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第二話
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「すくわれたいなら、すくわれなきゃ」
その言葉に、頭の奥が疼いた。
八樺礼音は、とある大学の近くにある喫茶店で働いている。店の雰囲気は柔らかで、温かみがあるウッドハウス風だ。
礼音は喫茶店から少し離れたマンションで一人暮らしをしているので、逆算して八時半までには出勤の準備を整える必要がある。だから朝は六時半頃に起きて、諸々を済ませるのが日々のルーティンとなっていた。
これはそんな礼音が喫茶店にて出会った人間たちとの話であり、特に印象に残っている「彼女」の話は欠かせないだろうというのが彼の考えであった。
才一たちと出会って幾ばくか経った頃。
「Beer!!」
「あったとしても朝から呑ませる訳ないだろうが、馬鹿め」
「ヤだー!! ノまなきゃやってらんねー!!」
ぎゃーん、と甲高いエレキギターのような騒ぎ方をしているのはアイザック。その対面では才一が心底楽しそうな顔をしている。そんな常連客二人の様子に、何事かが起きているらしいぞ、と礼音は思考した。
「ハカバぁ!! サケぇ!!」
「今日のモーニングセットはスモークサーモンのオープンサンドとポテトのポタージュ、プチシュークリームです」
「ついに調理担当が製菓にまで手を出したのかな?」
「製菓……ですかね? カスタードクリーム作りがブームらしくて」
「このサケじゃなァい!!」
ばーん、と料理を避けつつテーブルに突っ伏すアイザックである。流石に可哀想になってきたので、礼音はアイザックを見下ろしつつ声をかけた。
「何かあったんですか?」
「やりたくないシゴトさせられてんの!! ブラックキギョー!! ブラックセンセー!!」
「ほう、言うじゃないか。彼への密告がお望みだと」
「ヤめて!! イイツケんのダメ!!」
「やりたくない仕事?」
「とある御令嬢の依頼でね。アイザックを一か月レンタルしているのさ」
「じ、人身売買……?」
もっと別の言葉があったとは思うが、礼音の口からこぼれ落ちたのはそんな問いかけだった。それを聞いたアイザックが涙目な顔を上げて訴える。
「ジンシンバイバイされてる!! タスけて!!」
「人聞きが悪い。レンタル彼氏ってだけじゃないか」
「先生の助手がレンタル彼氏!?」
普通に訳が解らなかった、ので、礼音は鋭いツッコミを入れた。しかして、まぁ、言葉通りだった。
レンタル彼氏とは、彼氏のふりをする商売を指す。
才一の説明によれば、才一が勤めている大学に通う御令嬢からの依頼らしい。彼氏がいないなら自分と付き合ってほしい、なんて告白をされて断ったものの、何故断るのか、どうして自分では駄目なのかとしつこく聞いてくる。それに辟易した御令嬢は、ならば彼氏を作れば良いと思い立ったものの。
「下手な人間に頼めば余計に拗れると思ったらしくてね、私の助手であるアイザックを借りたいと言ってきたんだ。面白いから承諾したよ」
「ブラックセンセー……」
よよよ、と泣き濡れているアイザックを眺めて笑っている才一である。ますますこの二人の関係性がわからないなぁと礼音が遠い目になっている中、店のドアベルがからころと鳴った。
「アイザックさんはいらっしゃるかしら?」
そのドアベルの音に勝るとも劣らぬ、軽やかで耳心地の良い声。その声を聞いたアイザックが頭を抱え、才一の笑い声が大きくなる。
振り向いた礼音が最初に抱いたのは、桜だ、という感想である。淡いピンク色のワンピースに、淡い緑色のストールを羽織った彼女は、無邪気な少女のようにも、老獪な悪女のようにも見えた。
そして礼音は自分が抱いた感想に驚いた。可愛らしい女性だ、何なら清廉な印象すらある。にも拘らず、自分は彼女に対して悪女のようだと思ってしまった。口にした訳ではないが、そこはかとなく気まずくなった礼音は、誤魔化すように声を出す。
「えーと……待ち合わせでしたか?」
「待ち合わせではないのですけれど……益江先生はよくこちらの喫茶店にいらしているとのことだったので、アイザックさんもいらっしゃるだろうと思って」
にこ、と笑った彼女は静かにアイザックへと歩み寄る。足音もなく、しずしずと。そうして、アイザックの隣に立った彼女は、その笑顔のまま再び口を開いた。
「愛々を待たせるなんて、カレピであるアナタだけですわ」
「カレピ!?」
繊細そうな御令嬢から似つかわしくない言葉が飛び出したことに驚いた礼音は、全く素のままに大きな声を上げた。
聖蓮院の、御令嬢らしい。
何をしているかはわからないが、何となく耳にしたことはある、というのが聖蓮院に対する一般人の印象だろう。というのも、聖蓮院は俗にいう財閥家であり、様々な企業を抱える一大組織であるからだ。
アイザックの隣に座ってにこにこと笑っている愛々こそが、その巨大財閥に連なる末娘、誰憚ることなく正真正銘の御令嬢であった。才一の口からそうと聞けば、なるほど気品があるように見える。礼音は少しだけ畏まったが、愛々はそんな礼音を見て小さく笑った。
「お気になさらず。ワタシのことは仏像かキリスト像だと思っていただいて結構ですわ」
「拝めと!?」
くすくす笑う愛々に、からかわれたのだと思う礼音。それにしたって独特の例えだ。世間離れしている、というのはこういうことなのかと礼音は首を振った。
とはいえ、わざわざ冗談を言ってまで自分の緊張をほぐそうとしてくれた優しさには応えねばなるまい。礼音は少し考えてから、取り敢えず十字を切ってみせた。
彼の実家は祖父の影響によりキリスト教を信仰していたが、礼音自身は何となく馴染めずにいたため、非常に曖昧でふわふわした仕草になってしまったのは御愛嬌であろう。それを見ていた愛々は、またもころころと鈴を鳴らすように笑った。
「キョーは……」
「四限に講義が入っているので、その前に図書館デートでもと」
「トショカンはカビクサいからヤだ……」
「アイザックさんは大体の場所がヤだでは? それならどこへ行っても同じですわよね?」
アイザックの言葉にも、軽やかに笑う愛々。ンアー、と情けない声を挙げたアイザックに、才一の笑い声が降り注いだ。礼音なそんな三人を見ながら、やっぱり才一とアイザックの関係性は不明であると考え込んだ。
それから数日後。
今日は朝からカフェデートですの、と笑う愛々と萎れ切ったアイザックである。この御令嬢、レンタル彼氏を存分に楽しむつもりであるらしい。何となく、アイザックから元気やらエネルギーやらを吸い取ってつやつやと輝く愛々の様子を想像した。
「本日のモーニングセットのメニューは何かしら?」
「今日のモーニングセットは、えーと……桜餅風パンケーキがメインの、アフタヌーンティー風……らしいです?」
製菓方面にブームが来ているらしいマスターの力作である。力作であるが、礼音の理解の及ばないものである。三段の、アフタヌーンティープレートというのだろうか、そういったものに細々と、様々なものが並べられている。運ぶのに難儀したので、後で苦言を呈しておこうと決意している礼音であった。
「あら、まぁ! 可愛らしいわ! とても素敵ね!」
「アッソー……」
しおしおのアイザックが適当な相槌を打つ。愛々はそんなアイザックの向かい側で、幼子のようにはしゃいでいる。礼音はそんな二人の様子を見てから、アイザックに近づいて耳打ちした。
「ワッフルチキン、今度お出ししますね」
「ウン……」
ちまっと頷いたアイザックの姿は、哀れを誘うものである。とはいえ、可愛らしい女性、しかも生粋の御令嬢とくれば、偽りとはいえ彼氏になるのは役得ではなかろうか。そんな風に思った礼音だったが、きょろりと目だけを動かしたアイザックが呟く。
「コイツ、コワいからキラい……」
礼音はきょとんとして、それからはしゃいでいる愛々を見た。愛々はそんな視線に気づき、ことりと可愛らしく首を傾げる。その見目と、アイザック曰くの怖いが結びつかず、礼音はぱちぱちとまばたきした。
事件が起きたのはそれから更に数日後だ。
アフタヌーンティー風、というのが大層お気に召したらしい愛々が、喫茶店の常連になるのは自然といえば自然な流れである。彼女はアイザックを連れて、足繁く店を訪れていた。だもので、このような事態になるのもある意味、自然といえば自然な流れだった。
「だから!! あんな怪しいヤツよりも俺の方が君に相応しいと!!」
一緒に来ていたアイザックがトイレに行った、その隙に。また、礼音が食後のコーヒーを淹れに行った、その間に。店内に駆け込んでくるなり愛々にまくし立てていたのは、いかにもキザっぽい優男である。
困ったように眉を下げている愛々に気づいているのかいないのか、男は大声で喚き続けている。アイザックが怪しいヤツだというのはちょっと擁護ができない事実ではあるのだが、それはそれとして愛々を助けなければならない。客を困らせる人間は、客ではないので。
「あの」
「どうして俺の手を取ってくれないんだ!? 君は聡明だから解るだろう!?」
爽快なまでに無視されて、心が折れそうになった礼音である。そもそも、これまでに遭遇したストーカーたちと重なる部分が多々あって、どうしてもたじたじとなってしまう。そうしている内に、男の興奮は最高潮に達したらしい。赤い顔、飛ぶ唾、そして。
「君こそが俺の救世主!! 俺が物語のヒーローなら、君はヒロイ……」
「すくわれたいの?」
す、と空気が冷えたような気がした。男と礼音は、ぎょっとして愛々の顔を見る。その顔は、笑顔だった。はりつけたような、にこにことした、そういう、笑みだった。
「すくわれたいなら、すくわれなきゃ」
「ソイツをトめろ、Graveyard!!」
礼音は、その声を聞いて反射的に動いた。男ではなく、愛々の手首を横から弾くように手の甲で叩く。そう、店の備品であるフォークを逆手に持ち、男に突き刺そうとした愛々を止めるために。
そうして、きょとんとする愛々の首に手を伸ばしかけてはっとする。今、自分は何をしようとした。否、この女を止めるならば首をもいでもまだ足りない。だって、あのときだって、そう考える頭の奥が疼いた。礼音は、己の手を引き戻して口許を押さえた。トイレから飛び出してきたアイザックは、そんな礼音を放置して愛々と男を引き離した。
その後、男は普通に警察に連行されていった。
まぁ道理である。あの男が愛々に迫り、大声で騒ぎ始めた時に通報していたマスターであった。礼音は、最近警察と関わる機会が増えてきたのではと自問して、悲しくなったので考えるのを止めた。
ちなみにマスターからは、婦女子を守ろうとする心意気を褒められ、しかしてまず通報という手段を取らなかったことを叱られた。
「店内で警察沙汰になって客足はどうだい?」
「そんなに変わりませんよ、常連の方が多いので……毎回聞かれるのには辟易しますが」
数日後、男が逮捕されたことでレンタル彼氏も終わったらしく、久々に才一とアイザックという組み合わせを見た気がする礼音である。ややうんざりした顔をする礼音に、才一が笑う。
「聖蓮院の御令嬢を害したからには、ただでは済まないだろうね」
「あの時直接手は出してませんでしたけど、余罪があったらしいですね」
「待ち伏せにつきまとい、匿名の手紙に不審な贈り物。一つ一つはそう大きな罪になりにくいけれど、積み上がればね」
それに権力者を怒らせた者の末路は悲惨なものだよ、と才一はアイザックのつむじを見下ろして続けた。テーブルにだらんと突っ伏しているアイザックは、小声で呻く。
「モっててヨかったシャインショー……」
「身分証は常に携行しておくべきだと言っているだろう」
なお、警察が最初に連れていこうとしたのは、タイミング悪く男を殴り倒して昏倒させた直後のアイザックであった。それを止めたのは、我に返った礼音と愛々。そしてアイザックが提示したシャインショーである。
「今日のモーニングセットは、ワッフルサンドで……アイザックさんの方は、ワッフルチキン風です」
「ヤッター!! アリガト、ハカバー!!」
わはー、と満面の笑みになったアイザックが飛び起きる。まぁ、めでたしめでたしなのだろうと、礼音はその笑顔を見ながら考えた。
その言葉に、頭の奥が疼いた。
八樺礼音は、とある大学の近くにある喫茶店で働いている。店の雰囲気は柔らかで、温かみがあるウッドハウス風だ。
礼音は喫茶店から少し離れたマンションで一人暮らしをしているので、逆算して八時半までには出勤の準備を整える必要がある。だから朝は六時半頃に起きて、諸々を済ませるのが日々のルーティンとなっていた。
これはそんな礼音が喫茶店にて出会った人間たちとの話であり、特に印象に残っている「彼女」の話は欠かせないだろうというのが彼の考えであった。
才一たちと出会って幾ばくか経った頃。
「Beer!!」
「あったとしても朝から呑ませる訳ないだろうが、馬鹿め」
「ヤだー!! ノまなきゃやってらんねー!!」
ぎゃーん、と甲高いエレキギターのような騒ぎ方をしているのはアイザック。その対面では才一が心底楽しそうな顔をしている。そんな常連客二人の様子に、何事かが起きているらしいぞ、と礼音は思考した。
「ハカバぁ!! サケぇ!!」
「今日のモーニングセットはスモークサーモンのオープンサンドとポテトのポタージュ、プチシュークリームです」
「ついに調理担当が製菓にまで手を出したのかな?」
「製菓……ですかね? カスタードクリーム作りがブームらしくて」
「このサケじゃなァい!!」
ばーん、と料理を避けつつテーブルに突っ伏すアイザックである。流石に可哀想になってきたので、礼音はアイザックを見下ろしつつ声をかけた。
「何かあったんですか?」
「やりたくないシゴトさせられてんの!! ブラックキギョー!! ブラックセンセー!!」
「ほう、言うじゃないか。彼への密告がお望みだと」
「ヤめて!! イイツケんのダメ!!」
「やりたくない仕事?」
「とある御令嬢の依頼でね。アイザックを一か月レンタルしているのさ」
「じ、人身売買……?」
もっと別の言葉があったとは思うが、礼音の口からこぼれ落ちたのはそんな問いかけだった。それを聞いたアイザックが涙目な顔を上げて訴える。
「ジンシンバイバイされてる!! タスけて!!」
「人聞きが悪い。レンタル彼氏ってだけじゃないか」
「先生の助手がレンタル彼氏!?」
普通に訳が解らなかった、ので、礼音は鋭いツッコミを入れた。しかして、まぁ、言葉通りだった。
レンタル彼氏とは、彼氏のふりをする商売を指す。
才一の説明によれば、才一が勤めている大学に通う御令嬢からの依頼らしい。彼氏がいないなら自分と付き合ってほしい、なんて告白をされて断ったものの、何故断るのか、どうして自分では駄目なのかとしつこく聞いてくる。それに辟易した御令嬢は、ならば彼氏を作れば良いと思い立ったものの。
「下手な人間に頼めば余計に拗れると思ったらしくてね、私の助手であるアイザックを借りたいと言ってきたんだ。面白いから承諾したよ」
「ブラックセンセー……」
よよよ、と泣き濡れているアイザックを眺めて笑っている才一である。ますますこの二人の関係性がわからないなぁと礼音が遠い目になっている中、店のドアベルがからころと鳴った。
「アイザックさんはいらっしゃるかしら?」
そのドアベルの音に勝るとも劣らぬ、軽やかで耳心地の良い声。その声を聞いたアイザックが頭を抱え、才一の笑い声が大きくなる。
振り向いた礼音が最初に抱いたのは、桜だ、という感想である。淡いピンク色のワンピースに、淡い緑色のストールを羽織った彼女は、無邪気な少女のようにも、老獪な悪女のようにも見えた。
そして礼音は自分が抱いた感想に驚いた。可愛らしい女性だ、何なら清廉な印象すらある。にも拘らず、自分は彼女に対して悪女のようだと思ってしまった。口にした訳ではないが、そこはかとなく気まずくなった礼音は、誤魔化すように声を出す。
「えーと……待ち合わせでしたか?」
「待ち合わせではないのですけれど……益江先生はよくこちらの喫茶店にいらしているとのことだったので、アイザックさんもいらっしゃるだろうと思って」
にこ、と笑った彼女は静かにアイザックへと歩み寄る。足音もなく、しずしずと。そうして、アイザックの隣に立った彼女は、その笑顔のまま再び口を開いた。
「愛々を待たせるなんて、カレピであるアナタだけですわ」
「カレピ!?」
繊細そうな御令嬢から似つかわしくない言葉が飛び出したことに驚いた礼音は、全く素のままに大きな声を上げた。
聖蓮院の、御令嬢らしい。
何をしているかはわからないが、何となく耳にしたことはある、というのが聖蓮院に対する一般人の印象だろう。というのも、聖蓮院は俗にいう財閥家であり、様々な企業を抱える一大組織であるからだ。
アイザックの隣に座ってにこにこと笑っている愛々こそが、その巨大財閥に連なる末娘、誰憚ることなく正真正銘の御令嬢であった。才一の口からそうと聞けば、なるほど気品があるように見える。礼音は少しだけ畏まったが、愛々はそんな礼音を見て小さく笑った。
「お気になさらず。ワタシのことは仏像かキリスト像だと思っていただいて結構ですわ」
「拝めと!?」
くすくす笑う愛々に、からかわれたのだと思う礼音。それにしたって独特の例えだ。世間離れしている、というのはこういうことなのかと礼音は首を振った。
とはいえ、わざわざ冗談を言ってまで自分の緊張をほぐそうとしてくれた優しさには応えねばなるまい。礼音は少し考えてから、取り敢えず十字を切ってみせた。
彼の実家は祖父の影響によりキリスト教を信仰していたが、礼音自身は何となく馴染めずにいたため、非常に曖昧でふわふわした仕草になってしまったのは御愛嬌であろう。それを見ていた愛々は、またもころころと鈴を鳴らすように笑った。
「キョーは……」
「四限に講義が入っているので、その前に図書館デートでもと」
「トショカンはカビクサいからヤだ……」
「アイザックさんは大体の場所がヤだでは? それならどこへ行っても同じですわよね?」
アイザックの言葉にも、軽やかに笑う愛々。ンアー、と情けない声を挙げたアイザックに、才一の笑い声が降り注いだ。礼音なそんな三人を見ながら、やっぱり才一とアイザックの関係性は不明であると考え込んだ。
それから数日後。
今日は朝からカフェデートですの、と笑う愛々と萎れ切ったアイザックである。この御令嬢、レンタル彼氏を存分に楽しむつもりであるらしい。何となく、アイザックから元気やらエネルギーやらを吸い取ってつやつやと輝く愛々の様子を想像した。
「本日のモーニングセットのメニューは何かしら?」
「今日のモーニングセットは、えーと……桜餅風パンケーキがメインの、アフタヌーンティー風……らしいです?」
製菓方面にブームが来ているらしいマスターの力作である。力作であるが、礼音の理解の及ばないものである。三段の、アフタヌーンティープレートというのだろうか、そういったものに細々と、様々なものが並べられている。運ぶのに難儀したので、後で苦言を呈しておこうと決意している礼音であった。
「あら、まぁ! 可愛らしいわ! とても素敵ね!」
「アッソー……」
しおしおのアイザックが適当な相槌を打つ。愛々はそんなアイザックの向かい側で、幼子のようにはしゃいでいる。礼音はそんな二人の様子を見てから、アイザックに近づいて耳打ちした。
「ワッフルチキン、今度お出ししますね」
「ウン……」
ちまっと頷いたアイザックの姿は、哀れを誘うものである。とはいえ、可愛らしい女性、しかも生粋の御令嬢とくれば、偽りとはいえ彼氏になるのは役得ではなかろうか。そんな風に思った礼音だったが、きょろりと目だけを動かしたアイザックが呟く。
「コイツ、コワいからキラい……」
礼音はきょとんとして、それからはしゃいでいる愛々を見た。愛々はそんな視線に気づき、ことりと可愛らしく首を傾げる。その見目と、アイザック曰くの怖いが結びつかず、礼音はぱちぱちとまばたきした。
事件が起きたのはそれから更に数日後だ。
アフタヌーンティー風、というのが大層お気に召したらしい愛々が、喫茶店の常連になるのは自然といえば自然な流れである。彼女はアイザックを連れて、足繁く店を訪れていた。だもので、このような事態になるのもある意味、自然といえば自然な流れだった。
「だから!! あんな怪しいヤツよりも俺の方が君に相応しいと!!」
一緒に来ていたアイザックがトイレに行った、その隙に。また、礼音が食後のコーヒーを淹れに行った、その間に。店内に駆け込んでくるなり愛々にまくし立てていたのは、いかにもキザっぽい優男である。
困ったように眉を下げている愛々に気づいているのかいないのか、男は大声で喚き続けている。アイザックが怪しいヤツだというのはちょっと擁護ができない事実ではあるのだが、それはそれとして愛々を助けなければならない。客を困らせる人間は、客ではないので。
「あの」
「どうして俺の手を取ってくれないんだ!? 君は聡明だから解るだろう!?」
爽快なまでに無視されて、心が折れそうになった礼音である。そもそも、これまでに遭遇したストーカーたちと重なる部分が多々あって、どうしてもたじたじとなってしまう。そうしている内に、男の興奮は最高潮に達したらしい。赤い顔、飛ぶ唾、そして。
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「すくわれたいの?」
す、と空気が冷えたような気がした。男と礼音は、ぎょっとして愛々の顔を見る。その顔は、笑顔だった。はりつけたような、にこにことした、そういう、笑みだった。
「すくわれたいなら、すくわれなきゃ」
「ソイツをトめろ、Graveyard!!」
礼音は、その声を聞いて反射的に動いた。男ではなく、愛々の手首を横から弾くように手の甲で叩く。そう、店の備品であるフォークを逆手に持ち、男に突き刺そうとした愛々を止めるために。
そうして、きょとんとする愛々の首に手を伸ばしかけてはっとする。今、自分は何をしようとした。否、この女を止めるならば首をもいでもまだ足りない。だって、あのときだって、そう考える頭の奥が疼いた。礼音は、己の手を引き戻して口許を押さえた。トイレから飛び出してきたアイザックは、そんな礼音を放置して愛々と男を引き離した。
その後、男は普通に警察に連行されていった。
まぁ道理である。あの男が愛々に迫り、大声で騒ぎ始めた時に通報していたマスターであった。礼音は、最近警察と関わる機会が増えてきたのではと自問して、悲しくなったので考えるのを止めた。
ちなみにマスターからは、婦女子を守ろうとする心意気を褒められ、しかしてまず通報という手段を取らなかったことを叱られた。
「店内で警察沙汰になって客足はどうだい?」
「そんなに変わりませんよ、常連の方が多いので……毎回聞かれるのには辟易しますが」
数日後、男が逮捕されたことでレンタル彼氏も終わったらしく、久々に才一とアイザックという組み合わせを見た気がする礼音である。ややうんざりした顔をする礼音に、才一が笑う。
「聖蓮院の御令嬢を害したからには、ただでは済まないだろうね」
「あの時直接手は出してませんでしたけど、余罪があったらしいですね」
「待ち伏せにつきまとい、匿名の手紙に不審な贈り物。一つ一つはそう大きな罪になりにくいけれど、積み上がればね」
それに権力者を怒らせた者の末路は悲惨なものだよ、と才一はアイザックのつむじを見下ろして続けた。テーブルにだらんと突っ伏しているアイザックは、小声で呻く。
「モっててヨかったシャインショー……」
「身分証は常に携行しておくべきだと言っているだろう」
なお、警察が最初に連れていこうとしたのは、タイミング悪く男を殴り倒して昏倒させた直後のアイザックであった。それを止めたのは、我に返った礼音と愛々。そしてアイザックが提示したシャインショーである。
「今日のモーニングセットは、ワッフルサンドで……アイザックさんの方は、ワッフルチキン風です」
「ヤッター!! アリガト、ハカバー!!」
わはー、と満面の笑みになったアイザックが飛び起きる。まぁ、めでたしめでたしなのだろうと、礼音はその笑顔を見ながら考えた。
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