或る男の渇望

ドラマチカ

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或る男の誘惑 1

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 夜の帳が下りる頃、洋灯の火が静かに影を揺らしていた。
 幸助の書斎は煎りたての珈琲豆の匂いと、雨上がりの湿った空気、そしてそこに混ざるのは一葉の、どこか色気を含んだ甘い香り。

 幸助は文机に向かい、万年筆を走らせていた。
 原稿は終盤で、それなりに進んではいる。進んではいるのだが。しかし、どうにも集中できない。
 
 原因は分かっている。
 顔を上げた幸助の視線の先には、一足先に原稿が終わり長椅子に腰掛ける一葉の姿。

 襟元のゆるんだ着物から、滑らかな鎖骨が覗いている。
 洋灯の光を受けて、一葉の白い肌が薄く輝く。
 無防備なはずなのに、見つめるほどに挑発的で、幸助の心をざわつかせた。
 
 こうして執筆中に声を掛けてくることはあまりないのだが、今日は珍しい。幸助は文机の上に万年筆を置く。

「……一葉、少し着物の襟元、閉じろよ」

 幸助が目を逸らしながら言うと、一葉は一瞬呆けたような表情をして、けれど幸助の心内が分かると、腹が立つほどに柔らかく美しく笑った。

「どうして? 幸助、俺を見るの嫌?」
「……嫌なわけじゃない……いや、むしろ……」

 言いかけて、言葉が詰まった。
 一葉は首を傾げ、まるでイタズラが成功した時の子どものような表情で近づいてくる。
 長椅子から立ち上がる所作さえ、美しく艶めかしい。歩いてくる姿までもが幸助を魅了する。

「それなら見たらいいのに。幸助、そういうところだけ素直じゃないんだから」
「煽るなよ……」

 幸助の言葉に一葉はふっと笑い幸助の側まで歩み寄ると、文机に手をついて身を屈めた。
 息が触れるほどの距離。吸い込まれそうなほど真っ直ぐに見つめてくる瞳。
 一葉の香りが一気に濃くなる。

「今日は、ずっと俺のこと避けてるみたいだったなぁ」
「……別に……避けてねぇけど……」
「嘘だ。幸助……今日の昼、俺が編集者と話してたときから、明らかに不機嫌だっただろ?」

 幸助は原稿と万年筆を文机の端にずらし、一葉の瞳をまっすぐに見つめ返す。
 灯の火が揺れ、互いの瞳の奥に光が宿る。

「怒ってねぇって。ただ……面白くなかっただけだ」
「面白くなかった?」
「お前が、他の男と……楽しそうに、してたから……」

 短い沈黙。
 一葉は薄く笑い、幸助の頬に指先で触れる。

「やっぱり嫉妬してた。バレてないと思った? 残念だったね。俺は幸助の事は何でもわかるんだからな」

 その言葉に、幸助は一瞬だけ頬を染めて息を飲む。結局止められない嫉妬に自己嫌悪しつつも、自分の事を知っていると自信を持って言い切ってくれる一葉に胸が熱くなった。
 そして、幸助のその反応は、一葉にとっては甘く蕩けるような餌だった。

「……そうだよ。嫉妬してた。悪かったな。分かってたくせに回りくどいことを……っ!」

 一葉はゆっくり指を動かし、幸助の唇の輪郭をなぞった。幸助がしっかりと一葉を感じられるようにゆっくり、触れるか触れないかのギリギリで、優しく。柔らかな指先が、まるで魔法のように熱を残していく。

「悪くないってば。前にも言ったろ? むしろ……嬉しい」

 艶のある低い声が触れた瞬間、幸助の体温が跳ね上がった。
 胸の奥がざわめき、呼吸が乱れる。

「一葉……何企んでる……っ」
「人聞きの悪いこと言うなよ。ただ……幸助の嫉妬した顔、好きだなって思っただけ」

 一葉は幸助の膝に腰を下ろし、まるでそこが自分の場所だとでも言わんばかりに体を預け、幸助の首に腕を回す。
 
 胸に触れる体温が熱い。
 鼓動が二人分、重なって響く。

「なぁ、幸助」
「……何だよ」
「嫉妬してるのに、どうして何もしないの?」

 一葉は口元を幸助の耳に寄せ、小さく息を吐くように囁く。

 一葉の声が耳元で震え、幸助の全身を痺れさせた。

「俺を抱き締めたいくせに……どうして我慢してるの?」
「……煽るなって言っただろ」
「煽ってなんかない。俺は、幸助に触れてほしいって言ってるんだよ」

 一葉は幸助の首に回した腕に力を込めて、ゆっくりと体を密着させた。
 唇が触れそうで触れない距離。
 互いの息が混ざっていく。
 その一瞬の焦らしが、幸助の心を焚き付けた。

「なあ、幸助」
「……」
「俺のこと、どうしたい? ちゃんと言ってくれよ」

 その問いは挑発であり、救いでもあり、甘く魅惑的な、罠だった。
 
 幸助の喉が震える。

「どうしたいか、なんて……」
「言って」

 一葉の声は強くない。
 けれど、逃げる道をすべて塞ぐような力があった。
 幸助は目を閉じ、小さく息を吐いた。

「……抱き締めたいに、決まってんだろ」

 幸助が言い終わらないうちに、一葉は微笑んだ。
 勝ち誇ったような、けれど優しい、嬉しそうな微笑み。
 幸助の胸が締め付けられる。

「だったら、幸助の好きなようにしなよ」

 その瞬間、幸助は心の中の自分の制止を振り切るように腕を動かした。
 胸の奥が焼けるような激情に突き動かされて。

 一葉の体を強く抱き締める。
 その細い腰が腕の中でしなった。
 その瞬間、一葉の体温が幸助の全身を支配し、頭の中が一葉でいっぱいになる。

「……っ、一葉っ」
「ん……そう、それでいい」

 一葉は幸助の首に顔を埋め、作家とは思えないほどに逞しいその首を甘噛みした。
 幸助の体がピクリ、と反応する。
 
「幸助の腕の中が一番落ち着く」
「馬鹿……そういうこと言うから、俺は……」
「興奮する?」

 一葉の囁きは甘く、深く、逃げ場がない。素直にならざるを得ない。悔しいが、抗うということを考えることすら、思い浮かばない。

「……ああ」

 一葉は静かに、しかし熱い想いを瞳に宿して妖艶に笑い、唇を触れ合わせた。
 触れただけの、それでも息が奪われるような甘美な口づけ。

「もっと、焦らされたい?」
「ふざけんな……」

 一葉は幸助の胸を軽く指で押し、キレイな瞳で見つめながらまるで猫のように挑発する。

「幸助の焦ってる顔も、好きだな」

 灯火が揺れ、影が絡み合う。
 今夜はきっと、眠れない。
 二人の夜は、これから始まる。



 
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