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第一章
第3話 スラムの狂犬
しおりを挟む静かな朝だった。
けれどその静けさは、香鳥にとって何よりも残酷だった。
「……ヒサシさん」
枕元の布団は冷たく、そこにあったはずの温もりはもうない。
長年共に過ごし、自分を拾ってくれた唯一の大人は、病に倒れ、あまりにも静かに逝ってしまったのだ。
香鳥は拳を強く握りしめ、唇を噛む。
「……また、居場所を失ったのか」
自分を守り、導いてくれた人がいなくなった。
そして同時に思う。復讐を果たしても、結局自分の心は埋まらなかった。
いや、むしろ空虚さは増しただけだ。
そのとき、脳裏に浮かんだのは──倒したはずの組織の「空席」だった。
「……あの男の椅子を、私が座ればいい」
自分から全てを奪った世界を、今度は自分の手で掴み取る。
復讐者ではなく、支配者として。
その思いが芽生えたとき、香鳥はもう前を向いていた。
***
ボスを討ち、自らがその椅子に座ってから数ヶ月。
しかし組織は決してひとつにはならなかった。
「……チッ、あの小僧が座ってるのが気に入らねえ」
「所詮は復讐者だ。力づくで奪った椅子なんざ、長くは続かねえよ」
どこに行っても陰口が聞こえる。
従うフリをしているだけで、本心から自分を慕っている者など一人もいない。
会議の場も、酒場も、不満の種で満ちていた。
(このままでは……私は崩れる)
香鳥は決断した。
「本当に力を欲するなら、外から拾うしかない」
そうして、香鳥の足はスラム街へと向かっていった。
***
???視点
とある青年は都の外れ、小さな痩せた土地に生まれた。
名は匡という。
土は固く、作物は実らず、人々はいつも飢えていた。
「ここにいても、やがて飢えて死ぬだけだ」──そう悟った子どもたちは、次々に煌都へ流れていった。匡もまた、数人の同郷の仲間と共に都へ出た。
だが煌都の外れは弱者に冷たい。働き口などなく、子どもが生きるには盗むしかない。
「匡……お腹がすいた」
「大丈夫。俺が必ず持って帰る。信じて待っていて」
幼いながらも彼は仲間の前に立ち、笑顔を崩さなかった。
時に追いかけられ、棒で殴られ、血を流しても、仲間が少しでも笑えば痛みなどどうでもよかった。
「見ろ、今日はこれだけ取ってきた。みんなで分けよう」
「ありがとう、匡!」
その声が彼の支えだった。
***
年月が過ぎても、暮らしは少しも良くならなかった。むしろ貧民街の縄張り争いは激しくなり、弱者は徹底的に食い物にされた。
「匡、もうやめようよ。危ないよ!」
「そうだよ!匡いっつもボロボロじゃん!」
「大丈夫。俺さえ前に出れば、みんなは無事でいられる」
そう言って彼は幾度も殴られ、血を吐きながらも立ち上がった。
その姿を見た者たちは、いつしか恐れ混じりに呼んだ。
『狂犬の匡』
敵からも味方からも恐れられる名だった。
だが仲間の前では、匡はただの優しい青年だった。
返り血を浴びて帰っても、仲間の頭を撫でて笑った。
「これくらい、どうってことない。みんなが無事なら、それでいい」
その優しさが、かえって彼を恐ろしい戦い手として際立たせてしまった。
年月が経つにつれ、仲間は次々に減っていった。
病に倒れ、飢えに負け、ある者は敵に取り込まれて消えた。
「匡、もう僕らだけになったね」
「ああ。でも心配するな。俺がいる限り、誰一人欠けさせはしない」
そう言いながらも、心の奥では分かっていた。
「狂犬」という二つ名だけが一人歩きし、彼の周囲から人が去っていく。
気づけば、生き残ったのはほんの数人。彼の背中は日に日に重くなっていった。
正直、匡は我慢ならなかった。
狂犬だと揶揄されるのも仲間から少なからず感じられる畏怖の感情も。自分は仲間を守らなければならない。だが肝心の仲間は自分を恐れている。自分は何のために戦っているのだと。
(それでも、あの言葉が。あの笑顔が今までの心の支えになっていたんだ。)
***
匡が18歳になってからのとある夜の事だった。その日、匡は狙われていた。
理由は簡単だ。スラム街の弱者を守りすぎたからだ。
彼が睨みを利かせているせいで、女や子どもを売り飛ばせず、金も思うように巻き上げられない。敵にとっては邪魔でしかなかった。
「匡。今日でお前は終わりだ」
「狂犬も所詮は犬。群れで囲めば怖くない」
十数人の男たちが路地を塞ぐ。手には
刃物や棍棒。
匡の武器は、拾った鉄の棒一本だけ。
「.....俺を消したところで、この街は変わらない」
血走った目で敵を見渡し、匡は棒を構えた。
「それでも来るなら、全員まとめて来い!!」
怒声とともに刃が振り下ろされる。
ガキン、と火花。衝撃で腕がしびれる。
すぐに横から棒。避けきれず肩を裂かれ、鮮血が飛ぶ。
「ぐっ......!」
痛みを堪えて反撃、鉄の棒を振り回す。ひとりの顎を砕き、次の男の腹を突き飛ばす。
だが数は減らない。背後から蹴りを受け、地面に膝をつく。
「まだ立つか!」
「しぶとい奴だ!」
怒涛の攻撃が続く。
額に汗と血が混じり、視界が揺れる。
それでも匡は立ち上がる。棒を振るたびに敵を倒し、返り血を浴びても一歩も退かない。
......俺は、負けない
声はかすれ、呼吸も荒い。
「生き残る......それが、仲間との約束だ!」
最後の気力を振り絞った瞬間。
腹を鋭い痛みが貫いた。
「ーーッ!」
刃が深く突き刺さり、熱い血が服を濡らす。
力が抜け、棒が手から落ちた。
「......ここまでか」
朦朧とした意識の中、仲間の笑顔が浮かぶ。
(約束…守れなくて、ごめん)
胸の奥で呟いた。
─だが、その刹那。
ザシュッ!
敵の一人が、声を上げる間もなく斬り倒された。続いて、二人、三人と。
鋭い光が闇を裂き、悲鳴と血飛沫が小夜に響く。
「な、なんだ!?誰だ!」
恐怖に染まる敵の声。
月明かりに浮かび上がったのは、一振りの刀を持つ青年だった。
動きは舞のように流麗で、無駄がなく、一太刀ごとに敵を葬っていく。
その姿を、匡は呆然と見上げていた。
血の中に差し込む光のようで、
まるで
「.....天使、だ.....」
思わず言葉が漏れる。
視線を逸らせない。
美しく、恐ろしく、それでいて救いそのものに見えた。
気づけば、敵は全て斬り伏せられていた。
路地に残るのは、屍と血の匂いと、ただひとり立つ青年だけ。
(......次は俺かもしれない)
匡は震える手で腹を押さえ、必死に後ずさった。驚戒心が先に立つ。味方かどうか、分からない。
──だが
青年は刀を静かに納め、歩み寄ってきた。
そして、迷いなく手を差し伸べる。
「立てるか」
澄んだ声だった。
刃を振るった直後とは思えないほど、落ち着き、揺らぎがない。
匡は息を呑む。
その手は血で汚れていない。まるで、彼のためにだけ差し出された純白の手のように見えた。
「……どうして……」
声が震えた。喉が焼け、言葉にならない。
「どうして俺なんかを……助ける」
青年は少しだけ視線を落とし、短く答える。
「君は、まだ死ぬべきではないから」
その一言が、胸を撃ち抜いた。
これまで誰も、匡にそんな言葉をかけてはくれなかった。
狂犬と恐れられ、排除され、疎まれて、死ぬなと告げられたのは、生まれて初めてだった。
(……嬉しい)
胸の奥が熱くなる。
救われたことが、ただただ嬉しい。
その瞳に魅せられた。半分、惚れてしまったようなものだ。
涙が頬を伝う。
「……なら、俺は……」
震える声で、匡はかろうじて言葉を紡ぐ。
「俺は、あなたに従いたい。狂犬なんかじゃない……忠実な犬として」
血に濡れた路地の片隅で、匡はその手を掴んだ。
それは初めて誰かに「死ぬな」と言われ、救い出された少年の誓いだった。
血に濡れた路地で、匡は差し伸べられた手を掴んだ。
温かい。指先まで冷え切っていた体に、確かな熱が流れ込む。
「……これから、俺はあなたの部下です。貴方の忠実なる犬。」
そう言うと、香鳥はしばし匡を見つめた。
その視線に。匡の胸は不思議と震えた。叱責でも嘲りでもない。ただ命を下されたような気がしたのだ。
(ただの暴れる狂犬として俺を見ていない)
そう認識すると
気づけば涙がまた溢れていた。
死にかけていたのに、心の底から笑いたくなる。まだ生きていていいのだと、やっと許された気がした。
香鳥は匡の腕を肩に回し、支え起こした。
「立てるようになるまで、私のもとに来い。使えるかどうかはそれからです」
冷たい言葉に聞こえるが、匡には違って響いた。
――生き延びる未来を、彼は自分に示してくれたのだ。
匡はかすれ声で応えた。
「……必ず、役に立ちます。俺に居場所をくれるのなら、命を賭けて従います」
香鳥は短く「そうですか」とだけ返し、夜風に靡く外套を翻した。
⸻
数日後。
匡はまだ傷を庇いながらも、香鳥の屋敷にいた。
かつての紅蓮幇を乗っ取ったばかりの新たな拠点。豪奢なはずの屋敷は荒れ果て、廊下には怯えた目をした古参の構成員たちがひしめいている。
彼らの目は冷たく、誰もが口を閉ざしていた。
「若造が頭になったところで長くは続かぬ」と噂する声も聞こえる。
その中心に座る香鳥は、まるで氷のような静けさを纏っていた。
だが匡の目には、彼がただの「若造」には見えなかった。
(この人こそ……俺が命を懸けて従うべき主だ)
どれほど周囲に不満があろうと関係ない。
命を救われたあの夜から、匡の道はただ一つに決まっている。
香鳥は視線を横に流し、匡を呼んだ。
「君。名は?」
「……匡です」
「そうか。ならば今日からは、私の剣となれ。私が斬れぬものを斬り、私が届かぬ場所に届け」
胸が熱くなる。
誰からも「狂犬」と恐れられ、追われるしかなかった自分に――初めて役割を与えてくれる者が現れた。
「はい。必ず」
匡はその場に片膝をつき、頭を垂れた。
屋敷に重苦しい空気が流れる中、その声だけは確かな決意を帯びて響いた。
その日、スラムの片隅で「狂犬」と恐れられていた少年は、初めて「主を持つ者」として生まれ変わった。
そして香鳥にとっても、匡は初めて「心から従う部下」となった。
二人の出会いは血と絶望の中だった。
だがそれは、やがて煌都を揺るがす物語の始まりとなる。
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