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第二話「猫と令嬢の秘密」
しおりを挟むその日の夜も、セシリアはベランダに出た。
昼間の社交会では、また一人、令嬢を泣かせてしまった。彼女の婚約者選びの基準があまりにも浅はかだったから、つい指摘してしまったのだ。
「……あの言い方は、まずかったわね」
手すりに寄りかかり、セシリアは小さく呟いた。
「『そんな考えでは、すぐに飽きられますわよ』なんて。もっと別の言い方があったはずなのに……」
そのとき、足元から聞き覚えのある声がした。
「にゃあ」
振り返ると、昨夜と同じ銀灰色の猫が、じっとこちらを見上げていた。
「……!」
セシリアの顔が、パッと明るくなった。
「来てくれたの!」
彼女は猫を抱き上げ、頬を寄せた。猫は静かに彼女の腕の中に収まる。
「待っていたのよ。もう会えないかと思っていたわ」
セシリアはベランチェアに座り、猫を膝の上に乗せた。猫は彼女の膝の上で丸くなり、目を細めている。
「ねえ、聞いてくれる?」
猫は小さく喉を鳴らした。
「今日もまた、失敗したの。私、どうして人を傷つけることばかり言ってしまうのかしら……」
セシリアは猫の背中を優しく撫でながら、今日あった出来事を話し始めた。
その声は、昼間の冷たいトーンとはまるで違う。柔らかく、少し寂しげで、とても素直だった。
「本当はね、あの子のことを心配していたの。あんな基準で結婚相手を選んだら、絶対に不幸になる。でも……優しく言えなかった」
猫は、じっとセシリアを見上げている。
その金色の瞳には、何か深い感情が宿っているように見えた。
「……あなた、本当に優しいのね」
セシリアは猫の頭を撫でた。
「こんな私の話を、嫌な顔一つせずに聞いてくれるなんて。人間だったら、きっととっくに逃げ出しているわ」
猫の尻尾が、ピクリと動いた。
「ねえ、あなたには名前があるの?」
猫は答えない。当然だ。
「……そうね、勝手に呼び名をつけるのは失礼よね」
セシリアは少し考えた後、微笑んだ。
「それじゃあ、あなたが私のところに来てくれる間だけ、『ルナ』って呼んでもいいかしら。月の光みたいに綺麗だから」
猫——いや、皇太子アルベルトは、内心で小さく唸った。
(ルナ……女性名か)
だが、訂正するわけにはいかない。今は、ただの猫なのだから。
「ルナ、ありがとう。あなたがいてくれるだけで、少し楽になるわ」
セシリアは猫をぎゅっと抱きしめた。
アルベルトは、彼女の腕の中で目を閉じた。
彼女の体温、鼓動、そして声。すべてが、昼間の冷たい仮面の下に隠された、本当の彼女を物語っていた。
(……君は、何も悪くない)
アルベルトは思った。
(君の言葉は正しい。ただ、君が優しすぎるから、傷つけたことに苦しんでいるだけだ)
しばらくして、セシリアは小さくあくびをした。
「あら、もうこんな時間……ルナ、そろそろ戻らないといけないわね」
彼女は猫を手すりの上に乗せた。
「また、明日も来てくれる?」
猫は一度、ゆっくりと瞬きをした。
「……ありがとう」
セシリアは微笑み、猫の頭を最後にもう一度撫でた。
猫は優雅に手すりから飛び降り、夜の闇に消えていった。
───
翌日、帝国宮殿。
「殿下、本日の謁見の予定ですが……」
側近が書類を差し出すと、アルベルトは無表情のまま受け取った。
「ヴァルモント公爵家の令嬢について、最近社交界で話題になっているようですが」
「……何が」
「毒舌が過ぎる、と。ただ、調べたところ、彼女の指摘はすべて的確で、実際に彼女の助言を受けた家は損失を免れているケースが多いようです」
アルベルトは書類から顔を上げなかった。
「それで」
「いえ、特には……ただ、殿下が以前、『有能な人材は性格ではなく能力で評価すべき』と仰っていたことを思い出しまして」
「そうだな」
アルベルトは淡々と答えた。
だが、その手元のペンが、ほんの少しだけ強く紙を押した。
(……彼女を『毒舌』などと評する者たちは、何も分かっていない)
あの夜、ベランダで涙声で懺悔する彼女を知っているのは、自分だけだ。
(誰よりも優しく、誰よりも不器用な、あの令嬢を)
「殿下?」
「何でもない。次の案件は」
アルベルトは再び冷静な表情に戻り、執務を続けた。
その夜。
セシリアがベランダに出ると、すでに猫が手すりの上で待っていた。
「ルナ!」
セシリアは嬉しそうに駆け寄り、猫を抱き上げた。
「待っていてくれたの?」
猫は小さく鳴いた。
その声は、まるで「当然だ」と言っているようだった。
セシリアは、猫を抱きしめながら、今日もまた自分の本音を語り始めた。
猫は、その全てを静かに聞いていた。
ただ一つ、セシリアが気づいていないことがあった。
猫の尻尾が、彼女の話を聞くたびに、少しずつ、彼女の腕に絡みつくように動いていることに。
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