没落令嬢、バイト始めました 〜毒舌執事と返済ライフ〜

いっぺいちゃん

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第64話 届いた報せと、揺れる決意

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翌朝の麦猫堂は、まだ静かな光に包まれていた。
窓から差し込む柔らかな日差しと、捏ね台の上の生地の感触が、いつもの朝を知らせてくれる。

エリは、昨日よりほんの少しだけ深く息を吸えた。

(今日も……ちゃんと、ここに立ててる)

だが胸の奥のざわつきは、まだ完全には消えない。

「エリ。無理はしていませんか」
セシルが生地の様子を見ながら声をかけてくる。

「うん、大丈夫。昨日よりは……落ち着いてるよ」

「それなら良いのですが」

その時だった。

トントン。

店の扉が控えめに叩かれた。

「まだ開店前だよ? 誰だろうねえ」
ハンナが首をかしげながら扉へ向かう。

扉を開いたハンナの眉が、驚きでわずかに上がった。

「……あんたは確か、クレアル邸の」

「アンナです。朝早くに失礼いたします」
家令補佐のアンナが、きちんと姿勢を正して立っていた。

エリの心臓が一度だけ強く跳ねた。

「エリさん、少しお時間をいただけますか」
アンナは、まっすぐエリを見ている。

「は、はい……どうかしましたか」

アンナは懐から封筒を取り出した。
濃紺の封蝋が、不思議と昨日の不安を連想させる。

「奥様より伝言がございます。
 ただの連絡であり、恐がる必要はありません」

エリは唾を飲み込み、封筒を受け取った。

封を切ると、丁寧な筆跡が目に飛び込んでくる。

――街の一部で、あなたの名が軽率に扱われています。
――不用意に動く人々もおります。
――決して一人で考え込まぬように。

文章は短いが、ルチアの気遣いがにじんでいた。

読み終わると、手がわずかに震えていた。

「エリさん。
 奥様は、あなたに何かあればと大変案じておられます」
アンナが静かに続ける。

「……どうして、そこまで心配してくれるんだろう」

「理由は一つではないでしょう。
 ですが奥様は、無用な危険に晒される若い女性を見過ごす方ではありません」

エリは視線を落とした。

また守られている。
そう思ったとき、胸が少し苦しくなった。

(守られるだけじゃ……だめだよね)

セシルが横で、アンナへ丁寧に礼を述べる。

「情報をありがとうございます。こちらでも注意を払います」

アンナは頷き、帰り際にふとエリへ向き直った。

「エリさん。
 どうか、焦らずに。
 あなたが思う以上に、あなたを気にかける人は多いのです」

その言葉は、静かに胸へ染み込んだ。

   ◇ ◇ ◇

アンナが去ったあと、厨房に沈黙が落ちる。

「……エリ」
セシルが口を開いた。

「必要以上に怯える必要はありません。
 ただし、誰かの配慮に甘えすぎてもいけません」

「……うん、分かってる」

「エリが進みたい道を、あなた自身が選ぶためにも、
 今は慎重に、けれど前へ進む姿勢だけは失わないでください」

エリは、生地に触れながら目を閉じた。

(私は……どうしたいんだろう)

逃げたいわけじゃない。
戻りたいわけでもない。
でも、怯えたままではいたくない。

ゆっくり目を開き、前を向いた。

「セシル。
 もう少し……ちゃんと自分で考えたい。
 でもその上で、進みたいと思った道があったら……その時は」

セシルが穏やかに頷いた。

「ええ。どんな道でも、あなたが選ぶなら支えます」

胸の奥で、小さな決意が芽を出すのを感じた。

   ◇ ◇ ◇

開店準備が進む中、
ふと窓の外を見ると、朝の光が街路に長く影を落としていた。

その影の奥にある不安は消えない。

けれどエリは、ひとつ息を吸って思った。

(影を見ても、歩くことはやめない。
 私は……前へ進む)

その静かな決意が、胸にゆっくり灯った。

本日の収支記録
項目 内容 金額(リラ)
収入 店頭販売(控えめ) +18
収入 店舗手伝いの取り分 +20
合計 +38
借金残高 22,500 → 22,462リラ
セシルの一口メモ

守られることと、依存することは違います。
自分で選び、誰かに支えられる――
その一歩が、エリを確かな未来へ導くのです。
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