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第5話
硝子越の嘘
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夢のような時間は、東京の街並みが見えた瞬間に終わりを告げた。
フロントガラスを叩く雨脚が強くなっている。ワイパーが忙しなく動く音が、2人の間の沈黙を際立たせていた。
湊は助手席で、厳の横顔を盗み見た。
旅館を出るまでは、あんなに優しく微笑んでくれていたのに。ハンドルを握る厳の表情は、今はもう能面のように硬い。まるで「組長・久藤厳」という鎧を再び着込んでしまったようだ。
「……厳」
湊は約束通り、呼び捨てで名を呼んでみた。
だが、厳の反応は鈍い。
「……もうすぐ着く。」
短く返された言葉には、昨晩のような熱量はなかった。
湊の胸の奥で、小さく警鐘が鳴る。何かがおかしい。
高速道路を降りてから、厳は何度もバックミラーを確認していた。それも、単なる安全確認ではない。獲物を警戒するような鋭い視線だ。だが、後ろに怪しい車がいるようには見えない。
マンションの地下駐車場に滑り込むと、厳はエンジンを切らずに言った。
「降りろ。今日は上がらない。」
いつもなら、荷物を運ぶついでに部屋へ寄り、別れ惜しむようにコーヒーを飲んでいくはずだ。
湊は不安に駆られ、思わず厳のスーツの袖を掴んだ。
「どうして? まだ時間、あるでしょ?」
「仕事が立て込んだ。……行け」
その声の冷たさに、湊は指先が凍りつくような感覚を覚えた。
拒絶。明確な境界線が引かれている。
仕方なくドアノブに手をかけた時、厳が不意に言った。
「湊。」
「……なに?」
振り返ると、厳はハンドルを握りしめたまま、前を見据えていた。こちらを見ようとしない。
「……これからは、今まで以上に気をつけろ。」
「え……?」
「インターホンが鳴っても、確認するまでは開けるな。俺が呼んだ人間以外は信じるな。」
「ちょっと待ってよ。何かあったの? 厳、こっち見てよ。」
湊が詰め寄ろうとしたが、厳はそれを遮るように、胸ポケットから何かを取り出し、湊の膝の上に放った。
それは、見覚えのない黒いカードキーだった。
「……万が一の時は、これを持って『中野』の倉庫へ行け。裏口から入れる。」
「なにそれ……どういうこと?」
「いいから持っておけ!」
突然の怒鳴り声。車内の空気がビリビリと震える。
湊が息を呑んで固まっていると、厳は大きく舌打ちをし、乱暴に頭をかきむしった。
「……すまん。大きな商談が近いんでな、ピリついているだけだ。」
それは明らかな嘘だった。
厳は嘘をつくとき、無意識に左手の薬指を親指で摩る癖がある。湊だけが知っている癖だ。
彼は今、何か致命的な隠し事をしている。
「……わかった。降りるね。」
湊はそれ以上追及しなかった。いや、怖くてできなかったのだ。これ以上聞けば、今の関係が壊れてしまうような気がして。
車を降り、エレベーターホールへ向かう。
自動ドアが閉まる直前、振り返ると、厳はこちらをじっと見つめていた。
その瞳は、まるで「2度と会えない相手」を目に焼き付けるような、深く悲痛な色をしていた。
走り去るテールランプの赤い光が、雨に濡れたコンクリートに滲んで消えていく。
湊の手の中で、渡された黒いカードキーだけが冷たく重く存在を主張していた。
部屋に戻った湊は、静まり返ったリビングで立ち尽くした。
昨日の甘い情事の記憶が、嘘のように遠い。
厳は何かを隠している。自分を守るために、あるいは――自分を切り捨てるために。
その時、湊のスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは『非通知』の文字。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。恐る恐る通話ボタンを押すと、ノイズ混じりの声が聞こえてきた。
『……いいご身分だな、朝霧湊。』
聞き覚えのある、氷のような声。
久藤組若頭、霧島だった。
『親父がなぜ、お前を遠ざけたと思う?』
フロントガラスを叩く雨脚が強くなっている。ワイパーが忙しなく動く音が、2人の間の沈黙を際立たせていた。
湊は助手席で、厳の横顔を盗み見た。
旅館を出るまでは、あんなに優しく微笑んでくれていたのに。ハンドルを握る厳の表情は、今はもう能面のように硬い。まるで「組長・久藤厳」という鎧を再び着込んでしまったようだ。
「……厳」
湊は約束通り、呼び捨てで名を呼んでみた。
だが、厳の反応は鈍い。
「……もうすぐ着く。」
短く返された言葉には、昨晩のような熱量はなかった。
湊の胸の奥で、小さく警鐘が鳴る。何かがおかしい。
高速道路を降りてから、厳は何度もバックミラーを確認していた。それも、単なる安全確認ではない。獲物を警戒するような鋭い視線だ。だが、後ろに怪しい車がいるようには見えない。
マンションの地下駐車場に滑り込むと、厳はエンジンを切らずに言った。
「降りろ。今日は上がらない。」
いつもなら、荷物を運ぶついでに部屋へ寄り、別れ惜しむようにコーヒーを飲んでいくはずだ。
湊は不安に駆られ、思わず厳のスーツの袖を掴んだ。
「どうして? まだ時間、あるでしょ?」
「仕事が立て込んだ。……行け」
その声の冷たさに、湊は指先が凍りつくような感覚を覚えた。
拒絶。明確な境界線が引かれている。
仕方なくドアノブに手をかけた時、厳が不意に言った。
「湊。」
「……なに?」
振り返ると、厳はハンドルを握りしめたまま、前を見据えていた。こちらを見ようとしない。
「……これからは、今まで以上に気をつけろ。」
「え……?」
「インターホンが鳴っても、確認するまでは開けるな。俺が呼んだ人間以外は信じるな。」
「ちょっと待ってよ。何かあったの? 厳、こっち見てよ。」
湊が詰め寄ろうとしたが、厳はそれを遮るように、胸ポケットから何かを取り出し、湊の膝の上に放った。
それは、見覚えのない黒いカードキーだった。
「……万が一の時は、これを持って『中野』の倉庫へ行け。裏口から入れる。」
「なにそれ……どういうこと?」
「いいから持っておけ!」
突然の怒鳴り声。車内の空気がビリビリと震える。
湊が息を呑んで固まっていると、厳は大きく舌打ちをし、乱暴に頭をかきむしった。
「……すまん。大きな商談が近いんでな、ピリついているだけだ。」
それは明らかな嘘だった。
厳は嘘をつくとき、無意識に左手の薬指を親指で摩る癖がある。湊だけが知っている癖だ。
彼は今、何か致命的な隠し事をしている。
「……わかった。降りるね。」
湊はそれ以上追及しなかった。いや、怖くてできなかったのだ。これ以上聞けば、今の関係が壊れてしまうような気がして。
車を降り、エレベーターホールへ向かう。
自動ドアが閉まる直前、振り返ると、厳はこちらをじっと見つめていた。
その瞳は、まるで「2度と会えない相手」を目に焼き付けるような、深く悲痛な色をしていた。
走り去るテールランプの赤い光が、雨に濡れたコンクリートに滲んで消えていく。
湊の手の中で、渡された黒いカードキーだけが冷たく重く存在を主張していた。
部屋に戻った湊は、静まり返ったリビングで立ち尽くした。
昨日の甘い情事の記憶が、嘘のように遠い。
厳は何かを隠している。自分を守るために、あるいは――自分を切り捨てるために。
その時、湊のスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは『非通知』の文字。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。恐る恐る通話ボタンを押すと、ノイズ混じりの声が聞こえてきた。
『……いいご身分だな、朝霧湊。』
聞き覚えのある、氷のような声。
久藤組若頭、霧島だった。
『親父がなぜ、お前を遠ざけたと思う?』
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