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迫る毒牙

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【2】

 目の前で起きた惨劇に、彼はパニックを通り越して呆然としていた。口の端からはヨダレが垂れ、刃が刺さった太腿ふとももからは血がどくどくと流れ続けている。でも、痛みなど感じなかったし、恐怖心というものさえ、どこかに吹き飛んでしまったようだった。

 普通に進学を重ね、この時代では当たり前ともなった大学を、そこそこの成績で卒業した。中堅の企業への就職も決まり、不細工でも綺麗でもない、器量もそこまで良いわけではないが、ごくごく普通の女性と出会い、普通に結婚をして子が生まれ、そこそこの年齢で病気か衰弱で死ぬ。これが彼の人生プランだった。

 なんでも普通で良かった。だから、今夜決行しようとしていたプロポーズだって普通で良かったのだ。それなのに、わざわざ夜景の綺麗な高台の公園なんかをサプライズの場なんかにするから――。もしかして、目の前に広がる光景は、普通ではないことをしようとした罰なのかもしれない。

「あ、あの……。そいつは僕と結婚するんです。だから、その辺で止めてやってください」

 彼は涙が自分の頬を伝ったことさえ気付かず、その影に向かって懇願した。そんな彼に向けられた彼女の顔は、恐怖で引きつったままで、口の端からは鮮血が流れ出た後がある。

 ――彼女はすでに絶命していた。ほんの一瞬のできごとだった。茂みの奥から飛び出してきた影は、こちらが何事かを理解する前に、その刃を彼女の胸へと突き立てた。何が起きたのか分からず、少し困ったような顔でこちらを見た彼女の顔が、頭に焼き付いて離れない。

 闇夜からの当然の奇襲。胸に突き立てられた凶刃によって、彼女は一撃で絶命した。倒れ込む彼女を呆然と眺めていると、今度は太腿に鈍痛が走った。彼女の胸に突き立てられた刃が引き抜かれ、今度は自分の太腿へと突き立てられていたのだ。彼女の胸からは血しぶきが飛び散り、時間差で訪れた激痛に彼はうずくまった。

 抵抗のひとつくらいしたかった。けれども、あまりにも一瞬のできごとであったせいで何もできなかった。

 茂みの中へと彼女が引きずられていく。彼は痛みを堪えて這ったまま必死に追いかけ、そしてさらに非情な場面を彼は見せ付けられる。変な責任感で追いかけたりしなければ良かった――後悔先に立たずというやつだ。いや、泣きっ面に蜂か。

 絶命した彼女の服を脱がせ、その陰部にいきり立った自分のものを挿入する影の姿は、この世のものとは思えなかった。魔物だった。彼は涙を流しながら愛する人が魔物に犯される光景を見つめることしかできなかった。
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