この手に抱くぬくもりは

R

文字の大きさ
7 / 49
紅茶の香りと沈黙

7話 小さな約束、壊れる予感

しおりを挟む
レオニスが帰っていったあとも、ルシアンはしばらく部屋に立ち尽くしていた。
驚きと安堵、そしてほんの少しの戸惑いが、胸の奥で静かに交差している。

(……閉じ込められていたわけじゃなかったんだ)

たったそれだけのことなのに、肩の荷が少し下りたような気がした。
けれど——

(……レオニス様って、少し言葉が足りない方なのかもしれない)

自然と、そんな感想が浮かぶ。
初日に投げかけられた、あの冷たい言葉。

「私は今の妻を愛している。家庭を乱すつもりはない。
ただ、君は正式に“嫁いできた”以上、発情期の対応を求めるなら、それには応じるつもりだ」

あの時の冷淡さと、今夜見せた不器用な優しさ。
どうして、あれが同じ人の言葉なのか、信じられない。

(……あの人にも、余裕がなかったのかもしれない)

そう思ってみても、答えは分からない。
けれど、それでも——

ほんの少し、この場所での暮らしに「希望」のようなものを感じていた。

「……疲れたな」

小さくつぶやいて、ルシアンはベッドにもぐり込む。
力が抜けていく感覚に身を委ねながら、静かに目を閉じた。

その夜、久しぶりに夢も見ず、深く眠ることができた。



レオニスが夜更けに訪れてから、わずかな日が流れた。

ルシアンの暮らしは、驚くほど穏やかで、静かで、温かい。
それは、かつて想像すらできなかった“平穏”という名の贅沢だった。

ある日、レティーナから新しい手紙が届いた。

『またお茶をご一緒できませんか? この間お好きだと話されていたアップルパイを、焼かせていただきます』

その一文に、ルシアンは思わず目を細めた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。

(アップルパイ……楽しみだな)

自然と、頬が緩んだ。

そんなルシアンの様子を、扉口から覗いていたハンナが微笑んでいたことに、彼はまだ気づいていなかった。



その日、ルシアンは朝からどこかそわそわしていた。
レティーナとのお茶会が楽しみなのはもちろん、心を浮き立たせていた理由はもう一つ。

昨夜、レオニスから届いた一着の服と、添えられた短い手紙だった。

『この服を着て、レティーナとのお茶を楽しんでほしい』

前回のお茶会で、着る服に迷っていたことを、誰かから聞いたのだろう。
そのさりげない気遣いが、胸に沁みた。

着替え終わった頃、ハンナが迎えに来た。

「まぁ……なんて、よくお似合いなのかしら」

その一言に、ルシアンは頬を染めるしかなかった。



ハンナに連れられて向かったのは、前回と同じ、陽光と花に包まれた庭園。
白いテーブルの上には、ほんのり甘い香りのアップルパイ。
そしてその向こうには、変わらぬ優しさをたたえたレティーナの笑顔。

ルシアンの頬に、自然と笑みが浮かんだ。
かつて、こんなふうに微笑む自分がいるとは、思いもしなかったのに——。



今日のお茶会も、柔らかい時間が流れていた。

手芸の話。庭で見つけた花の話。
他愛のないやりとりが、なぜこんなにも心地いいのだろう。

ふと気づけば、まるで昔からの友人のように感じていた。

風がテーブルをそっと撫でた頃、レティーナがカップを置き、少しだけ考えるような間をおいた。

「ルシアン様……今度のお茶会に、ユリウス——私の子どもを連れてきてもよろしいでしょうか?」

その一言に、ルシアンの胸がふっと温かくなる。
驚きと、そしてそれ以上の喜びが広がった。

昔の自分なら、戸惑いのほうが勝っていたかもしれない。
(なぜ、子どもとまで……?)と。

けれど今は違った。

レティーナを信頼している今だからこそ、彼女の子ども——レオニスとの子に会えることが、ただ嬉しかった。

なにより、自分を“子どもに会わせてもいい存在”だと見てくれたことが、嬉しかった。

ルシアンは、そっと微笑み、小さく頷いた。



お茶会が終わっても、頬の熱はしばらく冷めなかった。
ユリウスに会える。
また、レティーナと時間を過ごせる。

そんなささやかな期待が、心に灯ったままだった。

けれど、それから数日が経ったある日——。

ルシアンは、本館の空気がどこか張りつめていることに気づく。
足音が速く、声に落ち着きがない。

(……何かあったの?)

言い知れぬ不安が胸をざわつかせ、気がつけば庭を通って本館の方へと歩いていた。

そこで花壇のそばにいたハンナを見つけ、思わず声をかける。

「ハンナ……なにかあったの? 本館がちょっと騒がしくて……」

ハンナは一瞬、言葉を飲み込むように目を伏せ、静かに答えた。

「——レティーナ様が、倒れられました」

その言葉は、冷たい水を浴びせられたようだった。

信じたくない。
理解したくない。

けれど、ハンナの沈んだ表情が、それが現実だと静かに告げていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

流れる星、どうかお願い

ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる) オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年 高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼 そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ ”要が幸せになりますように” オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ 王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに! 一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが お付き合いください!

無自覚オメガとオメガ嫌いの上司

蒼井梨音
BL
ベータとして生きてきた無自覚オメガの小国直樹は、オメガ嫌いの白鷹課長のいる部署に異動になった。 ビクビクしながら、なるべく関わらないように仕事をしてたのに、 ペアを組んでいた先輩が倒れてしまい、課長がサポートすることに。 そして、なぜか課長にキスされてしまい…?? 無自覚オメガ→小国直樹(24) オメガ嫌いの上司→白鷹迅(28)アルファ 第一部・完 お読みいただき、ありがとうございました。 第二部 白鷹課長と一緒に住むことになった直樹。 プロジェクトのこととか、新しくできた友だちの啓さんのこととか。 相変わらず、直樹は無自覚に迅さんに甘えています。 第三部 入籍した直樹は、今度は結婚式がしたくなりました。 第四部 入籍したものの、まだ番になってない直樹と迅さん。 直樹が取引先のアルファに目をつけられて…… ※続きもいずれ更新します。お待ちください。 直樹のイラスト、描いてもらいました。

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

奇跡に祝福を

善奈美
BL
 家族に爪弾きにされていた僕。高等部三学年に進級してすぐ、四神の一つ、西條家の後継者である彼が記憶喪失になった。運命であると僕は知っていたけど、ずっと避けていた。でも、記憶がなくなったことで僕は彼と過ごすことになった。でも、記憶が戻ったら終わり、そんな関係だった。 ※不定期更新になります。

起きたらオメガバースの世界になっていました

さくら優
BL
眞野新はテレビのニュースを見て驚愕する。当たり前のように報道される同性同士の芸能人の結婚。飛び交うα、Ωといった言葉。どうして、なんで急にオメガバースの世界になってしまったのか。 しかもその夜、誘われていた合コンに行くと、そこにいたのは女の子ではなくイケメンαのグループで――。

黒獅子の愛でる花

なこ
BL
レノアール伯爵家次男のサフィアは、伯爵家の中でもとりわけ浮いた存在だ。 中性的で神秘的なその美しさには、誰しもが息を呑んだ。 深い碧眼はどこか憂いを帯びており、見る者を惑わすと言う。 サフィアは密かに、幼馴染の侯爵家三男リヒトと将来を誓い合っていた。 しかし、その誓いを信じて疑うこともなかったサフィアとは裏腹に、リヒトは公爵家へ婿入りしてしまう。 毎日のように愛を囁き続けてきたリヒトの裏切り行為に、サフィアは困惑する。  そんなある日、複雑な想いを抱えて過ごすサフィアの元に、幼い王太子の世話係を打診する知らせが届く。 王太子は、黒獅子と呼ばれ、前国王を王座から引きずり降ろした現王と、その幼馴染である王妃との一人息子だ。 王妃は現在、病で療養中だという。 幼い王太子と、黒獅子の王、王妃の住まう王城で、サフィアはこれまで知ることのなかった様々な感情と直面する。 サフィアと黒獅子の王ライは、二人を取り巻く愛憎の渦に巻き込まれながらも、密かにゆっくりと心を通わせていくが…

前世が悪女の男は誰にも会いたくない

イケのタコ
BL
※注意 BLであり前世が女性です ーーーやってしまった。 『もういい。お前の顔は見たくない』 旦那様から罵声は一度も吐かれる事はなく、静かに拒絶された。 前世は椿という名の悪女だったが普通の男子高校生として生活を送る赤橋 新(あかはし あらた)は、二度とそんのような事ないように、心を改めて清く生きようとしていた しかし、前世からの因縁か、運命か。前世の時に結婚していた男、雪久(ゆきひさ)とどうしても会ってしまう その運命を受け入れれば、待っているの惨めな人生だと確信した赤橋は雪久からどうにか逃げる事に決める 頑張って運命を回避しようとする話です

春風の香

梅川 ノン
BL
 名門西園寺家の庶子として生まれた蒼は、病弱なオメガ。  母を早くに亡くし、父に顧みられない蒼は孤独だった。  そんな蒼に手を差し伸べたのが、北畠総合病院の医師北畠雪哉だった。  雪哉もオメガであり自力で医師になり、今は院長子息の夫になっていた。  自身の昔の姿を重ねて蒼を可愛がる雪哉は、自宅にも蒼を誘う。  雪哉の息子彰久は、蒼に一心に懐いた。蒼もそんな彰久を心から可愛がった。  3歳と15歳で出会う、受が12歳年上の歳の差オメガバースです。  オメガバースですが、独自の設定があります。ご了承ください。    番外編は二人の結婚直後と、4年後の甘い生活の二話です。それぞれ短いお話ですがお楽しみいただけると嬉しいです!

処理中です...