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第7章
第18話 カスミソウ
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王都騎士団の食堂では、三食の決められた時間を外れると、軽食やドリンクが有料で提供される。
ミレーヌはセルフサービスのホットコーヒーを二つ、トレーに乗せてテーブルへと運んだ。
そのうちの一つをセルジュの前にそっと置き、自分も向かいの席に腰を下ろす。
しばし、沈黙が流れた。
ベアトリスのようにうまく話を切り出すことはできない。
というより、何を喋ればよいのか分からなかった。
思わず声をかけたのは──いまにも消え入りそうなほど儚げなセルジュの小さな背中を、見るに見かねたからだ。
この様子からすれば、重大なことが起きているのは間違いない。
もしそれがガーランドに関わるのなら、利用する好機とも言えるだろう。
だが……そんな気は、まったく起きなかった。
セルジュを踏み台にしてガーランドを陥れるなど、どうしても憚られたのだ。
「あの……冷めないうちに、どうぞ」
ミレーヌがそう勧めると、セルジュは小さく頷き、カップを手に取った。
指先はかすかに震えていた。
──何か、あったのですか?
喉まで言葉はこみ上げる。
けれど、それを口にすれば彼女をさらに追い詰めてしまう気がして……声にはならなかった。
だから、まったく関係のないことを口にすることにした。
「セルジュ様、演劇がお好きなんですよね。
私も……物語を考えるのが好きで。下手なんですけど。
よかったら、聞いていただけますか?」
伏せられていたセルジュの睫毛が、わずかに揺れる。
小さく頷いた──気がした。
ミレーヌは、少し安心して言葉を続ける。
「外の世界には、エルフの住む国があるんです。
そこで、あるお宅に招かれて、コロッケをごちそうになるんです。その家の子供たちと一緒に」
「……エルフが……コロッケを?」
不思議そうに首をかしげる。
「そうなんです。しかも、その家のお父さん──見た目は子供なのに大酒飲み。家事には指一本動かさなくて、セクハラ発言ばっかりなんですよ。
お母さんはすごい美人で、いつもニコニコしてるんですけど……怒ると魔法で悪徳セールスマンを撃退しちゃうんです。私、もうびっくりしちゃって」
そうして、ミレーヌはエルフ国での体験を、まるで物語を語るように話し始めた。
「えぇ?……ふふ、それはひどいね。谷底に落としちゃうなんて」
セルジュの口元に、次第に笑みが戻っていく。
「でも、私も魔法が使えたらなーって。
もう、でっかい雷がバーンって! ああ、きっとスッキリするんだろうなー」
気がつけば、ミレーヌの口調から敬語は消えていた。
目をきらめかせ、身振り手ぶりを交えながら──エルフの魔法使いの武勇伝を、楽しげにまくしたてていた。
やがて、ひとしきり話し終えると、
「……という物語なんです。ぜんっぜんリアリティないですよね」
そう言って、いたずらっぽく舌をちょこんと出してみせる。
セルジュはくすくすと笑いながら、コーヒーを一口飲む。
「ミレーヌさんに、こんな才能があったなんて知らなかったな。
私、もっと堅い人かと思ってたの。成績優秀で、ベアトリスさんの隣でいつも凛としていて……」
その口調は、いつものボソボソとしたものではなく、どこか柔らかさを帯びていた。
極度の緊張しいである彼女だが──家族や親しい友人の前では、きっとこんなふうに話すのだろう。
そんなセルジュの言葉に、ミレーヌも自然と頬をゆるめる。
「そんな……私なんて、ベアトリス様に認めてもらうことばかり考えてて。
もう、こう──まっすぐ! だったんです」
そう言って、両手で自分の顔を挟むようなしぐさをしてみせる。
セルジュは、相変わらず楽しげな笑みを浮かべていた。
「でも、最近はそれじゃダメなんだって……。
ベアトリス様のことは尊敬しています。だから、依存じゃなくて……なんていうか、同じ地点に立ちたいなって」
ふいに顔を翳らせたミレーヌを、セルジュはじっと見つめた。
その目元には、優しげな光が浮かんでいる。
「そうなんだ……。ミレーヌさんって、すごいな。
私なんて、いつまでもオドオドしてばかりで。こんな性格、ほんと嫌になっちゃう」
ミレーヌは照れたように手を振る。
「いえ、そんな、全然。
私、細かいことが苦手で、いつもセリーナに怒られているんです。
セルジュ様のことを見習いなさいって。丁寧にやりなさいって。
騎士団を支えているのは、あの方の努力だって……本当にそう思います」
その言葉に、セルジュは軽く頬を染める。
「え……そんなこと言われたの初めて……嬉しいな」
はにかむ笑顔が、カスミソウのように淡く咲いた。
ミレーヌは思う。
もし自分が男だったら──きっと、放っておかないのに。
目を離したら風に散ってしまいそうな、可憐で小さな花。
胸がきゅっと締め付けられた。
──やがて、セルジュがぽつりと呟く。
「ありがとう、ミレーヌさん。
心配してくれて……ちょっと、不安なことが多かったから……。
ごめんなさい、それは言えないんだけど」
ミレーヌは首を横に振った。
「いえ。セルジュ様も大任のあるお方。差し出がましい真似をしました」
その言葉に、セルジュは顔を伏せ、小さな声で囁くように言った。
「あの……お願いしてもいい?」
ミレーヌが小首をかしげると、セルジュは続ける。
「“様”はいらないの。
そういうの……実は恥ずかしくて。公式のときはきちんとしないと団長に怒られちゃうんだけど」
ミレーヌは静かに微笑む。
「はい、セルジュさん。
私、誤解していました。もしかして人嫌いなのかなって……でも、こんなにも可愛らしいなんて」
その一言に、セルジュの顔は真っ赤になった。
「そ、そそ、そんな……ミレーヌさん!」
思わず声を上げる。
そして視線が重なり──自然と二人のあいだに笑みがこぼれた。
***
「こんなに笑ったの……久しぶり。楽しかったわ、ミレーヌさん」
食堂を出て、別れの言葉を交わす。
「またお話したいです。演劇の物語、聞かせてもらえませんか。
セリーナの読む本は、ちょっと少女趣味すぎて話が合わないんですよね~。
私、サスペンスが好きなんですけど」
すっかり軽口になっているミレーヌ。
その背に、不意に声がかかった。
「……お好みに合わなくて悪かったわ」
ギクリとして振り返ると、眼鏡を押し上げるセリーナの姿。
「えっ……戻ってきたの? お疲れ様。
……って、どちら様?」
視線の先にはセリーナとリュシアン、そして見知らぬ女性。
セリーナは問いを無視し、背筋をピシッと伸ばす。
「失礼いたしました、セルジュ様。
こちら、魔法指南のミア先生です。
ベアトリス様はヴィエール隊の全滅を受け、騎士団の魔法実技強化を検討しておられます。そのため、高名な精霊契約術師をお招きしました」
セルジュはきょとんと目を瞬かせる。
「精霊契約術師……その方が?」
ミアは目立つ学生服のような普段着から、いまは騎士団の制服を着せられていた。
セルジュはどこかで見た気がしながらも、思い出せずにいる。
セリーナはミアに向き直り、セルジュを紹介する。
「先生、こちらは騎士団長付き秘書官、“上級騎士”のセルジュ様です」
──くれぐれも失礼のないように。
念押しの意味を込めて、“上級騎士”に強いアクセントを置いた。
だが、その意図はまったく伝わっていなかった。
「おっす! 偉大な精霊契約術師でっす、よろぴく~。
あたし、リュシアンの魔法の家庭教師? まあ、そんな感じかな。
こいつが少しでも使いものになればいいんだけどねー。どうだろ? ははっ」
ヘラヘラ笑うミアに、セリーナは思わず剣の柄へ手を伸ばしかける。
だが今は──上官の前だ。
「精霊契約術師……魔法……すごい……。
私、噂や物語でしか聞いたことなくて……よろしくお願いしますね」
セルジュはペコリと頭を下げた。
ミアは両腕を頭の後ろに回し、「まあまあ、畏まんなくていいから~」と気楽に応じる。
やり取りを眺めていたミレーヌは、セリーナの放つ怒気に気づき、こめかみに汗がつっと流れた。
慌てて取り繕うように言葉を挟んだ。
「ま、まあ。先生もお疲れだと思いますし……。それでは失礼します」
軽く会釈し、ミアたちを促すようにしてそそくさと退散する。
残されたセルジュは、ひとりぽつんと立ち尽くす。
けれど、食堂に入る前とは違い──その顔には微笑みが浮かんでいた。
ほんの少しだけ、不安の影が薄らいだように見えた。
ミレーヌはセルフサービスのホットコーヒーを二つ、トレーに乗せてテーブルへと運んだ。
そのうちの一つをセルジュの前にそっと置き、自分も向かいの席に腰を下ろす。
しばし、沈黙が流れた。
ベアトリスのようにうまく話を切り出すことはできない。
というより、何を喋ればよいのか分からなかった。
思わず声をかけたのは──いまにも消え入りそうなほど儚げなセルジュの小さな背中を、見るに見かねたからだ。
この様子からすれば、重大なことが起きているのは間違いない。
もしそれがガーランドに関わるのなら、利用する好機とも言えるだろう。
だが……そんな気は、まったく起きなかった。
セルジュを踏み台にしてガーランドを陥れるなど、どうしても憚られたのだ。
「あの……冷めないうちに、どうぞ」
ミレーヌがそう勧めると、セルジュは小さく頷き、カップを手に取った。
指先はかすかに震えていた。
──何か、あったのですか?
喉まで言葉はこみ上げる。
けれど、それを口にすれば彼女をさらに追い詰めてしまう気がして……声にはならなかった。
だから、まったく関係のないことを口にすることにした。
「セルジュ様、演劇がお好きなんですよね。
私も……物語を考えるのが好きで。下手なんですけど。
よかったら、聞いていただけますか?」
伏せられていたセルジュの睫毛が、わずかに揺れる。
小さく頷いた──気がした。
ミレーヌは、少し安心して言葉を続ける。
「外の世界には、エルフの住む国があるんです。
そこで、あるお宅に招かれて、コロッケをごちそうになるんです。その家の子供たちと一緒に」
「……エルフが……コロッケを?」
不思議そうに首をかしげる。
「そうなんです。しかも、その家のお父さん──見た目は子供なのに大酒飲み。家事には指一本動かさなくて、セクハラ発言ばっかりなんですよ。
お母さんはすごい美人で、いつもニコニコしてるんですけど……怒ると魔法で悪徳セールスマンを撃退しちゃうんです。私、もうびっくりしちゃって」
そうして、ミレーヌはエルフ国での体験を、まるで物語を語るように話し始めた。
「えぇ?……ふふ、それはひどいね。谷底に落としちゃうなんて」
セルジュの口元に、次第に笑みが戻っていく。
「でも、私も魔法が使えたらなーって。
もう、でっかい雷がバーンって! ああ、きっとスッキリするんだろうなー」
気がつけば、ミレーヌの口調から敬語は消えていた。
目をきらめかせ、身振り手ぶりを交えながら──エルフの魔法使いの武勇伝を、楽しげにまくしたてていた。
やがて、ひとしきり話し終えると、
「……という物語なんです。ぜんっぜんリアリティないですよね」
そう言って、いたずらっぽく舌をちょこんと出してみせる。
セルジュはくすくすと笑いながら、コーヒーを一口飲む。
「ミレーヌさんに、こんな才能があったなんて知らなかったな。
私、もっと堅い人かと思ってたの。成績優秀で、ベアトリスさんの隣でいつも凛としていて……」
その口調は、いつものボソボソとしたものではなく、どこか柔らかさを帯びていた。
極度の緊張しいである彼女だが──家族や親しい友人の前では、きっとこんなふうに話すのだろう。
そんなセルジュの言葉に、ミレーヌも自然と頬をゆるめる。
「そんな……私なんて、ベアトリス様に認めてもらうことばかり考えてて。
もう、こう──まっすぐ! だったんです」
そう言って、両手で自分の顔を挟むようなしぐさをしてみせる。
セルジュは、相変わらず楽しげな笑みを浮かべていた。
「でも、最近はそれじゃダメなんだって……。
ベアトリス様のことは尊敬しています。だから、依存じゃなくて……なんていうか、同じ地点に立ちたいなって」
ふいに顔を翳らせたミレーヌを、セルジュはじっと見つめた。
その目元には、優しげな光が浮かんでいる。
「そうなんだ……。ミレーヌさんって、すごいな。
私なんて、いつまでもオドオドしてばかりで。こんな性格、ほんと嫌になっちゃう」
ミレーヌは照れたように手を振る。
「いえ、そんな、全然。
私、細かいことが苦手で、いつもセリーナに怒られているんです。
セルジュ様のことを見習いなさいって。丁寧にやりなさいって。
騎士団を支えているのは、あの方の努力だって……本当にそう思います」
その言葉に、セルジュは軽く頬を染める。
「え……そんなこと言われたの初めて……嬉しいな」
はにかむ笑顔が、カスミソウのように淡く咲いた。
ミレーヌは思う。
もし自分が男だったら──きっと、放っておかないのに。
目を離したら風に散ってしまいそうな、可憐で小さな花。
胸がきゅっと締め付けられた。
──やがて、セルジュがぽつりと呟く。
「ありがとう、ミレーヌさん。
心配してくれて……ちょっと、不安なことが多かったから……。
ごめんなさい、それは言えないんだけど」
ミレーヌは首を横に振った。
「いえ。セルジュ様も大任のあるお方。差し出がましい真似をしました」
その言葉に、セルジュは顔を伏せ、小さな声で囁くように言った。
「あの……お願いしてもいい?」
ミレーヌが小首をかしげると、セルジュは続ける。
「“様”はいらないの。
そういうの……実は恥ずかしくて。公式のときはきちんとしないと団長に怒られちゃうんだけど」
ミレーヌは静かに微笑む。
「はい、セルジュさん。
私、誤解していました。もしかして人嫌いなのかなって……でも、こんなにも可愛らしいなんて」
その一言に、セルジュの顔は真っ赤になった。
「そ、そそ、そんな……ミレーヌさん!」
思わず声を上げる。
そして視線が重なり──自然と二人のあいだに笑みがこぼれた。
***
「こんなに笑ったの……久しぶり。楽しかったわ、ミレーヌさん」
食堂を出て、別れの言葉を交わす。
「またお話したいです。演劇の物語、聞かせてもらえませんか。
セリーナの読む本は、ちょっと少女趣味すぎて話が合わないんですよね~。
私、サスペンスが好きなんですけど」
すっかり軽口になっているミレーヌ。
その背に、不意に声がかかった。
「……お好みに合わなくて悪かったわ」
ギクリとして振り返ると、眼鏡を押し上げるセリーナの姿。
「えっ……戻ってきたの? お疲れ様。
……って、どちら様?」
視線の先にはセリーナとリュシアン、そして見知らぬ女性。
セリーナは問いを無視し、背筋をピシッと伸ばす。
「失礼いたしました、セルジュ様。
こちら、魔法指南のミア先生です。
ベアトリス様はヴィエール隊の全滅を受け、騎士団の魔法実技強化を検討しておられます。そのため、高名な精霊契約術師をお招きしました」
セルジュはきょとんと目を瞬かせる。
「精霊契約術師……その方が?」
ミアは目立つ学生服のような普段着から、いまは騎士団の制服を着せられていた。
セルジュはどこかで見た気がしながらも、思い出せずにいる。
セリーナはミアに向き直り、セルジュを紹介する。
「先生、こちらは騎士団長付き秘書官、“上級騎士”のセルジュ様です」
──くれぐれも失礼のないように。
念押しの意味を込めて、“上級騎士”に強いアクセントを置いた。
だが、その意図はまったく伝わっていなかった。
「おっす! 偉大な精霊契約術師でっす、よろぴく~。
あたし、リュシアンの魔法の家庭教師? まあ、そんな感じかな。
こいつが少しでも使いものになればいいんだけどねー。どうだろ? ははっ」
ヘラヘラ笑うミアに、セリーナは思わず剣の柄へ手を伸ばしかける。
だが今は──上官の前だ。
「精霊契約術師……魔法……すごい……。
私、噂や物語でしか聞いたことなくて……よろしくお願いしますね」
セルジュはペコリと頭を下げた。
ミアは両腕を頭の後ろに回し、「まあまあ、畏まんなくていいから~」と気楽に応じる。
やり取りを眺めていたミレーヌは、セリーナの放つ怒気に気づき、こめかみに汗がつっと流れた。
慌てて取り繕うように言葉を挟んだ。
「ま、まあ。先生もお疲れだと思いますし……。それでは失礼します」
軽く会釈し、ミアたちを促すようにしてそそくさと退散する。
残されたセルジュは、ひとりぽつんと立ち尽くす。
けれど、食堂に入る前とは違い──その顔には微笑みが浮かんでいた。
ほんの少しだけ、不安の影が薄らいだように見えた。
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