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第6話
蜜月(みつげつ)の代償
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『親父がなぜ、お前を遠ざけたと思う?』
電話の向こうの霧島は、楽しんでいるようにも、哀れんでいるようにも聞こえる声で問いかけた。
湊は濡れた掌でスマートフォンを握りしめ、震える声を絞り出した。
『……仕事が、忙しいからだって。』
『仕事? フッ、傑作だな』
霧島が鼻で笑う音が、耳元で冷たく響く。
『親父ほどの男が、たかが仕事で愛しい恋人を放置すると思うか? 違うな。……飽きたんだよ、お前に。』
『う、嘘だ……! 厳はそんな人じゃない!』
『なら、なぜ親父は今日、部屋まで上がらなかった?』
その言葉は、湊の胸に鋭い棘のように突き刺さった。
霧島はまるで、その場の光景を見ていたかのように続ける。
『最後の旅行は楽しかったか? それは親父なりの「手切れ」の儀式だ。情が深い人だからな、捨てる前のペットにも、最後に美味い餌をやるんだよ。』
心臓が早鐘を打つ。
昨晩の甘い記憶。湯船の中で交わした口づけ。敬語を禁じたあの熱い夜。
あれが全て、別れのための演出だったというのか?
――いや、違う。厳の瞳は確かに熱かった。けれど、別れ際に見せたあの悲痛な目。そして、車内での嘘をつく癖。
霧島の言葉と、厳の不可解な態度が、パズルのピースのように噛み合ってしまう。
『お前の手元に、黒いカードキーがあるだろう?』
湊は膝の上のカードキーに視線を落とした。
『……どうして、それを...』
『中野の倉庫の鍵だ。そこはな、組が「処分に困ったもの」を一時的に隠しておく場所だ。親父はお前をそこに追いやり、ほとぼりが冷めた頃に関係を清算するつもりだろう』
血の気が引いていく。
厳は言っていた。「万が一の時はここへ行け」と。それは「俺の前から消えて、そこに隠れていろ」という意味だったのか?
『悪いことは言わない。その鍵を使って倉庫へ行き、大人しく飼い殺されるか……あるいは、今すぐこの街を出て2度と戻らないか。選ぶのはお前だ。』
『私は……』
『親父はもう、お前を「弱点」だと認識して切り捨てたんだ。まだ夢を見ているのか? 惨めなだけだぞ、朝霧湊。』
プツリ。
通話が一方的に切れた。
部屋に、静寂だけが戻ってくる。
雨音がいっそう激しく窓を叩いていた。湊はスマートフォンを取り落とし、ソファに崩れ落ちた。
手の中にある黒いカードキーが、氷のように冷たく感じる。
(違う。厳は、そんな嘘をつく人じゃない。)
心の中で叫ぶ。けれど、車内で厳が目を逸らした時の横顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
『お前がいないと狂う』と言ったあの言葉も、『好きだ』と囁いた声も、すべて嘘だったのか?
湊は自身の唇に触れた。そこにはまだ、厳の感触が残っている気がした。
信じたい。けれど、現実はあまりに残酷で、湊の「自信」を根底から揺さぶっていた。
「……厳、嘘だよね?」
誰もいない部屋で呟く。
涙が滲んで視界が歪む。
もし本当に捨てられたのなら、このカードキーは「命綱」ではなく、ただの「手切れ金」代わりのプラスチック片に過ぎない。
その時。
不意に、湊の脳裏にひとつの記憶が蘇った。
昨日の夜、布団の中で厳が言った言葉。
『俺が呼んだ人間以外は信じるな』
厳は、霧島がこうして接触してくることさえ予期していたのではないか?
この疑心暗鬼こそが、霧島の罠だとしたら?
湊は顔を上げた。涙を拭い、黒いカードキーを強く握りしめる。
ここにいては、真実は分からない。泣いて待っているだけの日々は終わりだ。
確かめなければならない。厳が本当に自分を捨てたのか、それとも何かを守ろうとしているのか。
「……行かなきゃ」
湊は立ち上がった。
行き先は中野の倉庫。そこに行けば、何かが分かるはずだ。
それが絶望への入り口だとしても、今の湊には、そこへ進むしか道は残されていなかった。
電話の向こうの霧島は、楽しんでいるようにも、哀れんでいるようにも聞こえる声で問いかけた。
湊は濡れた掌でスマートフォンを握りしめ、震える声を絞り出した。
『……仕事が、忙しいからだって。』
『仕事? フッ、傑作だな』
霧島が鼻で笑う音が、耳元で冷たく響く。
『親父ほどの男が、たかが仕事で愛しい恋人を放置すると思うか? 違うな。……飽きたんだよ、お前に。』
『う、嘘だ……! 厳はそんな人じゃない!』
『なら、なぜ親父は今日、部屋まで上がらなかった?』
その言葉は、湊の胸に鋭い棘のように突き刺さった。
霧島はまるで、その場の光景を見ていたかのように続ける。
『最後の旅行は楽しかったか? それは親父なりの「手切れ」の儀式だ。情が深い人だからな、捨てる前のペットにも、最後に美味い餌をやるんだよ。』
心臓が早鐘を打つ。
昨晩の甘い記憶。湯船の中で交わした口づけ。敬語を禁じたあの熱い夜。
あれが全て、別れのための演出だったというのか?
――いや、違う。厳の瞳は確かに熱かった。けれど、別れ際に見せたあの悲痛な目。そして、車内での嘘をつく癖。
霧島の言葉と、厳の不可解な態度が、パズルのピースのように噛み合ってしまう。
『お前の手元に、黒いカードキーがあるだろう?』
湊は膝の上のカードキーに視線を落とした。
『……どうして、それを...』
『中野の倉庫の鍵だ。そこはな、組が「処分に困ったもの」を一時的に隠しておく場所だ。親父はお前をそこに追いやり、ほとぼりが冷めた頃に関係を清算するつもりだろう』
血の気が引いていく。
厳は言っていた。「万が一の時はここへ行け」と。それは「俺の前から消えて、そこに隠れていろ」という意味だったのか?
『悪いことは言わない。その鍵を使って倉庫へ行き、大人しく飼い殺されるか……あるいは、今すぐこの街を出て2度と戻らないか。選ぶのはお前だ。』
『私は……』
『親父はもう、お前を「弱点」だと認識して切り捨てたんだ。まだ夢を見ているのか? 惨めなだけだぞ、朝霧湊。』
プツリ。
通話が一方的に切れた。
部屋に、静寂だけが戻ってくる。
雨音がいっそう激しく窓を叩いていた。湊はスマートフォンを取り落とし、ソファに崩れ落ちた。
手の中にある黒いカードキーが、氷のように冷たく感じる。
(違う。厳は、そんな嘘をつく人じゃない。)
心の中で叫ぶ。けれど、車内で厳が目を逸らした時の横顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
『お前がいないと狂う』と言ったあの言葉も、『好きだ』と囁いた声も、すべて嘘だったのか?
湊は自身の唇に触れた。そこにはまだ、厳の感触が残っている気がした。
信じたい。けれど、現実はあまりに残酷で、湊の「自信」を根底から揺さぶっていた。
「……厳、嘘だよね?」
誰もいない部屋で呟く。
涙が滲んで視界が歪む。
もし本当に捨てられたのなら、このカードキーは「命綱」ではなく、ただの「手切れ金」代わりのプラスチック片に過ぎない。
その時。
不意に、湊の脳裏にひとつの記憶が蘇った。
昨日の夜、布団の中で厳が言った言葉。
『俺が呼んだ人間以外は信じるな』
厳は、霧島がこうして接触してくることさえ予期していたのではないか?
この疑心暗鬼こそが、霧島の罠だとしたら?
湊は顔を上げた。涙を拭い、黒いカードキーを強く握りしめる。
ここにいては、真実は分からない。泣いて待っているだけの日々は終わりだ。
確かめなければならない。厳が本当に自分を捨てたのか、それとも何かを守ろうとしているのか。
「……行かなきゃ」
湊は立ち上がった。
行き先は中野の倉庫。そこに行けば、何かが分かるはずだ。
それが絶望への入り口だとしても、今の湊には、そこへ進むしか道は残されていなかった。
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