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第7話:リオのやらかしと執筆
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しかし、九十位という順位は、まるで沼のようだった。
カトラは朝昼晩、兎の神様に祈る。彼女たちはみんな小さな植木鉢を持っていて、力があればその稲はすくすくと育ち、大きな粒の米がとれる。その速度は、季節も時間も関係ない。実力があれば、たった一日でも成果が出ているとはっきりわかる。そしてその出来で、次の順位が決まる。
来る日も来る日も、カトラは兎の像の前で祈る。リオも負けじと、カトラの鉢植えを磨き上げ、一番日当たりの良い場所を確保するために、他の側付きたちと場所取り合戦を繰り広げた。それでも、カトラの稲は沈黙し続けた。青々として枯れるそぶりはないが、育っている様子もない。
上位の巫女たちの稲が放つような、内側から溢れ出るような輝きや、茎が太くなるような力強さが、カトラの稲には現れない。
「難しいなあ……何がいけないんだろう」
ある夕暮れ、広間に掲示された順位表を見上げて、カトラがぽつりとこぼした。木札に書かれた『九十』の数字は、もう一ヶ月も変わっていない。そのすぐ横で、五十台の順位にいる巫女たちが、たわわに実り始めた稲穂を見せびらかすように談笑している。彼女たちの稲からは、甘い香りが漂ってくるようだった。
「必死さが足りないのかな?」
カトラはそう思い付き、夜明け前に起き出し、月明かりの下で頭を垂れる。リオも付き合って起きていたが、カトラの背中が日に日に小さくなっていくようで、見ていられなかった。
部屋に戻ると、カトラは大の字になって畳に転がった。
「ダメだあ。あたし、才能ないのかも。兎の神様、あたしの声なんて飽きちゃったんだよ」
「そんなことないよ。神様だって、たまには耳が遠くなるときがあるんだよ」
リオは励ますが、言葉が空回りする。カトラは天井の木目をじっと見つめたまま、弱々しく笑った。
「一の位になって、初頭村を見つけるなんて、夢のまた夢だったのかな」
その言葉が、リオの胸に突き刺さった。カトラは自分のためではなく、リオとの約束のために、こんなにすり減っている。このままではいけない。真面目にやっているだけでは、あの分厚い壁のような上位陣には勝てない。何か、特別なきっかけが必要だ。神様を振り向かせるような、強烈な何かが。
リオは龍の置物を手に入れてきた。町へ買い出しに出かけたとき、土産物屋で売っていた陶器の龍だ。息を吹きかけ、手を合わせてみることにした。
「龍よ、龍。聞こえたら返事してぇ」
置物は真ん中から割れた。乱暴な返事だと思いながら、胸は嬉しさでいっぱいだった。慌てて欠片を集めて捨てる。そうしながら、これは使えるかもしれない、とリオは考えた。
兎は龍の隣の神様だから、仲がいいはずだ。リオはカトラが祈っているその後ろで、自分もじっと祈りを捧げてみることにした。
すると、カトラの稲はぐんぐん伸び、稲穂が垂れるほどにたくさんの米を付けた。
「すごい! リオ、これはすごいよ!」
カトラは誰も見ていないことを確認しては、リオにニコニコ顔でそう言った。ほどなくして、カトラは二十八位にまで上った。
広間では、他の巫女たちが遠巻きにカトラを見ているのがわかった。称賛の眼差しではない。不審と、妬みと、そして恐れが混じった目だ。
それから十九位になった頃、全てのからくりが露見してしまった。
「カトラねえさんは側付きにいんちきさせてる」
そんな噂が飛ぶようになった。リオは憤る。
「あいつら、あんなことばっかり言って」
カトラはバツが悪そうに言う。
「ま、ほんとのことだし。でも、それをやっちゃダメなんて誰も言ってないからなあ」
「そうだよ、ダメならダメって書いておいてくれないと」
ところがリオとカトラは呼び出され、九位の巫女にため息をつかれることになった。彼女は消えりそうに繊細な声で、「巫女本人の地力がわかりませんと」と二人を教え諭した。
こうなると、まさに打つ手なしだ。カトラの稲を育てる方法を考えると、リオの頭はぐるぐるする。カトラは宮の畳に寝転がってぼやいた。
「あーあ。リオが巫女さんだったらな。あたしじゃ、そんなに偉くなれそうにないよ」
リオが祈るのをやめると、稲穂の育ちもぐっと悪くなった。カトラは四十一位にまで後退、長いため息が漏れるようになっていた。
カトラの愚痴を聞きながら、リオはじっと考えて言った。
「ねえ、兎の神様に何が好きか聞いてみてよ」
「話なんか、あたしじゃできないよ」
そこでリオは、自分が兎の神様に話しかけてみようか、という気分になった。巫女たちは暗黙の了解というか、遠慮のようなもので、自分の神様以外に手を合わせない。しかしリオの龍の神様は、兎の稲穂を育ててくれた。ならば、少し話しかけるくらいいいのではないか。
さっそくカトラの置物を借りて、畳の真ん中に置いてみる。
「ねえ、大丈夫かなあ、こんなことして。浮気みたいな感じにならない? 龍の神様が嫉妬するんじゃないかなあ」
「私の神様は、そんな感じじゃなかったもん。できることをやるしかないでしょ」
リオは、生意気な小さな龍のことを思いだしながら言い、そして合掌した。
「兎の神様。あなたの神様の好きな物を教えてぇ」
すると、兎の置物がほんの少しだけ宙に浮かんだ。胡散臭そうなものを見る目だったカトラが、はっと息を呑む。そして、置物はコテンと横倒しに転がった。二人は顔を見合わせた。
「カトラ、これどういう意味?」
「全然わかんないよ。何か聞こえた?」
「特に何も……」
「神様に向かって舐めた口を叩くんじゃねえ、ってことかも?」
そこでリオは兎の神様が好きな物を、今度は龍の神様に聞いてみることを思いついて、さっそくまた手を合わせた。
「龍よ、龍。兎の神様が好きな物を教えてぇ」
カトラがぎょっとした顔をしている。龍の置物は、ふう、と息を吐いた。リオにはそう感じた。そして頭に浮かんだのは、初頭村の小さな龍がうごめく姿で、それはなんだか拗ねたような感覚を思い起こさせた。
リオは顔を上げて言った。
「よくわかんない。拗ねてるのかな」
「やっぱりそうじゃん。ねえ、やっぱりそうなんだよ。自分以外の神様に祈るなんて、嫉妬しないわけないよ。謝った方がいいって」
リオは飾り切りしたニンジンなどの急ごしらえの供え物を用意して、龍の神様に手を合わせて謝った。すると頭に浮かぶのは、初頭村のリオの家の外観だった。それは先ほどよりも色づいて、土の匂いまで感じられ、懐かしさに胸がきゅっとするほどだった。
「どういう意味なんだろう……」
「拗ねちゃったから教えてくれないのかもよ」
カトラがうなずきながら言う。
みんな、どうしているのだろうか。リオは父親と、三人の弟たちのことを思った。目を閉じると、瞼の裏に焼き付いた光景が、現実よりも鮮やかに脈打っていた。
宮の畳は青く、い草の良い香りがする。でもリオの鼻の奥に蘇ったのは、古巣の家の土間の匂いだった。湿った土と、長年燻された煤の匂いだ。そして、わずかに残った味噌の酸っぱいような香りだ。
ここの暮らしは快適だ。雨漏りなどないし、すきま風も入ってこない。食事は温かく、飢えることなど想像もできない。そしてその快適さが、初頭村の記憶を少しずつ、薄皮を剥ぐように消していることに、リオは気付いてしまった。
ごめん。薄情だったよ。貧しくて、汚くて、寒くて、惨めだけれど、そこには確かに私たちの『暮らし』があるというのに。
リオは紙を引き寄せ、筆を走らせた。初めは絵を描こうとして、涙が紙に落ちて、墨が滲んだ。滲んだ黒い染みは、まるで初頭村の空を覆う、あの重たい黒雲のように見えた。会いたい。父ちゃんに会いたい。弟たちに会いたい。
筆は線を引き、やがてそれが文字になった。ウトという祖母がいたこと、末の子のために乳をもらいに行ったり、とうもろこしの汁を用意したりしたこと、サツマイモ泥棒の話……とりとめなく書き綴った。
記憶を出し切るように、リオはせっせと筆を動かした。切実な思いは書いた端から安心に変わるようで、とにかく手を動かし続けた。カトラが祈りの文言を書こうとして失敗した裏紙はやがて束になり、側付きの仕事をしているほかは、いつでも机に向かうようになった。
カトラは朝昼晩、兎の神様に祈る。彼女たちはみんな小さな植木鉢を持っていて、力があればその稲はすくすくと育ち、大きな粒の米がとれる。その速度は、季節も時間も関係ない。実力があれば、たった一日でも成果が出ているとはっきりわかる。そしてその出来で、次の順位が決まる。
来る日も来る日も、カトラは兎の像の前で祈る。リオも負けじと、カトラの鉢植えを磨き上げ、一番日当たりの良い場所を確保するために、他の側付きたちと場所取り合戦を繰り広げた。それでも、カトラの稲は沈黙し続けた。青々として枯れるそぶりはないが、育っている様子もない。
上位の巫女たちの稲が放つような、内側から溢れ出るような輝きや、茎が太くなるような力強さが、カトラの稲には現れない。
「難しいなあ……何がいけないんだろう」
ある夕暮れ、広間に掲示された順位表を見上げて、カトラがぽつりとこぼした。木札に書かれた『九十』の数字は、もう一ヶ月も変わっていない。そのすぐ横で、五十台の順位にいる巫女たちが、たわわに実り始めた稲穂を見せびらかすように談笑している。彼女たちの稲からは、甘い香りが漂ってくるようだった。
「必死さが足りないのかな?」
カトラはそう思い付き、夜明け前に起き出し、月明かりの下で頭を垂れる。リオも付き合って起きていたが、カトラの背中が日に日に小さくなっていくようで、見ていられなかった。
部屋に戻ると、カトラは大の字になって畳に転がった。
「ダメだあ。あたし、才能ないのかも。兎の神様、あたしの声なんて飽きちゃったんだよ」
「そんなことないよ。神様だって、たまには耳が遠くなるときがあるんだよ」
リオは励ますが、言葉が空回りする。カトラは天井の木目をじっと見つめたまま、弱々しく笑った。
「一の位になって、初頭村を見つけるなんて、夢のまた夢だったのかな」
その言葉が、リオの胸に突き刺さった。カトラは自分のためではなく、リオとの約束のために、こんなにすり減っている。このままではいけない。真面目にやっているだけでは、あの分厚い壁のような上位陣には勝てない。何か、特別なきっかけが必要だ。神様を振り向かせるような、強烈な何かが。
リオは龍の置物を手に入れてきた。町へ買い出しに出かけたとき、土産物屋で売っていた陶器の龍だ。息を吹きかけ、手を合わせてみることにした。
「龍よ、龍。聞こえたら返事してぇ」
置物は真ん中から割れた。乱暴な返事だと思いながら、胸は嬉しさでいっぱいだった。慌てて欠片を集めて捨てる。そうしながら、これは使えるかもしれない、とリオは考えた。
兎は龍の隣の神様だから、仲がいいはずだ。リオはカトラが祈っているその後ろで、自分もじっと祈りを捧げてみることにした。
すると、カトラの稲はぐんぐん伸び、稲穂が垂れるほどにたくさんの米を付けた。
「すごい! リオ、これはすごいよ!」
カトラは誰も見ていないことを確認しては、リオにニコニコ顔でそう言った。ほどなくして、カトラは二十八位にまで上った。
広間では、他の巫女たちが遠巻きにカトラを見ているのがわかった。称賛の眼差しではない。不審と、妬みと、そして恐れが混じった目だ。
それから十九位になった頃、全てのからくりが露見してしまった。
「カトラねえさんは側付きにいんちきさせてる」
そんな噂が飛ぶようになった。リオは憤る。
「あいつら、あんなことばっかり言って」
カトラはバツが悪そうに言う。
「ま、ほんとのことだし。でも、それをやっちゃダメなんて誰も言ってないからなあ」
「そうだよ、ダメならダメって書いておいてくれないと」
ところがリオとカトラは呼び出され、九位の巫女にため息をつかれることになった。彼女は消えりそうに繊細な声で、「巫女本人の地力がわかりませんと」と二人を教え諭した。
こうなると、まさに打つ手なしだ。カトラの稲を育てる方法を考えると、リオの頭はぐるぐるする。カトラは宮の畳に寝転がってぼやいた。
「あーあ。リオが巫女さんだったらな。あたしじゃ、そんなに偉くなれそうにないよ」
リオが祈るのをやめると、稲穂の育ちもぐっと悪くなった。カトラは四十一位にまで後退、長いため息が漏れるようになっていた。
カトラの愚痴を聞きながら、リオはじっと考えて言った。
「ねえ、兎の神様に何が好きか聞いてみてよ」
「話なんか、あたしじゃできないよ」
そこでリオは、自分が兎の神様に話しかけてみようか、という気分になった。巫女たちは暗黙の了解というか、遠慮のようなもので、自分の神様以外に手を合わせない。しかしリオの龍の神様は、兎の稲穂を育ててくれた。ならば、少し話しかけるくらいいいのではないか。
さっそくカトラの置物を借りて、畳の真ん中に置いてみる。
「ねえ、大丈夫かなあ、こんなことして。浮気みたいな感じにならない? 龍の神様が嫉妬するんじゃないかなあ」
「私の神様は、そんな感じじゃなかったもん。できることをやるしかないでしょ」
リオは、生意気な小さな龍のことを思いだしながら言い、そして合掌した。
「兎の神様。あなたの神様の好きな物を教えてぇ」
すると、兎の置物がほんの少しだけ宙に浮かんだ。胡散臭そうなものを見る目だったカトラが、はっと息を呑む。そして、置物はコテンと横倒しに転がった。二人は顔を見合わせた。
「カトラ、これどういう意味?」
「全然わかんないよ。何か聞こえた?」
「特に何も……」
「神様に向かって舐めた口を叩くんじゃねえ、ってことかも?」
そこでリオは兎の神様が好きな物を、今度は龍の神様に聞いてみることを思いついて、さっそくまた手を合わせた。
「龍よ、龍。兎の神様が好きな物を教えてぇ」
カトラがぎょっとした顔をしている。龍の置物は、ふう、と息を吐いた。リオにはそう感じた。そして頭に浮かんだのは、初頭村の小さな龍がうごめく姿で、それはなんだか拗ねたような感覚を思い起こさせた。
リオは顔を上げて言った。
「よくわかんない。拗ねてるのかな」
「やっぱりそうじゃん。ねえ、やっぱりそうなんだよ。自分以外の神様に祈るなんて、嫉妬しないわけないよ。謝った方がいいって」
リオは飾り切りしたニンジンなどの急ごしらえの供え物を用意して、龍の神様に手を合わせて謝った。すると頭に浮かぶのは、初頭村のリオの家の外観だった。それは先ほどよりも色づいて、土の匂いまで感じられ、懐かしさに胸がきゅっとするほどだった。
「どういう意味なんだろう……」
「拗ねちゃったから教えてくれないのかもよ」
カトラがうなずきながら言う。
みんな、どうしているのだろうか。リオは父親と、三人の弟たちのことを思った。目を閉じると、瞼の裏に焼き付いた光景が、現実よりも鮮やかに脈打っていた。
宮の畳は青く、い草の良い香りがする。でもリオの鼻の奥に蘇ったのは、古巣の家の土間の匂いだった。湿った土と、長年燻された煤の匂いだ。そして、わずかに残った味噌の酸っぱいような香りだ。
ここの暮らしは快適だ。雨漏りなどないし、すきま風も入ってこない。食事は温かく、飢えることなど想像もできない。そしてその快適さが、初頭村の記憶を少しずつ、薄皮を剥ぐように消していることに、リオは気付いてしまった。
ごめん。薄情だったよ。貧しくて、汚くて、寒くて、惨めだけれど、そこには確かに私たちの『暮らし』があるというのに。
リオは紙を引き寄せ、筆を走らせた。初めは絵を描こうとして、涙が紙に落ちて、墨が滲んだ。滲んだ黒い染みは、まるで初頭村の空を覆う、あの重たい黒雲のように見えた。会いたい。父ちゃんに会いたい。弟たちに会いたい。
筆は線を引き、やがてそれが文字になった。ウトという祖母がいたこと、末の子のために乳をもらいに行ったり、とうもろこしの汁を用意したりしたこと、サツマイモ泥棒の話……とりとめなく書き綴った。
記憶を出し切るように、リオはせっせと筆を動かした。切実な思いは書いた端から安心に変わるようで、とにかく手を動かし続けた。カトラが祈りの文言を書こうとして失敗した裏紙はやがて束になり、側付きの仕事をしているほかは、いつでも机に向かうようになった。
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