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或る男の嫉妬 その後
しおりを挟む秋の朝日が、硝子窓を通り部屋全体を明るく照らしていた。
庭の草木が爽やかな風に揺れ、鳥がさえずり、遠くの路地では子供たちの笑い声が弾ける。
幸助は机に肘をつき、ぼんやりとその光景を眺めていた。
今日は火鉢は必要なさそうだ。珍しく暖かな陽気になっていて、幸助は秋というには薄手だった。
窓辺の文机の上には小さな花瓶が置かれている。
一葉が朝の散歩で摘んできた菜の花が、風に揺れているのだ。散歩に行くなら声を掛けてほしかった、と幸助は密かに思った。
「幸助、筆が止まってるよ」
不意に背後から声が掛かり、幸助が振り返ると一葉が煎茶の湯呑を二つ手に持って立っていた。
袴の裾が陽の光に透け、柔らかい布の匂いが風と一緒に流れ込む。
幸助が少し照れたように笑うと、一葉は珍しい、と思うと同時に、胸が締め付けられた。そして笑みを返す。
「こうしてると、何も書かずに済む気がしてな」
「なに怠け者みたいな台詞言ってるんだ」
「違う……ただ、一葉がこの景色の中にいると、それだけで物語が満ちるんだ」
一葉はくすりと笑い、湯呑みを文机に置くと幸助の隣に腰を下ろした。
二人の湯呑から、ふわりと湯気が上がる。
外では鶯が一声鳴いた。
二人で煎茶を冷ましながら一口飲む。
「幸助の作品、次の号で発表されるんだってね」
「編集部から聞いたのか」
「うん。高城からも手紙が来ていたよ。あいつ、意外と筆マメで丁寧なんだ」
その名を聞いても、もう幸助の眉は動かなかった。
代わりに、一葉の横顔を見て静かに頷く。
「……この前の夜、俺は一葉を縛るような言葉を言った」
「……そうだった?」
一葉はとぼけたように笑ったが、幸助は気にした様子もなく続ける。
「けど、あの夜があったから、今こうして穏やかにいられる気がする」
一葉は黙って湯呑を見つめ、微笑みながらゆっくり頷いた。幸助はその微笑みに目を細めて口の端を上げる。
秋の風が障子の隙間を抜け、二人の髪を撫でた。
「愛ってものは、時に不格好で、痛みを伴うね」
「でも、その痛みがなければ、こんなふうに確かめ合えなかった……と思う」
幸助の声は低く、穏やかだった。
一葉はその手を取る。
指先には、まだ墨の跡が残っている。
作家の証。文字と共に生きる男の手。
そして今は、その手が自分のために震える。
「幸助」
「ん?」
「幸助の言葉は、俺を閉じ込めるんじゃなくて、包んでくれるんだよ」
そう言って、一葉はそっと唇を重ねた。
微かな茶の香と、庭の落ち葉の匂いが混ざる。
「これからも、一緒に書こう」
「同じ頁の上で?」
「そう。同じ頁で、同じ物語を」
幸助は微笑み、筆を取った。
墨を含ませ、紙の上に静かに文字を置く。
「実りの秋、ただ君と在り」
その一行に、一葉が目を細めて笑う。
外では風が、赤く染まった木々をやわらかく散らしていた。
彼らの季節は、確かに新しい頁をめくったのだ。
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