彼に囲われるまでの一部始終

七咲陸

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理人×雅

side雅

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「田中さん」

  扉を開け、ひょこっと顔を出すとそこにいるのは年齢を重ねた女性がベッドに座っていた。
  俺の顔を見るやいなや、さっきまで集中していた顔が破顔した。

「みやちゃん。お疲れ様」
「田中さんもお疲れ様。 また集中して…休み休みやってって言ったでしょ?」

  田中さんの手にある途中の編み物は、かなり手が込んでいて素人目から見ても売り物に近い出来だと言うのがわかる。
  そんなのを一人で作るというのは根気がいるだろうに、こうしてたまに止めないと彼女は永遠にやり続けてしまうのだ。

「頭の体操にいいの」
「そりゃそうかもだけど。肩凝ってツラいって言ったの誰でしたっけ?」

  「あら、誰だったかしら」と笑って誤魔化そうとする。眉を寄せて仕方ないなと言いながら田中さんのベッドの隣にある椅子に座った。

「退院、決まったの」
「……そっか。ごめん」
「いいのよ、ありがとう。おかげで少し休めたわ」
「帰ってからまた」

  全てを言うまでもなく、彼女は帰った後の想像は出来ているようだった。被りを振って、もういいの、と言う。

「家に帰りたくないって我儘を聞いてくれたのは、貴方だけだった。巻き込んでごめんなさい」
「……ごめんね」
「本当にいいのよ。私が誰にも言わないでって頼んだせいで…貴方に辛い思いもさせたんじゃないかしら」
「それは! そんなのはどうでも良くて!」

  困ったように微笑む彼女に、それ以上は言葉に詰まってしまう。

「みやちゃん、お世話になりました。貴方のおかげで快適な入院生活になったわ。ありがとう」

  寂しそうな声と笑顔を、きっと俺は一生忘れられないだろうと思った。






  静かに退室して、扉を閉めた。ドアに額を当て、ほんの少しの痛みと冷たさが伝わる。
  その後ろから、頭をコツンと叩かれて振り返った。

「泣いてる?」
「……泣いてません」
「泣いてるじゃん」
「うるさい」

  春永先生は振り向けない俺の顔を覗き込んできた。仕方ないなぁ、と子供を見るような目で見つめられ、頭を少しだけ乱暴に撫でられた。

「病院も、ビジネスだから。慈善事業じゃない」
「分かってます」
「だから、出来ることだけしといた」

  その言葉に、ひゅっと涙が引っ込む。
  実際にはまだ潤んでいるけれど、驚いたまま春永先生を見上げた。

「田中さんの家には役所のソーシャルワーカーが訪問する手筈になってる。まぁそこで色々と必要な支援が受けられるようにしてくれるって」
「……あ…」
「最善は尽くしたと思うよ。これ以上は、踏み込むには証拠も足りないしね」
「き、気づいて」

  田中さんは恐らく家族から孤立している。虐待とまではいかないけど、恐らくそうだろうということは想像ついた。
  緩やかな虐待。田中さんは、誰にも言えず悩んでいた。入院して家族から離れて安心したように過ごす姿に不思議に思って話を聞いて知り得たことだった。

「何となくね。紫桃くんが気づいてなかったら分からなかったけど」
「……騒ぎ立ててすみませんでした。加藤先生にも、謝らないと」
「そうだねぇ。まあそれは後ででいいけど」

  白衣のポケットに手を入れたままだった春永先生は、その手を取り出し、僕の頭をぽんぽんと叩く。大きくて優しい手。鼻の奥がツンとして、また思い出したように涙が出てきてしまう。

「やめてください……職場で」

  恥ずかしくてそんな風に言ってしまう。

「職場じゃなきゃ良い?」
「……」

  言葉は出ない。でもきっと、春永先生は笑っていたから答えを知っている。

  涙は一筋。それ以上はもう出なかった。
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