人工子宮

第３章

第1話（桜空と遠夢）

35歳になった桜空と遠夢のところにもマッチングセンターから『マッチング案内
』が届いた。二人とも18歳のときに配偶子の凍結保存を行っていた。

35歳になった桜空と遠夢のところにもマッチングセンターから『マッチング案内
』が届いた。二人とも18歳のときに配偶子の凍結保存を行っていた。

桜空は18歳のとき、卵子凍結保存したあとにトルコに留学していた。イスタンブールの旧市街地区に住んで大学に通っていたが、卒業後も数年間、イスタンブールに滞在していた。

5年前に帰国し、トルコ料理店で調理担当をしていたが、ここ数年は顧客サービスの責任者を任されている。トルコはイスラム国家であるが、レストランなどではアルコールも提供されている。トルコ料理は、ヨーグルトをふんだんに使う料理として世界中に広まり、世界３大料理の１つになっている。もちろん和食も世界３大料理の１つである。週に３回はボクシングジムに通い、試合に出るわけではないがトレーニングに励んでいた。少し伸びた髪を後ろで括ったシャープな肢体と動き、目鼻立ちがしっかりした美貌は常に目立っていた。

遠夢は、教育センターで始めたボクシングで優秀な成績を収め、いまでもバンタム級の試合にときどき出ていた。普段は６０㎏以上ある体重を試合前には５６㎏以下に抑えなければならない。目的を持って計画し、試合に臨むことは苦にならなかった。自分の練習だけでなく、ジムではコーチもしていた。多弁ではないがヒトの話を良く聞くタイプで、気さくな人柄は誰からも好かれていたが、特定の相手はいなかった。

二人の両親はとも健在だったが、遠く離れて住んでいた。でも二人は、ともに両親のウエアラブル端末情報が、常時、送られてくるよう設定し、寝る前には必ず両親に連絡していた。両親が作った新鮮な野菜が、ときどきドローン便で、それぞれに届けられて来ていた。二人の共通キーワードは、『ヨーグルト』、『ボクシング』、『山登り』であった。

二人とも初めてのマッチングであったが、『マッチング相手に会う』に進んだ。

桜空はマッチングセンターで遠夢に会うなり言った。

桜空「私、凍結している卵子でしか子どもを授かれないんです」

母親が遺伝性乳がん卵巣がん症候群 と診断されたとき、桜空もBRCA遺伝子検査 を受け陽性と判定されていた。それ以来、かかさず乳がん検診や婦人科検診を受けていたが、３年前に両側卵巣に腫瘍 がみつかり、腹腔鏡手術を受けていた。医師から『腫瘤が大きかったことから正常と思われる卵巣部分をほとんど残せなかった』と聞いていた。残存卵子を推定する抗ミュラー管ホルモンAMHが低値になっていた。

遠夢「ボクもそうなんです。凍結している精子を使ってもらわないといけないんです。精子を凍結保存したときに精子が少ないと言われてるんです」

ずっともち続けていた不安な思いをお互いに伝えられたことで、二人は伴に緊張を和らげていた。これまで誰にも言ってなかった。言えなかった。けれども『マッチング相手には言わないといけない』と、マッチング案内が来てからずっと考えていた。

二人は直ぐに打ち解け、『子どもを育てるためのマッチング』のことは、いつしか忘れていた。お互いの話しぶりに相手を思う優しさを感じ取っていた。

【脚注】
遺伝性乳がん卵巣がん症候群：遺伝的に発症する乳がんや卵巣がんの病態。もし見つかったときには、姉妹や娘など家系上にある人にも発症や保因のリスクがあると考えられる

BRCA遺伝子検査：遺伝性乳がん卵巣がん症候群を診断するための遺伝子検査。BRCAⅠとBRCAⅡを採血して調べる。陽性であっても、必ず発症するわけではないが発症リスクは高いと考えられ、検診の間隔を狭めることや予防的に手術を行うことも考慮される

腫瘍：細胞が過剰に増殖してできる組織塊（新生物）。良性と悪性があり、悪性なものとして「がん」や「肉腫」などがある

腹腔鏡手術：内視鏡で腹腔内を５㎜程度の太さのピンセット鉗子（手元の大きな動きでピンセット先端が動く）など数本の鉗子（手元の大きな動きで先端が動くハサミなど）を使って手術する。婦人科の手術では腸などの内臓が観察の邪魔にならないよう骨盤高位（骨盤を挙げ頭の方を下げる）体勢で全身麻酔下に行う。

抗ミュラー管ホルモンAMH：原始卵胞から胞状卵胞に達するまでの卵胞が造るホルモン。このホルモン値が高値であれば予備的な卵巣機能は良好と考えられ、低値であれば、予備的な卵巣機能は良くないと考えられる。血液を採取して調べるが今のところ保険適応外の検査である。胎生期には精巣で造られた、このホルモンによってミュラー管（旁中腎管）の発育が抑えられ、さらに男性ホルモンの影響でウオルフ管（中腎管）が発育することによって、男性型の内性器が形成される