灰を喰う男

猫熊アザラシ

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2話「特殊捜査室」

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 ドアが開いた。

 最初に気づいたのは、匂いだった。コーヒーと、タバコと、古い紙の匂いが混ざり合って、廊下とは明らかに違う空気がそこにあった。律は思わず一瞬だけ息を止めた。フロアの整然とした空気に慣れ始めていた体が、この部屋の空気を異質だと判断するのに、一秒もかからなかった。

 部屋は狭かった。デスクが二つ、向かい合わせに置かれている。壁際にはファイルが積み上がっていて、棚に収まりきらなかったものが床にも直接積まれていた。背表紙に書かれた日付を目で追うと、一番古いものは十年以上前のものだった。捨てていないのか、捨てられないのか。どちらにしても、誰かがずっとここで仕事をしてきた痕跡だった。

 窓はあるが、ブラインドが半分下りていて、光が中途半端にしか入っていない。薄暗い。雑然としている。フロアの整然とした空気とは、まるで別の場所だった。同じ建物の中にあるとは思えないほど、切り離されたような空間だった。廊下からここに踏み込んだだけで、別の場所に来たような錯覚がある。

 ただ一つだけ、妙に浮いているものがあった。デスクの端に置かれたコーヒーメーカーだ。周囲の古びた雰囲気とは不釣り合いなほど新しく、銀色の本体が薄暗い室内でひっそりと光っていた。誰かがこだわって選んだのか、あるいは誰かに贈られたのか。どちらにしても、この部屋の中で一番新しいものであることは間違いなかった。コーヒーの匂いはここから来ているのだろう。保温中のランプがオレンジ色に灯っていた。

 律がそれに気づく前に、もっと大きなものが目に入った。

 椅子に、人間が沈んでいた。

 正確には、座っているのだろう。でも、「沈んでいる」という言葉の方が合っている気がした。大きな体が、まるで椅子に溶け込むように深く腰かけている。ボサボサの髪は寝癖がそのままになっていて、顎には手入れされていない無精髭が伸びていた。スーツはよれよれで、ネクタイは大きく緩んで、ジャケットのボタンは一つも留まっていない。両腕は力なくデスクの上に置かれていて、目が、閉じている。

 寝ている。

 律は一瞬、そう判断した。それ以外の解釈が思いつかなかった。起きている人間が、あんな風に座っているはずがない。この人が、特殊捜査室の一名なのだろうか。この人が、自分の相棒になる人間なのだろうか。律は思わず視線を霧島に向けたが、霧島はドアを開けたまま、特に表情を変えることもなく部屋の奥へ声をかけた。

「喰島(くいしま)」

 特に感情のない声だった。まるで毎日やっていることのように、淡々と。驚いた様子も、困った様子も、何もない。

 反応がなかった。

 律は息を詰めた。起こした方がいいのだろうか。でも霧島が動じていないのだから、これはおそらく日常の光景なのだろう。そう思いながら待っていると、霧島はもう一度だけ言った。今度は少しだけ声を上げて。

「新しい相棒だ」

 それでも、しばらく間があった。五秒か、十秒か。律には長く感じた。本当に寝ているのかもしれない、そんな考えが頭をよぎった。このまま起きなかったらどうするのだろう。霧島はどうするつもりなのだろう。そんなことを考えていたとき、椅子の男がゆっくりと目を開けた。

 細い目だった。もともとそういう目なのか、眠そうだからそう見えるのか、判断がつかなかった。体の割に小さく見えるその目が、のろのろと律の方へ向いた。一瞥、という言葉がぴったりの、短い視線だった。値踏みするわけでも、興味を持つわけでもない。ただ確認した、というだけの視線だった。

 そのとき、男の視線が止まった。

 一瞬だけ。律の左手首のあたりで。

 それだけだった。すぐに視線は外れて、男はまた正面を向いた。律はそのことに気づかなかった。気づく余裕がなかった。初対面の相手が自分をどう見たかということに、意識が向いていたから。

「……よろしく」

 男が言った。低い声だった。ゆっくりとした、語尾が少し伸びるような話し方。それだけ言って、また目を閉じた。

 律は何か返そうとして、言葉が出なかった。よろしくお願いします、と言おうとしたのに、喉のあたりで引っかかった。この人に向かってその言葉を言うことへの、妙な違和感があった。相手がもう目を閉じているせいだろうか。それとも別の何かのせいだろうか。結局、律は何も言えないまま立っていた。

 霧島が律の隣に並んで、小声で言った。

「実績は本物だから、そこだけ信用していい」

 含みのある言い方だった。フォローなのか、警告なのか、あるいはその両方なのか。律には判断できなかった。ただ、霧島がその言葉を選んだことには、何か理由があるように感じた。実績は本物、という部分を強調したのか。そこだけ、という部分を強調したのか。どちらにしても、全部を信用しろとは言わなかった。全部ではなく、そこだけ。その言葉の選び方が、律の頭の中に引っかかった。

 霧島はそれ以上何も言わなかった。律の背中を軽く叩くこともなく、励ましの言葉をかけることもなく、ただ静かに踵を返してドアの外に出た。引き戸が閉まる音がした。

 静寂。

 律と、椅子の男だけが残された。

 コーヒーメーカーが、かすかな音を立てていた。保温中を示すランプが、オレンジ色に点灯している。それ以外に音がない。男は目を閉じたまま動かない。本当にまた眠ったのかもしれない。律はしばらくの間、ドアの近くに立ったまま動けなかった。

 どうすればいいのか、わからなかった。

 異能犯罪対策課への配属を願い続けてきた。試験の勉強をした。面接で、自分の意志を言葉にした。ここに来るまでの八年間、ずっと一直線だったつもりだった。なのに今、この部屋に立って、目を閉じたまま動かない男を前にして、律は次に何をすればいいのかがわからなかった。

 何か言った方がいいのだろうか。改めて自己紹介をした方がいいのだろうか。

 律は口を開きかけて、やめた。

 目を閉じたまま微動だにしない男に向かって話しかけることへの、妙な抵抗感があった。それに、何を話せばいいのかもわからなかった。よろしくお願いします、ともう一度言うのも間が抜けている。自己紹介をしても、相手が目を開けなければ意味がない。

 律は室内を改めて見回した。自分のデスクになるのだろうと思われる、もう一つのデスク。その上にも書類が積まれていた。片付けろということなのか、それともこれはもともとここにあったものなのか。判断がつかない。引き出しを開けてみようかと思って、やめた。今日はまだ、その段階ではない気がした。

 壁に貼られた地図が目に入った。異能犯罪の発生地点を示すピンが、いくつも刺さっている。赤いピンと、青いピンがあった。意味の違いはわからなかった。でも、数が多かった。それだけのことが、この街で起きていた。起きてきた。

 とりあえず、座ろう。

 律は自分のデスクの前に立って、椅子を引いた。その音に、男が反応した様子はなかった。律はゆっくりと腰を下ろして、積まれた書類を眺めた。それから、向かいの男を見た。

 喰島、と霧島は呼んでいた。喰島。特殊捜査室の、一名。実績は本物。

 目を閉じたまま、微動だにしない。本当に寝ているのか、起きているのかもわからない。この人間と、これから仕事をする。異能犯罪を追う。律がずっと望んできたことのはずなのに、この部屋に座った瞬間、何か想像していたものと違うという感覚があった。もっと緊張した場所を想像していた。もっと張り詰めた空気を想像していた。なのに、目の前にいるのは椅子に沈んで目を閉じた、大きな男だった。

 律は左手首に視線を落とした。時計の白い文字盤が、薄暗い部屋の中でも読み取れた。

 父も、この部屋にいたことがあるのだろうか。このデスクに座ったことがあるのだろうか。そんな問いが浮かんで、律はそれをすぐに頭の中から追い出した。今考えることではない。今日は初日だ。まず、目の前のことをやる。

 そこだけ信用していい、という言葉が、頭の中でまた繰り返された。

 そこだけ、とはどういう意味だったのだろう。実績以外の何かは、信用しなくていいということなのだろうか。それとも、実績だけを見て、他のことは気にするなということなのだろうか。どちらにしても、霧島はあの男のことを全肯定はしなかった。

 律はもう一度、向かいの男を見た。

 目が、開いていた。

 いつから開いていたのかわからなかった。気づいたら、細い目がこちらを向いていた。何を考えているのかわからない目だった。律と視線が合っても、特に何も言わなかった。ただ、見ていた。

 律は思わず背筋を伸ばした。
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