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第三十四話
届かない手がもどかしくて
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「はぁああ~……。」
目の腫れがまだ引いていないマリセウスは流水プールに身を任せて仰向けで流されていた。本来は流れに逆らって泳ぎ、基礎体力をつける運動が推薦されているのだが……アザラシだってこんなに身を任せることはしない。
あれから妻のブラウスを汚してしまった上に腫れた目を冷やすのにキリコとナタリアにこっそり伝えて、号泣してしまったことを最小限に留めてもらえたが、泣いた理由だけは何を尋ねられてもヘルメスは口にしなかった。
……また愛する人に抱えさせてしまう失態を犯してしまい、しかしながらグラットンに告げられたことは少なからず理解してくれていた。
殺そうとしたのではなく、殺されそうになったための正当防衛である。
マリセウス自身、あの日あの時の記憶がほとんど残っていない。気がつけばシグルドが止めに入り、我に返ったときには出血と返り血……呼び出した同級生の悲鳴が響いていた。
騎士学校に通っていたマリセウスは己の身分を隠して過ごしていたために過剰防衛として相手側家族に訴訟されかけたが、デュランの介入により第三者を交えた調査によって訴えられることはなかった。だがマリセウス本人は罪悪感があったため卒業間近ではあったが除籍という形で騎士学校を去ったのだ。
この事はまだヘルメスには話していない。別に話してもいいのだが……過剰防衛に至ったキッカケを話す勇気がない。あの瞬間を思い出すだけでも全細胞が凍りつくように怯えてしまう。なるべく、なるべく記憶から呼び覚まさないように丁寧に封じる……今は自衛することを優先しなければならない。
(十八の頃を話せないとなると、十の頃を話すのはもっとしんどくなりそうだ……。)
妻は優しい。きっと同情的な目で自分を見てしまう。それは嫌だ。それではまた先程のように寄りかかって甘えてしまう。対等の存在になりたいのに、若い大樹に掴まらないと満足に立ち上がれない赤子……いや、この場合は老人か。老人にはなりたくないのだ。
楕円形の流水プールに何周か流されたマリセウスは頭を出入りに使う手摺りにぶつけた時、『今日はもう何もしたくない』となり少し早めにトレーニングを切り上げることにした。
夕食はヘルメスと共にするが……あの醜態を晒した手前、いつも通りに過ごせることは出来るのだろうか不安になる。
……多分、いいや。確実に出来ないのは分かりきっているが。
*****
朝同様に夕食も夫と共に摂ったヘルメス。
消化にいいヘルシーなメニューを二人で食べていたが、今朝と違う点があるとしたら……やはり彼の元気がないことだ。
彼が予定していたトレーニング前に膝を突き合わせて話していた時に、自分が吹き込まれていた話が半分本当で半分は語弊がある事実だった。しかし夫にとっては辛い過去だったのだろう。傷の深さを物語るように恐怖で硬直してしまったのだ。
途端にいつもの頼もしい歳上の男性から弱々しい子供のような姿になるほどに……肝心なところは聞けなかったが、聞かないほうが良いだろう。無理やりに暴けばきっと、彼は壊れてしまう。
だがヘルメスに泣きつくような形で寄りかかってしまった事に気まずさを感じているのか、はたまた幼児退行したかのように縮こまった姿を見せてしまったのが情けなく思ったのか、どうも夫はギクシャクしてしまっている。
例えば昼間にやった衣装合わせの感想もどこか上の空というか、適切な言葉が浮かばず会話があまり噛み合わなかったり、無理にこちらに合わせてきて距離感が推し量れていない。
変な空気になる前にヘルメスはプールがどのような仕組みで流水しているのか話題を切り替えても、いつもならばスッと出てくる流暢な解説が出来ずに噛んでしまって落ち着こうと食後に出された紅茶をがぶ飲みしようとしたが、まだ冷めていなかったので「あづっ!!」と吹き出して咳き込んでしまったりで……。まるでお見合いで緊張しているみたいである。
「大丈夫ですか!?」
「う、うん。ごめんよ……ちょっと疲れてるのか、ぼんやりしているみたいで。」
しょんぼりとしてしまっている姿はいつもなら可愛らしく見えるはずなのに、原因が原因なだけあって今は少しばかり痛ましく見えてしまう。
(何も……出来ないのかな……。)
知らないものは調べればいい、ヘルメスはその性分で今まで生きてきた。だから魔法石やメルキア帝国の文明、神海王国ハンクスの神秘に好奇心を沸かせて知恵を得てきたのだ。だが、大切な人の過去を調べてみたいかと言われればそういうわけではない。それは墓を暴くよりも悪い事だ。
それに精神が幼くなるほどに大きなショックを受けてしまっているともなれば、これは心療の医師が立ち会わなければいけないだろう。幾ら好奇心旺盛なヘルメスだからって医学の知識はゼロに近い。素人がカウンセリングをしたって治療したことにならない上に悪化する場合もある。
だからといって、マリセウスが苦しむのは見たくない。治療を勧めればいいのだろうが……また反王太子派の人間に弱みを見せてしまう可能性だってある。しかも結婚式が間近に迫ったこの時期に、無駄な隙な見せる真似はしたくはないのだ。
夫が苦しんでいるのに、何も助けられない歯痒さと己の無力さにヘルメスは気持ちが沈んでしまう。
「……ヘルメス?」
自分の一方的な気まずさに落ち着きがなかなか戻らない事を完全に見透かされているとは気がついてない、肝心のマリセウス。鈍感ではあるものの、妻がどこか悲しんでいるのはすぐにわかる。……ヘルメスがわかりやすい性格だから、とかではなくてマリセウスは彼女にだけはとても敏感なので察することが出来るだけなのだが。
自分の挙動不審な所を見て嫌気が刺してしまったのか、それよりも会話が噛み合わないのが辛いのか……とにかく自分のせいで悲しそうな思いをさせてしまっているのは理解出来た。
「……すまない、私のせいで。」
「ぇ?あ……いえ、マリス様が悪いわけでは。」
フォローを入れてくれるも、原因は明らかにこちらにある。
妻は優しい。理解してくれているとはいえ、トレーニング中にも感じた『抱えさせてしまった』という罪悪感は拭いきれない。そんな彼女のためにも精一杯に何かしてあげたい気持ちがある。それが今はこんなにも空回りしてしまっていて情けなさがまた湧いてくる。
他人との距離感は適切に置けていると自分では思ってはいたものの、いざ伴侶相手になると接し方が異なる……というよりも大事な人だからしっかりと向き合いたい事とフォローしたい焦燥感があるせいで彼女を困らせてしまったのだとマリセウスは思い込んだ。
どうすればよかったのだろうと、彼もまた沈んでしまい……二人のテーブルは複雑な空気が包まれた。
しかしそのタイミングで地獄に仏と言わんばかりに助け舟が出された。マリセウス付きの執事だ。
「失礼します、マリセウス殿下。今よろしいでしょうか?」
「ん?ああ、構わないよ。」
執事が大事そうに持ってきたのは一通の手紙だった。
マリセウスは彼からそれを受け取ると、封筒に入っているマークと封印の紋章で誰からか一目でわかった。
ポラリス造船交易商の交易商部門会頭である従弟のジョナサンからだ。
差し出されたペーパーナイフで封を解き、中から綺麗に重ねて折られた手紙を取り出した。
「ほう、これは……。ヘルメス、君の明日の予定は空いているかい?」
「え?ええっと、午前中は披露宴に出席する来賓の方の再確認をしてマナーの復習の予定ですけれど……午後はまだ未定ですね。」
「それならよかった。これを読んでごらん。」
差し出したのは手紙の二枚目になる便箋である。ジョナサンの文字はとても上品で綺麗に綴られており、一種の芸術品にも見えてしまう。
文章に目を通すと、事務的なものだと思っていたが仲の良い友人に宛てたフランクな手紙となっていた。それをマジマジと読むとこう書かれている。
『王都の造船所にて、水流石の力を利用した帆船の試作が出来ました。よろしければ見学してくれませんか?』
「船?」
「風を帆で受けて海を進むのが今の船というのは知っているだろう。風がなければオールで漕いだりするのだけど、それだと人件費がかかる点があってね。」
現在のアスター大陸の運送業は陸路と海路、それと運河で運搬を行っている。しかし昨今、海路の方は人手不足が問題となっている。運河と比べて天候によっては航海が悪路になるケースもある上に穏やかすぎると船は進まず、波が荒れていれば人命に大きく関わる。そのため待遇がよくとも命をかけれるかと言われれば「無理」だと大抵の人間は答えるだろう。
海路そのものを無くせばいいのではとも思った者もいるだろうが、何せ大陸の問題。海岸線に暮らしている人々にとっては素早く物資が届く上に港も賑やかになって経済が回らなくなってしまったら困るのだ。そこで国王デュランと王太子マリセウスは、王妃テレサの実家を頼った経緯がある。
「水流石は主に家庭で使われているが、船にそれを取り付けてみたらどうだろうかと海運業の方々と交えた話し合いで案が浮かんで、試作してもらっていた所なんだ。」
「水流石を?だとしたら操舵をするにはかなり技術を要するのでは……。」
「私もそれについては調べていたけど、可能性があるならやってみたいと思ってね。よかったら明日、ポラリス造船所に一緒に行かないかい?」
「私が行ってもよいのですか?」
「勿論!君の知恵があれば、きっとよりよい船が出来るだろうし!」
先程とは打って変わってキラキラとした目でヘルメスを見るものだから、それに釣られて思わず「そ、そこまで申すなら」と承諾してしまった。
……この人を元気にしてくれるのは仕事なのだろうか、ヘルメスは魔法石の新しい可能性に好奇心が疼いているはずなのに、それよりも夫を励ますことも癒すことも出来ない気遣いのなさに落胆してしまっていたのだった。
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