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第二部:絆の証明 - 仲間と守るべきもの
第11話:優しさを信じない弁護士
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八月も終わりに近づくと、あれほど空を支配していた入道雲は、その輪郭を少しずつ崩し始め、代わりに鰯雲が夕暮れのキャンバスを繊細な筆でなぞる日が増えてくる。
アスファルトに染み込んだ熱気は夜になってもなかなか抜けきらないが、ふとした瞬間に頬を撫でる風には、秋の虫の音がかすかに混じり、季節がその舞台装置を静かに転換させていることを告げていた。
「カフェ・アルカナ」のドアを開けるたびに鳴るカウベルの音も、真夏のそれより、心なしか涼やかに響く。
その日の午後も、サークルの面々はいつもの席で、次の調査対象にもならないような、他愛もない都市伝説で盛り上がっていた。
リナという新しい仲間が加わったことで、店の「温かい騒音」は、以前にも増して華やかな色彩を帯びていた。
その中心で、ソラは雄斗の隣に座り、オレンジジュースのグラスについた水滴を、ただ飽きずに指でなぞっていた。
仲間たちの笑い声が起こす空気の振動が、心地よいさざ波のように彼女の肌をくすぐる。
ここが、彼女が見つけた最初の「居場所」だった。
その完璧な調和を破ったのは、カウベルの少し乾いた音と共に現れた、一人の人物だった。
「よぉ、未来の日本を憂う若者たち。相変わらず暇そうだな」
現れたのは、交番勤務の警察官、須藤だった。
その手にはコーヒーカップではなく、一枚の事務的な書類が握られており、その事実が、彼の来訪がただの休憩ではないことを物語っていた。
彼の顔にはいつもの人の好さそうな笑みはなく、どこか苦々しいものが浮かんでいる。
「須藤さん、どうしたんですか、そんな難しい顔して」
雄斗が問いかけると、須藤はため息をつき、テーブルの空いた椅子にどかりと腰を下ろした。
「例の、『おしゃべるな郵便ポスト』の件だよ。覚えてるか?」
健太、大輝、そして雄斗の顔がこわばる。
もちろん、覚えている。
孤独を紛わすために、孫と話すふりをしてポストにトランシーバーを仕掛けていた老人。
雄斗が咄嗟についた「優しい嘘」で、その場は穏便に収まったはずだった。
「あのおじいさん、どうやら正式に訴えられるかもしれん」
須藤の言葉に、カフェの空気が一瞬で凍りついた。
「なっ、なんでだよ!俺たちがサークルの実験だって説明しただろ!」
健太が身を乗り出す。
「ああ。だが、ポストを管理している会社側が、業務妨害とまではいかなくとも、軽微な詐欺行為にあたる可能性があると主張し始めたらしくてな。まあ、会社の評判に関わるから、見せしめにしたいんだろう。上の連中も、民事不介入の原則だとか言って、取り合ってくれん」
須藤は悔しそうに自分の膝を拳で叩いた。
「健太くんたちから話は聞きました! ただ寂しかっただけの人を訴えるなんて、ひどすぎます!」
リナが、まるで自分のことのように憤慨して声を上げた。
彼女がサークルに加わってから、雄斗たちから過去の調査の話を聞くのは、楽しい日課の一つになっていたのだ。
「法的には、通信の秘密を侵害する行為と見なされる可能性もゼロではありません。たとえ同情の余地があったとしても、手続きには瑕疵があった」
大輝は冷静に分析するが、その指先は、いつもより神経質にノートパソコンのトラックパッドをなぞっている。
「助けてあげたい」
雄斗が、絞り出すように言った。
それは、サークルメンバー全員の心の声を代弁していた。
「だったら、プロに頼むしかないだろ!」
健太が叫んだ。
「リナの時みたいに、またあの人に頼むんだ!」
その名を聞いて、誰もが同じ顔を思い浮かべた。
腕は一流、しかし性格には大いに難ありの、あの皮肉屋な弁護士を。
---
彼女が営む「氷川法律事務所」は、町の商店街の喧騒から少し離れた、オフィスビルが立ち並ぶ一角にあった。
自動ドアが開くと、冷房の効きすぎた、乾燥した空気が一同を迎える。
そこは、カフェ・アルカナの、コーヒー豆と人の温もりが混じり合った匂いとは対極の世界だった。
応接室に通され、一行が固いソファに身を沈めていると、やがてドアが開き、パンツスーツ姿の氷川玲子が現れた。
「またあなたたち? 今度はどんなおとぎ話のトラブルかしら。それとも、あのアイドルがまた何かやらかした?」
玲子は、腕を組み、心底うんざりした顔で一同を見下ろした。
リナの一件以来、彼女はサークルの「面倒事を引き寄せる特異体質」をよく理解していた。
ソラは、その空気に触れた瞬間、びくりと肩を震わせ、雄斗のTシャツの袖を、後ろからそっと掴んだ。
「雄斗…」
彼女は、小声で囁いた。
「この人の周り、やっぱり空気がチクチクする。どうして?」
雄斗が、拙いながらも必死に、老人の境遇と自分たちの想いを説明する。
玲子は、その全てを、表情一つ変えずに聞いていた。
そして、一同が話し終えると、彼女は深いため息をついた。
「本気で言ってるの? アイドルの次は、郵便ポストに話しかける老人? あなたたち、社会不適合者の駆け込み寺でも運営するつもり?」
その、あまりにも直接的で、善意というものを塵芥のように切り捨てる言葉。
しかし、以前の経験から、一同はこれが彼女なりのコミュニケーションなのだと、少しだけ学んでいた。
「でも、報酬はきっちり頂くわよ。前回のでこっちも赤字スレスレなんだから」
玲子の言葉は相変わらず辛辣だった。
だが、雄斗だけは違った。
彼は静かに立ち上がると、玲子の前まで進み、そして、深く、深く頭を下げた。
「報酬は、必ず支払います。僕たちが働いて、必ず。だから、どうか、また力を貸してください。お願いします」
玲子は、驚いたように少しだけ目を見開き、値踏みするように雄斗の目を見つめた。
その瞳の奥に、揺らぎない覚悟と、計算のない誠実さの色を見たのか。
やがて彼女は、ふいと視線を逸らし、デスクの上の書類に目を落とした。
「…お人好しの戯言には反吐が出るけど、大企業の横暴なやり口を叩くのは、嫌いじゃない」
玲子は、契約書を一枚取り出すと、ボールペンと共にテーブルに滑らせた。
「仕事として、引き受けるわ」
---
帰り道は、誰もが口数が少なかった。
西の空は、燃えるような茜色と、夜の始まりを告げる藍色が混じり合い、世界からゆっくりと色彩が失われていく時間だった。
家々の窓からは、夕食の匂いが漂ってくる。
味噌汁の香り、魚を焼く香ばしい匂い。
それは、雄斗たちが守ろうとしている、ありふれた日常の匂いだった。
アパートへの道を、雄斗とソラは二人でゆっくりと歩いていた。
玲子の事務所での一件以来、ソラはずっと黙り込んでいた。
「ねぇ、雄斗」
やがて、ソラがぽつりと言った。
「あの人は、どうして『優しい』を信じないの? 雄斗がくれた上着みたいに、温かいものなのに」
そのあまりにも純粋な問いに、雄斗の胸の奥が、チクリと痛んだ。
脳裏に、アルゴ・インダストリーでの日々が、灰色の霞のように甦る。
正論を吐けば、嘲笑された。
善意を示せば、利用された。
誠実さは、弱さの証だと断じられた。
玲子のあの「チクチクした鎧」は、雄斗にとって見覚えのある、あまりにも痛々しい防具だった。
雄斗は、立ち止まり、ソラの目線に合わせて、その場にしゃがみ込んだ。
「世の中にはな、ソラ」
彼は、アスファルトに落ちる自分の影を見つめながら、ゆっくりと語りかける。
「その『温かいもの』を、自分の利益のために、平気で利用しようとする人もいるんだ。ただ優しいだけじゃ、本当に大切なものは、守れない時がある」
雄斗は顔を上げ、ソラの、何もかもを見通すような澄んだ瞳をまっすぐに見つめた。
「だから、あの人は自分を守るために、ああやってチクチクした鎧を着てるのかもしれないな。本当は、すごく柔らかくて、温かい心を持っているのに、傷つけられないように」
ソラは、雄斗の言葉の全てを、論理として理解できたわけではなかった。
しかし、彼女には見えていた。
そう語る雄斗の周りに漂う、あの時と同じ、わずかに「灰色の空気」が。
それは、彼自身の痛みの記憶の色だった。
彼女の中で、二つの相反するものが、一つの線で結ばれた。
チクチクする、冷たいもの。
それは、柔らかくて、温かいものを、守るためのものなのかもしれない。
優しさは、時として、強さという別の温かさを必要とする。
ソラの人間理解の地図に、初めて「矛盾」や「複雑さ」という、入り組んだ路地が描き加えられた瞬間だった。
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