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第十一話
その航路は、
しおりを挟むひとしきり笑い飛ばし、起き上がったヘルメスはそのまま座って海の地平線を眺めていた。傾いている太陽に照らされて綺麗に輝いている。陽が海に沈むところを見てみたいとも思ったが、その前に王宮に帰らねばいけないのは残念だ。
ヘルメスの隣にマリセウスも座る。
背中についている砂を優しく払ってくれる手が大きくて不覚にもドキリとしてしまい、体が跳ね上がった。思わず驚かせてしまったと思ったマリセウスは「す、すまない」と謝罪する。
いえ、そんな……と言いながら自分で砂を払いながら、照れ隠しで視線を外す。触れられた所がむず痒くて掻いてしまいたいが、逆に相手に失礼かもしれないと我慢する。
マリセウスは反射的な面倒見で触れてしまったが、あまりにも自然にそれをしたため、『好きな人に触れた』という事実が後からジワジワと来て卒倒しそうなくらいに照れてしまった。ヘルメス同様に頬を染めたが、なんとも初々しい光景に見守っている周囲もむず痒くなる。
「……明日は筋肉痛になるかもしれません。」
「久々に走ったものね。」
「ええ。もう走れないと思っていたのに、思い切り駆けてしまいましたもの。」
「もう、走れない?」
きっと『最期の全力疾走』と思っているのだろう。ヘルメスは自分の膝を愛おしそうに、寂しそうに撫でている。
また自分を封じようとしているその姿を痛ましくも淋しげにマリセウスは見つめていた。
本来の自分を取り戻したヘルメスではあったが、淑女にはこの脚質は不用の才能だ。宝物であろうと、将来のためには二度とこんな事はしてはいけない……自由と引き換えに愛する人の隣にいるというのは、そういう事なのだ。
わかっていた、それでいて決めたことなのに、なんて軽い覚悟だっただろうか。瞳が揺れるヘルメス。
もう一人の自分との決別をしようとしている、膝に置かれた手を取ってくれたのは隣にいる愛する男性だった。大きくて皺もあり、男らしくてゴツゴツしたそれが目の前に入った。
「ヘルメスは、どんな妃になりたい?」
「どんな妃って……。それは、淑女らしくてなんでもそつなくこなせて、マリス様のお役に立てるような人……です。」
「淑女らしいというと、具体的には?」
「教養があって、上品で……マナーも完璧で他人を不快にしなくて、ええっとコミュニケーションがあったり?」
そういえば、淑女淑女と口にはしているが、具体的なそのイメージがない。ただ完璧で美しい女性……しかしその輪郭がぼやけている概念でしかない事にここで初めて気がついた。
学生時代、親友の公爵令嬢ベティベルの仕草を見てきていたのだが、どうしてかそのカテゴリーには自身の中では当てはまっていない気がしていた。彼女は歯に衣を着せぬストレートな物言い……だがそれは思いやる心が感じ取れていた。ヘルメスの中の淑女像ではオブラートに包んで包んで包みまくってそれを伝えてくる、そんなイメージだったからだろう。
首を傾げながら自分の信じている淑女像を話すヘルメスに思わず笑ってしまった。
「わ、笑わないでください。」
「すまない。つい可愛らしくて……。」
「もうっ。」
そう頬を膨らませる姿がまた愛しい。こうして表情をコロコロと変わるのが本来の彼女らしさであり、それは失ってはいけない大事なものなのだ。
「その為にはどうしたらいいと考えている?」
「理想の妃になる為に、マナーも教養も知識も必要ですから学びます。」
「だから『はしたない』という理由で、走るのを辞めてしまうのかい?」
「……はい。」
「それは本当に捨てないと駄目?」
「それは……。」
長年、自分を形成した核みたいな存在だったそれと決別するのはとても辛い。しかし、いつかは手放さねばならないときが来る。それがちょうど今だった、それだけだとヘルメスは思っていた。だから捨てるのに迷いはない、そう信じていた。でも実際は、そうではなかった……。
マリセウスと走っていた時はとてもスリリングで心地よかった。こうやって切磋琢磨して高め合う関係になれたらどれだけ楽しいだろうか。これを共通の趣味にしたっていい。園芸のような土の匂いと混ざりながら和気藹々するのも、今日みたいにお互いに勝利するために全力を出すのも、きっと充実した日々を過ごせるかもしれない。
別れるべきか自問自答して迷っている最中、マリセウスは口を開いた。
「私は、ヘルメスには走り続けてほしいなぁ。」
「……ですが、そうしたらはしたないって周囲に思われるでしょうし、マリス様にもご迷惑がかかります。」
「逆に構わないよ。妻の好きなものに対してまでアレコレ嫌味を言う臣下は切り捨てるに限る。」
まるで今日の夕飯を決めるようにそう言う。私欲で王権を振り翳しているわけじゃないから安心してほしいと言うが、正直いきなりそんな発言をすれば驚くというもの。
「だって君のそれは趣味……生き甲斐だろう?」
「はい。」
「人の生き甲斐を馬鹿にするような人間は器が小さいと思わないかい?」
「ええ。十人十色と言いますし。」
「それに君は、私の『趣味は仕事』を肯定してくれたじゃないか。」
「マリス様じゃなくても肯定しますよ?誰だってやり甲斐や生き甲斐が違いますもの。」
そう考えてみると、ヘルメスは周囲に恵まれていたのかもしれない。普通、年頃の淑女は野原を駆け回ることなどしないし学園の陸上競技で男子を差し置いて優勝などしない。学園で異性に陰口を叩かれても、カートン領の領民や家族、家に仕えてくれている人々も許容してくれた。だから好きなものは好きだと胸を張れる。
「私も、魔法石と走る事が好きな方が君らしくて好きだな。」
「ぇっ。」
突然の告白に驚き、きょとんとするとマリセウスは優しく微笑んでくれた。
「私はねヘルメス、確かに王太子妃としての役目は重責だろうし身の振る舞いには気をつけないといけない、我慢だって必要だとも思っている。だけども、それはヘルメスらしさまで無くす必要はないよ。」
「そうでしょうか……。」
「そうだよ。そういうのを『公私混合』と呼ぶらしいよ、私にはわからんが。」
そりゃあ仕事が趣味だと、公私も何もあったものじゃあないでしょう。――周囲にいた護衛騎士たちは心でそう突っ込んだ。
「私はね……あの日に出会って、あの日に再会した君がとても素敵で、一緒に同じ未来を歩けると思うと嬉しくて仕方なかった。ヘルメスとなら、どんな困難な道になろうとも乗り越えられると信じているから。」
ヘルメスの手を取りながら、どこか影の入った表情をしてしまうも、それでも揺るがない決意が秘められた金色の瞳が彼女の不安に染まりかけた青空の瞳を射抜いて、その想いをつげた。
それは傲慢な願いでもある。だがとても大切な想いだと、彼は信じて疑わなかった。
「どうか、これからも君は君らしくいて欲しい。もしそれが難しくなったら、私に打ち明けてくれないかい?一緒に悩んで一緒に答えを見つけることを、どうか許してほしい。だから……君は君のまま、『ヘルメス』のままでいてくれ。」
なんて我儘なのだろうとマリセウス自身そう思った。
王太子妃としての不自由さとプレッシャーを与えておきながら、そんな彼女がせっせせと積み重ねてきている努力を無碍にでもしような口振りだ。
だがマリセウスに必要なのは『ヘルメス王太子妃』だけじゃなく、『妻のヘルメス』もまた必要なのだ。王太子妃だけなら愛がなくとも国内貴族の令嬢でも十分なのだが……それでは意味がない。
彼が王となり、これから先に行く『困難な道のり』を歩く為には、どうしても愛しい、超克の象徴である彼女ではないといけないのだ。この本心、まさに自己中心的ではあるが一途な愛情は本物ではある。
「……。」
「ヘルメス?」
「……嫌になったら、走って逃げるかもしれませんよ?」
「それなら追いかけて捕まえるよ。」
「現実逃避に魔法石ばかりにかまけますよ?」
「その時はさすがに叱るさ。」
「……はしたない趣味だって、他所から言われたら怒ってしまいますよ?」
「一緒になって怒るさ。」
「……マリス様、たまに言ってることがメチャクチャですよ。」
「滅茶苦茶になっても筋を通すように努めるよ。」
そんな問答がおかしくなったのか、ヘルメスは笑い声を上げてそれに釣られたマリセウスもまた笑い出した。
空が茜色に染まりだすまで砂浜に座って地平線を眺めながら二人は思い思いに話し込んでいた。
テレサ王妃もお喋り好きが興じて社交界に良い影響を与えていたり、デュラン国王の面倒くさがりな短所がなんだかんだで国民の為になっていたりと……特に後者はどう転じたらそうなったのかわからないのだが。
そうして自分の在り方と自身を肯定してもらえてヘルメスから憂いが消えたのだろうか、王宮でのディナーは彼女らしく表情がコロコロと変わり、その美味しそうな笑みを見ると自然と自分の皿からこっそりとポークソテー一切れを与えてしまうほど愛らしく感じられた。……うっかり餌付けてしまったことは、まぁ、両親がいないから別にいいだろう。
……などと思いつつ、マリセウスは少し罪悪感があったりする。
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