狼少年の番犬さん

村井 彰

文字の大きさ
上 下
17 / 19
第二章 旅立ち

8.5話 骨になるまで

しおりを挟む
  これはジュードたちがアリエトラに辿り着く以前、とある山中で迎えた夜の出来事である。


  *


  深夜。木々のざわめく微かな音と、隣で眠る恋人の吐息だけが聞こえる中、異質な音を遠くに聞いた気がして、アルフレッドは真っ暗な馬車の中、ひとり目を覚ました。
  獣の形をした耳が、パタパタと揺れる。聞き間違いか、あるいは夢の中で聞いた音かとも思われたが、耳を澄ませてみると確かに聞こえた。
「オオカミ……?」
  それは、狼の遠吠えのようだった。風の音に紛れてしまいそうなほど微かなその声は、普通の人間であるジュードの耳には届かないようで、彼が目を覚ます様子はない。朝はまだ遠いようだし、このままジュードの腕に収まってもう一度眠ってしまおうかと考えて目を閉じたが、時折響いてくるあの声が、どうにも気になって仕方ない。
  あの狼は、なぜあんなに悲しそうな声で鳴いているのだろう。休みなく聞こえる遠吠えは、まるで誰かに助けを求めているようにも聞こえる。
「…………」
  断続的に届く鳴き声に耳を傾けながら、アルフレッドは再び目を開けた。そして、自分を抱きしめているジュードの手をそっと退けて、静かに寝床を抜け出す。
「ん……」
  腕の中から抜け出す瞬間、ジュードが小さな吐息を洩らして、軽く身動ぎをした。起こしてしまったかと思い、アルフレッドは一瞬動きを止めて恋人の顔をじっと見つめたが、ジュードは目を覚ますことなく眠りの底へ戻っていったようだった。
  アルフレッドは、穏やかな呼吸を繰り返すジュードの唇に顔を近づけて、触れるか触れないか程度の軽い口付けをした。そして眠るジュードをその場に残し、音も立てずに馬車の外へと降り立つ。
  深夜の山中には、アルフレッドとジュード以外の人間はおらず、周囲は暗闇に覆われている。だが、半獣であるアルフレッドに見える世界は、常人が見るそれとは少しばかり違っていた。
  木々の合間から差す月明かりは、太陽のように明るく周囲を照らし、さらに耳を澄ませてみれば、木の葉を揺らす微かな風の音や、夜行性の生き物たちの足音、小さな虫の羽音など、アルフレッドの周囲は様々な命の気配に溢れていた。そしてその中には馬車の中で聞いた、あの遠吠えも確かに混じっている。剥き出しの耳をピクピクと動かして、アルフレッドは音の方向を探った。どうやらあの声は、ここからそう遠くない場所から響いてくるようだ。
  遠吠えが聞こえる方に爪先を向けながら、アルフレッドは馬車の方を軽く振り向いた。大事な人の匂いは、ちゃんと覚えている。少しばかり離れたとしても、絶対に見失うことはない。
  一度だけ深く息を吸い込んで、アルフレッドは夜の闇の中を駆け出した。獣の耳と尾を持つアルフレッドの姿を見咎める者は誰もいない。頭や脚にまとわりつく布切れが無いだけで、どこまでも走っていけるような気がした。
  姿勢を低くして木々の間をすり抜け、草木を掻き分けて進むほど、聞こえる狼の声はより鮮明になっていく。こうしていると、まるで自分自身もただの狼になってしまったかのようだ。
  時おり、考えることがある。母はなぜ、自分を人間の父の元へ預けたのかと。産まれた我が子の姿が人間に似ていたから、人の中にいた方が生きやすいと考えたのか。けれど、今日まで人の世界で暮らしてきたアルフレッド自身は、常に大きな違和感を抱えていた。姿形が人に近いからこそ些細な違いが際立って、幾度となくアルフレッドを苦しめた。異様に発達した五感や、人間の基準から逸脱した身体能力。そして、獣としての特性……それらの問題に直面するたび、自分は人の社会を離れて、ワーウルフたちの世界で生きるべきなのではないかと、そんな考えが浮かんでくる。だが、その選択をするということは、あの人の手を自ら離すということでもある。普通の人間である、ジュードの手を。
「…………あ」
  張り出した木の枝を払い除けて進み出た先で、不意に少し開けた場所にたどり着いた。背の高い木々に囲まれた隠れ家のようなその空間に、ぽつりと佇む一匹の獣がいる。暗闇の中に溶け込んでしまいそうな濃い灰色の毛皮と、それとは対照的に鋭く光る瞳。ワーウルフではない、ごく普通の狼が、草むらを掻き分けて現れたアルフレッドをじっと見つめていた。
「……呼ばれた気がしたんだけど」
  通じるはずがないと分かっていても、アルフレッドは狼に向かってそう話しかけていた。アルフレッドの言葉を理解した訳でもないだろうが、狼はこちらを見ていた瞳をスッと逸らし、そのまま足音も立てずに森の奥へと向かい始めた。警戒されてしまったのかと思ったが、狼はぼんやりと立っているだけのアルフレッドを振り返り、少し苛立ったように前足で地面を掻いたりしている。着いてこい、ということだろうか。
「どこに行くの?」
  暗闇の中で狼の匂いを追いかけながら、アルフレッドはなんとなくそう問いかけた。答えを期待していた訳ではないが、彼、もしくは彼女の行き先は、聞くまでもなくすぐに判明した。
  自身の体を覆い尽くしてしまうほど背の高い草むらの中で、狼は不意に足を止めた。行儀良く足を揃えて座った後ろ姿を見て、アルフレッドも歩みを止め、その視線が向かう場所を覗き込む。
「……これ、は……」
  それを目にした瞬間、アルフレッドは思わず息を飲んでいた。深い影が落ちる草むらの中に、ぽつんと落ちている白い何か。まるで、その部分だけ別の場所から切り取って貼り付けたかのように、ぼんやりと浮いて見える。実物を見た事はないが、絵画のモチーフとしてなら何度か目にした事がある物だ。
「これは……人間の、骨……?」
  誰に問うでもないアルフレッドの言葉に応えるように、狼の尻尾が一度だけ大きく揺れた。狼の隣におそるおそる並んで覗き込んでみて、ようやく確信する。これは人間の頭蓋骨だ。大きさからして、大人の男性の物だろうか。顎から下の骨は無くなっているが、それ以外の部分は全て綺麗な形を残している。髪や腐肉や、わずかな土塊さえも付いていないそれは、まるで奇跡のように白く輝いて見えた。
「これを、僕に見せたかったの?」
  すぐ隣に大人しく座ったままの狼の方に顔を向けて、そう訊ねる。問われた狼は腰を上げ、つるりとした頭蓋骨のこめかみに長い鼻の先をくっ付けた。まるで口付けのようだと、アルフレッドは思う。
「……大事な人なんだね」
  それに答えるように、狼はまた大きく尻尾を揺らした。そしてなぜかアルフレッドの方に頭を向けて、その袖口を咥えてぐいぐいと引っ張り始める。アルフレッドに何かをさせたいのだ、ということはなんとなく察せるが、それは一体なんなのか。同じ形の耳を持っていても、狼の言葉を聞き取れる訳じゃない。そのことが、今はやけにもどかしかった。
  狼に促されるまま、頭蓋骨を手に取る。不快には感じなかった。つるりとした形のこれと同じ物が、自分の中にも、あの人の中にもある。上辺の姿がどんなに違っていても、一皮剥いてしまえば同じなのだ。
  アルフレッドも、ジュードも、いずれはこうして骨になって、土に還る時が来る。その時には、同じ姿になって、同じ場所で眠っていられたら、どんなに幸せだろう。そんなことを考えた時、ふと気づいた。
「……お墓を、作ろうか」
  アルフレッドのその言葉を聞いた途端、狼の尻尾がパタパタと揺れた。どうやら、正解を引き当てられたらしい。


  なるべく地面が平坦な場所を選んで、その辺りに落ちていた木切れを使い、アルフレッドは黙々と土を掘り起こす。途中から狼も加わってきて、一人と一匹は一緒になって作業を続けた。顔も、名前も、どんな人物だったのかも分からない。そんな正真正銘の赤の他人のために、汗をかいて手を汚すアルフレッドの姿は、はたから見ればずいぶん滑稽に映ったことだろう。アルフレッド自身もそれは分かっていたが、手を止めるつもりはなかった。
  言葉も通じない、何か縁がある訳でもないこの獣に、アルフレッドは自分を重ねていた。この狼と頭蓋骨の持ち主がどういう関係だったのか、本当のところは分からない。それでも、この狼にとっては離れ難い何かがあったのだろう。姿形も、種族さえも越えて通じ合えるほどの、何かが。
「ふぅ」
  十分な大きさの穴が掘れたところで、アルフレッドは小さく息を吐いて汗を拭った。しかし狼の方は疲れた様子もなく、かたわらにあった骨を咥えて、掘り返された土の上にポトリと落とした。
「くぅ……」
  子犬のような鳴き声を上げて、狼は別れを惜しむように真っ白な頭蓋骨に鼻先を擦り寄せる。アルフレッドはその背中にそっと近づいて、柔らかな毛皮を優しく撫でた。ジュードがいつも自分にしてくれているように。抱えた不安や悲しみを、少しでも溶かせるように。
  それから、狼が満足のいくまで別れを惜しむのを見届けた後、アルフレッドは即席の墓標を作り上げた。といっても、骨を覆い隠した土の上に置かれているのは、その辺りで見繕ってきた大きな石ころだけ。せめて名前を刻んでやれれば良かったのだが、アルフレッドにそれを知る手段はない。この場所を通りがかる人間がいたとしても、これが墓であるとは思わないだろう。ここに眠る人がいることを知っているのは、一人と一匹だけだ。
  そんな粗末な墓でも狼は気に入ったようで、嬉しそうにアルフレッドの周りをくるくると回ってから、墓標の横に腰を落ち着けた。なんとなく答えを察しながらも、アルフレッドは狼の前に近づいて膝をつき、目線の高さを合わせる。
「……僕と一緒に来る?」
  そう問いかけてみたが、アルフレッドが予想していた通り、狼はふいと目を逸らして、そのまま墓石に寄り添う形で丸くなってしまう。こうなることは分かっていた。きっとこの狼は、二度とこの場所を離れるつもりはないのだろう。その気持ちは、痛いくらいに理解できてしまう。
  この下に眠っているのがあの人だったら、きっとアルフレッドだって同じことをしただろう。だからアルフレッドは何も言わずに立ち上がった。
  きっともう、彼らに会うことはないだろう。そう思ったが、不思議と寂しくは感じなかった。それぞれの大切な人の元に帰るだけなのだから、この一時の出会いと別れを嘆く必要もない。
「じゃあね」
  短く告げて、アルフレッドは振り向かずに歩き出した。その後ろ姿を見送る狼は、ほんの一瞬だけ顔を上げて、小さく尻尾を揺らしたのだった。


  馬車を停めていた場所までアルフレッドが帰ってきた時には、空はうっすらと白み始めていた。ジュードが起き出してしまう前にと、少し駆け足になって馬車の中に潜り込む。その時に軽く物音を立ててしまい、結局ジュードを起こしてしまった。
「ん……もう起きてたんですか」
  用足しにでも出ていたと思ったのか、アルフレッドが出歩いていたことを気に止めるでもなく、ジュードはごそごそと起き上がって軽く伸びをした。その姿を見た瞬間、言葉にし難い感情に襲われて、アルフレッドはジュードの胸に抱きついていた。
「うわっ、と……突然どうしたんです」
「……なんでもないです」
  素っ気なく答えてジュードの背中に手を回す。抱きしめたその体から伝わる穏やかな鼓動を感じて、胸が締め付けられるように痛んだ。いつかは失う日が来ると分かっているからこそ、この腕の中にあるぬくもりが、愛おしくて仕方ない。
「……おかしな人だ」
  そう言って苦笑しながら、ジュードはアルフレッドの体を抱きしめ返した。その力強さに、少しだけ息が詰まる。

  いつまでだって、このぬくもりに触れていたい。
  叶うのなら、この体が、いつか骨に成り果てる、その時まで。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

宝珠の少年は伯爵様に責められる

BL / 連載中 24h.ポイント:49pt お気に入り:9

風紀委員長は××が苦手

BL / 連載中 24h.ポイント:234pt お気に入り:213

死ぬまでにやりたいこと~浮気夫とすれ違う愛~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14,386pt お気に入り:7,009

モテたかったがこうじゃない

BL / 連載中 24h.ポイント:1,711pt お気に入り:3,847

おじさんの恋

BL / 完結 24h.ポイント:248pt お気に入り:766

獣の幸福

BL / 連載中 24h.ポイント:923pt お気に入り:669

魔法使いと兵士

BL / 連載中 24h.ポイント:106pt お気に入り:37

単話集

66
BL / 連載中 24h.ポイント:170pt お気に入り:56

処理中です...