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第一章
第10話 脱走
しおりを挟む匡にとって香鳥は、
ただの上官ではなかった。
混乱の中で、自分を見捨てず、
「君は、僕にとって必要だ」と初めて言ってくれた人だった。
その一言が、
匡の生き方そのものを変えた。
だから今日――
自宅謹慎でも、足が勝手に動いた。
「……香鳥様が危険なら……
俺の身体なんてどうでもいい……」
その想いだけが、
痛みよりも強かった。
***
任務地に入った瞬間、空気が変わった。
迅はいつも通り淡々と指示し、香鳥は落ち着いて進む。
匡はその影を追いながら、
奥歯を噛みしめた。
(……腕が、うずく……また開いてきてる……)
(でも……香鳥様の前に出るわけには……)
ふらつきながらも、
視界だけは鋭く保っていた。
そしてその瞬間は急に訪れた。
香鳥の足元に向かって小さな閃きが走った。
(……まずい!)
反射より早く、体が走った。
(――香鳥様!!)
香鳥の前に滑り込み、腕で受け止めた。
衝撃に耐えた瞬間、
匡の呼吸が一度止まる。
傷が悲鳴を上げ、脇腹がじんわり熱くなる。
折れていた肋骨がまた軋んだのがわかった。
(……っくそ、折れた……でもまだ動ける…!)
敵がもう一度仕掛けてきた瞬間、
迅が一気に動いて片付けた。
だが、匡の体はその衝撃だけで限界に近づいていた。
任務は終わり、帰還準備に入る部隊。
匡は腕を押さえながら、見つからないよう後ろに下がろうとした。
しかし。
地面に落ちた小さな赤い滴が、
香鳥の視界に入った。
「……え?」
香鳥がこちらに焦点を合わせたのがわかってしまった。
目が合った瞬間、匡はびくっと肩を揺らす。
(……見つかった……)
香鳥の視線は匡の右腕に吸い寄せられる。
布の下から広がる赤み、
呼吸が浅いこと、
体勢が不自然なこと。
全部、一瞬で見抜かれた。
「匡……何故此処に、それにその腕……」
匡は慌てて隠す。
「いっ……いや、大したことでは――」
「匡。」
香鳥は一歩近づく。
匡は怒号を覚悟した。
(……怒られる……任務妨害、命令違反……
香鳥様を……失望させた……)
だが、
(……?)
怒号は飛んでこなかった。
代わりに落ちてきたのは、静かで、震えていて、圧を含む低い声。
「――匡。顔を上げろ」
あの威厳ある声音。
厳しいはずのその声が、今はどこか苦しそうだった。
匡はびくりと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。
香鳥の眼が潤んでいた。
怒りではない。
呆れでもない。
――心配の色だった。
「……なぜ、ここまで隠して戦った」
「なぜ……そこまで自分を壊す」
威圧ではなく、胸の奥をざらつかせるような静かな痛みを含んだ声音。
匡は、言葉を失った。
「お、おれ……は……」
理由は一つだ。
香鳥が安全ならそれでよかった。
仲間が無事なら、たとえ自分が壊れても構わない。
でも、その言葉を出そうとすると、喉が塞がった。
香鳥はゆっくり匡の手首を掴み、血で滑る皮膚を確かめるように握った。
「……そんな顔をするな。
私が怒っていると思ったのか?」
匡は小さくうなずいた。
香鳥は、深く息を吐いた。
「怒るわけないだろう。
怒りより――匡が傷だらけで倒れているほうが、よほど…胸が痛む」
その言葉が、匡の胸の奥に刺さる。
「……っ、俺……そんな……心配させるつもりじゃ……なくて……」
「守りたかっただけで……怪我は……その……慣れてるし……っ」
言い訳のようで、でも本心で、匡は震えながら続ける。
「でも……そんな、泣きそうな……顔されるなんて……思わなくて……っ」
香鳥は一瞬だけ目を伏せた後、静かに告げた。
「匡。
――もう少し、私を信用して」
その声は強く、揺らぎがない。
けれど、優しさが滲んでいた。
「君が傷つけば、私は苦しい。
それくらい……匡には分かっていてほしい」
匡はその言葉で、胸の奥の締め付けがほどけていくのを感じた。
「……すみません……っ
……ありがとう、ございます……」
謝罪と安堵が混ざった声。
香鳥は匡の肩に手を置き、静かに言った。
「だから……一緒に帰ろう。
治療を受けて、もう一度……君が無事であることを、私に見せて。」
その言葉は、
“許し” と “願い” が一緒に込められていた。
匡は深く頭を垂れる。
「……はい……香鳥様……
俺……二度と……
あなたに不安を与えるような真似は……
しません……」
香鳥は匡の手を握り返す。
「もう2度と同じことしたら駄目ですよ?」
匡は息を震わせて答えた。
「……はい……分かりました……」
迅は少し離れた位置でその様子を見て、
静かにため息をついた。
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