名前を捨てた王女と、踊り子の恋― 人形王女の選択 ―

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第8話 動いた心

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理由は分からない。

見覚えがあるわけでもない。知っているはずもない。なのに、視線を逸らせなかった。

踊りが始まる。

彼の動きは、型にはまっていなかった。けれど、乱れてもいない。まるで、感情そのものが、身体を借りているような。

喜び。切なさ。焦がれるような想い。

音楽に合わせて、彼の身体が弧を描く。跳ねる。回る。まるで、誰かに語りかけているみたいに。

――感じてはいけない。

そう、頭では分かっている。

けれど、胸が――痛い。

どうして?

私は、ただ座っているだけなのに。



周りの貴族たちは、拍手している。

「素晴らしい」

「見事だ」

声が、遠くから聞こえる。

でも、私の耳には、音楽だけが響いている。

彼の踊りだけが、見える。



踊りが、クライマックスへ向かう。

彼が、大きく跳躍する。

着地。

そして、静止。

その瞬間、彼の視線が、こちらを向いた。



目が合った。

一瞬。けれど、確かに。

その瞳は、驚いたように、そして――安堵したように、揺れた。

どうして、そんな表情を?

分からない。分からないのに、胸が、きゅっと締めつけられる。まるで、誰かに呼ばれたみたいに。

彼の唇が、わずかに動いた。何かを言おうとしている。

でも、音楽と拍手にかき消されて、聞こえない。



拍手の音が、遠く聞こえる。

自分が、拍手をしていないことに、気づいた。周りの貴族たちは皆、手を叩いている。笑顔で、称賛の声を上げている。

……まずい。

慌てて、手を動かす。遅れて響く、乾いた音。私の拍手だけが、場違いに聞こえる。

その時。

彼の視線が、再びこちらを向いた。

今度は、少しだけ、微笑んでいる。

優しい、笑顔。

---

## ◆

踊りは、終わった。

拍手と歓声。彼は深く頭を下げて、舞台から去っていく。その背中が、どうしてか、遠ざかっていくのが辛かった。

私は、正しい微笑みを浮かべる。

……はずだった。

口角が、うまく動かない。胸の奥で、さっきから、何かが騒いでいる。

名前のない、感情。

それを、私は――思い出してしまいそうだった。

---

舞踏会は、まだ続く。

音楽が再び流れ、貴族たちが踊り始める。私は、また座っている。でも、心は、さっきまでと違う場所にあった。

あの踊り子は、誰?

どうして、胸が痛むの?

問いが、頭の中を巡る。答えは、出てこない。



「殿下、お飲み物を」

侍女が、声をかける。

「……ありがとう」

グラスを受け取る。

手が、少し震えている。

気づかれないように、そっと握り直す。

---

## ◆

舞踏会は、夜遅くまで続いた。

でも、私の心は、もうそこにはなかった。

あの踊り子のことばかり、考えている。

なぜ、こんなに心が揺れるのか。

なぜ、あの視線が忘れられないのか。

---

やがて、客が帰り始める。

私も、退席する許可が出る。

「お疲れさまでございました、殿下」

「……ええ」

短く答えて、部屋へ向かう。



廊下を歩きながら、ふと思う。

――あの人に、もう一度会いたい。

その想いが、胸の奥から湧き上がる。

でも、それは許されない。

王女が、踊り子に会いたいなどと。

---

部屋に戻る。

扉を閉める。

一人になる。

ようやく、息ができる。



窓辺に立つ。

中庭が見える。

月明かりに照らされて、静かな場所。

――もし、あの人がそこにいたら。

そんなことを、考えてしまう。



「……何を考えているの、私は」

自分に問いかける。

でも、答えは出ない。

ただ、胸の奥が、温かい。

こんな感覚、久しぶり。



ベッドに座る。

ドレスが、重い。

でも、脱ぐ気にならない。

まだ、余韻に浸っていたい。



あの踊り。

あの視線。

あの微笑み。

すべてが、胸に残っている。

---

そして私は、まだ知らない。

あの踊り子が、かつて、私が"生きていた証"を知る人だということを。

――明日、また会える。

そんな予感だけが、胸の奥で、静かに燃えていた。
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