1 / 2
プロローグ
泥濘の産声
しおりを挟む
ベトナム、ダナン港。
貨物船のタラップを降りた瞬間、まとわりつくような熱気と、発酵した魚醤の匂い、そして終わりのない喧騒が2人を迎え入れた。
台北の湿気とはまた違う、生命の腐敗と再生が混ざり合ったような濃密な風が、湊の頬を撫でる。
「……着いたんだね、厳。」
湊は、眩しそうに目を細めて異国の地を見渡した。
手元にあるのは、偽装された新しいパスポートと、わずかな現金。
そして、ポケットの中で冷たく沈んでいる、李から託されたメモリーカードの写しだけだ。
「ああ。ここからは、ヤクザの看板も、日本の常識も届かない場所だ。」
厳が隣に並び、低く応えた。
黒いリネンのシャツ越しにもわかる、鍛え上げられた20cmの体格差。
彼は周囲の喧騒に溶け込みながらも、獲物を狙う猛禽類のような鋭い視線を港の影へと走らせている。
20歳の年齢差を感じさせない、戦う男の放つ色気が、熱帯の太陽に灼かれてさらに濃さを増していた。
2人は、もはやどこにも記録のない「亡霊」だ。
台北で自分たちの過去をデータごと焼き払ったことで、彼らを縛るものは何1つなくなった。
だが、それは同時に、何の後ろ盾もない泥沼に放り出されたことを意味していた。
港の喧騒を抜け、指定された路地裏のカフェへと向かう。
そこには、霧島が手配した現地ガイド、フォンが待っているはずだった。
古い木製のファンが緩やかに回る店内。湊は厳の背中に隠れるようにして、奥の席に座る小柄な人物に目を止めた。
「……フォン、だね?」
湊が問いかけると、アオザイを模した私服に身を包んだ、性別不詳の整った顔立ちの若者が顔を上げた。
その瞳には、かつて台北で見かけた「李」と同じ、深淵を覗き込んだ者特有の冷徹な光が宿っている。
「お待ちしておりました。……日本の元・暴君と、その『心臓』さん。」
フォンの流暢な日本語に、厳がわずかに眉を寄せた。
「俺たちの素性をどこまで知っている?」
「霧島さんから聞いたことと、私が調べたこと。……それから、このメコンを流れる死体たちが囁いている噂話くらいですよ。」
フォンは机の上に、1枚の古ぼけた写真を置いた。
それは、何10年も前のものと思われる、ジャングルの中に建つ古い監視塔の写真だった。
その塔の壁には、煤けながらもはっきりと、あの「泣いている龍」の紋章が刻まれている。
「李が言っていた『ゴミの主』は、この場所からすべてをコントロールしています。国家の予算を食い潰し、人々の日常を洗浄液に変える……アンダー・ドラゴンの真の巣穴です。」
湊は写真に手を伸ばした。指先が微かに震える。
ここから先は、もう引き返せない。
自分たちの平穏を奪い、未来を汚そうとした巨悪の根源へ、自ら飛び込んでいくことになる。
厳が湊の手の上に、自らの大きな掌を重ねた。
「怖気づいたか、湊。」
「……まさか。厳と一緒なら、ここが世界の果てでも構わないよ。」
湊が顔を上げ、不敵に微笑んだ。
その瞳には、かつての弱々しい書店員の面影はない。
厳と共に修羅の道を歩むことを選んだ、1羽の強い「雨鴉」の光があった。
外では、夕暮れ時のスコールが降り始めていた。
激しい雨音が、港の喧騒も、過去の亡霊も、すべてを押し流していく。
熱帯の泥濘の中で、2人の新しい、そして最後の戦いの産声が上がった。
「行こう。……俺たちの未来を取り戻しに…」
厳の言葉と共に、2人は降りしきる雨の中へと踏み出した。
彼らの物語は、ここからさらに激しく、緋色の連鎖を描き始める
貨物船のタラップを降りた瞬間、まとわりつくような熱気と、発酵した魚醤の匂い、そして終わりのない喧騒が2人を迎え入れた。
台北の湿気とはまた違う、生命の腐敗と再生が混ざり合ったような濃密な風が、湊の頬を撫でる。
「……着いたんだね、厳。」
湊は、眩しそうに目を細めて異国の地を見渡した。
手元にあるのは、偽装された新しいパスポートと、わずかな現金。
そして、ポケットの中で冷たく沈んでいる、李から託されたメモリーカードの写しだけだ。
「ああ。ここからは、ヤクザの看板も、日本の常識も届かない場所だ。」
厳が隣に並び、低く応えた。
黒いリネンのシャツ越しにもわかる、鍛え上げられた20cmの体格差。
彼は周囲の喧騒に溶け込みながらも、獲物を狙う猛禽類のような鋭い視線を港の影へと走らせている。
20歳の年齢差を感じさせない、戦う男の放つ色気が、熱帯の太陽に灼かれてさらに濃さを増していた。
2人は、もはやどこにも記録のない「亡霊」だ。
台北で自分たちの過去をデータごと焼き払ったことで、彼らを縛るものは何1つなくなった。
だが、それは同時に、何の後ろ盾もない泥沼に放り出されたことを意味していた。
港の喧騒を抜け、指定された路地裏のカフェへと向かう。
そこには、霧島が手配した現地ガイド、フォンが待っているはずだった。
古い木製のファンが緩やかに回る店内。湊は厳の背中に隠れるようにして、奥の席に座る小柄な人物に目を止めた。
「……フォン、だね?」
湊が問いかけると、アオザイを模した私服に身を包んだ、性別不詳の整った顔立ちの若者が顔を上げた。
その瞳には、かつて台北で見かけた「李」と同じ、深淵を覗き込んだ者特有の冷徹な光が宿っている。
「お待ちしておりました。……日本の元・暴君と、その『心臓』さん。」
フォンの流暢な日本語に、厳がわずかに眉を寄せた。
「俺たちの素性をどこまで知っている?」
「霧島さんから聞いたことと、私が調べたこと。……それから、このメコンを流れる死体たちが囁いている噂話くらいですよ。」
フォンは机の上に、1枚の古ぼけた写真を置いた。
それは、何10年も前のものと思われる、ジャングルの中に建つ古い監視塔の写真だった。
その塔の壁には、煤けながらもはっきりと、あの「泣いている龍」の紋章が刻まれている。
「李が言っていた『ゴミの主』は、この場所からすべてをコントロールしています。国家の予算を食い潰し、人々の日常を洗浄液に変える……アンダー・ドラゴンの真の巣穴です。」
湊は写真に手を伸ばした。指先が微かに震える。
ここから先は、もう引き返せない。
自分たちの平穏を奪い、未来を汚そうとした巨悪の根源へ、自ら飛び込んでいくことになる。
厳が湊の手の上に、自らの大きな掌を重ねた。
「怖気づいたか、湊。」
「……まさか。厳と一緒なら、ここが世界の果てでも構わないよ。」
湊が顔を上げ、不敵に微笑んだ。
その瞳には、かつての弱々しい書店員の面影はない。
厳と共に修羅の道を歩むことを選んだ、1羽の強い「雨鴉」の光があった。
外では、夕暮れ時のスコールが降り始めていた。
激しい雨音が、港の喧騒も、過去の亡霊も、すべてを押し流していく。
熱帯の泥濘の中で、2人の新しい、そして最後の戦いの産声が上がった。
「行こう。……俺たちの未来を取り戻しに…」
厳の言葉と共に、2人は降りしきる雨の中へと踏み出した。
彼らの物語は、ここからさらに激しく、緋色の連鎖を描き始める
0
あなたにおすすめの小説
雨鴉(あめがらす)の隠れ家 Season4
遊羽(ゆう)
BL
シンガポールの海へ消え、日本での過去と決別した久藤 厳と朝霧 湊。
2人が流れ着いたのは、極彩色のネオンと湿った熱気が渦巻く島、台湾・台北(タイペイ)。
そこはアジアで唯一、「同性同士の結婚」が法的に認められている自由の島。
逃亡者として生きる2人にとって、それは初めて手にするかもしれない「安息の地」であり、互いの関係に「家族」という名前をつけることができる希望の場所だった…
しかし、その自由には代償があった。
夜市(ナイトマーケット)の裏側で暗躍する台湾マフィア『黒龍会(ヘイロンフイ)』。
大陸から忍び寄る新たな刺客。
そして、2人の首に懸けられた国際手配の賞金。
「俺たちが法的に家族になるってことは、お前を俺の公的な『弱点』にするってことだ。」
婚姻届という1枚の紙切れ。
それは愛の証明なのか、それとも敵に居場所を教える狼煙なのか…
湊は「証」を求め、厳は「安全」を重んじる。
守りたいからこそすれ違う、2人の想い。
雨煙る台北の路地裏で、『Formosa Blues(麗しの島の憂鬱)』が静かに奏でられる。
雨鴉(あめがらす)の隠れ家 Season4
ここに開幕…
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
逃げた弟のかわりに溺愛アルファに差し出されました。抱かれたら身代わりがばれてしまうので初夜は断固拒否します!
雪代鞠絵/15分で萌えるBL小説
BL
隣国の国王キリアン(アルファ)に嫁がされたオメガの王子リュカ。
しかし実は、結婚から逃げ出した双子の弟セラの身代わりなのです…
本当の花嫁じゃないとばれたら大変!
だから何としても初夜は回避しなければと思うのですが、
だんだんキリアンに惹かれてしまい、苦しくなる…という
お話です。よろしくお願いします<(_ _)>
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる