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第1話 記憶喪失の殺人鬼

【語り部:五味空気】(6)――「貴方に死なれたら困るんです。会社の為にも。なにより、私の復讐の為にも」

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 少女と狼女がいなくなってから、どれくらい経った頃だろうか。
 予想通り襲来した飢餓感によって、俺はベッドに伏せっていた。
 少女と遭遇したのが深夜だと仮定して、狼女の『半日以上寝て』という言葉を信じるのであれば、あの路地裏からこの地下牢に至るまでの経過時間は、そろそろ丸一日となる。たった一日食事を抜いたにしては大袈裟な空腹感だった。
「いや、一日って断言はできないのか」
 路地裏で目を覚ます以前の記憶がない以上、一日以上なにも食べていない可能性だってある。というか、その可能性のほうが非常に高い。それに気がついてしまうと、余計に腹が減ってきた。冗談でなく、お腹と背中がくっつきそうである。
 だが、どれだけ食事を渇望したところで、それが望み薄であることは変わらない。どうにかして思考を食欲から遠ざけようとするが、考えないようにすればするほど意識してしまう始末である。
「ラーメンカツ丼オムライスチャーハン蕎麦うどん焼きそばカレーエビ天重スパゲッティハンバーグハンバーガーメロンパンサンドイッチホットサンドおにぎり……水……」
「お子様ランチのメニューみたいですね」
 開き直って思いつく限りの食べ物を羅列していた俺に、そんなため息交じりの相の手が入った。
「うん……?」
 見れば、そこには数時間前と同じ姿で少女が立っているではないか。
「なに、どうしたの? 尋問の続き?」
「記憶喪失の人間に、なにを訊いても無駄でしょう?」
 そうじゃなくて、と言いながら、少女は片手に持っていたビニール袋を胸の高さまで掲げる。
「お腹空いてるだろうと思ったから。これ、あげます」
「マジで?!」
「マジです」
 言うが早いが、少女は鉄格子の隙間からビニール袋をそっとこちらに入れる。その動作だけでも今の俺には神々しく映り、気がつけば少女の前にひれ伏していた。
「天使、いや、女神さま……!」
「崇めないでください気持ち悪い」
「ぐぬおう」
 直球でそう言われてしまえば仕方ない。俺は大人しく顔を上げ、ビニール袋の中身を確認することにした。中に入っていたのは、コンビニのおにぎりがふたつ。鮭と梅だ。
「嫌いなものがあったら返してください。私の明日のお昼にするので」
「ない! むしろ好物だねっ!」
「それは良かった」
 少女は満足気に頷くと、さきほど同様にパイプ椅子を持ってきて腰かける。……俺が食べ終わるまで、ここに居るつもりなのだろうか。一緒に食事をするならともかく、食べているところを一方的に見られているというのは気が重い。できれば少女には帰っていただきたいところだが、ここで少女の機嫌を損ねて食糧を奪われても敵わない。
「いただきます」
 諦めて、合掌。ペリペリと包装を破いて、大きく一口頬張る。
 すると、途端に口の中いっぱいに、海苔の素朴な風味と白米一粒一粒の絶妙な甘さ、そして塩鮭による絶対的な塩気の効いた味つけが、見事なハーモニーを奏で始める。さらに一口、もう一口と頬張ると、それは音量を増していき、まるで口内でダイナミックなクラシックが巻き起こるようであった。
「俺、生きてて良かった……日本に生まれて良かった……!」
「そうだ。お茶、要りますか?」
 感涙しながらおにぎりを頬張る俺を見事にスルーして、少女は唐突にお茶を勧めてきた。
「ああうん、貰うよ。ありが――んん?」
 少女が入れ置いたそれに、俺は言葉を失った。
 見た目はいたって普通の一リットル入りペットボトル。
 俺が注視したのは外見ではなく中身――そのいかにも薬物をふんだんに使用して生成された色に、である。素人目にも身体によろしくないお薬であることは明らかだった。少なくとも、お茶と形容して良い色合いではない。
「あのさ、これって……」
 恐る恐る尋ねる俺に、少女は嘆息して、言う。
「ここに来る途中、課長に見つかっちゃって。これは課長から『お茶』の配給だそうです。『一日一本、きっちり飲み干すように』とのことでした」
「……お茶じゃないよね、これ?」
「さあ? 私も詳しくは聞いていないので。とりあえず、一日一本は厳守してくださいね」
「うへえ……」
 そんなことを言われて、誰が言われた通りにするというのだろう。幸い、この牢屋の中にはトイレも付いている。こんな危険物は、折を見て適当に捨ててしまえば良い。
「それを飲む以外の動作をした場合も首の拘束具は発動するらしいので、下手なことはしないよう気をつけてください」
「ぐっ……」
「だからと言って飲まないで放置したら、課長直々に半殺しにしてやるとのことです」
「……」
 逆に返せば、それは致死量の毒物ではないということだ。であればこれは、薬の類なのだろう。直感的に、そう思った。恐らくは四鬼の能力を抑制するような、そんな類のものと見た。
「――うげ。まず」
 覚悟を決めて、『お茶』を口に含む。強烈な味こそしないものの、やはり薬物特有の臭いと味は、鋭利に俺の舌を刺激した。
「そうそう、その調子です」
 やる気のない拍手と共に、少女はそんな激励を飛ばす。
「ひとつ訊きたいんだけど」
 口の中に広がる薬の味を消す為におにぎりを頬張りながら、少女に問う。
「あの課長さんは、俺に食事を摂らせる気はさらさらなかったんでしょ? でも君は今、こうして俺におにぎりを提供してくれている。さっき『課長に見つかっちゃって』って言ってたってことは、本当は課長さんに内緒でここに来ようとしてたんだよね。どうして君は、俺にそこまでしてくれるわけ?」
 業務妨害の殺人鬼として捕らえている俺に親切を働く義理なんて、この少女にはない。俺を捕まえたのがこの少女だったとしても、ここまで世話を焼く理由にはならないのだ。
「貴方に死なれたら困るんです」
 果たして、少女はその漆黒の瞳で俺を射抜き、これまでで一番力の籠もった声で言う。
「会社の為にも。なにより、私の復讐の為にも」
 美しい双眸には業火の如く煮える殺意が宿っていて。
 あまりの衝撃に、目が離せなくなる。
 頭の奥底から、歓喜の声が挙がったような気がした。
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