人工子宮

木森木林(きもりきりん)

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第3章

第8話(人工子宮での出産)

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着床診断の結果は陽性であった。

着床とは、子宮内膜に受精卵が埋もれ込むことを言う。妊娠成立した子宮内膜のことを脱落膜と言うようになる。この脱落膜は、受精卵が造る羊膜や絨毛膜と一体となって卵膜を造る。この卵膜の胎児側表面の羊膜からは羊水が分泌され、この羊水に浮かんだ状態で胎児は成長することになる。

卵膜の一部は肥厚増殖して胎盤になる。この胎盤の脱落膜と絨毛膜の間には、絨毛間腔と言う母体の血液が豊富に流れる場所が形成される。絨毛には胎児の血液が流れている。この細かな根のような絨毛は、絨毛間腔に浸ったような状態で、絨毛間腔の母体血から必要な酸素や栄養分を取り込み、不要となった炭酸ガスや廃棄物を母体血に送り返す。

着床から1週間後には羊水が溜まった胎嚢が、2週間後には児心拍が超音波検査で確認できるようになる。さらに1ヶ月後には胎児の頭臀長 は2㎝以上になり胎動も観察される。この立体的画像が得られる超音波検査は、侵襲なく、いつでも行うことができる。

出生前遺伝学的検査をするかどうか確認されたが二人は検査を断った。どんなことがあっても自分たちで育てることしか二人の頭になかった。

この人工子宮が置かれている部屋は耐震免震構造になっている。また、人工子宮は、床に置かれているのではなく上から吊り下げられた格好で、母体環境により近いユリカゴ状態になっている。もちろん互いがぶつからないよう設計されている。部屋は薄暗く、さらに子宮内と同じような環境を創り出すため人工子宮は遮光素材の布で被われている。また、親からのメッセージや親が選んだ音楽が流されている。

培養環境は、総て自動制御システムによって管理され、停電やセキュリティー対策は万全である。胎児の状態は、超音波検査だけでなく、心拍数計測や培養液を採取しての検査を適宜に行うことができる。これら検査は無侵襲で随時行えるので、異常の早期発見が可能で、色々な疾患の治療も可能になっている。

桜空は仕事を続けていた。もちろんボクシングジムでの練習も欠かさなかった。定期的に血小板検査も受けていたが、症状もなく日常生活を何一つ変える必要はなかった。いつもと少し違ったのは、頻繁に人工子宮センターを訪れ、また送られてくる映像とデータを頻回にチェックしていることだった。また遠夢も同じで、二人は連れ立って何回もセンターを訪れていた。



二人の胎児は順調に発育し、妊娠22週には500gに達した。その後も順調に発育し、妊娠37週を迎えていた。推定体重3200gで肺機能も十分に成熟している検査結果であった。分娩の期日と時間が分娩センターから二人に通知されてきた。

分娩予定日の2ヶ月前に二人は山に行った。佐紀、詩歩理、准平、嘉音も一緒だった、佐紀が弛緩出血で、詩歩理が羊水栓塞で、桜空が流産で、入院していたときにセンターで出会っていたのだ。とくに共通の趣味が山登りであったこともあり、退院後も仲よくしていた。

上高地から涸沢カールを抜け、北穂高を目指していた。ゴロゴロとした岩場が続く。それぞれリュックを背負いシッカリした足取りで進む。幾つかの鎖場や梯子を通りトラバースを渡り、頂上に着く。晴れ渡った空。南には涸沢、奥穂高、西穂高、北には南岳、中岳、槍ヶ岳の稜線が連なって見えている。登山仲間の6人は、笑顔を見合わせ、また、それぞれに「この景色」、「このトキ」を楽しんでいた・

桜空と遠夢は、人工子宮分娩を公表するかどうか迷っていた。『元気に生まれるとは限らない』、『生まれた赤ちゃんが社会から疎外されるかもしれない』、でも、『自分達のように人工子宮を必要とする人はいる』、『マッチングが、そうであったように皆で情報を共有して検証していくしかない』、『なにより自分達の子どもに伝える必要がある』、そう思うようになっていた。家族や山登り仲間も応援し、勇気づけていてくれていた。

二人は出産の日に家族や友達を招くことにした。『家族や親戚や友達が集まって、婚姻契約を交わすカップルを祝福する祝賀会』といったことがむかしはあったらしい。山登りから2ヶ月の今日、桜空と遠夢の家族や親戚と友達が一同に会していた。もうすぐパーティが始まろうとしている。桜空の母が、傍にいた遠夢の母に話しかけた。

桜空の母「今日は本当におめでたい日ですね。色々と心配しましたが、これでやっと一安心です」

遠夢の母「そうですよね。私たちには考えもつかないことですものね。いくら心配しなくて良いと言われても心配で、心配で」

母親たちだけでなく、二人の父親、家族、親戚、友達たち、みんな笑顔で話し合っている。そんな中、桜空と遠夢の二人は、やや緊張した面持ちで挨拶に回っていた。参加者の中には勿論、佐紀、詩歩理、准平、嘉音の山登り仲間もいた。

会場の中央スクリーンには分娩室の映像が映し出されている。胎児が入った人工子宮が固定金具から外され、移動用の循環システムに切り換えられ分娩室に運ばれる。分娩室では、助産師と看護ロボと新生児科医が待ち受けている。部屋は、やや薄暗い。遮光していた布が取り除かれ、部屋の照明は明るくされた。人工子宮の上蓋が外される。スポンジ状の液体の中に、卵膜に包まれ羊水に浮かんだ胎児が見える。元気に身体を動かしている。新生児科医は、多孔性粒子を少し掻き分け、胎盤を避けるようにしながら卵膜が直接見えるようにした。いよいよ出産だ。

新生児科医はコッヘルで卵膜を掴んで破る。助産師が胎児の頚部と足を支えながら羊水が溜まった袋から赤ちゃんを取り出した。一瞬の間をおいて「オギャー」と赤ちゃんが泣き声を挙げた。新生児科医は素早く臍帯を2本のコッヘルで挟み、その間を切断した。分娩は無事に完了した。赤ちゃんは、このあと新生児室の保育器でしばらく観察されることになる。

赤ちゃんが生まれた。元気そうに泣いている。

全員「おめでとう」

全員「よかったね」

会場にいた全員が、新しい生命の誕生に感動する。桜空と遠夢は、涙を浮かべた顔を見合わせ、それから抱き合った。すぐにも赤ちゃんを抱きたい。だが、それは赤ちゃんが少し環境に慣れてからだ。

春空と遠夢の間に生まれた女の子は「あかり」と名付けられた。
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