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第一章
第8話 命令違反
しおりを挟む――あれから五年が経った。
時間は人の輪郭を変え、声を職務に預けさせた。街の地図は書き換えられ、縄張りは増え、部下は増えた。だが、夜の匂いは変わらない。錆と油と、煤と硝煙――それらが混じる空気は相変わらず人を削る。
香鳥は頭領として、その冷たさを最も隠しきれる面を身に纏っていた。指示は簡潔で、命令は確実に伝わる。隣にいるのは相変わらず匡だ。だが彼の背後に宿るものは五年前とは異なっていた。静かに、しかし深く、何かが変質している。
今回の任務は情報奪還と撤退の護衛。情報筋には残党の集結と、外部からの援軍の動きが示されていたが、情報の精度が落ちていた。手配した増援は遅延し、部隊の疲労は目に見えていた。敵は旧工場群に拠点を作り、廃材と建物の隙を使って我々を誘い込んだ。罠。計算された消耗戦。補給路を断ち、我々の連携を少しずつ削いでいく。
「第一班、南通路を押さえろ! 第二班は後方警戒、敵の包囲を突破する!」
香鳥の声は冷たく鋭い。指示は一切の迷いを含まない。
迅は僅かに側面を支えつつ、指示通り動いている。
「匡、お前は――」
「前に出ます!」
返事が早すぎる。香鳥が言葉を継ぐより先に、匡は前線へ躍り出た。
銃声、爆音、瓦礫が砕ける音――戦場は混沌の極み。隊は動くが、顔には疲労が浮かぶ。誰かが一度でも躓けば、全体が滅ぶ。そういう瀬戸際が、じわじわと迫っていた。
敵は狡猾だった。香鳥を潰せばまとまりは崩れる。この世界では常識だ。狙撃手が高所に潜み、誘導要員が暗がりで囮を装う。連携の中に、不意に切り取られる動きが生まれる。味方の列が短くなり、援護の声が遅れる。疲弊が脚を重くし、視界が霞む。
廃材の影、壊れた機械の櫛歯、油の匂い。前線は狭まり、視界は断続的に途切れる。突然、閃光。狙撃の匂いが空気を斬り、音が一つ、古びた倉庫に響こうとしている。香鳥はその閃きに気づき、目線をあげる。銃口の一筋の光が、自分の胸を正確に差している。
「匡、左を──」
言葉はそこで途切れた。香鳥は知っている。狙撃手はここを読んでいる。狙いは自分だ。だがここで匡を危険に晒す訳には行かない。頭領を奪えば、我々の統率は揺らぐ。
仕方ない。臓器1つくれてやるか
その瞬間、匡は香鳥の前に飛び込んだ。
「……ッ!」
血の気が引く。息が止まる。
これは……庇えない…!
瞬間、体が動かない。頭が真っ白になる。
(こんな……まさか……)
香鳥は反射的に前に出ようとするが、弾丸は既に弧を描き、空気を裂く音だけが耳に残った。
背筋に冷たい緊張が走る。
「くそ……っ、匡!」
叫びながら、香鳥は無意識に足を止める。
どう動けばいいのか分からない。頭の中は混乱し、呼吸だけが荒くなった。
心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴る。
――本来香鳥の身体に咲くはずだった花が香鳥では無い身体に咲いた。
弾丸は彼の腹部を貫き、背中から血が滴る。
それでも匡は倒れなかった。直ぐに治療しなければ多量出血になり危うくなる程の傷だ。それでも拳を振るい、敵の突撃を次々と叩き潰しにかかる。
「くっ……!」
香鳥は目の前で展開される光景に言葉を失う。
自分を庇うために、自分が守るべき男が血にまみれて戦っている。
胸の奥で何かが締め付けられ、悲しみと恐怖、絶望が入り混じる。
「下がれ! 今すぐ手当てを……!」
「、結構です」
低く掠れた声。痛みで体が震えるはずなのに、匡は前へ進む。
「俺は香鳥様を狙った奴らを、絶対に許さない」
拳を振るい、銃を叩き落とす。
敵が襲いかかるたび、匡の動きは狂気に満ち、常軌を逸していた。
一撃一撃が破壊的で、敵はたちまち戦意を失う。
「匡、聞こえているのか!? 下がれッ!!」
「嫌です」
即答だった。命令が通らない。
理性で築いた秩序が、ひとりの男の感情に崩されていく。
五年間の忠誠はここに凝縮され、歪んだ愛となって戦場を駆け巡る。
「貴方に触れた奴らは、誰も生かさない」
狂気じみた笑みを浮かべ、赤い血を跳ね散らかしながら、匡は敵を蹴散らす。
香鳥は息を詰まらせ、心臓が痛む。
庇われる恐怖と安心――あの日、香鳥が匡を庇った時に味わった感覚と同じものが、今、自分に押し寄せる。
「匡……何を……」
「貴方を狙った者がいるのですから排除しなければ。放っておくなど許すわけにはいかないでしょう?」
その声は、怒りと愛情が混ざり合い、震えている。
「香鳥様を狙った者に慈悲は無用だ」
匡の言葉は刃のように冷たく響く。戦場で、理性は薄く、感情の濁流が歯車を狂わせる。匡の拳は的確で、動きに無駄がない。彼は次々と敵を叩き伏せる。遮蔽物から飛び出すたび、一人、また一人と暗がりに倒れていく。匡は血を浴びながら進む。まるで止むことを知らぬ潮のように。
「退け、匡! 命令だ!」
――組織の規律は鉄の輪のように重い。だがその輪が匡の前で砕ける。匡は一瞬だけ香鳥を見る。そこには計算された頭領の冷たさと、ほんの少しの戸惑いが混じっている。命令が、ただの声であると薄くなった瞬間、匡は口を開いた。
「……従いません」
その言葉は、砂を呑むように重かった。香鳥の顔が引きつる。味方の士気が一瞬揺れる。
命令違反──組織のタブーが、ここで現実になったのだ。匡はもう、ただの従者ではない。彼の動きは守護に変わり、理性は薄れていった。怒りは守る力に姿を変え、敵を押し潰すだけの一枚の刃となる。
敵の最後の一人が斃れると、廃工場の音は遠のいた。夜は再び重力を取り戻す。血と硝煙と鉄の匂いが混じるが、匡の胸はまだ早鐘のように打っている。彼は香鳥の前に跪き、その手についた血を見下ろすようにして、かすかに笑った。笑みは慰めでも誇りでもない。狂気と救済の融合だ。
戦場は完全に制圧され、匡は立っていた。
血にまみれ、体は限界寸前。
それでも香鳥を守る瞳は冷酷に輝く。
香鳥が近寄ると、手を差し伸べ、頬にかかる髪をそっと退ける。
「貴方が生きている。それだけで……十分です」
香鳥は手を握り返し、嗚咽をこらえる。
五年前、自分が庇ったあの男は、今、狂気と化した愛で自分を守っている。
「匡……命令違反……!」
「命令より、守るべきものがあります」
――それだけの言葉で、全てが伝わる。
戦場に残された無数の足跡と血の匂い。
部下たちは疲弊し、匡の狂気的忠誠に圧倒されていた。
香鳥は胸がいっぱいになり、初めて「守られる側」の恐怖と喜びを理解する。
「……ありがとう、匡」
香鳥の声は震え、涙が頬を伝う。
匡は微かに笑い、香鳥の背に手を回す。
「貴方が生きていてくれれば、それだけで俺は……」
言葉は続かない。だが、行動が全てを語っていた。
狂犬の名に相応しい、歪んだ愛と忠誠。
五年間、匡はその感情を胸に秘め、今や完全に暴走した。
香鳥は初めて、右腕に抱かれる安心と恐怖、絶望と愛情を同時に感じる。
――これが、匡の全てだった。
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