リオの偽筆と真っ赤な真実

谷 亜里砂

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第10話:芽の出ない頑張り

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 翌朝、リオは目覚めるなり筆を洗いに出た。昨夜の続きを書かなければならないが、その前に、カトラをどう説得すべきだろうか。



 竹筒から絶えず清らかな水が流れ落ち、苔むした石畳を濡らしている。リオは一番端の洗い場にしゃがみ込み、冷たい水に筆を浸した。筆の墨が、透明な水の中で煙のようにほどけていく。冷たさが指先から腕へと伝わり、少しだけ頭の芯が冷える気がした。



 その時、すだれで仕切られた隣の洗い場から、忍び笑いが漏れてきた。水音に紛れるような、けれど鼓膜に棘のように刺さる、澄んだ高い声が響いた。



「臭うわよね、あの部屋」



「獣みたいな臭い。やっぱり、育ちが出るわね」



 リオの手が止まる。



「逆差村の成金娘でしょう? 品がないわよねえ」



「必死すぎて怖いっていうか」



 水音までもが、無神経に響き続けている。リオは筆を握ったまま、息を殺した。すだれの向こうで、二人の女が笑い合っている気配がする。



「稲が育たないのも当然よね。神様だって、ああいう人は嫌なんじゃない?」



「でも側付きが龍に祈ってあげれば、育つんでしょう? ずるいわよね」



「それも禁止されちゃったから、もうダメなんじゃないかしら」



 リオの喉の奥に、何かが詰まったような感覚があった。カトラは何も悪くない。誰よりも真面目で、誰よりも人のことを考えている。それなのに、こんな風に言われている。



「あの子の話、面白いのよね。初頭村の」



「ああ、側付きの? 私も読んだわ。貧乏人の話って、なんだか……ね。新鮮よね」



「でも正直、カトラさんの方は興味ないのよ。見苦しいじゃない」



「カトラさんの順位が落ちたら、側付きの子の話が読めなくなるかしら?」



 ちくしょう。リオは筆を握る手に力を込めた。カトラはそんなんじゃない。誰よりも優しくて、誰よりも頑張っている。



 筆を洗いきると、リオは息を切らして部屋に戻った。カトラは机に突っ伏して寝ていた。昨夜は遅くまで祈りの練習をしていたのだろう。リオは音を立てないように、そっとカトラの肩に自分の羽織をかけた。



 机の端から投げ出されたカトラの手は、爪が欠け、指先はひび割れていた。その手が、眠りながらも何かを掴もうとするように、微かにぴくりと動いた。



 祈りの場で、カトラの苗は一段としょんぼりしたように見えた。他の巫女たちの稲は、日に日に穂を垂らし始めている。五十位から四十位あたりの巫女たちは、互いの鉢植えを見比べて、小声で話し合っている。



 カトラは黙々と手を合わせていた。背筋を伸ばしているが、肩が小さく見える。祈りが終わると、彼女は自分の稲をじっと見つめて、何も言わずに立ち去った。リオはその後ろ姿を追いかけようとして、ふと足を止めた。廊下の角で、三人の巫女が固まって話しているのが見えた。



「やっぱり無理なんじゃないかしら」



「所詮、成金娘よ。本物の品格は、お金では買えないもの」



 リオの足が、勝手に動いた。三人の巫女の前に立ちはだかる。彼女たちは驚いたように顔を上げた。



「あら、新しいお話が書けたのかしら?」



 一番年上らしい巫女の、冷たい目がこちらを向いている。



「カトラは……」



 リオは言葉を探した。何を言えばいい? カトラがどれだけ頑張っているか。どれだけ優しいか。どれだけ真面目か。



「カトラは、立派です」



 三人の巫女は顔を見合わせて、くすくすと笑う。リオは拳を握りしめた。こんな言い方では、何も伝わらない。カトラは苦しんでいるのを、なんとかしてやりたいのに。



「失礼します」



 リオは頭を下げて、その場を離れた。胸の奥が、ぎゅうぎゅうと締め付けられるような感覚があった。



 部屋に戻ると、カトラは窓辺に座って、外に顔を向けながら、振り返らずに言った。



「リオ。あたし、やっぱり向いてないのかもしれない」



「何言ってんの」



「だってさ、どんなに祈っても、稲は育たないし。みんな、あたしのこと馬鹿にしてるし」



「馬鹿になんかしてない」



 さっきの巫女たちのくすくす笑う声が、耳の奥で反響している。



「リオの話は人気だよね。みんな、楽しみにしてる。でもあたしは……あたしは何もできてない」



 いつもの明るさを失ったカトラの声に、リオは何か言おうとして、言葉が出てこなかった。励ましの言葉は、どう紡いでも空々しく響くような気がした。



「ごめんな、リオ。せっかく側付きになってくれたのに、あたしじゃ初頭村を見つけることもできないや。せっかく、こんなに人気になった初頭村なのにさ」



 カトラはこちらを向いて、小さく笑った。寂しくて、悲しくて、潰れそうにつらいときの笑顔だ。



 その夜、リオは机に向かった。新しい紙を広げる。筆にたっぷりと墨を含ませる。書くべきことは、初頭村のことだけではない。筆を走らせた。



 カトラのことを書いた。逆差村で初めて出会ったときのこと。牢屋で隣同士になったこと。一緒に巫女の試験を受けに行ったこと。旅の途中で見た白い花のこと。



 どれだけ優しいか。どれだけ真面目か。どれだけ人のことを考えているか。リオは一つ一つ、丁寧に書いていった。



 夜が更けても、リオの筆は止まらなかった。灯りの油が減っていくのも気づかず、ただひたすら書き続けた。カトラの良さを、誰かにわかってほしかった。いや、みんなにわかってほしかった。



 カトラは素晴らしい人だ。稲が育たなくても、神様に愛されなくても、カトラはカトラだ。そのことを、どうしても伝えたかった。



 臭い水のしたたる牢屋で、カトラがどうやって、隣の見知らぬ相手を励ましたかを書いた。逆差村でリオを家に招き入れ、白米と魚と肉を食べさせてくれたことも書いた。巫女の修行では、リオが理解できない作法を、何度も何度も繰り返し教えてくれたことも足した。初頭村を思って夜中に泣き出したリオのために、温かい茶を淹れてくれたこと、それがどんなに支えになったかを書いた。



 字が連なっていくにつれ、リオの目頭が熱くなった。墨が滲まないように、何度も瞬きをする。カトラの手の温かさ、声の明るさ、笑顔の優しさを、全部、紙の上に写し取りたかった。



 朝の祈りから二人して戻ってくると、リオはカトラに紙束を押し付けた。瞳が、見開かれていく。



「これ……あたしのこと?」



 カトラの声が裏返った。顔がみるみるうちに赤くなっていく。



「ちょ、ちょっと待てよ、何書いてんの!」



 カトラは紙を押し返してきた。



「やめてよ、恥ずかしいじゃんか! あたしのことなんか書かないでよ!」



「でも」



「だめ! 絶対だめ! こんなの、誰にも見せちゃだめだからな!」



 カトラは紙をくしゃくしゃに丸めようとする。リオは慌てて取り返した。



「せっかく書いたのに」



「だからやめろって! あたしは別に、そんな……そんな立派な人間じゃないんだから」



 カトラは布団を頭まで被ってしまった。その肩が小刻みに震えている。笑っているのか、泣いているのか、リオには判断がつかなかった。
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