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〈ヒーロー〉と〈悪役令嬢〉編
【53】ヒーローと悪役令嬢は花街で ☆
しおりを挟む清めた体に香油を塗り、新人娼妓は衣装を纏う。
娼妓シエラの初夜のドレスは、鮮やかな青紫色だった。彼女の瞳の色に合わせたとも、客の瞳の色に合わせたとも感じられる華やかなドレス。
大胆に開いた胸元から覗く白雪の肌と桔梗の生地とが魅せるコントラストは、客を美しく惑わせる。
きっと、いい夜になりましょう、と誰かが言った。
見習い娘の少女たちに「おきれいです」などと褒められても、かの娼妓は、曖昧に微笑むばかりであった。
「シエラ――、いや、シシリー」
青楼らしい淫靡な香が焚かれた閨で。
ふたりきりになると、客は娼妓の本当の名を呼んだ。これから彼が抱くのは、娼妓ではなく彼女だと宣言するように。
だから娼妓も、男をお客様とは呼ばず、こう呼んだ。
「兄、様」
兄様。にいさま。そう、彼らは――同じ母の腹から生まれた、同じ父の種で拵えられた、実の兄妹だった。
客の本名は、ユースタス・セルナサス。セルナサス公爵家の嫡男で、王太子に仕える騎士である。
叔父にあたる王弟が主導した先の謀反では、王弟側に潜入し、王太子に情報を流す間諜として暗躍した。
そして娼妓の本名は、シシリー・セルナサス。セルナサス公爵家から出た娘で、しかし今は公爵令嬢とは呼ばれない。
王太子や彼の婚約者を害し、さらには謀反に加担した罪を贖えと、花街での労役を課せられた遊女である。
彼女の前世の世界にあった、乙女ゲーム【幼き頃より愛する君と、】のシナリオ――この世界ではオトメゲームという名の呪いだとされるそれにより、彼女は断罪から逃れる術をもたなかった。
極刑に処されることも、殺されることもなく、ぽいっと花街に追いやられるだけのこの終わり方が、シシリー・セルナサスの最善であり、きっと正史であった。
ユースタスに初夜を買われるのは、予想外ではあったけれど……。いや、本当は、彼の気持ちには気づいていたのだから、こう片付けるのは残酷かもしれないけれど。
好きでもなんでもない男に身体を許すか、死ぬか。
この世界でもそうなると覚悟して生きてきた。
もしも生き延びたら、悪役令嬢が死ななかった世界線、彼女が主人公となる続編ゲームの攻略対象に買われて散らされて。そういうふうに儚く終わるものなのだと。
「――優しくするよ」
ユースタスはシシリーをそっと抱き寄せ、耳元で囁く。
ふたりの淡い金色の髪と髪とが触れあい、重なった。
「それは、もちろん、そうでしょう。水揚げの儀ですからね。初めては、優しくしないと、処女ですから、ええ、ぜったい優しく……」
「……大丈夫だ、シシリー」
いったい何が大丈夫なのだ、と。何も大丈夫じゃないと。シシリーは、許されるならば彼を詰りたかった。でも、しない。
ユウ様は彼女を買ったお客様で、シエラは彼に買われた娼妓だから。
たとえ、彼と彼女が、血の繋がった兄妹でも。閨では結局ただの男と女だ。
「では、水揚げの儀を、始めましょう――」
シシリーは、公爵令嬢であった頃から〝貴婦人シエラ〟と名乗り、ひそかに花街の産業に関わってきた。
性具の製造・販売事業に手を出していたこともあり、儀式に使う媚薬酒それ自体にはさほど抵抗はない。が。
(口移し……キス……は、初めてね……)
ピンク色の瓶を手に、ちょっと躊躇う。
研究開発のためと兄ユースタスにあれこれ協力はさせていたが、彼の裸体も男根も飽きるほど見たが、それでもキスという行為はしたことがない。
「俺から、しようか」
「あ……」
彼女の手より大きな彼の手が、ひょいと酒瓶を奪いとる。きゅぽん、と間抜けな音がして、栓が開けられた。
「お、兄さま、兄様……あの……」
「目を瞑れ、シシリー」
「え、えっと」
「そんなに俺のキス顔が見たいのか?」
「っ、そんなわけないでしょ! 馬鹿!」
ああ、いつもの妹シシリーらしいことを言ってしまった、と。悔いた唇は微かに震えた。
「ほら」
「急かさなくても、わかってるわ。……そんなに私とキスがしたい?」
「叶うならしたい。が、嫌ならしないから拒め、馬鹿」
「もうっ、馬鹿にしないで! キスくらいできるんだから!」
「意地っ張りとは、今日も可愛いな。おまえは。……なあ、シシリー」
本当に、大丈夫なのか、と。剣術によって鍛えられた硬い手が、彼女のやわな唇に触れてくる。女遊びの達人と噂される騎士は、それでいて愛おしげに、新人娼妓の唇をなぞった。
(ほんと、顔だけは、めちゃくちゃ綺麗なんだから……)
金の前髪がさらりと流れ、青紫の瞳は熱情を宿す。
まさに、前世のゲームで見た俺様騎士ユースタス様そのものだ。転生後は小さい頃から見てきたが、よちよちの幼児の時も、少年の時も青年の時も、彼の顔立ちは憎いほど整っていた。
(まあ、悪役令嬢も、美人ではあるんだけどね)
ちらりと傍らに視線をやれば。
浮かぶ花の色は真っ黒――好感度=上限値だ。
彼女は【バグ】により、悪役令嬢ながらヒロインの能力をもっている。
自分へ向けられる愛の量をはかる、好感度の花を見る力。セーブ・ロードを行う、やり直す力。
(シスコン兄様。馬鹿兄様。だいっきらい)
目を瞑ると同時に、彼女は唇をきつく閉ざす。
(ユウ兄様と、キス、なんて)
シシリーは、ずっと、兄という生き物が怖かった。
前世の彼女の〝兄〟が怖くて、この世界の〝兄〟も、兄であるだけであの男を思い出させるから怖かった。
ユースタス・セルナサスは、そこに生きているだけで、シシリーの心を震わせる。
『――俺が、おまえを守ろう。誰も、彼も、おまえに手出しはさせない』
そう、あの日、言ったのに。
「愛してる、シシリー」
張本人が、彼女を暴く。彼女に手を出す。
(でも、だって、どうせ誰かに犯される運命なんだから)
「…………キス、するが。いいんだな」
(誰でもいい)
シシリーは、彼を拒まなかった。黙っていた。
「嫌になったら、ぶん殴れ」
「ん……」
触れた唇は、熱くて、やわらかかった。甘い酒の匂いを漂わせた行為は、ほとんど口移しではなく、もはや優しいキスだった。
(お酒の味は、ちょっとだけするけど)
彼の唇を湿らせた程度のわずかな媚薬酒が、彼女の唇に熱を移す。ちゅ、ちゅっ、と軽い触れ方を繰り返す。
「んんっ」
ふと、彼の舌先にぺろりと唇を舐められて。ゾクッとした。体が震えた。
彼の気配が離れていき、ため息がひとつ、聞こえる。
そして、
「シシリー……いいか」
「……ええ」
べつに、嫌ではなくて。気持ち悪くもなくて。
(兄様と、本当に、キス、した……してるのね……)
目を瞑ったまま、吐息のような彼の問いかけに頷けば、またすぐに重なって。自然と唇をひらかれた。
「ふぁ、あ……っ」
舌を挿し込まれ、だらしない声が漏れてしまう。彼の動きは悔しいことに慣れていて、彼女をうまく導いた。
――二度の人生をあわせても、初めて交わした、正真正銘のファーストキスだった。
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