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第一話「悪役令嬢と夜のベランダ」
しおりを挟む「……ですから、そのような甘い考えでは、いずれ足元をすくわれますわよ」
社交界の華やかなパーティー会場で、公爵令嬢セシリア・ヴァルモントは、侯爵夫人に向かってきっぱりと言い放った。
周囲の空気が凍りつく。
侯爵夫人の顔が紅潮し、取り巻きの令嬢たちが小さく悲鳴を上げた。セシリアは優雅に一礼すると、踵を返して会場を後にした。
背中に刺さる視線が痛い。
(……また、やってしまった)
馬車に揺られながら、セシリアは小さくため息をついた。
言ったことは正論だ。侯爵家の投資計画には明らかな穴がある。それを指摘しただけ。でも、言い方が、きつかった。
「お嬢様、お疲れ様でございます」
屋敷に戻ると、執事のセバスチャンが深々と頭を下げた。セシリアは無言で頷き、自室へと向かった。
ドレスを脱ぎ、髪をほどき、簡素な部屋着に着替える。鏡に映る自分の顔は、いつも通り無表情だ。
(どうせ、また噂になるのだわ。"冷血公爵令嬢"とか、"毒舌悪役"とか)
窓を開けると、夜風が頬を撫でた。ベランダに出て、手すりに手を置く。
これが、セシリアの日課だった。
「……侯爵夫人、傷つけてしまったかしら。あの投資話、本当に危ないのに。でも、もっと優しく言えたはずよね……」
誰もいない夜空に向かって、小さく呟く。
「明日、謝罪の手紙を書きましょう。いえ、でも余計に嫌味に取られるかしら。お菓子を添えて……?それも計算高いと思われる……?」
ため息をついたとき、足元で小さな声がした。
「にゃあ」
見下ろすと、美しい銀灰色の猫が、こちらをじっと見上げていた。
「……あら」
セシリアの表情が、一瞬で変わった。
「まあ、可愛い……!」
彼女はしゃがみこみ、猫をそっと抱き上げた。猫は抵抗せず、されるがままになっている。
「迷い猫かしら?首輪もないし……お腹空いているの?」
猫は静かにセシリアを見つめている。その瞳は、月光を映して金色に輝いていた。
「今日ね、また失敗しちゃったの」
セシリアは猫を抱きしめたまま、ベランチェアに座った。
「本当は、人を傷つけたくないのよ。でも、言葉が出ると、いつもきつくなっちゃう。嫌われるのは慣れたつもりだけど……やっぱり、辛いわ」
猫は、セシリアの胸の中で丸くなった。
「あなたは優しいのね。こんな私の愚痴を聞いてくれるなんて」
セシリアは猫の頭を優しく撫でた。声のトーンが、昼間とはまるで違う。
「……また来てくれる?」
猫は小さく喉を鳴らした。
その瞬間、セシリアの顔に、本物の笑顔が浮かんだ。
「ありがとう」
───
翌朝。
セシリアがベランダを確認すると、猫の姿はなかった。
(夢だったのかしら……)
そう思いかけたとき、手すりの上に、小さな銀色の毛が一本、残されているのに気づいた。
セシリアはそれをそっと拾い上げ、胸元に仕舞った。
「……また、会えるといいわね」
その日の昼下がり。
帝国宮殿の執務室で、皇太子アルベルト・フォン・エルトリアは、いつも通り冷静な表情で書類に目を通していた。
「殿下、昨夜は外出されていたようですが……」
側近の騎士が、慎重に尋ねた。
「私用だ」
「は、しかし夜間の単独行動は危険かと……」
「問題ない」
アルベルトは視線を上げず、淡々と答えた。
その手元で、ペンを持つ指先に、小さな引っ掻き傷のようなものが、一つ残っていた。
側近は首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。
アルベルトの脳裏には、昨夜のベランダの光景が鮮明に焼きついていた。
自分を抱きしめながら、涙声で本音を吐露する少女の姿。
昼間の社交界では誰よりも強気で、誰よりも孤独な、あの令嬢。
(……君は、何も分かっていない)
アルベルトの唇が、ほんの少しだけ、弧を描いた。
それは、誰も見たことのない表情だった。
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