を正して立っていた。
エリの心臓が一度だけ強く跳ねた。
「エリさん、少しお時間をいただけますか」
アンナは、まっすぐエリを見ている。
「は、はい……どうかしましたか」
アンナは懐から封筒を取り出した。
濃紺の封蝋が、不思議と昨日の不安を連想させる。
「奥様より伝言がございます。
ただの連絡であり、恐がる必要はありません」
エリは唾を飲み込み、封筒を受け取った。
封を切ると、丁寧な筆跡が目に飛び込んでくる。
――街の一部で、あなたの名が軽率に扱われています。
――不用意に動く人々もおります。
――決して一人で考え込まぬように。
文章は短いが、ルチアの気遣いがにじんでいた。
読み終わると、手がわずかに震えていた。
「エリさん。
奥様は、あなたに何かあればと大変案じておられます」
アンナが静かに続ける。
「……どうして、そこまで心配してくれるんだろう」
「理由は一つではないでしょう。
ですが奥様は、無用な危険に晒される若い女性を見過ごす方ではありません」
エリは視線を落とした。
また守られている。
そう思ったとき、胸が少し苦しくなった。
(守られるだけじゃ……だめだよね)
セシルが横で、アンナへ丁寧に礼を述べる。
「情報をありがとうございます。こちらでも注意を払います」
アンナは頷き、帰り際にふとエリへ向き直った。
「エリさん。
どうか、焦らずに。
あなたが思う以上に、あなたを気にかける人は多いのです」
その言葉は、静かに胸へ染み込んだ。
◇ ◇ ◇
アンナが去ったあと、厨房に沈黙が落ちる。
「……エリ」
セシルが口を開いた。
「必要以上に怯える必要はありません。
ただし、誰かの配慮に甘えすぎてもいけません」
「……うん、分かってる」
「エリが進みたい道を、あなた自身が選ぶためにも、
今は慎重に、けれど前へ進む姿勢だけは失わないでください」
エリは、生地に触れながら目を閉じた。
(私は……どうしたいんだろう)
逃げたいわけじゃない。
戻りたいわけでもない。
でも、怯えたままではいたくない。
ゆっくり目を開き、前を向いた。
「セシル。
もう少し……ちゃんと自分で考えたい。
でもその上で、進みたいと思った道があったら……その時は」
セシルが穏やかに頷いた。
「ええ。どんな道でも、あなたが選ぶなら支えます」
胸の奥で、小さな決意が芽を出すのを感じた。
◇ ◇ ◇
開店準備が進む中、
ふと窓の外を見ると、朝の光が街路に長く影を落としていた。
その影の奥にある不安は消えない。
けれどエリは、ひとつ息を吸って思った。
(影を見ても、歩くことはやめない。
私は……前へ進む)
その静かな決意が、胸にゆっくり灯った。
本日の収支記録
項目 内容 金額(リラ)
収入 店頭販売(控えめ) +18
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +38
借金残高 22,500 → 22,462リラ
セシルの一口メモ
守られることと、依存することは違います。
自分で選び、誰かに支えられる――
その一歩が、エリを確かな未来へ導くのです。
0
あなたにおすすめの小説
【完結保証】科学で興す異世界国家 ~理不尽に死んだ技術者が、「石炭」と「ジャガイモ」で最強を証明する。優秀な兄たちが膝を折るまでの建国譚~
Lihito
ファンタジー
正しいデータを揃えた。論理も完璧だった。
それでも、組織の理不尽には勝てなかった。
——そして、使い潰されて死んだ。
目を覚ますとそこは、十年後に魔王軍による滅亡が確定している異世界。
強国の第三王子として転生した彼に与えられたのは、
因果をねじ曲げる有限の力——「運命点」だけ。
武力と経済を握る兄たちの陰で、継承権最下位。後ろ盾も発言力もない。
だが、邪魔する上司も腐った組織もない。
今度こそ証明する。科学と運命点を武器に、俺のやり方が正しいことを。
石炭と化学による国力強化。
情報と大義名分を積み重ねた対外戦略。
準備を重ね、機が熟した瞬間に運命点で押し切る。
これは、理不尽に敗れた科学者が、選択と代償を重ねる中で、
「正しさ」だけでは国は守れないと知りながら、
滅びの未来を書き換えようとする建国譚。
田舎娘、追放後に開いた小さな薬草店が国家レベルで大騒ぎになるほど大繁盛
タマ マコト
ファンタジー
【大好評につき21〜40話執筆決定!!】
田舎娘ミントは、王都の名門ローズ家で地味な使用人薬師として働いていたが、令嬢ローズマリーの嫉妬により濡れ衣を着せられ、理不尽に追放されてしまう。雨の中ひとり王都を去ったミントは、亡き祖母が残した田舎の小屋に戻り、そこで薬草店を開くことを決意。森で倒れていた謎の青年サフランを救ったことで、彼女の薬の“異常な効き目”が静かに広まりはじめ、村の小さな店《グリーンノート》へ、変化の風が吹き込み始める――。
過労死した俺、異世界で最強農業チートに目覚める。神農具で荒野を楽園に変えたら、エルフや獣人が集まって最高の国ができました
黒崎隼人
ファンタジー
「君、死んじゃったから、異世界で国、作らない?」
ブラック企業で過労死した俺、相川大地。
女神様から授かったのは、一振りで大地を耕し、一瞬で作物を育てる**最強の『神農具』**だった!?
右も左もわからない荒野でのサバイバル。
だけど、腹ペコのエルフ美少女を助け、頼れるドワーフ、元気な猫耳娘、モフモフ神狼が仲間になって、開拓生活は一気に賑やかに!
美味しいご飯とチート農具で、荒野はあっという間に**「奇跡の村」**へ。
これは、ただの農民志望だった俺が、最高の仲間たちと世界を救い、種族の壁を越えた理想の国『アグリトピア』を築き上げる物語。
農業は、世界を救う! さあ、今日も元気に、畑、耕しますか!
婚約破棄された幼い公爵令嬢、目覚めたら絶世の美女でした
鍛高譚
恋愛
『幼すぎる』と婚約破棄された公爵令嬢ですが、意識不明から目覚めたら絶世の美女になっていました
幼すぎる、頼りない――そんな理由で婚約者に見限られた公爵令嬢シルフィーネ。
心ない言葉に傷ついた彼女は、事故に遭い意識不明となってしまう。
しかし一年後、彼女は奇跡的に目を覚ます。
そして目覚めた彼女は――かつての面影を残しつつも、見る者すべてを惹きつける絶世の美女へと変貌を遂げていた!
周囲の反応は一変。婚約破棄を後悔する元婚約者、熱視線を送る他家の令息たち、さらには王太子からの突然の縁談まで舞い込み――?
「もう、誰にも傷つけられたくない。私は私の幸せを手に入れるの」
これは、冷たく突き放された少女が美しく咲き誇り、誇りと自由を手に入れる、ざまぁ&逆転恋愛劇。
側妃に追放された王太子
基本二度寝
ファンタジー
「王が倒れた今、私が王の代理を務めます」
正妃は数年前になくなり、側妃の女が現在正妃の代わりを務めていた。
そして、国王が体調不良で倒れた今、側妃は貴族を集めて宣言した。
王の代理が側妃など異例の出来事だ。
「手始めに、正妃の息子、現王太子の婚約破棄と身分の剥奪を命じます」
王太子は息を吐いた。
「それが国のためなら」
貴族も大臣も側妃の手が及んでいる。
無駄に抵抗するよりも、王太子はそれに従うことにした。
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
仕事繁忙期の為、2月中旬まで更新を週一に致します。
カクヨム(吉野 ひな)様にも投稿しています。
「無能」と捨てられた少女は、神の愛し子だった――。 凍てつく北の地で始まる、聖獣たちと冷徹公爵による「世界一過保護な」逆転生活。
秦江湖
恋愛
魔法適性「鑑定」がすべてを決める、黄金の国ルミナリス。 名門ベルグラード公爵家の末娘アデリーンは、十五歳の鑑定式で、前代未聞の『鑑定不能(黒の沈黙)』を叩き出してしまう。
「我が家の恥さらしめ。二度とその顔を見せるな」
第一王子からは婚約破棄を突きつけられ、最愛の三人の兄たちからも冷酷な言葉とともに、極寒の地「ノースガル公国」へ追放を言い渡されたアデリーン。
着の身着のままで雪原に放り出された彼女が出会ったのは、一匹の衰弱した仔狼――それは、人間には決して懐かないはずの『伝説の聖獣』だった。
「鑑定不能」の正体は、魔力ゼロなどではなく、聖獣と心を通わせる唯一の力『調律師』の証。
行き倒れたアデリーンを救ったのは、誰もが恐れる氷の公爵ゼノスで……。
「こんなに尊い存在を捨てるとは、黄金の国の連中は正気か?」
「聖獣も、私も……お前を離すつもりはない」
氷の公爵に拾われ、聖獣たちに囲まれ、これまでの不遇が嘘のような「極上溺愛」を享受するアデリーン。
一方で、彼女を捨てた黄金の国は、聖獣の加護を失い崩壊の危機に直面していた。
慌ててアデリーンを連れ戻そうとする身勝手な王族たち。
しかし、彼らの前には「復讐」の準備を終えたアデリーンの兄たちが立ちはだかる。
「遅いよ。僕らのかわいい妹を泣かせた罪、一生かけて償ってもらうからね」
これは、すべてを失った少女が、真の居場所と愛を見つけるまでの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる