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第二部【3章】奪われた記憶
12.理屈
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勤務時間で最後になる巡回。待機所から出てきて、俺は傍の牢獄を見て目を見開く。
薄オレンジの髪をした全裸の女が檻の隅で、本に埋もれるようにして眠っていた。頭についたネズミのような耳、俺の背丈の半分程度の身体。
悔しいが、ヨルツの予想が当たった。キティが俺の探していた人物で間違いない。すぐに声を掛けようとして、鉄格子に手を掛けてから俺は出しかけた言葉を飲み込んだ。
頭の中に流れ込んでくるように情景が次から次へと蘇る。彼女と過ごした下らなくて居心地の良い日々が、温もりが、彼女を取り上げられて別人に変えられた悔しさが、さっき起きたことのように思い出せる。
激しい眩暈のような頭痛のような感覚に俺は立っていられず鉄格子を掴んだまま膝をついた。痛みのせいか思い出した膨大な情報量のせいか知らないが、催した吐き気に俺は大きく嘔吐く。
そうか、これがハーロルトが言っていた「やり直し」だ。俺が施設を壊して、一つの区画を潰したのを人間はなかったことにしたいんだろう。そして、今度こそキティの肉体を乗っ取る気だ。
どういう技術かは知らないが、きっと人間は自分たちの都合の良い結果になるまでやり直すに違いない。キティが成長して、インストールする器として育つのを待って、また俺から取り上げる気だ。
「お前だって分かってんだろ?あの女がお前に好意を寄せたのだって、お前が暴力を振るったからだ!虐待児の心理と一緒、苛烈な暴力を振るう方に執着して承認を得ようとしてるだけさ!勘違いしてんだよ!」
ハーロルトの言葉が蘇る。キティが俺を好きになるのは、虐待の末にある勘違いがあるからだ。無視で貫いてきた今、もうキティは俺を好きだと錯覚することはないだろう。
それでいい。あの勘違いがキティを人間へと成長させる。俺が彼女と関わっただけ、情緒や感情が育って人間へと姿を近づけたように、彼女も俺と関われば人間へと成長してしまう。成長すれば、人間は意気揚々と彼女の肉体を収穫していくに違いない。ずっと明確にならなかった、キティと関わることへの危機感は、おそらく彼女を取り上げられることに対してのものだったんだろう。
音に気付いたのか、本に埋もれた彼女が薄らと目を開けた。
「ハル…?」
眠そうな目を擦りながら身体を起こす。ずっと二人で一緒に暮らしていた時からは想像もつかないほど寂しそうな声に胸がジクジクと痛んだ。
俺はまだグラつく頭のままキティの檻の扉を開けて、着ていたケープコートを彼女に向かって投げる。
「…移動だ。黙ってついて来い」
無理やり立ち上がった俺を見て、具合が悪いと感じたのか、キティがケープで身体を隠しながらすぐに駆け寄ってきた。
俺の頭に手を伸ばそうとして、届かない位置まで俺が立ち上がってしまったことに気付き、彼女は行き場のなくなったその手を、鉄格子にある俺の手に重ねた。
「大丈夫?具合悪い?おやすみしないと…」
慰めているつもりなのか、彼女は俺の手を優しく撫でる。キティの顔をなるべく見ない様に俺は視線を地面に落とした。見てもないのにキティがどんな顔をして俺を見ているかが何となくわかってしまうのが俺にとってはこの上なく酷だったように思える。
キティを連れて待機所を出て、特別房へと向かう。裸足で俺の一歩後ろを着いてくるキティは笑顔を浮かべてはいたが、以前のような元気はない。口を開かず、俯く彼女との間で妙な静寂が流れていた。
キティを特別房に案内するタイミングは、俺が思い出した記憶が正しければ、前回より日が空いていたように感じる。彼女の成長が遅くなるという俺の推察はあながち間違いでは無いのかもしれなかった。
「あっ、あの、ハル…体調もう大丈夫なの?今、お話ししていい?」
エレベーターを待つ間にキティがおずおずと話しかけてくる。俺は興味がないような顔をして、そっぽを向きながら首の口をおさえた。彼女を前にすると、首の口は本当に勝手に声を出しやがるので先手を打って予め塞いでおく。
本当は俺だって話したい。久しぶりに会うんだから顔だってちゃんと見たいし、触れ合いたい。もう一度、好きになってくれるんなら、好かれたい。
でも、また同じことを繰り返したらどうする。俺の顔を見て悲鳴を上げる彼女になって欲しくない。
キティがキティのままでいてくれるなら、関係が今までより遠く離れたものになったとしても、自分の目が届く場所で一緒に生きていけるなら、その方がマシ。たとえ場所がこの狭い施設内に限られるとしてもだ。
「キティね、ハルとお話したくて頑張って色んな本読んだんだ。ハルは映画見たりするってエドが言ってたから、一緒にそういうお話出来たらなって…」
無視を決め込む俺に、キティはか細い声で話を続ける。
またあの蛾、いらんこと話しやがったな。前よりキティの檻にある本が増えたのは、俺からの虐待がなくて暇が増えたからだと思ったが、俺との話題作りに小説を読んでいたのか。
エレベーターが到着し、俺が乗り込むとキティは急いで後に続いた。エレベーターの戸が閉まり、上の階へと上昇を始めた。
ただ黙って数を増やしていく階層を表示する画面を見つめる俺の傍らで、キティは落ち込んだように肩を落とした。
「…ねえ、場所が変わっても、ハルとはまた会える?」
目の端に映るキティの目がじわじわと涙を溜め込んでいくのに、かけてやりたい言葉も俺個人としての希望も口に出来ない。戸惑いも少しはあるだろうが…何より関わることで彼女が人に近づくのではと思うと何もしたくなかった。
普段は空気を読まない口共が何も言わないことに安心した半面、こういう時に限って勝手にだんまりしやがることに苛立ちも感じる。
今回は虐待も何もしていないのに、キティはどうして俺とそこまで関わりを持ちたがるんだろうか。キティの言動は、最後に別れた彼女よりも幼い。まだ幼体としてここに来てからそんなに経っていないのだから、当たり前ではあるだろうが、俺やヨルツのように記憶があるなら話し方も変わるんじゃないだろうか。
エレベーターを降りて、キティを入れる特別房へと向かう。1年ぶりとは言え、身体に染み付くほどに行き来した廊下だ。ホログラムからカード型の媒体に彼女の部屋のキーデータをインストールしながらでも、迷ったりしなかった。
部屋の扉を開くと、渋るようにキティが俺を見上げたまま中に入ろうとしない。
「入れ」
「ハル、その…キティね、ハルと全然お話出来なかったから、またお話したくて…」
「いーからさっさと入れ」
キティの背中を押して、無理やり中へ入れる。すると、キティは慌てたように俺の腕を掴んだ。
「や、ヤだ!ハルが来てくれること全然ないから、お返事聞きたい!ハルはキティに話しかけられるの嫌?視界にも入れたくないの?」
泣きそうだった瞳が、ついに決壊したようにボロボロと大粒の涙を零し始める。
それに気付いたとき、俺の手のひらは既に彼女の頭にあった。キティが泣きそうになるといつもこうして頭を適当に撫でまわしていた気がする。
初めて作った料理に失敗したとか、顔にでけえニキビが出来たとかそんなくだらない理由で涙ぐむキティを慰める言葉なんて、友人すらまともにできたことのねえ俺は知らない。
知らないからいつもこうやって頭を撫でまわすくらいしかやらないのに、キティはいつもそれだけで嬉しそうに笑いやがる。
頭に俺の手が乗った瞬間に、彼女の目が大きく見開かれる。頬を高揚させ、目から涙は止まらないものの、嬉しそうに口を開けて笑った。
「ハル、やっぱり優しいね」
涙を拭いながら、彼女はそう言うと頭に乗せられた俺の手を取る。両手で包み込むように俺の手を握ると、彼女は安心した子供のように無邪気に笑った。
「ハルも体調悪いのに、キティばっかりワガママ言ってごめんね。ハルもゆっくり休んで…」
柔らかくて小さな彼女の手が離れていく。ケープを持った両手を胸の前で組み、彼女は寂しそうに、それでも先ほどよりは随分と明るい笑顔で俺に小さく手を振った。
「ありがとう、ハル。また会えるの、ずっとずっとずーっと待ってるから。来てくれなくても、絶対このケープ返しに行くから」
キティは俺のケープを大事そうに抱き込んで、扉が閉まるその瞬間までずっとこちらを見ていた。
やっちまった…。キティの成長を促したかもしれないことより、彼女の期待したようなまなざしが苦しい。寂しそうな笑みが心臓のあたりをジクジクと蝕むのを感じながら俺はキティからに背を向けた。
時間を確認すると、時刻は退勤時間をとうに回っていた。俺はそのまま部屋に直帰して、前にやったようにキティについての報告書をホログラムから書き込んで、エドヴィンに確認依頼を出す。
前はこの後にキティは俺を担当に選んだはずだ。これだけ無視を続けたとは言え、つい頭を撫でてしまったせいでキティが俺を選ぶ可能性は増してしまっただろう。
本当はキティの担当がやれるなら、やりたい。あの空間の居心地の良さはわかっているが、そうもいかない。
いつものように部屋で上半身だけ制服を脱いで、冷凍ピザを食べる。冷凍ピザのチープな味はいつ食べても美味いが、キティとのことを思い出すと、そろそろ彼女が作る手作りの料理が恋しかった。どのみち時期的に、キティはまだピザは作れないだろうが。
ピザを食べ終える頃になって、指輪から着信音が鳴る。エドヴィンからだ。と、言うことは彼女が俺を担当に指名したのだろう。
「着信、確認」
俺の言葉でホログラムが目の前に展開され、通話画面にエドヴィンの写真が表示される。この通話機能も、当たり前だが人間の管理下にあるものだ。下手な話はしない方が、後々なにかと良いだろう。
「やあ、ハル。勤務時間外にごめんね。キティのことで電話したんだ」
通話に応答すると、エドヴィンが早速話し出す。やけに機嫌の良さそうなその声色が、このあとの出来事を悟らせる。
「キティの担当看守になったよ。おめで…」
「担当なんかやらねーよ。残業はごめんだ」
エドヴィンの言葉が終わるより前に俺はキティの担当を拒否する。担当になどなったら、無視を続けるなんて不可能だ。俺と過ごせば、キティはどんどん成長してしまう。
エドヴィンにキティの担当を任せるなんて腹立たしさしかないが、これは辞退以外に道はない。
俺の回答を聞いたエドヴィンは電話口で驚いたような声を出した。
「キティからのご指名だよ?ハルはまだ受け持ちを持ったことがないだろ。経験した方がいいよ」
「余計なお世話だ」
「それに、指名された看守は基本的に拒否権はないんだ。拒否するなら、上に正式な調査を依頼しなくてはならない。依頼して、正当な拒否の理由に当たらないならハルの主張は認められない」
「認められよーが、認められなかろーが俺はやらねえ」
絶対に引き受けるわけにいかない。これがあったからキティは早々に卒業候補として話題になってしまったんだ。権利があろうとなかろうと、俺にはそれしか手段がない。
電話口でエドヴィンが困ったようにため息を吐き、少しの沈黙を置いて話を続けた。
「…じゃあ、上に拒否の意をハルから伝えるかい?俺から伝えてもいいけど」
「俺から言う。何でもかんでも構うな、うっとおしい」
「そんなにキティのことが苦手かい?いい子じゃないか。ハルとも仲良くしたいってキティは…」
「うるせーなあ!」
苦手どころか、一緒に暮らしていた仲だったとは言えないし、逆に苦手だなんて思ってもないことも口に出せずに俺は会話を遮るように声を荒らげる。
「残業したくねえって言ってんだろ!余計な詮索ばっかすんな!」
「そんなに仕事が嫌い?全く、ハルはしょうがないな…」
エドヴィンは途中まで呆れたような声色で話していたが、徐々にそれは何故か得意げになっていく。
「分かったよ。キティは俺がちゃんと立派な人間に育たててあげる。頭の良い子だから、きっと成長も早いだろうしね」
キティの頭がいいことも成長が早いのもテメェよりよく知ってる。知ってるから俺は関われない。
エドヴィンは頭のぶっ飛んだやつではあるが、看守の中では穏やかで仕事熱心だからそういう意味ではこいつがキティのそばに居るのが一番安心出来る。それは頭じゃ分かってる。しかしそれとこれとは別にこいつは気に食わねえ。
「勝手に言ってろ」
これ以上会話を続けても俺が苛立つだけだ。半ば無理やり通話を切り、俺は乱暴に食べ終わった冷凍ピザの箱を潰す。苛立ちをぶつけるように力任せにぐしゃぐしゃに両手で丸めて、ゴミ箱に投げつける。受け止めきれなかったゴミ箱は、ピザの箱を咥えたまま横に倒れた。
薄オレンジの髪をした全裸の女が檻の隅で、本に埋もれるようにして眠っていた。頭についたネズミのような耳、俺の背丈の半分程度の身体。
悔しいが、ヨルツの予想が当たった。キティが俺の探していた人物で間違いない。すぐに声を掛けようとして、鉄格子に手を掛けてから俺は出しかけた言葉を飲み込んだ。
頭の中に流れ込んでくるように情景が次から次へと蘇る。彼女と過ごした下らなくて居心地の良い日々が、温もりが、彼女を取り上げられて別人に変えられた悔しさが、さっき起きたことのように思い出せる。
激しい眩暈のような頭痛のような感覚に俺は立っていられず鉄格子を掴んだまま膝をついた。痛みのせいか思い出した膨大な情報量のせいか知らないが、催した吐き気に俺は大きく嘔吐く。
そうか、これがハーロルトが言っていた「やり直し」だ。俺が施設を壊して、一つの区画を潰したのを人間はなかったことにしたいんだろう。そして、今度こそキティの肉体を乗っ取る気だ。
どういう技術かは知らないが、きっと人間は自分たちの都合の良い結果になるまでやり直すに違いない。キティが成長して、インストールする器として育つのを待って、また俺から取り上げる気だ。
「お前だって分かってんだろ?あの女がお前に好意を寄せたのだって、お前が暴力を振るったからだ!虐待児の心理と一緒、苛烈な暴力を振るう方に執着して承認を得ようとしてるだけさ!勘違いしてんだよ!」
ハーロルトの言葉が蘇る。キティが俺を好きになるのは、虐待の末にある勘違いがあるからだ。無視で貫いてきた今、もうキティは俺を好きだと錯覚することはないだろう。
それでいい。あの勘違いがキティを人間へと成長させる。俺が彼女と関わっただけ、情緒や感情が育って人間へと姿を近づけたように、彼女も俺と関われば人間へと成長してしまう。成長すれば、人間は意気揚々と彼女の肉体を収穫していくに違いない。ずっと明確にならなかった、キティと関わることへの危機感は、おそらく彼女を取り上げられることに対してのものだったんだろう。
音に気付いたのか、本に埋もれた彼女が薄らと目を開けた。
「ハル…?」
眠そうな目を擦りながら身体を起こす。ずっと二人で一緒に暮らしていた時からは想像もつかないほど寂しそうな声に胸がジクジクと痛んだ。
俺はまだグラつく頭のままキティの檻の扉を開けて、着ていたケープコートを彼女に向かって投げる。
「…移動だ。黙ってついて来い」
無理やり立ち上がった俺を見て、具合が悪いと感じたのか、キティがケープで身体を隠しながらすぐに駆け寄ってきた。
俺の頭に手を伸ばそうとして、届かない位置まで俺が立ち上がってしまったことに気付き、彼女は行き場のなくなったその手を、鉄格子にある俺の手に重ねた。
「大丈夫?具合悪い?おやすみしないと…」
慰めているつもりなのか、彼女は俺の手を優しく撫でる。キティの顔をなるべく見ない様に俺は視線を地面に落とした。見てもないのにキティがどんな顔をして俺を見ているかが何となくわかってしまうのが俺にとってはこの上なく酷だったように思える。
キティを連れて待機所を出て、特別房へと向かう。裸足で俺の一歩後ろを着いてくるキティは笑顔を浮かべてはいたが、以前のような元気はない。口を開かず、俯く彼女との間で妙な静寂が流れていた。
キティを特別房に案内するタイミングは、俺が思い出した記憶が正しければ、前回より日が空いていたように感じる。彼女の成長が遅くなるという俺の推察はあながち間違いでは無いのかもしれなかった。
「あっ、あの、ハル…体調もう大丈夫なの?今、お話ししていい?」
エレベーターを待つ間にキティがおずおずと話しかけてくる。俺は興味がないような顔をして、そっぽを向きながら首の口をおさえた。彼女を前にすると、首の口は本当に勝手に声を出しやがるので先手を打って予め塞いでおく。
本当は俺だって話したい。久しぶりに会うんだから顔だってちゃんと見たいし、触れ合いたい。もう一度、好きになってくれるんなら、好かれたい。
でも、また同じことを繰り返したらどうする。俺の顔を見て悲鳴を上げる彼女になって欲しくない。
キティがキティのままでいてくれるなら、関係が今までより遠く離れたものになったとしても、自分の目が届く場所で一緒に生きていけるなら、その方がマシ。たとえ場所がこの狭い施設内に限られるとしてもだ。
「キティね、ハルとお話したくて頑張って色んな本読んだんだ。ハルは映画見たりするってエドが言ってたから、一緒にそういうお話出来たらなって…」
無視を決め込む俺に、キティはか細い声で話を続ける。
またあの蛾、いらんこと話しやがったな。前よりキティの檻にある本が増えたのは、俺からの虐待がなくて暇が増えたからだと思ったが、俺との話題作りに小説を読んでいたのか。
エレベーターが到着し、俺が乗り込むとキティは急いで後に続いた。エレベーターの戸が閉まり、上の階へと上昇を始めた。
ただ黙って数を増やしていく階層を表示する画面を見つめる俺の傍らで、キティは落ち込んだように肩を落とした。
「…ねえ、場所が変わっても、ハルとはまた会える?」
目の端に映るキティの目がじわじわと涙を溜め込んでいくのに、かけてやりたい言葉も俺個人としての希望も口に出来ない。戸惑いも少しはあるだろうが…何より関わることで彼女が人に近づくのではと思うと何もしたくなかった。
普段は空気を読まない口共が何も言わないことに安心した半面、こういう時に限って勝手にだんまりしやがることに苛立ちも感じる。
今回は虐待も何もしていないのに、キティはどうして俺とそこまで関わりを持ちたがるんだろうか。キティの言動は、最後に別れた彼女よりも幼い。まだ幼体としてここに来てからそんなに経っていないのだから、当たり前ではあるだろうが、俺やヨルツのように記憶があるなら話し方も変わるんじゃないだろうか。
エレベーターを降りて、キティを入れる特別房へと向かう。1年ぶりとは言え、身体に染み付くほどに行き来した廊下だ。ホログラムからカード型の媒体に彼女の部屋のキーデータをインストールしながらでも、迷ったりしなかった。
部屋の扉を開くと、渋るようにキティが俺を見上げたまま中に入ろうとしない。
「入れ」
「ハル、その…キティね、ハルと全然お話出来なかったから、またお話したくて…」
「いーからさっさと入れ」
キティの背中を押して、無理やり中へ入れる。すると、キティは慌てたように俺の腕を掴んだ。
「や、ヤだ!ハルが来てくれること全然ないから、お返事聞きたい!ハルはキティに話しかけられるの嫌?視界にも入れたくないの?」
泣きそうだった瞳が、ついに決壊したようにボロボロと大粒の涙を零し始める。
それに気付いたとき、俺の手のひらは既に彼女の頭にあった。キティが泣きそうになるといつもこうして頭を適当に撫でまわしていた気がする。
初めて作った料理に失敗したとか、顔にでけえニキビが出来たとかそんなくだらない理由で涙ぐむキティを慰める言葉なんて、友人すらまともにできたことのねえ俺は知らない。
知らないからいつもこうやって頭を撫でまわすくらいしかやらないのに、キティはいつもそれだけで嬉しそうに笑いやがる。
頭に俺の手が乗った瞬間に、彼女の目が大きく見開かれる。頬を高揚させ、目から涙は止まらないものの、嬉しそうに口を開けて笑った。
「ハル、やっぱり優しいね」
涙を拭いながら、彼女はそう言うと頭に乗せられた俺の手を取る。両手で包み込むように俺の手を握ると、彼女は安心した子供のように無邪気に笑った。
「ハルも体調悪いのに、キティばっかりワガママ言ってごめんね。ハルもゆっくり休んで…」
柔らかくて小さな彼女の手が離れていく。ケープを持った両手を胸の前で組み、彼女は寂しそうに、それでも先ほどよりは随分と明るい笑顔で俺に小さく手を振った。
「ありがとう、ハル。また会えるの、ずっとずっとずーっと待ってるから。来てくれなくても、絶対このケープ返しに行くから」
キティは俺のケープを大事そうに抱き込んで、扉が閉まるその瞬間までずっとこちらを見ていた。
やっちまった…。キティの成長を促したかもしれないことより、彼女の期待したようなまなざしが苦しい。寂しそうな笑みが心臓のあたりをジクジクと蝕むのを感じながら俺はキティからに背を向けた。
時間を確認すると、時刻は退勤時間をとうに回っていた。俺はそのまま部屋に直帰して、前にやったようにキティについての報告書をホログラムから書き込んで、エドヴィンに確認依頼を出す。
前はこの後にキティは俺を担当に選んだはずだ。これだけ無視を続けたとは言え、つい頭を撫でてしまったせいでキティが俺を選ぶ可能性は増してしまっただろう。
本当はキティの担当がやれるなら、やりたい。あの空間の居心地の良さはわかっているが、そうもいかない。
いつものように部屋で上半身だけ制服を脱いで、冷凍ピザを食べる。冷凍ピザのチープな味はいつ食べても美味いが、キティとのことを思い出すと、そろそろ彼女が作る手作りの料理が恋しかった。どのみち時期的に、キティはまだピザは作れないだろうが。
ピザを食べ終える頃になって、指輪から着信音が鳴る。エドヴィンからだ。と、言うことは彼女が俺を担当に指名したのだろう。
「着信、確認」
俺の言葉でホログラムが目の前に展開され、通話画面にエドヴィンの写真が表示される。この通話機能も、当たり前だが人間の管理下にあるものだ。下手な話はしない方が、後々なにかと良いだろう。
「やあ、ハル。勤務時間外にごめんね。キティのことで電話したんだ」
通話に応答すると、エドヴィンが早速話し出す。やけに機嫌の良さそうなその声色が、このあとの出来事を悟らせる。
「キティの担当看守になったよ。おめで…」
「担当なんかやらねーよ。残業はごめんだ」
エドヴィンの言葉が終わるより前に俺はキティの担当を拒否する。担当になどなったら、無視を続けるなんて不可能だ。俺と過ごせば、キティはどんどん成長してしまう。
エドヴィンにキティの担当を任せるなんて腹立たしさしかないが、これは辞退以外に道はない。
俺の回答を聞いたエドヴィンは電話口で驚いたような声を出した。
「キティからのご指名だよ?ハルはまだ受け持ちを持ったことがないだろ。経験した方がいいよ」
「余計なお世話だ」
「それに、指名された看守は基本的に拒否権はないんだ。拒否するなら、上に正式な調査を依頼しなくてはならない。依頼して、正当な拒否の理由に当たらないならハルの主張は認められない」
「認められよーが、認められなかろーが俺はやらねえ」
絶対に引き受けるわけにいかない。これがあったからキティは早々に卒業候補として話題になってしまったんだ。権利があろうとなかろうと、俺にはそれしか手段がない。
電話口でエドヴィンが困ったようにため息を吐き、少しの沈黙を置いて話を続けた。
「…じゃあ、上に拒否の意をハルから伝えるかい?俺から伝えてもいいけど」
「俺から言う。何でもかんでも構うな、うっとおしい」
「そんなにキティのことが苦手かい?いい子じゃないか。ハルとも仲良くしたいってキティは…」
「うるせーなあ!」
苦手どころか、一緒に暮らしていた仲だったとは言えないし、逆に苦手だなんて思ってもないことも口に出せずに俺は会話を遮るように声を荒らげる。
「残業したくねえって言ってんだろ!余計な詮索ばっかすんな!」
「そんなに仕事が嫌い?全く、ハルはしょうがないな…」
エドヴィンは途中まで呆れたような声色で話していたが、徐々にそれは何故か得意げになっていく。
「分かったよ。キティは俺がちゃんと立派な人間に育たててあげる。頭の良い子だから、きっと成長も早いだろうしね」
キティの頭がいいことも成長が早いのもテメェよりよく知ってる。知ってるから俺は関われない。
エドヴィンは頭のぶっ飛んだやつではあるが、看守の中では穏やかで仕事熱心だからそういう意味ではこいつがキティのそばに居るのが一番安心出来る。それは頭じゃ分かってる。しかしそれとこれとは別にこいつは気に食わねえ。
「勝手に言ってろ」
これ以上会話を続けても俺が苛立つだけだ。半ば無理やり通話を切り、俺は乱暴に食べ終わった冷凍ピザの箱を潰す。苛立ちをぶつけるように力任せにぐしゃぐしゃに両手で丸めて、ゴミ箱に投げつける。受け止めきれなかったゴミ箱は、ピザの箱を咥えたまま横に倒れた。
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