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第三部:恋という名のバグ - 天使と心
第22話:心の定義
しおりを挟むカイと名乗る男が残した嘲笑は、目に見えない毒のように、その場の空気に溶け込んでいた。季節は初夏。アスファルトを焼く太陽の光は昨日と何も変わらないはずなのに、そのぎらぎらとした輝きはどこか空々しく、目に痛いだけだった。
「カフェ・アルカナ」の店内は、コーヒー豆の香ばしい匂いと、マスターの桜花が選んだであろう穏やかなジャズの音色で満たされている。しかし、いつものサークルの指定席である窓際の大きなテーブルだけは、異質なほどに静まり返っていた。緊急会議と銘打って集まったはいいものの、誰もが何をどう話すべきか、その糸口を見つけられずにいたのだ。テーブルの上には、氷が溶けて薄まったアイスコーヒーのグラスが並び、グラスの表面を伝う水滴だけが、この場の止まった時間を表しているかのようだった。
ソラは、その会議の輪の中心にいながら、心はここになかった。
彼女は、自分の胸にそっと手を当てている。そこには、つい昨日まで、雄斗の隣にいると感じていた、あの「ふわふわした温かい」感覚があったはずだった。それは、世界で一番心地よい、彼女だけの大切な宝物だった。
でも、今は違う。
その「ふわふわ」の上に、冷たくて、トゲトゲした何かが、重く乗っかっている。カイという男が放った「バグ」という言葉。その言葉は、音の形をした氷の矢のように、ソラの大切な宝物を突き刺し、汚してしまった。
(この温かいのは、『バグ』?)
(『バグ』は、ダメなもの? 壊れたもの?)
(じゃあ、雄斗の隣にいると温かくなる私は、ダメな私? 壊れた私?)
分からない。考えようとすると、頭の中がぐちゃぐちゃになる。温かいはずのものが、今は少しだけ怖かった。昨日まであんなに鮮やかに見えていた世界の色彩が、まるで薄い灰色の膜を一枚隔てたかのように、くすんで見えた。
「……で、だ! つまり、カイと名乗るあの男は、古代ムー大陸から時空を超えてやってきた『時の監視員』で、歴史の分岐点となるソラを監視しに来たに違いない!」
沈黙を破ったのは、やはり健太だった。彼は一人、いつもの熱量で持論を展開する。
「非論理的ですね」
即座に、大輝がノートパソコンの画面から目を離さずにそれを否定した。
「彼の現象介入レベル、すなわち天使と呼ばれる存在を素粒子レベルで強制送還させたエネルギー量から算出するに、我々のいる三次元空間に干渉可能な、より高次の次元に存在する知的生命体である可能性が九十二パーセントです」
「だから、それを監視員と呼ぶんだろ!」
「呼称の問題ではありません。存在定義の問題です」
「翼はどう思う!?」
話を振られた翼は、困ったように眉を下げた。
「うーん……よくわかんないけど、とにかく、ソラちゃんを狙ってる敵ってことだよね? しかも、めちゃくちゃ強い」
その言葉に、皆が再び押し黙る。そうなのだ。問題はそこだった。天使を指先一つで消し去るほどの、規格外の存在。そんな相手に、自分たちがどう立ち向かえばいいのか。そして何より、ソラがカイの言葉に深く傷ついている核心に、誰もが触れることができずにいた。
その重たい空気を、ふわりと軽い溜息が破った。
「ねぇ、ソラちゃん」
リナだった。彼女はいつの間にか、ソラの隣の椅子を引き寄せ、その顔を覗き込むように座っていた。
「あの男の言うことなんて、気にしなくていいんじゃない?」
その言葉は、何の根拠もない、ただの優しい慰めだった。ソラは、リナの顔を見つめ、小さな声で尋ねた。
「……『バグ』は、痛いもの?」
「え?」
「あの人が言った『バグ』は、チクチクして、冷たい。だから、きっとダメなもの。でも、雄斗の隣にいると温かい。温かいのは、いいもの。どうして、同じなの?」
あまりにも純粋な問いに、リナは言葉を詰まらせる。その時、別の、低く落ち着いた声が会話に割って入った。
「いいえ、ある意味では、あの男の言っていることは正しいわ」
氷川玲子だった。彼女は腕を組んだまま、冷徹な弁護士の目でソラを見据えていた。「そもそも、恋なんてものはね、誰がどう見たって『バグ』みたいなものよ。非効率で、非論理的で、それまで積み上げてきた人生設計を根本から狂わせる、厄介なウイルス。合理的に考えれば、百害あって一利なし。違うかしら?」
玲子の言葉は、カイの言葉と同じように、冷たくて、鋭かった。ソラの胸のトゲトゲが、ちくりと痛む。健太や雄斗が、何か言おうと口を開きかける。だが、それをリナが明るい声で引き取った。
「そうそう! まさにそれ! でもね、ソラちゃん」
リナは、にこっと笑う。その笑顔は、彼女がステージの上で見せる、計算されたアイドルの笑顔ではなかった。
「でも、そのバグがないと、見られない景色があるんだよねーっ! あの人がいるってだけで、ただの道がキラキラして見えたり、メールが来ただけで心臓が飛び出しそうになったり! 泣いたり、怒ったり、もう自分でも自分がわかんなくて、めちゃくちゃ! でも、それが、すっごく『楽しい』の!」
リナの言葉は、まるで炭酸の泡みたいに、キラキラして、弾けていた。訳が分からない。でも、聞いているだけで、胸のあたりが少しだけ軽くなる。
「『バグ』は……キラキラ、してるの?」
ソラがぽつりと呟くと、玲子もまた、ふいと視線を窓の外に向けながら、言葉を続けた。
「……馬鹿げたバグほど、後々、悪くない思い出になったりもするわ」
その横顔は、いつものチクチクした弁護士のものではなく、どこか遠い過去を懐かしむ、少しだけ優しい顔をしていた。
ソラは、二人の言葉の真意を、まだ半分も理解できなかった。
(玲子さんの『バグ』は、カイの『バグ』みたいに、冷たい)
(でも、リナさんの『バグ』は、なんだか温かくて、キラキラしてる)
(どうして? どうして、同じ『バグ』なのに?)
その日の帰り道。雄斗は、まだどこか浮かない顔をしているソラに、どう声をかけるべきか、ずっと迷っていた。気の利いた言葉は、昔から苦手だった。リナや玲子のように、彼女の心を軽くするような言葉を、自分は持っていない。
アパートの階段を上りながら、彼はようやく、一つの言葉を絞り出した。それは、とても不器用で、飾り気のない言葉だった。
「……俺は、ソラが感じてるものが、ただの間違いだなんて思わない」
ソラが、ぴたりと足を止めて、雄斗の顔を見上げる。
雄斗は、その真っ直gぐな視線から逃れるように、少しだけ目を逸らしながら、言葉を続けた。
「だって……ソラが笑ってくれると、俺も、『嬉しい』になるから」
その瞬間。
ソラの胸の中心が、「きゅん」と、小さく、でも確かに音を立てた。
分析できない。理解できない。でも、否定しようのない、確かな温かさ。雄斗のそのストレートな言葉は、彼女の胸に突き刺さっていた冷たいトゲを、ふわりと溶かしていくようだった。灰色の膜がかかっていた世界に、再び柔らかな光が差し込んでくる。
その夜、ソラは自分の部屋のベッドの上で、自分の胸にそっと手を当てた。そこには、あの「ふわふわした温かい」感覚が、ちゃんと戻ってきていた。
そして、小さな声で、自分自身に問いかけた。
「バグでも、いいの?」
答えは、まだ見つからない。
けれど、その問いはもう、以前のような冷たくて絶望的な響きを、持ではいなかった。
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