11 / 28
第10話:芽の出ない頑張り
しおりを挟む
翌朝、リオは目覚めるなり筆を洗いに出た。昨夜の続きを書かなければならないが、その前に、カトラをどう説得すべきだろうか。
竹筒から絶えず清らかな水が流れ落ち、苔むした石畳を濡らしている。リオは一番端の洗い場にしゃがみ込み、冷たい水に筆を浸した。筆の墨が、透明な水の中で煙のようにほどけていく。冷たさが指先から腕へと伝わり、少しだけ頭の芯が冷える気がした。
その時、すだれで仕切られた隣の洗い場から、忍び笑いが漏れてきた。水音に紛れるような、けれど鼓膜に棘のように刺さる、澄んだ高い声が響いた。
「臭うわよね、あの部屋」
「獣みたいな臭い。やっぱり、育ちが出るわね」
リオの手が止まる。
「逆差村の成金娘でしょう? 品がないわよねえ」
「必死すぎて怖いっていうか」
水音までもが、無神経に響き続けている。リオは筆を握ったまま、息を殺した。すだれの向こうで、二人の女が笑い合っている気配がする。
「稲が育たないのも当然よね。神様だって、ああいう人は嫌なんじゃない?」
「でも側付きが龍に祈ってあげれば、育つんでしょう? ずるいわよね」
「それも禁止されちゃったから、もうダメなんじゃないかしら」
リオの喉の奥に、何かが詰まったような感覚があった。カトラは何も悪くない。誰よりも真面目で、誰よりも人のことを考えている。それなのに、こんな風に言われている。
「あの子の話、面白いのよね。初頭村の」
「ああ、側付きの? 私も読んだわ。貧乏人の話って、なんだか……ね。新鮮よね」
「でも正直、カトラさんの方は興味ないのよ。見苦しいじゃない」
「カトラさんの順位が落ちたら、側付きの子の話が読めなくなるかしら?」
ちくしょう。リオは筆を握る手に力を込めた。カトラはそんなんじゃない。誰よりも優しくて、誰よりも頑張っている。
筆を洗いきると、リオは息を切らして部屋に戻った。カトラは机に突っ伏して寝ていた。昨夜は遅くまで祈りの練習をしていたのだろう。リオは音を立てないように、そっとカトラの肩に自分の羽織をかけた。
机の端から投げ出されたカトラの手は、爪が欠け、指先はひび割れていた。その手が、眠りながらも何かを掴もうとするように、微かにぴくりと動いた。
祈りの場で、カトラの苗は一段としょんぼりしたように見えた。他の巫女たちの稲は、日に日に穂を垂らし始めている。五十位から四十位あたりの巫女たちは、互いの鉢植えを見比べて、小声で話し合っている。
カトラは黙々と手を合わせていた。背筋を伸ばしているが、肩が小さく見える。祈りが終わると、彼女は自分の稲をじっと見つめて、何も言わずに立ち去った。リオはその後ろ姿を追いかけようとして、ふと足を止めた。廊下の角で、三人の巫女が固まって話しているのが見えた。
「やっぱり無理なんじゃないかしら」
「所詮、成金娘よ。本物の品格は、お金では買えないもの」
リオの足が、勝手に動いた。三人の巫女の前に立ちはだかる。彼女たちは驚いたように顔を上げた。
「あら、新しいお話が書けたのかしら?」
一番年上らしい巫女の、冷たい目がこちらを向いている。
「カトラは……」
リオは言葉を探した。何を言えばいい? カトラがどれだけ頑張っているか。どれだけ優しいか。どれだけ真面目か。
「カトラは、立派です」
三人の巫女は顔を見合わせて、くすくすと笑う。リオは拳を握りしめた。こんな言い方では、何も伝わらない。カトラは苦しんでいるのを、なんとかしてやりたいのに。
「失礼します」
リオは頭を下げて、その場を離れた。胸の奥が、ぎゅうぎゅうと締め付けられるような感覚があった。
部屋に戻ると、カトラは窓辺に座って、外に顔を向けながら、振り返らずに言った。
「リオ。あたし、やっぱり向いてないのかもしれない」
「何言ってんの」
「だってさ、どんなに祈っても、稲は育たないし。みんな、あたしのこと馬鹿にしてるし」
「馬鹿になんかしてない」
さっきの巫女たちのくすくす笑う声が、耳の奥で反響している。
「リオの話は人気だよね。みんな、楽しみにしてる。でもあたしは……あたしは何もできてない」
いつもの明るさを失ったカトラの声に、リオは何か言おうとして、言葉が出てこなかった。励ましの言葉は、どう紡いでも空々しく響くような気がした。
「ごめんな、リオ。せっかく側付きになってくれたのに、あたしじゃ初頭村を見つけることもできないや。せっかく、こんなに人気になった初頭村なのにさ」
カトラはこちらを向いて、小さく笑った。寂しくて、悲しくて、潰れそうにつらいときの笑顔だ。
その夜、リオは机に向かった。新しい紙を広げる。筆にたっぷりと墨を含ませる。書くべきことは、初頭村のことだけではない。筆を走らせた。
カトラのことを書いた。逆差村で初めて出会ったときのこと。牢屋で隣同士になったこと。一緒に巫女の試験を受けに行ったこと。旅の途中で見た白い花のこと。
どれだけ優しいか。どれだけ真面目か。どれだけ人のことを考えているか。リオは一つ一つ、丁寧に書いていった。
夜が更けても、リオの筆は止まらなかった。灯りの油が減っていくのも気づかず、ただひたすら書き続けた。カトラの良さを、誰かにわかってほしかった。いや、みんなにわかってほしかった。
カトラは素晴らしい人だ。稲が育たなくても、神様に愛されなくても、カトラはカトラだ。そのことを、どうしても伝えたかった。
臭い水のしたたる牢屋で、カトラがどうやって、隣の見知らぬ相手を励ましたかを書いた。逆差村でリオを家に招き入れ、白米と魚と肉を食べさせてくれたことも書いた。巫女の修行では、リオが理解できない作法を、何度も何度も繰り返し教えてくれたことも足した。初頭村を思って夜中に泣き出したリオのために、温かい茶を淹れてくれたこと、それがどんなに支えになったかを書いた。
字が連なっていくにつれ、リオの目頭が熱くなった。墨が滲まないように、何度も瞬きをする。カトラの手の温かさ、声の明るさ、笑顔の優しさを、全部、紙の上に写し取りたかった。
朝の祈りから二人して戻ってくると、リオはカトラに紙束を押し付けた。瞳が、見開かれていく。
「これ……あたしのこと?」
カトラの声が裏返った。顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「ちょ、ちょっと待てよ、何書いてんの!」
カトラは紙を押し返してきた。
「やめてよ、恥ずかしいじゃんか! あたしのことなんか書かないでよ!」
「でも」
「だめ! 絶対だめ! こんなの、誰にも見せちゃだめだからな!」
カトラは紙をくしゃくしゃに丸めようとする。リオは慌てて取り返した。
「せっかく書いたのに」
「だからやめろって! あたしは別に、そんな……そんな立派な人間じゃないんだから」
カトラは布団を頭まで被ってしまった。その肩が小刻みに震えている。笑っているのか、泣いているのか、リオには判断がつかなかった。
竹筒から絶えず清らかな水が流れ落ち、苔むした石畳を濡らしている。リオは一番端の洗い場にしゃがみ込み、冷たい水に筆を浸した。筆の墨が、透明な水の中で煙のようにほどけていく。冷たさが指先から腕へと伝わり、少しだけ頭の芯が冷える気がした。
その時、すだれで仕切られた隣の洗い場から、忍び笑いが漏れてきた。水音に紛れるような、けれど鼓膜に棘のように刺さる、澄んだ高い声が響いた。
「臭うわよね、あの部屋」
「獣みたいな臭い。やっぱり、育ちが出るわね」
リオの手が止まる。
「逆差村の成金娘でしょう? 品がないわよねえ」
「必死すぎて怖いっていうか」
水音までもが、無神経に響き続けている。リオは筆を握ったまま、息を殺した。すだれの向こうで、二人の女が笑い合っている気配がする。
「稲が育たないのも当然よね。神様だって、ああいう人は嫌なんじゃない?」
「でも側付きが龍に祈ってあげれば、育つんでしょう? ずるいわよね」
「それも禁止されちゃったから、もうダメなんじゃないかしら」
リオの喉の奥に、何かが詰まったような感覚があった。カトラは何も悪くない。誰よりも真面目で、誰よりも人のことを考えている。それなのに、こんな風に言われている。
「あの子の話、面白いのよね。初頭村の」
「ああ、側付きの? 私も読んだわ。貧乏人の話って、なんだか……ね。新鮮よね」
「でも正直、カトラさんの方は興味ないのよ。見苦しいじゃない」
「カトラさんの順位が落ちたら、側付きの子の話が読めなくなるかしら?」
ちくしょう。リオは筆を握る手に力を込めた。カトラはそんなんじゃない。誰よりも優しくて、誰よりも頑張っている。
筆を洗いきると、リオは息を切らして部屋に戻った。カトラは机に突っ伏して寝ていた。昨夜は遅くまで祈りの練習をしていたのだろう。リオは音を立てないように、そっとカトラの肩に自分の羽織をかけた。
机の端から投げ出されたカトラの手は、爪が欠け、指先はひび割れていた。その手が、眠りながらも何かを掴もうとするように、微かにぴくりと動いた。
祈りの場で、カトラの苗は一段としょんぼりしたように見えた。他の巫女たちの稲は、日に日に穂を垂らし始めている。五十位から四十位あたりの巫女たちは、互いの鉢植えを見比べて、小声で話し合っている。
カトラは黙々と手を合わせていた。背筋を伸ばしているが、肩が小さく見える。祈りが終わると、彼女は自分の稲をじっと見つめて、何も言わずに立ち去った。リオはその後ろ姿を追いかけようとして、ふと足を止めた。廊下の角で、三人の巫女が固まって話しているのが見えた。
「やっぱり無理なんじゃないかしら」
「所詮、成金娘よ。本物の品格は、お金では買えないもの」
リオの足が、勝手に動いた。三人の巫女の前に立ちはだかる。彼女たちは驚いたように顔を上げた。
「あら、新しいお話が書けたのかしら?」
一番年上らしい巫女の、冷たい目がこちらを向いている。
「カトラは……」
リオは言葉を探した。何を言えばいい? カトラがどれだけ頑張っているか。どれだけ優しいか。どれだけ真面目か。
「カトラは、立派です」
三人の巫女は顔を見合わせて、くすくすと笑う。リオは拳を握りしめた。こんな言い方では、何も伝わらない。カトラは苦しんでいるのを、なんとかしてやりたいのに。
「失礼します」
リオは頭を下げて、その場を離れた。胸の奥が、ぎゅうぎゅうと締め付けられるような感覚があった。
部屋に戻ると、カトラは窓辺に座って、外に顔を向けながら、振り返らずに言った。
「リオ。あたし、やっぱり向いてないのかもしれない」
「何言ってんの」
「だってさ、どんなに祈っても、稲は育たないし。みんな、あたしのこと馬鹿にしてるし」
「馬鹿になんかしてない」
さっきの巫女たちのくすくす笑う声が、耳の奥で反響している。
「リオの話は人気だよね。みんな、楽しみにしてる。でもあたしは……あたしは何もできてない」
いつもの明るさを失ったカトラの声に、リオは何か言おうとして、言葉が出てこなかった。励ましの言葉は、どう紡いでも空々しく響くような気がした。
「ごめんな、リオ。せっかく側付きになってくれたのに、あたしじゃ初頭村を見つけることもできないや。せっかく、こんなに人気になった初頭村なのにさ」
カトラはこちらを向いて、小さく笑った。寂しくて、悲しくて、潰れそうにつらいときの笑顔だ。
その夜、リオは机に向かった。新しい紙を広げる。筆にたっぷりと墨を含ませる。書くべきことは、初頭村のことだけではない。筆を走らせた。
カトラのことを書いた。逆差村で初めて出会ったときのこと。牢屋で隣同士になったこと。一緒に巫女の試験を受けに行ったこと。旅の途中で見た白い花のこと。
どれだけ優しいか。どれだけ真面目か。どれだけ人のことを考えているか。リオは一つ一つ、丁寧に書いていった。
夜が更けても、リオの筆は止まらなかった。灯りの油が減っていくのも気づかず、ただひたすら書き続けた。カトラの良さを、誰かにわかってほしかった。いや、みんなにわかってほしかった。
カトラは素晴らしい人だ。稲が育たなくても、神様に愛されなくても、カトラはカトラだ。そのことを、どうしても伝えたかった。
臭い水のしたたる牢屋で、カトラがどうやって、隣の見知らぬ相手を励ましたかを書いた。逆差村でリオを家に招き入れ、白米と魚と肉を食べさせてくれたことも書いた。巫女の修行では、リオが理解できない作法を、何度も何度も繰り返し教えてくれたことも足した。初頭村を思って夜中に泣き出したリオのために、温かい茶を淹れてくれたこと、それがどんなに支えになったかを書いた。
字が連なっていくにつれ、リオの目頭が熱くなった。墨が滲まないように、何度も瞬きをする。カトラの手の温かさ、声の明るさ、笑顔の優しさを、全部、紙の上に写し取りたかった。
朝の祈りから二人して戻ってくると、リオはカトラに紙束を押し付けた。瞳が、見開かれていく。
「これ……あたしのこと?」
カトラの声が裏返った。顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「ちょ、ちょっと待てよ、何書いてんの!」
カトラは紙を押し返してきた。
「やめてよ、恥ずかしいじゃんか! あたしのことなんか書かないでよ!」
「でも」
「だめ! 絶対だめ! こんなの、誰にも見せちゃだめだからな!」
カトラは紙をくしゃくしゃに丸めようとする。リオは慌てて取り返した。
「せっかく書いたのに」
「だからやめろって! あたしは別に、そんな……そんな立派な人間じゃないんだから」
カトラは布団を頭まで被ってしまった。その肩が小刻みに震えている。笑っているのか、泣いているのか、リオには判断がつかなかった。
0
あなたにおすすめの小説
腹に彼の子が宿っている? そうですか、ではお幸せに。
四季
恋愛
「わたくしの腹には彼の子が宿っていますの! 貴女はさっさと消えてくださる?」
突然やって来た金髪ロングヘアの女性は私にそんなことを告げた。
愛しの第一王子殿下
みつまめ つぼみ
恋愛
公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。
そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。
クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。
そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。
愚かな側妃と言われたので、我慢することをやめます
天宮有
恋愛
私アリザは平民から側妃となり、国王ルグドに利用されていた。
王妃のシェムを愛しているルグドは、私を酷使する。
影で城の人達から「愚かな側妃」と蔑まれていることを知り、全てがどうでもよくなっていた。
私は我慢することをやめてルグドを助けず、愚かな側妃として生きます。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
聖女追放 ~私が去ったあとは病で国は大変なことになっているでしょう~
白横町ねる
ファンタジー
聖女エリスは民の幸福を日々祈っていたが、ある日突然、王子から解任を告げられる。
王子の説得もままならないまま、国を追い出されてしまうエリス。
彼女は亡命のため、鞄一つで遠い隣国へ向かうのだった……。
#表紙絵は、もふ様に描いていただきました。
#エブリスタにて連載しました。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
好きな人ができたなら仕方ない、お別れしましょう
四季
恋愛
フルエリーゼとハインツは婚約者同士。
親同士は知り合いで、年が近いということもあってそこそこ親しくしていた。最初のうちは良かったのだ。
しかし、ハインツが段々、心ここに在らずのような目をするようになって……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる