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第1話
ダナンの赤い月
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ダナンの街を包む夕闇は、血のように赤かった。
水平線に沈む太陽が、低い雲を緋色に染め上げ、ハン川の川面をどろりと重く光らせている。
出会った現地ガイド、フォンが運転するボロい小型車は、観光客で賑わう海沿いの通りを避け、さらに内陸の、湿り気を帯びた裏路地へと入り込んでいった。
「……厳、この子、信用していいのかな…」
後部座席で、湊が厳の耳元で囁いた。
厳は答えず、ただフォンの後頭部を冷徹な眼差しで見つめている。
20cmの体格差がある2人が並んで座るには、この車はあまりに狭すぎた。
厳の太腿が湊のそれに密着し、不規則な振動と共に伝わってくる体温だけが、この混沌とした異国での唯一の拠り所だった。
「信用などはしていない。……だが、霧島が寄越した手駒だ。使い道はある。」
厳の低い声が車内に響く。
厳の手は、常にジャケットの内側に隠された45口径のグリップに掛かっている。
日本での組長という肩書きを捨てて久しいが、その身に染み付いた「暴君」の威圧感は、異国の地でも一切衰えていなかった。
車は、廃業した製材所の裏手にある、蔦に覆われた古い平屋の前で止まった。
「ここが、お2人の新しい『隠れ家』です。……日本の方が好むような清潔さはありませんが、監視カメラも、GPSの死角も完璧に把握している場所ですよ。」
フォンがエンジンを切り、無機質な笑みを浮かべた。
湊は車を降り、湿った土の匂いを胸一杯に吸い込んだ。
台北の電脳街が放っていた無機質な熱とは違う、生き物の腐敗と植物の猛烈な生命力が混ざり合った、ベトナム特有の重い空気だ。
室内は案の定、埃っぽく、天井では古びたファンが断末魔のような音を立てて回っていた。
「……湊。機材の設営を急げ。ここは長く居る場所じゃない。」
厳の指示に、湊は短く「わかった」と応え、バックパックから最新のノートPCと、李から譲り受けたあの「泣いている龍」の残滓から構築した自作の小型サーバーを取り出した。
湊の指先が、慣れた手つきでキーボードの上を踊る。
台北で自分たちのデータを焼き払ったことで、今の2人は電子の海における「透明人間」だ。
だが、透明であることは、誰からも助けを得られないことも意味している。
「……フォン。君が持ってきたあの写真、もう1度見せて。」
湊がモニター越しに問いかける。
フォンは無言で、ジャングルの中に建つ監視塔の写真を差し出した。
「この場所……ただの観測所じゃない。……厳、見て。この周辺の通信トラフィック、異常だよ。衛星回線が1点に集中してる。ここが、李の言っていた『アンダー・ドラゴン』の心臓部……メコンの深淵だ…」
湊の解析によれば、この監視塔を起点に、東南アジア全域の闇市場の決済データが流れている。
彼らが台北で破壊したのはあくまで「末端の出先機関」に過ぎず、このベトナムの奥地にこそ、真の黒幕が潜んでいるのだ。
「……この紋章を見て、何か思い出さないか、厳…」
湊が、写真の片隅にある「泣いている龍」を指差した。
厳は煙草を指に挟み、その紋章を凝視した。
「……龍の目が赤く泣いているのは、古くからある身内の掟だ。……裏切り者、あるいは、死に損ないの復讐者。……15年前、俺がまだ若頭だった頃、組織の内部抗争で南方に消えた一派がいた。」
厳の脳裏に、凄惨な記憶が蘇る。
硝煙と、裏切りの銃声。
自分が引導を渡したはずの、かつての弟分たちの顔。
「……もし、奴らが生き延びて、この地で『龍』を育て直していたのだとしたら、これは単なるハッキングの標的ではない。……俺の過去との決算だ。」
その時だった。
隠れ家の外で、乾いた破裂音が響いた。
「……1、2……5人!」
湊が叫ぶと同時に、厳が湊の体を床に押し倒した。
直後、窓ガラスが粉々に砕け散り、複数のレーザーサイトの赤い点が、室内の壁を不気味に這い回る。
「フォン、裏口へ案内しろ! 湊、サーバーは持てるか!」
「……っ、大丈夫! 10秒待って、暗号化を完了させる……!」
湊は降り注ぐガラスの破片を浴びながら、狂ったようにエンターキーを叩いた。
データの転送完了を確認した瞬間、厳が湊の腰を抱き上げ、フォンの導く隠し通路へと飛び込んだ。
背後で、隠れ家が激しい爆発音と共に炎に包まれる。
ダナンの赤い月が、逃亡者たちの背中を冷たく照らしていた。
「……歓迎の挨拶にしては、少々騒がしすぎるな…」
厳が闇の中で不敵に笑い、銃のセーフティを外した。
水平線に沈む太陽が、低い雲を緋色に染め上げ、ハン川の川面をどろりと重く光らせている。
出会った現地ガイド、フォンが運転するボロい小型車は、観光客で賑わう海沿いの通りを避け、さらに内陸の、湿り気を帯びた裏路地へと入り込んでいった。
「……厳、この子、信用していいのかな…」
後部座席で、湊が厳の耳元で囁いた。
厳は答えず、ただフォンの後頭部を冷徹な眼差しで見つめている。
20cmの体格差がある2人が並んで座るには、この車はあまりに狭すぎた。
厳の太腿が湊のそれに密着し、不規則な振動と共に伝わってくる体温だけが、この混沌とした異国での唯一の拠り所だった。
「信用などはしていない。……だが、霧島が寄越した手駒だ。使い道はある。」
厳の低い声が車内に響く。
厳の手は、常にジャケットの内側に隠された45口径のグリップに掛かっている。
日本での組長という肩書きを捨てて久しいが、その身に染み付いた「暴君」の威圧感は、異国の地でも一切衰えていなかった。
車は、廃業した製材所の裏手にある、蔦に覆われた古い平屋の前で止まった。
「ここが、お2人の新しい『隠れ家』です。……日本の方が好むような清潔さはありませんが、監視カメラも、GPSの死角も完璧に把握している場所ですよ。」
フォンがエンジンを切り、無機質な笑みを浮かべた。
湊は車を降り、湿った土の匂いを胸一杯に吸い込んだ。
台北の電脳街が放っていた無機質な熱とは違う、生き物の腐敗と植物の猛烈な生命力が混ざり合った、ベトナム特有の重い空気だ。
室内は案の定、埃っぽく、天井では古びたファンが断末魔のような音を立てて回っていた。
「……湊。機材の設営を急げ。ここは長く居る場所じゃない。」
厳の指示に、湊は短く「わかった」と応え、バックパックから最新のノートPCと、李から譲り受けたあの「泣いている龍」の残滓から構築した自作の小型サーバーを取り出した。
湊の指先が、慣れた手つきでキーボードの上を踊る。
台北で自分たちのデータを焼き払ったことで、今の2人は電子の海における「透明人間」だ。
だが、透明であることは、誰からも助けを得られないことも意味している。
「……フォン。君が持ってきたあの写真、もう1度見せて。」
湊がモニター越しに問いかける。
フォンは無言で、ジャングルの中に建つ監視塔の写真を差し出した。
「この場所……ただの観測所じゃない。……厳、見て。この周辺の通信トラフィック、異常だよ。衛星回線が1点に集中してる。ここが、李の言っていた『アンダー・ドラゴン』の心臓部……メコンの深淵だ…」
湊の解析によれば、この監視塔を起点に、東南アジア全域の闇市場の決済データが流れている。
彼らが台北で破壊したのはあくまで「末端の出先機関」に過ぎず、このベトナムの奥地にこそ、真の黒幕が潜んでいるのだ。
「……この紋章を見て、何か思い出さないか、厳…」
湊が、写真の片隅にある「泣いている龍」を指差した。
厳は煙草を指に挟み、その紋章を凝視した。
「……龍の目が赤く泣いているのは、古くからある身内の掟だ。……裏切り者、あるいは、死に損ないの復讐者。……15年前、俺がまだ若頭だった頃、組織の内部抗争で南方に消えた一派がいた。」
厳の脳裏に、凄惨な記憶が蘇る。
硝煙と、裏切りの銃声。
自分が引導を渡したはずの、かつての弟分たちの顔。
「……もし、奴らが生き延びて、この地で『龍』を育て直していたのだとしたら、これは単なるハッキングの標的ではない。……俺の過去との決算だ。」
その時だった。
隠れ家の外で、乾いた破裂音が響いた。
「……1、2……5人!」
湊が叫ぶと同時に、厳が湊の体を床に押し倒した。
直後、窓ガラスが粉々に砕け散り、複数のレーザーサイトの赤い点が、室内の壁を不気味に這い回る。
「フォン、裏口へ案内しろ! 湊、サーバーは持てるか!」
「……っ、大丈夫! 10秒待って、暗号化を完了させる……!」
湊は降り注ぐガラスの破片を浴びながら、狂ったようにエンターキーを叩いた。
データの転送完了を確認した瞬間、厳が湊の腰を抱き上げ、フォンの導く隠し通路へと飛び込んだ。
背後で、隠れ家が激しい爆発音と共に炎に包まれる。
ダナンの赤い月が、逃亡者たちの背中を冷たく照らしていた。
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厳が闇の中で不敵に笑い、銃のセーフティを外した。
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