“いらない婚約者”なので、消えました。もう遅いです。

あめとおと

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"いらない”と言われたので、消えました。

第8話:遅すぎた理解


夜は、静かすぎた。

 執務を終え、誰もいない部屋に戻る。

 灯りを落とすと、月明かりだけが残った。

 それで十分なはずなのに。

 どこか、足りない。

「……またか」

 小さく、息を吐く。

 この数日で、何度目だろう。

 説明のつかない違和感。

 積み重なる不備。

 曖昧な記録。

 そして――

 思い出せない“誰か”。

 机に向かう。

 無意識に、視線があの場所へと向かった。

 何もない場所。

 空白のままの場所。

 なのに。

 そこに何かがあったと、確信している自分がいる。

「……いい加減にしろ」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 証拠はない。

 記録もない。

 他の誰も、断言しない。

 それなのに、これ以上追う理由はないはずだ。

 合理的ではない。

 無意味だ。

 ――わかっている。

 それでも。

 手が、動いた。

 引き出しを開ける。

 何かがあるわけでもないのに。

 ただ、“そこにある気がした”から。

 中には、書類が整然と並んでいる。

 見慣れた形式。

 見慣れた署名。

 ひとつひとつ、目を通す。

 確認する。

 問題はない。

 どこにも、不備は――

「……これは」

 指が止まる。

 一枚の紙。

 形式は正しい。

 内容も問題ない。

 だが。

 最後の署名欄だけが、空白だった。

 あり得ない。

 この形式で、署名がないまま通ることはない。

 許可した覚えもない。

 なのに、ここにある。

 完成された形で。

「誰が、これを……」

 言いかけて、止まる。

 答えは出ない。

 出るはずがない。

 わからないから、空白なのだ。

 だが。

 指先が、震えた。

 その空白に触れた瞬間。

 胸の奥に、強い衝撃が走る。

「――っ」

 息が詰まる。

 痛い。

 はっきりとした痛み。

 理由のない、感情の波。

 何かが、溢れそうになる。

 なのに。

 何も、思い出せない。

「……なんだ、これは」

 低く、震える声。

 理解できない。

 できるはずがない。

 記憶にない。

 記録にもない。

 なのに、身体だけが反応している。

 おかしい。

 こんなことは、あり得ない。

 あり得ないのに。

 ――涙が、落ちた。

「……は?」

 自分の頬に触れる。

 濡れている。

 確かに。

 理由もなく、涙が流れている。

 悲しいのか。

 違う。

 何が悲しいのかも、わからない。

 悔しいのか。

 違う。

 何に対してかも、わからない。

 ただ。

 失った、と。

 取り返しのつかない何かを。

 そういう感覚だけが、はっきりとある。

「……誰だ」

 掠れた声で、問いかける。

 答えは、ない。

 あるはずがない。

 だって、それは。

 最初から、存在しないのだから。

 それでも。

 喉の奥から、言葉がこぼれた。

「……名前は」

 ――その瞬間。
 
 喉の奥まで、“何か”が上がってきた。
 
 たったひとつの音。

 呼べば、すべてが繋がる気がする名前。

 けれど。

 それは、最後まで形にならなかった。

 知らないはずのものを、求める。

 あり得ないことを、望む。

 何もない空白に、意味を与えようとする。

 愚かな行為だ。

 そう、理解しているのに。

 止められない。

 視界が、滲む。

 呼吸が、乱れる。

 胸の奥が、締め付けられる。

 それでも。

 思い出せない。

 何ひとつ。

 顔も。

 声も。

 名前も。

 何もかも。

「……くそ」

 低く、吐き捨てる。

 拳を握る。

 力を込める。

 それでも、この感情は消えない。

 理由のない痛みだけが、残る。

 机に手をつく。

 そのまま、俯く。

 視線の先には、あの空白。

 何もないはずの場所。

 なのに。

 そこに向かって、手が伸びた。

 触れる。

 冷たいだけの机。

 それだけなのに。

 胸の奥が、ひどく軋む。

 まるで。

 そこに、誰かがいたかのように。

「……っ」

 言葉にならない音が漏れる。

 耐えきれない何かが、込み上げる。

 なのに。

 やはり、何も思い出せない。

 空白は、空白のまま。

 埋まらない。

 埋められない。

 それが、この世界の“正しさ”だから。

 しばらくして。

 ようやく呼吸が落ち着く。

 涙も止まる。

 残るのは、わずかな疲労と――

 消えない違和感。

「……意味がない」

 自分に言い聞かせる。

 理解できないものに、意味はない。

 意味がないものに、価値はない。

 考えるだけ、無駄だ。

 そう、何度も繰り返す。

 それでも。

 胸の奥に残った“何か”だけは。

 消えなかった。

 名前も知らない。

 顔も思い出せない。

 存在した証すら、どこにもない。

 それなのに。

 確かに、そこにあったもの。

 確かに、失ったもの。

 ――それだけが。

 どうしても、消えなかった。

 ……ただ、確かに“呼んだことがある”とだけ、わかった。




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