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第3話(前編)「距離を置くことが、愛だと思った」
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それから一週間。
私は「良い婚約者」になるために、日々努力していた。
朝は時間通りに起きる。
ドレスは侍女の最初の提案を受け入れる。
髪型は、シンプルに。
そして――殿下の前では、笑顔を絶やさない。
「エリーゼ様、本当によろしいのですか?」
マリアが心配そうに尋ねてくる。
「このドレス、エリーゼ様はあまりお好きではないと……」
「大丈夫よ、マリア」
私は鏡の中のクリーム色のドレスを見つめる。
本当は、蒼色が着たい。
殿下の瞳の色が、着たい。
でも――
「マリアが選んでくれたものなら、何でも素敵よ」
「エリーゼ様……」
マリアの表情が曇る。
でも、これでいい。
これが、正しい婚約者の姿。
殿下に負担をかけない、良い婚約者。
王宮の庭園で、私は殿下とお茶をしていた。
「エリーゼ、そのケーキは口に合わないか?」
殿下が尋ねる。
目の前には、苺のタルトが置かれていた。
私の大好物――だった。
けれど、今日は何故か喉を通らない。
「いえ、美味しいです」
笑顔を作って、小さく一口食べる。
殿下は私をじっと見つめていた。
「……本当に?」
「はい」
「なら、もっと食べればいい」
「でも、あまり甘いものばかりというのも……」
私は曖昧に笑った。
殿下の表情が、少しだけ険しくなる。
「エリーゼ」
「はい?」
「君は最近、おかしい」
心臓が跳ねる。
「おかしい……とは?」
「君は、苺のタルトが大好きだったはずだ」
殿下が身を乗り出す。
「なのに、ほとんど手をつけていない」
「それは……」
「ドレスもそうだ。この一週間、君は一度も蒼色を選んでいない」
「……」
「髪型も、いつもシンプルだ。あの、君が時間をかけて選んでいた編み込みも、リボンも、何もない」
殿下の声に、苛立ちが滲む。
「エリーゼ。君は、一体何を我慢している」
「我慢なんて……していません」
嘘だ。
全部、我慢している。
蒼色のドレスが着たい。
髪を可愛く結いたい。
甘いものを、お腹いっぱい食べたい。
でも――それは、我儘。
悪役令嬢の、道。
「エリーゼ」
殿下が私の手を取った。
「僕に、本当のことを言ってくれ」
「……本当のこと?」
「君が何を恐れているのか。何に怯えているのか」
殿下の蒼い瞳が、私を見つめる。
ああ、この瞳。
私が一番好きな、蒼い瞳。
「殿下……」
言いかけて、やめた。
言ってはいけない。
私が『悪役令嬢の末路』を読んだことも。
自分が悪役令嬢かもしれないと恐れていることも。
殿下に嫌われたくないと、必死に我慢していることも。
「何でもないんです」
私は笑顔を作る。
「ただ、少し大人になろうと思っただけで」
「大人に?」
「はい。私ももう十七歳ですから。いつまでも子供のように、我儘ばかり言っているわけには……」
「エリーゼ」
殿下の声が、低くなった。
「君の我儘は、我儘ではない」
「でも――」
「何度言えば分かる。僕は君の、そういうところが好きなんだ」
殿下の手に、力が込められる。
「君が僕のために時間をかけて、僕のために悩んで、僕のために選んでくれる。それが――」
殿下は言葉を切った。
「それが、どれほど愛おしいか」
「……っ」
胸が、熱くなる。
涙が溢れそうになる。
でも、ダメだ。
泣いてはいけない。
殿下を困らせてはいけない。
「ありがとうございます、殿下」
私は笑顔のまま、答えた。
「殿下がそう言ってくださると、嬉しいです」
「なら――」
「でも、私はもっと良い婚約者になりたいんです」
私は殿下の手を、そっと離した。
「殿下にふさわしい、落ち着いた婚約者に」
「君は十分に――」
「まだまだです」
私は首を振る。
「だから、もう少し……時間をください」
殿下は何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。
ただ、その表情は――とても、悲しそうだった。
その夜。
私は自室で、また『悪役令嬢の末路』を読んでいた。
何度読んでも、結末は変わらない。
令嬢は婚約破棄され、国外追放される。
王子は優しかったが、最後には令嬢を見放した。
なぜなら――周囲の非難に、王子も耐えられなくなったから。
「私は……こうなりたくない」
呟いて、本を閉じる。
殿下は優しい。
私の我儘を、全て受け入れてくださる。
でも、それは――殿下の優しさに甘えているだけではないか。
本当に殿下を愛しているなら。
本当に殿下との未来を守りたいなら。
私は、変わらなくてはならない。
殿下に負担をかけない、良い婚約者に。
コンコン。
扉をノックする音がした。
「エリーゼ様、マリアです」
「どうぞ」
マリアが入ってくる。
彼女は少し躊躇った後、口を開いた。
「あの、エリーゼ様。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何?」
「エリーゼ様は……最近、お辛そうに見えます」
マリアの声が、心配そうだ。
「何か、悩み事でも……」
「ないわ」
私は笑顔で答えた。
「何もないのよ、マリア」
「ですが……」
「本当よ。ただ、少し大人になろうとしているだけ」
マリアは納得していない顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
彼女が部屋を出た後、私は窓辺に立った。
月明かりの下、王宮の塔が見える。
あそこに、殿下がいる。
会いたい。
殿下に会って、抱きしめてもらいたい。
「君のままでいい」と、もう一度言ってもらいたい。
でも――
それは、我儘。
悪役令嬢の、甘え。
「殿下……」
呟いた名前は、夜風に消えていった。
私は「良い婚約者」になるために、日々努力していた。
朝は時間通りに起きる。
ドレスは侍女の最初の提案を受け入れる。
髪型は、シンプルに。
そして――殿下の前では、笑顔を絶やさない。
「エリーゼ様、本当によろしいのですか?」
マリアが心配そうに尋ねてくる。
「このドレス、エリーゼ様はあまりお好きではないと……」
「大丈夫よ、マリア」
私は鏡の中のクリーム色のドレスを見つめる。
本当は、蒼色が着たい。
殿下の瞳の色が、着たい。
でも――
「マリアが選んでくれたものなら、何でも素敵よ」
「エリーゼ様……」
マリアの表情が曇る。
でも、これでいい。
これが、正しい婚約者の姿。
殿下に負担をかけない、良い婚約者。
王宮の庭園で、私は殿下とお茶をしていた。
「エリーゼ、そのケーキは口に合わないか?」
殿下が尋ねる。
目の前には、苺のタルトが置かれていた。
私の大好物――だった。
けれど、今日は何故か喉を通らない。
「いえ、美味しいです」
笑顔を作って、小さく一口食べる。
殿下は私をじっと見つめていた。
「……本当に?」
「はい」
「なら、もっと食べればいい」
「でも、あまり甘いものばかりというのも……」
私は曖昧に笑った。
殿下の表情が、少しだけ険しくなる。
「エリーゼ」
「はい?」
「君は最近、おかしい」
心臓が跳ねる。
「おかしい……とは?」
「君は、苺のタルトが大好きだったはずだ」
殿下が身を乗り出す。
「なのに、ほとんど手をつけていない」
「それは……」
「ドレスもそうだ。この一週間、君は一度も蒼色を選んでいない」
「……」
「髪型も、いつもシンプルだ。あの、君が時間をかけて選んでいた編み込みも、リボンも、何もない」
殿下の声に、苛立ちが滲む。
「エリーゼ。君は、一体何を我慢している」
「我慢なんて……していません」
嘘だ。
全部、我慢している。
蒼色のドレスが着たい。
髪を可愛く結いたい。
甘いものを、お腹いっぱい食べたい。
でも――それは、我儘。
悪役令嬢の、道。
「エリーゼ」
殿下が私の手を取った。
「僕に、本当のことを言ってくれ」
「……本当のこと?」
「君が何を恐れているのか。何に怯えているのか」
殿下の蒼い瞳が、私を見つめる。
ああ、この瞳。
私が一番好きな、蒼い瞳。
「殿下……」
言いかけて、やめた。
言ってはいけない。
私が『悪役令嬢の末路』を読んだことも。
自分が悪役令嬢かもしれないと恐れていることも。
殿下に嫌われたくないと、必死に我慢していることも。
「何でもないんです」
私は笑顔を作る。
「ただ、少し大人になろうと思っただけで」
「大人に?」
「はい。私ももう十七歳ですから。いつまでも子供のように、我儘ばかり言っているわけには……」
「エリーゼ」
殿下の声が、低くなった。
「君の我儘は、我儘ではない」
「でも――」
「何度言えば分かる。僕は君の、そういうところが好きなんだ」
殿下の手に、力が込められる。
「君が僕のために時間をかけて、僕のために悩んで、僕のために選んでくれる。それが――」
殿下は言葉を切った。
「それが、どれほど愛おしいか」
「……っ」
胸が、熱くなる。
涙が溢れそうになる。
でも、ダメだ。
泣いてはいけない。
殿下を困らせてはいけない。
「ありがとうございます、殿下」
私は笑顔のまま、答えた。
「殿下がそう言ってくださると、嬉しいです」
「なら――」
「でも、私はもっと良い婚約者になりたいんです」
私は殿下の手を、そっと離した。
「殿下にふさわしい、落ち着いた婚約者に」
「君は十分に――」
「まだまだです」
私は首を振る。
「だから、もう少し……時間をください」
殿下は何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。
ただ、その表情は――とても、悲しそうだった。
その夜。
私は自室で、また『悪役令嬢の末路』を読んでいた。
何度読んでも、結末は変わらない。
令嬢は婚約破棄され、国外追放される。
王子は優しかったが、最後には令嬢を見放した。
なぜなら――周囲の非難に、王子も耐えられなくなったから。
「私は……こうなりたくない」
呟いて、本を閉じる。
殿下は優しい。
私の我儘を、全て受け入れてくださる。
でも、それは――殿下の優しさに甘えているだけではないか。
本当に殿下を愛しているなら。
本当に殿下との未来を守りたいなら。
私は、変わらなくてはならない。
殿下に負担をかけない、良い婚約者に。
コンコン。
扉をノックする音がした。
「エリーゼ様、マリアです」
「どうぞ」
マリアが入ってくる。
彼女は少し躊躇った後、口を開いた。
「あの、エリーゼ様。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何?」
「エリーゼ様は……最近、お辛そうに見えます」
マリアの声が、心配そうだ。
「何か、悩み事でも……」
「ないわ」
私は笑顔で答えた。
「何もないのよ、マリア」
「ですが……」
「本当よ。ただ、少し大人になろうとしているだけ」
マリアは納得していない顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。
彼女が部屋を出た後、私は窓辺に立った。
月明かりの下、王宮の塔が見える。
あそこに、殿下がいる。
会いたい。
殿下に会って、抱きしめてもらいたい。
「君のままでいい」と、もう一度言ってもらいたい。
でも――
それは、我儘。
悪役令嬢の、甘え。
「殿下……」
呟いた名前は、夜風に消えていった。
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