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3話「最初の会話」
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目が、開いていた。
いつから開いていたのかわからなかった。気づいたら、細い目がこちらを向いていた。律は思わず背筋を伸ばした。視線が合っても、男は何も言わなかった。ただ、見ていた。
沈黙が続いた。
どちらが先に口を開くべきなのか、律にはわからなかった。でも、このまま黙っていても何も始まらない。律は一度だけ息を吸って、口を開いた。
「改めて、紅村律と申します。本日からよろしくお願いします」
頭を下げた。角度は三十度。丁寧に、でも媚びない角度で。顔を上げると、男はまだ同じ姿勢で座っていた。何も言わない。
「異能犯罪対策課への配属を、ずっと希望していました。異能犯罪を許さない、それだけを目標にここまで来ました。至らない点も多いと思いますが、精一杯やります」
言いながら、自分の言葉が少し硬いと思った。でも、これ以外の言い方が思いつかなかった。これが今の自分の正直な気持ちだった。
男は相変わらず何も言わなかった。目を閉じてもいない。かといって、律の言葉に反応している様子もない。ただそこに座って、律を見ているのか見ていないのかもわからない目をしていた。
律は続けた。
「先ほど霧島さんから、少しだけお話を伺いました。特殊捜査室は独立した部署として動いていると。担当する案件も、通常の捜査班とは異なると。詳しいことはこれから教えていただけると思っていますが、何かお伝えしておくべきことはありますか」
これも無反応だった。
律はそこで少し迷って、それでも続けた。続けるしかなかった。
「あの、聞こえていますか」
「……聞こえてる」
男が言った。低い声だった。ゆっくりとした話し方は先ほどと変わらない。聞こえている。それだけで、他には何も言わなかった。
律は息を吐いた。聞こえているなら、なぜ何も言わないのか。なぜ相槌の一つも打たないのか。そういう人間なのだろうか。それとも、自分のことが気に入らないのだろうか。
どちらにしても、このまま終わらせるつもりはなかった。
「一つ、聞いてもいいですか」
男は何も言わなかった。でも、目がこちらを向いた。それを肯定と受け取って、律は続けた。
「異能犯罪について、どう思いますか」
問いかけた後で、律は少しだけ緊張した。この問いへの答えで、この男がどういう人間かがわかる気がした。正義感があるのかないのか。この仕事に何を見ているのか。自分と同じ方向を向いているのか。
男は少しの間、何も言わなかった。
律が返答を待ちながら、男の表情を読もうとしていたとき、男がゆっくりと口を開いた。
「まあ、仕事だし」
律は一瞬、聞き間違えたかと思った。
「……仕事だし、ですか」
「うん」
「それだけですか」
「それだけ」
短い返答だった。付け足しも、説明も、何もなかった。仕事だから捜査する。それ以上でも以下でもない、という顔をしていた。律は言葉を選ぼうとして、でも選ぶ前に口が動いた。
「異能犯罪には被害者がいます。傷ついた人がいます。それでも、ただの仕事だと思って動けるんですか」
男がゆっくりと律を見た。少しだけ、焦点が定まったような気がした。
「……それ以上でも以下でもないだろ、仕事ってのは」
「仕事だから真剣にやるというなら理解できます。でも、仕事だからそれだけ、というのは違うと思います。異能犯罪は、普通の犯罪とは違う。被害の深刻さも、被害者の受けるダメージも、桁が違う。それに向き合うのに、仕事だからというだけで十分だと思っているんですか」
言い過ぎたかもしれない、と思いながら、律は止まれなかった。これは本音だった。ずっと思ってきたことだった。異能犯罪に向き合うには、正義が必要だ。使命が必要だ。仕事だから、というだけで動ける話じゃない。
男は律の言葉を聞いていた。少なくとも、目は向いていた。でも、何も言わなかった。反論するわけでも、同意するわけでも、怒るわけでもない。ただ聞いて、そして黙っていた。
律は言葉に詰まった。
何か言い返してほしかった。反論でも、説明でも、何でもよかった。でも男は何も言わなかった。律の言葉を、どこか遠いところで受け流しているような、そんな沈黙だった。
男がポケットに手を入れた。
取り出したのは、小さなキャラメルだった。包みを外して、無造作に口に放り込む。それだけだった。律のことを見ていなかった。窓の外へ視線を向ける。ブラインドの隙間から、外の光が細く差し込んでいる。男はそこに視線を向けたまま、キャラメルを噛んでいた。
「仕事中に、お菓子を食べるんですか」
律は思わず言った。咎めるつもりではなかった。ただ、出てきた言葉がそれだった。
「腹減ったら動けない」
男が言った。窓の外を見たまま。律の方を向かないまま。それだけ言って、また黙った。
会話が、終わった。
終わったというより、男が終わらせた。続ける気がない、という空気だった。これ以上何を言っても、同じような反応が返ってくるだけだろうという気がした。
律は自分のデスクに視線を落とした。
積まれた書類が、そのままそこにあった。コーヒーメーカーのランプが、オレンジ色に灯いている。男は窓の外を見たまま動かない。キャラメルを噛む音だけが、静かな部屋の中に小さく響いていた。
この人と、本当に組むのか。
律は心の中でそう思った。思って、すぐに打ち消そうとした。でも、打ち消しきれなかった。仕事だし、という言葉が頭の中に残っていた。それ以上でも以下でもない、という言葉も。
異能犯罪を許さない。その一点だけを握ってここまで来た。父が死んだ場所で、父が果たせなかった正義を継ぐために来た。なのにそこに座るのは、仕事だからやっているとしか言わない男だった。
窓の外を見ている男の横顔を、律はもう一度だけ見た。
何を考えているのか、わからなかった。何を見ているのかも、わからなかった。ただ、窓の外に視線を向けたまま、動かなかった。
律は視線を手元に戻して、書類の一番上を手に取った。
やるしかない。それだけだ。
いつから開いていたのかわからなかった。気づいたら、細い目がこちらを向いていた。律は思わず背筋を伸ばした。視線が合っても、男は何も言わなかった。ただ、見ていた。
沈黙が続いた。
どちらが先に口を開くべきなのか、律にはわからなかった。でも、このまま黙っていても何も始まらない。律は一度だけ息を吸って、口を開いた。
「改めて、紅村律と申します。本日からよろしくお願いします」
頭を下げた。角度は三十度。丁寧に、でも媚びない角度で。顔を上げると、男はまだ同じ姿勢で座っていた。何も言わない。
「異能犯罪対策課への配属を、ずっと希望していました。異能犯罪を許さない、それだけを目標にここまで来ました。至らない点も多いと思いますが、精一杯やります」
言いながら、自分の言葉が少し硬いと思った。でも、これ以外の言い方が思いつかなかった。これが今の自分の正直な気持ちだった。
男は相変わらず何も言わなかった。目を閉じてもいない。かといって、律の言葉に反応している様子もない。ただそこに座って、律を見ているのか見ていないのかもわからない目をしていた。
律は続けた。
「先ほど霧島さんから、少しだけお話を伺いました。特殊捜査室は独立した部署として動いていると。担当する案件も、通常の捜査班とは異なると。詳しいことはこれから教えていただけると思っていますが、何かお伝えしておくべきことはありますか」
これも無反応だった。
律はそこで少し迷って、それでも続けた。続けるしかなかった。
「あの、聞こえていますか」
「……聞こえてる」
男が言った。低い声だった。ゆっくりとした話し方は先ほどと変わらない。聞こえている。それだけで、他には何も言わなかった。
律は息を吐いた。聞こえているなら、なぜ何も言わないのか。なぜ相槌の一つも打たないのか。そういう人間なのだろうか。それとも、自分のことが気に入らないのだろうか。
どちらにしても、このまま終わらせるつもりはなかった。
「一つ、聞いてもいいですか」
男は何も言わなかった。でも、目がこちらを向いた。それを肯定と受け取って、律は続けた。
「異能犯罪について、どう思いますか」
問いかけた後で、律は少しだけ緊張した。この問いへの答えで、この男がどういう人間かがわかる気がした。正義感があるのかないのか。この仕事に何を見ているのか。自分と同じ方向を向いているのか。
男は少しの間、何も言わなかった。
律が返答を待ちながら、男の表情を読もうとしていたとき、男がゆっくりと口を開いた。
「まあ、仕事だし」
律は一瞬、聞き間違えたかと思った。
「……仕事だし、ですか」
「うん」
「それだけですか」
「それだけ」
短い返答だった。付け足しも、説明も、何もなかった。仕事だから捜査する。それ以上でも以下でもない、という顔をしていた。律は言葉を選ぼうとして、でも選ぶ前に口が動いた。
「異能犯罪には被害者がいます。傷ついた人がいます。それでも、ただの仕事だと思って動けるんですか」
男がゆっくりと律を見た。少しだけ、焦点が定まったような気がした。
「……それ以上でも以下でもないだろ、仕事ってのは」
「仕事だから真剣にやるというなら理解できます。でも、仕事だからそれだけ、というのは違うと思います。異能犯罪は、普通の犯罪とは違う。被害の深刻さも、被害者の受けるダメージも、桁が違う。それに向き合うのに、仕事だからというだけで十分だと思っているんですか」
言い過ぎたかもしれない、と思いながら、律は止まれなかった。これは本音だった。ずっと思ってきたことだった。異能犯罪に向き合うには、正義が必要だ。使命が必要だ。仕事だから、というだけで動ける話じゃない。
男は律の言葉を聞いていた。少なくとも、目は向いていた。でも、何も言わなかった。反論するわけでも、同意するわけでも、怒るわけでもない。ただ聞いて、そして黙っていた。
律は言葉に詰まった。
何か言い返してほしかった。反論でも、説明でも、何でもよかった。でも男は何も言わなかった。律の言葉を、どこか遠いところで受け流しているような、そんな沈黙だった。
男がポケットに手を入れた。
取り出したのは、小さなキャラメルだった。包みを外して、無造作に口に放り込む。それだけだった。律のことを見ていなかった。窓の外へ視線を向ける。ブラインドの隙間から、外の光が細く差し込んでいる。男はそこに視線を向けたまま、キャラメルを噛んでいた。
「仕事中に、お菓子を食べるんですか」
律は思わず言った。咎めるつもりではなかった。ただ、出てきた言葉がそれだった。
「腹減ったら動けない」
男が言った。窓の外を見たまま。律の方を向かないまま。それだけ言って、また黙った。
会話が、終わった。
終わったというより、男が終わらせた。続ける気がない、という空気だった。これ以上何を言っても、同じような反応が返ってくるだけだろうという気がした。
律は自分のデスクに視線を落とした。
積まれた書類が、そのままそこにあった。コーヒーメーカーのランプが、オレンジ色に灯いている。男は窓の外を見たまま動かない。キャラメルを噛む音だけが、静かな部屋の中に小さく響いていた。
この人と、本当に組むのか。
律は心の中でそう思った。思って、すぐに打ち消そうとした。でも、打ち消しきれなかった。仕事だし、という言葉が頭の中に残っていた。それ以上でも以下でもない、という言葉も。
異能犯罪を許さない。その一点だけを握ってここまで来た。父が死んだ場所で、父が果たせなかった正義を継ぐために来た。なのにそこに座るのは、仕事だからやっているとしか言わない男だった。
窓の外を見ている男の横顔を、律はもう一度だけ見た。
何を考えているのか、わからなかった。何を見ているのかも、わからなかった。ただ、窓の外に視線を向けたまま、動かなかった。
律は視線を手元に戻して、書類の一番上を手に取った。
やるしかない。それだけだ。
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