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終わりの歌
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そこは森の奥、誰も足を踏み入れないような深淵と呼ばれる場所だった。
ほぼ半壊した家のドアノブに手をかける。
彼女が消えて、半年以上経って、ようやく見つけた手がかりが産婆からの便りだった。それを知ったときから、ずっと冷たい水の中にいるようだった。
否定してほしい。どうか間違いであってほしい。…でもいてほしい。
ただ君に会いたかった。謝りたかった。
許されたかった。
でもそれが叶わないと、これが今生の別れになると、誰が知っていただろうか。
ボロボロの部屋、今にも崩れそうなベットの上に彼女はいた。傍らには産婆がいる。
悲鳴と、痛みにあえぐ声。それは聞き覚えのない、彼女の声。
でも、不思議と目があった瞬間にそれらが消えた。
ギラギラと油膜のように張った怒りが、憎しみが、骨身に刺さるようだった。
「あら…来たの。」
奇妙な音程だった。これは…これは本当に彼女なのだろうか。
「あなたの子よ。あなたが望んで、あなたが産ませる、あなたの子よ。」
「ご、ごめ、ごめんなさい…」
力が抜ける。立っていられない。でも、彼女が許さない。
「僕はただ、君と幸せになりたくて…ただ…」
突如、彼女が笑いだした。
「ああ、ヤダヤダ、ヤダヤダ」
とケタケタ笑う。それを聞いただけで、死にたくなった。
彼女はすべてを奪われた。全てを。
そうして腹には裏切った男の子。
「ああ、ヤダヤダ、ヤダヤダ」
ケタケタ笑う。耳障りな音程で。
遅れて飛び込んできた家族や友人達が扉の前で立ち尽くしていた。
その視線は出産目前の女で止まっている。
ニタニタ笑う彼女は、もはや人の顔をしていなかった。その瞳には風も光も届かない。
どんなに謝っても、どんなに泣いても、あるいは怒っても、彼女の心は底なし沼のように深く、暗く、濁って、停滞したまま動かない。
それでもケタケタ笑って言う。
「ああ、ヤダヤダ…ヤダヤダやだやだやだ、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌!」
おろすこともできず、望むこともできず。
ーやがて、女は悲鳴を上げる。
「あ、あ、ああ。やって来る。」
「あは、は!!!あはは!ほら!お望みの子だ」
「でも…この子は本当に人間かしらぁ?」
許しはない。逃げ場はない。
この場にいる全員に刻みつけてやる。
目をそらすことは許さない。
さあ、ゆくがいい。呪いの子よ。
どこまでも飛んでいけ。すべてを巻き込み、汚して、そうしてドブにでも撒いておいで。
女が一層高い悲鳴を上げたあと、赤子の声が響いた。
彼女から、今までの激情が嘘のようにひいていく。
代わりに、にこりと、あの頃の見知った傷一つない、暖かく柔らかな顔で微笑んだ。
ここにいる皆が惚れ、愛し、慈しみ、守って、そして裏切った女の顔だった。
だが、それが恐ろしかった。
愛したはずの女。なのに、知らない女がそこにいた。
誰一人動けなかった。誰一人、息もできなかった。
怖い。怖くてたまらない。
産婆が震える手で彼女に子を渡した。
彼女は赤子の顔をのぞき込んで、しっかりと目を合わせて…やがて笑った。
産婆に花瓶から1輪花をとってもらい、それを赤子の胸元に飾る。そうして、そっと額に口付けた。だが、それは我が子に送る愛の証ではない。これは刻印だ。
「待っているわ、愛しい子。ああ…そうだわ。その花、好きなの。会いに来るときに持ってきてくれるかしら…?ふふ、できるだけ早く会いに来てね。」
そうして彼女は息絶えた。
ー産まれてきた子は女の子だった。
せめて、彼女だけは幸せになれるようにと…皆で精一杯愛して慈しんで育てた。
彼女は一見普通の少女のようであった。
元気に友達と遊び、学び、恋をして、恋人との逢瀬を重ねる。
普通の女の子として育っていく。まるであの日の刻印が無かったかのように。
でも彼女は普通ではなかった。普通のふりをするのが上手かっただけ。
その日は突然やってきた。
彼女は人を殺してしまった。それから崖を転がる石のように一直線に狂っていった。
まるで待っていましたとばかりに、彼女は地獄を作り出していく。
歩くたびに死体が増えて、人々の悲しみが、憎しみが、絶望が、ゆっくりと世界を蝕んで腐らせていった。
ケタケタと笑う彼女は、あの日の母と同じ笑顔で世界を踏み潰していった。
でも、全てには終わりがやってくる。
楽しく遊んだあとは、後片付けが必要だ。
だから、だから。
「頼めるかい?」
「ええ。彼女は僕が止めます。恋人ですから。」
「ありがとう。辛い役目をおわせてすまないね。」
「いいえ…いいえ。」
二人の男は話し終えたあと、静かに歩き出した。愛した恋人を、娘を、殺すために。
「ごめんな。さようなら。愛していたよ。」
もう、笑顔すら思い出せない。
それでも。君を愛してる。
ほぼ半壊した家のドアノブに手をかける。
彼女が消えて、半年以上経って、ようやく見つけた手がかりが産婆からの便りだった。それを知ったときから、ずっと冷たい水の中にいるようだった。
否定してほしい。どうか間違いであってほしい。…でもいてほしい。
ただ君に会いたかった。謝りたかった。
許されたかった。
でもそれが叶わないと、これが今生の別れになると、誰が知っていただろうか。
ボロボロの部屋、今にも崩れそうなベットの上に彼女はいた。傍らには産婆がいる。
悲鳴と、痛みにあえぐ声。それは聞き覚えのない、彼女の声。
でも、不思議と目があった瞬間にそれらが消えた。
ギラギラと油膜のように張った怒りが、憎しみが、骨身に刺さるようだった。
「あら…来たの。」
奇妙な音程だった。これは…これは本当に彼女なのだろうか。
「あなたの子よ。あなたが望んで、あなたが産ませる、あなたの子よ。」
「ご、ごめ、ごめんなさい…」
力が抜ける。立っていられない。でも、彼女が許さない。
「僕はただ、君と幸せになりたくて…ただ…」
突如、彼女が笑いだした。
「ああ、ヤダヤダ、ヤダヤダ」
とケタケタ笑う。それを聞いただけで、死にたくなった。
彼女はすべてを奪われた。全てを。
そうして腹には裏切った男の子。
「ああ、ヤダヤダ、ヤダヤダ」
ケタケタ笑う。耳障りな音程で。
遅れて飛び込んできた家族や友人達が扉の前で立ち尽くしていた。
その視線は出産目前の女で止まっている。
ニタニタ笑う彼女は、もはや人の顔をしていなかった。その瞳には風も光も届かない。
どんなに謝っても、どんなに泣いても、あるいは怒っても、彼女の心は底なし沼のように深く、暗く、濁って、停滞したまま動かない。
それでもケタケタ笑って言う。
「ああ、ヤダヤダ…ヤダヤダやだやだやだ、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌!」
おろすこともできず、望むこともできず。
ーやがて、女は悲鳴を上げる。
「あ、あ、ああ。やって来る。」
「あは、は!!!あはは!ほら!お望みの子だ」
「でも…この子は本当に人間かしらぁ?」
許しはない。逃げ場はない。
この場にいる全員に刻みつけてやる。
目をそらすことは許さない。
さあ、ゆくがいい。呪いの子よ。
どこまでも飛んでいけ。すべてを巻き込み、汚して、そうしてドブにでも撒いておいで。
女が一層高い悲鳴を上げたあと、赤子の声が響いた。
彼女から、今までの激情が嘘のようにひいていく。
代わりに、にこりと、あの頃の見知った傷一つない、暖かく柔らかな顔で微笑んだ。
ここにいる皆が惚れ、愛し、慈しみ、守って、そして裏切った女の顔だった。
だが、それが恐ろしかった。
愛したはずの女。なのに、知らない女がそこにいた。
誰一人動けなかった。誰一人、息もできなかった。
怖い。怖くてたまらない。
産婆が震える手で彼女に子を渡した。
彼女は赤子の顔をのぞき込んで、しっかりと目を合わせて…やがて笑った。
産婆に花瓶から1輪花をとってもらい、それを赤子の胸元に飾る。そうして、そっと額に口付けた。だが、それは我が子に送る愛の証ではない。これは刻印だ。
「待っているわ、愛しい子。ああ…そうだわ。その花、好きなの。会いに来るときに持ってきてくれるかしら…?ふふ、できるだけ早く会いに来てね。」
そうして彼女は息絶えた。
ー産まれてきた子は女の子だった。
せめて、彼女だけは幸せになれるようにと…皆で精一杯愛して慈しんで育てた。
彼女は一見普通の少女のようであった。
元気に友達と遊び、学び、恋をして、恋人との逢瀬を重ねる。
普通の女の子として育っていく。まるであの日の刻印が無かったかのように。
でも彼女は普通ではなかった。普通のふりをするのが上手かっただけ。
その日は突然やってきた。
彼女は人を殺してしまった。それから崖を転がる石のように一直線に狂っていった。
まるで待っていましたとばかりに、彼女は地獄を作り出していく。
歩くたびに死体が増えて、人々の悲しみが、憎しみが、絶望が、ゆっくりと世界を蝕んで腐らせていった。
ケタケタと笑う彼女は、あの日の母と同じ笑顔で世界を踏み潰していった。
でも、全てには終わりがやってくる。
楽しく遊んだあとは、後片付けが必要だ。
だから、だから。
「頼めるかい?」
「ええ。彼女は僕が止めます。恋人ですから。」
「ありがとう。辛い役目をおわせてすまないね。」
「いいえ…いいえ。」
二人の男は話し終えたあと、静かに歩き出した。愛した恋人を、娘を、殺すために。
「ごめんな。さようなら。愛していたよ。」
もう、笑顔すら思い出せない。
それでも。君を愛してる。
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