3 / 6
第三話「皇太子の観察記録」
しおりを挟むアルベルトが猫に変身する能力を得たのは、三年前のことだった。
古代魔術の研究中、偶然発動した術式によるもので、夜間のみ、自分の意思で猫の姿になることができる。
当初は厄介な体質だと思っていた。
だが、今は違う。
「殿下、夜会への出席ですが……」
「断る」
「しかし、ヴァルモント公爵もご出席されるとのことで……」
「だから何だ」
側近は困惑した表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。
アルベルトは窓の外を見た。もうすぐ日が沈む。
(……彼女が、待っている)
───
その夜、セシリアはいつも通りベランダに出た。
手すりの上には、すでに銀灰色の猫が座っていた。
「ルナ!今日も来てくれたのね」
セシリアは嬉しそうに猫を抱き上げた。猫は彼女の腕の中で、いつものように大人しく身を任せる。
「今日はね、とても嫌なことがあったの」
ベランチェアに座り、セシリアは猫を膝に乗せた。
「社交会で、ある令嬢が私に話しかけてきたの。でも、その子の目的は……私を嘲笑うことだったのよ」
猫の耳が、ピクリと動いた。
「『セシリア様は、いつも一人でいらっしゃいますのね』って。『お友達は、いらっしゃらないのですか』って」
セシリアは猫の背中を撫でながら、小さく笑った。
「本当のことだから、何も言い返せなかったわ。私には友人なんて、一人もいないもの」
猫の尻尾が、ゆっくりとセシリアの手首に巻きついた。
「でもね、ルナ。あなたがいてくれるから、少しだけ、寂しくないのよ」
セシリアは猫を抱きしめた。
アルベルトは、彼女の腕の中で目を細めた。
(……その令嬢の名は)
記憶を辿る。社交会に出席していた貴族令嬢のリスト。セシリアに話しかけた者。
(ヴェルナー子爵家の三女、か)
アルベルトの中で、静かに何かが決まった。
───
翌日、帝国宮殿。
「殿下、ヴェルナー子爵家についてですが」
側近が報告書を差し出した。
「先日の税務調査の結果、軽微な不正が発覚しました。社交界への出入り禁止処分を……」
「三ヶ月とする」
「は……?」
側近は目を丸くした。通常、この程度の不正であれば、厳重注意で済む話だ。
「異論があるか」
「いえ、畏まりました」
アルベルトは無表情のまま、次の書類に視線を移した。
側近は首を傾げたが、命令に従うしかなかった。
(殿下が、このような私的な……いや、まさか)
だが、皇太子アルベルトの顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
───
その夜。
セシリアがベランダに出ると、猫はいつもより早く到着していた。
「あら、今日は早いのね」
猫を抱き上げると、いつもより強く、彼女の胸に顔を埋めてきた。
「どうしたの?甘えん坊さん」
セシリアは猫の頭を撫でた。
「今日はね、少し嬉しいことがあったの」
猫が顔を上げた。
「いつも私を嘲笑っていた令嬢が、何かの不正で社交界に出入り禁止になったらしいの。因果応報というか……ああ、でも、こんなこと喜ぶなんて、私も性格が悪いわよね」
セシリアは苦笑した。
「でも、少しだけ、ほっとしたのも事実なの」
猫は、セシリアの膝の上で丸くなった。
その喉が、小さく鳴っている。
「ルナ、あなたは私の味方でいてくれるのね」
セシリアは優しく猫を撫でた。
アルベルトは、彼女の膝の上で目を閉じた。
(味方?……違う)
彼の尻尾が、セシリアの手首にしっかりと巻きついた。
(君を傷つける者は、誰であろうと許さない。それだけだ)
───
数日後、帝国宮殿の執務室。
「殿下、最近、夜間に街を徘徊する猫が目撃されているとの報告が……」
「猫がいて何が問題だ」
「いえ、その猫が妙に人懐こく、特定の屋敷に頻繁に出入りしているらしく……」
「……それで」
側近は慎重に続けた。
「その屋敷というのが、ヴァルモント公爵家でして」
アルベルトの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「猫の行動など、管理する必要はない」
「は、しかし……」
「他に報告は」
側近は諦めて、次の議題に移った。
だが、その後ろ姿を見送りながら、アルベルトは小さく息をついた。
(……気づかれたか)
だが、止めるつもりはなかった。
彼女のベランダで、彼女の声を聞き、彼女の本当の姿を知る。
それは今や、アルベルトにとって何よりも重要な時間になっていた。
───
その夜も、猫は現れた。
「ルナ、今日もありがとう」
セシリアは猫を抱きしめた。
「あなたがいてくれるから、明日も頑張れるわ」
猫は、彼女の腕の中で静かに目を細めた。
その金色の瞳には、月光よりも強い、何かが宿っていた。
だが、セシリアはそれに気づかない。
彼女にとって、この猫はただの「優しい友達」でしかなかった。
(……いつか、君に全てを打ち明ける日が来る)
アルベルトは思った。
(だが、今はまだ、この時間を守りたい)
猫の尻尾が、セシリアの腕にぎゅっと巻きついた。
それは、まるで「離さない」と言っているようだった。
3
あなたにおすすめの小説
【完結】悪役令嬢だったみたいなので婚約から回避してみた
22時完結
恋愛
春風に彩られた王国で、名門貴族ロゼリア家の娘ナタリアは、ある日見た悪夢によって人生が一変する。夢の中、彼女は「悪役令嬢」として婚約を破棄され、王国から追放される未来を目撃する。それを避けるため、彼女は最愛の王太子アレクサンダーから距離を置き、自らを守ろうとするが、彼の深い愛と執着が彼女の運命を変えていく。
私はざまぁされた悪役令嬢。……ってなんだか違う!
杵島 灯
恋愛
王子様から「お前と婚約破棄する!」と言われちゃいました。
彼の隣には幼馴染がちゃっかりおさまっています。
さあ、私どうしよう?
とにかく処刑を避けるためにとっさの行動に出たら、なんか変なことになっちゃった……。
小説家になろう、カクヨムにも投稿中。
悪役令嬢、隠しキャラとこっそり婚約する
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢が隠しキャラに愛されるだけ。
ドゥニーズは違和感を感じていた。やがてその違和感から前世の記憶を取り戻す。思い出してからはフリーダムに生きるようになったドゥニーズ。彼女はその後、ある男の子と婚約をして…。
小説家になろう様でも投稿しています。
ヒロイン不在だから悪役令嬢からお飾りの王妃になるのを決めたのに、誓いの場で登場とか聞いてないのですが!?
あさぎかな@コミカライズ決定
恋愛
ヒロインがいない。
もう一度言おう。ヒロインがいない!!
乙女ゲーム《夢見と夜明け前の乙女》のヒロインのキャロル・ガードナーがいないのだ。その結果、王太子ブルーノ・フロレンス・フォード・ゴルウィンとの婚約は継続され、今日私は彼の婚約者から妻になるはずが……。まさかの式の最中に突撃。
※ざまぁ展開あり
断罪される前に市井で暮らそうとした悪役令嬢は幸せに酔いしれる
葉柚
恋愛
侯爵令嬢であるアマリアは、男爵家の養女であるアンナライラに婚約者のユースフェリア王子を盗られそうになる。
アンナライラに呪いをかけたのはアマリアだと言いアマリアを追い詰める。
アマリアは断罪される前に市井に溶け込み侯爵令嬢ではなく一市民として生きようとする。
市井ではどこかの王子が呪いにより猫になってしまったという噂がまことしやかに流れており……。
【短編】誰も幸せになんかなれない~悪役令嬢の終末~
真辺わ人
恋愛
私は前世の記憶を持つ悪役令嬢。
自分が愛する人に裏切られて殺される未来を知っている。
回避したいけれど回避できなかったらどうしたらいいの?
*後編投稿済み。これにて完結です。
*ハピエンではないので注意。
悪役令嬢だったので、身の振り方を考えたい。
しぎ
恋愛
カーティア・メラーニはある日、自分が悪役令嬢であることに気づいた。
断罪イベントまではあと数ヶ月、ヒロインへのざまぁ返しを計画…せずに、カーティアは大好きな読書を楽しみながら、修道院のパンフレットを取り寄せるのだった。悪役令嬢としての日々をカーティアがのんびり過ごしていると、不仲だったはずの婚約者との距離がだんだんおかしくなってきて…。
婚約破棄された私はカエルにされましたが、悪役令嬢な妹が拾って舞踏会で全部ひっくり返します
まぴ56
恋愛
異世界貴族の私は、婚約者に捨てられ――口封じに“蛙”へ。
声も出せず噴水の縁で震える私を拾ったのは、嫌味たっぷりで見下すように笑う妹のミレイだった。
「汚らしいお姉さま――わたくしが連れ帰って、たっぷり苛めて差し上げますわ」
冷たく弄ぶふりをしながら、夜な夜な呪いの文献を漁るミレイ。
やがて迎える、王も出席する大舞踏会。ミレイの千里眼が映す“真実”が、裏切り者たちの仮面を剥ぎ取っていく――
呪いが解ける条件は、最後のひと押し。
姉妹の絆が、ざまぁと逆転を連れてくる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる