12 / 28
第11話:稲の育て方
しおりを挟む
自分の部屋に戻り、紙の束を机の上に置いた。ふう、とため息をついて、にやりと笑みがこぼれた。そして、また筆を手に取る。
カトラ本人のことは書けない。ならば、初頭村にいた、カトラによく似た誰かのことを書けばいい。
目を閉じて、記憶を辿った。初頭村には確かに、そんな人がいた。いつの間にか『鶴屋根』の家に住んでいた、お腹の大きな女の人だ。植物に詳しい人で、初頭村の子どもたちに山菜の見分け方を教えてくれた。
リオは書きながら、カトラの顔を思い浮かべていた。カトラの口調、カトラの仕草、カトラの優しさを、全部、あの女性に注ぎ込んでいく。
あの人は夫と一緒にやってきた流れ者で、村中が『罪人に違いない』と噂した。証拠なんかどこにもなかったのに、リオだって周りにつられて、白い眼で見た。
家の中に穴を掘るなんて、三件隣の爺さんだって同じことをして暮らしているのに、鶴屋根の夫婦は自分たちとは違うと思い込んで、犯人扱いした。
村の誰かが病気になったとき、薬草を一番にとってきてくれるのは、いつもあの人だった。それなのに、事情も何も聞かないで、悪い人だと決めつけた。
だから、あの夫婦は周りに何も言わないで、初頭村を出て行った。
リオは筆を置いた。紙の束は、また厚くなっていた。
昼過ぎ、リオはその紙をカトラに差し出した。
「これなら、いい?」
カトラは警戒した目でリオを見たが、紙を受け取った。読み始める。一枚、また一枚とめくっていく。やがて、カトラの手が止まった。
「初頭村に、こんな人がいたんだ」
「うん」
カトラは紙を膝の上に広げたまま、じっと見つめている。
「この人は、あたしの母ちゃんと似てるな」
彼女の声は、いつもより低かった。
「母ちゃんはね、いつも言ってたんだ。『知識は誰かのために使うものだ』って。『自分のためだけに溜め込んでいたら、腐ってしまう』って。だから教えるんだって」
割れた爪で、カトラは紙をそっと撫でた。
「でもあたし、それを忘れてた」
目が潤んでいる。
「稲を育てることばっかり考えて、何のために巫女になったのか、忘れてた」
カトラは立ち上がった。窓を開けて、外の空気を吸い込む。
「あたしは、人に尽くすために巫女になったんだ。それなのに、いつの間にか、位を上げることが目的になってた」
直接書くことはできなくても、初頭村を通して伝えることはできる。リオは這うように机に向かい、筆を取り、墨を含ませる。止まることなく走り続けよう。できることは、全てやろう。
乾いた枯れ葉に火種を落とすようなものだった。退屈という油をたっぷりと含んだ宮廷の女たちの間に、物語は瞬く間に燃え広がった。
リオが配った紙は、最初の一人から次の一人へ、そしてまた次へと手渡されていった。廊下で、洗い場で、食事の場で、女たちは小声で囁き合っている。
「話してみなくちゃ、わからないわよね……」
夕食を一階で受け取っていると、カトラが降りてきた。
「リオ、ちょっといい?」
「どうしたの」
「さっき、三十位の巫女さんに話しかけられたんだ」
「何て?」
「いや、なんでもない話なんだけどさ。笑ってくれたんだ」
カトラの声は弾んでいる。
「前は、あの人、あたしのこと避けてたのに」
リオは二階で、夕食の膳を置いた。
「良かったね」
膳を前にして、カトラは姿勢を正した。
「あたし、明日からもっと真面目に祈るよ。人の役に立つために、ちゃんと祈る」
夜明け前の祈りの場で、リオは変化に気づいた。カトラの周りに、何人かの巫女が集まっている。
「カトラさん、おはようございます」
「今日もよろしくお願いします」
カトラは戸惑ったように、でも嬉しそうに頭を下げている。
祈りが始まった。リオははるか後方で座って、祈る巫女たちの背中を見守っていた。胸の奥が、じんわりと温かくなる。
昼過ぎ、リオは廊下を歩いていた。角を曲がろうとしたとき、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
すだれの向こうで、二人の女が話している。あの日、洗い場で悪口を言っていた声だ。
「初頭村の女性の話、読んだ?」
「本当は優しい人が、誤解されるのはたまらなくもどかしいわね」
リオは足を止めた。すだれの隙間から、二人が小声で笑い合っている。リオはそっとその場を離れた。
夕方、リオが部屋で続きを書いていると、またカトラがやってきた。
「リオ、聞いてよ」
カトラは興奮した様子で、リオの隣に座った。
「今日ね、四十五位の巫女さんが、あたしに祈り方のコツを教えてくれたんだ。それでね、『一緒に頑張りましょう』って言ってくれて」
カトラの目が潤んでいる。
「前は、誰も話しかけてくれなかったのに。成金って、言われなくなった。ねえ、あたし、もっと頑張る。みんなの期待に応えたい」
部屋を出て行く足取りは、軽やかだ。
リオは窓の外を見た。夕日が沈みかけている。空はオレンジ色に染まり、雲は紫色の縁取りを帯びている。
宮の中で、何かが変わり始めている。初頭村の物語が、少しずつ人々の心を動かしている。筆が紙の上を滑っていく。墨の香りが部屋に満ちる。外では鳥が鳴いている。
巫女たちは毎日三度、祈りの場で手を合わせる。その中で、カトラの背中は真っ直ぐに伸びている。
煙が立ち上っていた。祈りの場に焚かれた香の煙だ。それは天井に向かって昇っていくが、途中で渦を巻き、カトラの頭上へと吸い寄せられていった。
リオは目を見開いた。煙が、まるで意思を持った生き物のように、カトラの周りを回っている。
他の側付きたちも気づいたようだ。何人かが小さく息を呑む音が聞こえた。
カトラは、祈り続けている。
やがて、不思議なことが起きた。カトラの稲穂が、これまでになく大粒の米をつけるようになったのだ。稲はもはや立ってはおれず、だらりとなりながら、それでいて活き活きと日に光っていた。
祈りの場でカトラは目を丸くして、自分の鉢植えをぐるりと一周した。
「これ、間違いなくあたしの稲だ……でも、どうして?」
すると、大きな笠を被りベールで顔を隠した、見慣れない年寄りの巫女が一人、側付きを三人も連れ、向こうからしずしずと歩いてきた。彼女が前を通るとき、巫女も側付きたちは揃ってみんな頭を下げ、微動だにしない。その巫女はカトラの稲までやってきて、手をやり、熱心に見始めた。
ああ、兎の神様に仕える巫女の最上位、一の位様だ、とリオは直感した。彼女は宮の最奥から出てきた。わざわざ、カトラの稲を見るためだけに。
なにか新しいことが起こる気がした。それも、とても良いことが。
彼女はカトラに言った。
「来なさい」
カトラ本人のことは書けない。ならば、初頭村にいた、カトラによく似た誰かのことを書けばいい。
目を閉じて、記憶を辿った。初頭村には確かに、そんな人がいた。いつの間にか『鶴屋根』の家に住んでいた、お腹の大きな女の人だ。植物に詳しい人で、初頭村の子どもたちに山菜の見分け方を教えてくれた。
リオは書きながら、カトラの顔を思い浮かべていた。カトラの口調、カトラの仕草、カトラの優しさを、全部、あの女性に注ぎ込んでいく。
あの人は夫と一緒にやってきた流れ者で、村中が『罪人に違いない』と噂した。証拠なんかどこにもなかったのに、リオだって周りにつられて、白い眼で見た。
家の中に穴を掘るなんて、三件隣の爺さんだって同じことをして暮らしているのに、鶴屋根の夫婦は自分たちとは違うと思い込んで、犯人扱いした。
村の誰かが病気になったとき、薬草を一番にとってきてくれるのは、いつもあの人だった。それなのに、事情も何も聞かないで、悪い人だと決めつけた。
だから、あの夫婦は周りに何も言わないで、初頭村を出て行った。
リオは筆を置いた。紙の束は、また厚くなっていた。
昼過ぎ、リオはその紙をカトラに差し出した。
「これなら、いい?」
カトラは警戒した目でリオを見たが、紙を受け取った。読み始める。一枚、また一枚とめくっていく。やがて、カトラの手が止まった。
「初頭村に、こんな人がいたんだ」
「うん」
カトラは紙を膝の上に広げたまま、じっと見つめている。
「この人は、あたしの母ちゃんと似てるな」
彼女の声は、いつもより低かった。
「母ちゃんはね、いつも言ってたんだ。『知識は誰かのために使うものだ』って。『自分のためだけに溜め込んでいたら、腐ってしまう』って。だから教えるんだって」
割れた爪で、カトラは紙をそっと撫でた。
「でもあたし、それを忘れてた」
目が潤んでいる。
「稲を育てることばっかり考えて、何のために巫女になったのか、忘れてた」
カトラは立ち上がった。窓を開けて、外の空気を吸い込む。
「あたしは、人に尽くすために巫女になったんだ。それなのに、いつの間にか、位を上げることが目的になってた」
直接書くことはできなくても、初頭村を通して伝えることはできる。リオは這うように机に向かい、筆を取り、墨を含ませる。止まることなく走り続けよう。できることは、全てやろう。
乾いた枯れ葉に火種を落とすようなものだった。退屈という油をたっぷりと含んだ宮廷の女たちの間に、物語は瞬く間に燃え広がった。
リオが配った紙は、最初の一人から次の一人へ、そしてまた次へと手渡されていった。廊下で、洗い場で、食事の場で、女たちは小声で囁き合っている。
「話してみなくちゃ、わからないわよね……」
夕食を一階で受け取っていると、カトラが降りてきた。
「リオ、ちょっといい?」
「どうしたの」
「さっき、三十位の巫女さんに話しかけられたんだ」
「何て?」
「いや、なんでもない話なんだけどさ。笑ってくれたんだ」
カトラの声は弾んでいる。
「前は、あの人、あたしのこと避けてたのに」
リオは二階で、夕食の膳を置いた。
「良かったね」
膳を前にして、カトラは姿勢を正した。
「あたし、明日からもっと真面目に祈るよ。人の役に立つために、ちゃんと祈る」
夜明け前の祈りの場で、リオは変化に気づいた。カトラの周りに、何人かの巫女が集まっている。
「カトラさん、おはようございます」
「今日もよろしくお願いします」
カトラは戸惑ったように、でも嬉しそうに頭を下げている。
祈りが始まった。リオははるか後方で座って、祈る巫女たちの背中を見守っていた。胸の奥が、じんわりと温かくなる。
昼過ぎ、リオは廊下を歩いていた。角を曲がろうとしたとき、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
すだれの向こうで、二人の女が話している。あの日、洗い場で悪口を言っていた声だ。
「初頭村の女性の話、読んだ?」
「本当は優しい人が、誤解されるのはたまらなくもどかしいわね」
リオは足を止めた。すだれの隙間から、二人が小声で笑い合っている。リオはそっとその場を離れた。
夕方、リオが部屋で続きを書いていると、またカトラがやってきた。
「リオ、聞いてよ」
カトラは興奮した様子で、リオの隣に座った。
「今日ね、四十五位の巫女さんが、あたしに祈り方のコツを教えてくれたんだ。それでね、『一緒に頑張りましょう』って言ってくれて」
カトラの目が潤んでいる。
「前は、誰も話しかけてくれなかったのに。成金って、言われなくなった。ねえ、あたし、もっと頑張る。みんなの期待に応えたい」
部屋を出て行く足取りは、軽やかだ。
リオは窓の外を見た。夕日が沈みかけている。空はオレンジ色に染まり、雲は紫色の縁取りを帯びている。
宮の中で、何かが変わり始めている。初頭村の物語が、少しずつ人々の心を動かしている。筆が紙の上を滑っていく。墨の香りが部屋に満ちる。外では鳥が鳴いている。
巫女たちは毎日三度、祈りの場で手を合わせる。その中で、カトラの背中は真っ直ぐに伸びている。
煙が立ち上っていた。祈りの場に焚かれた香の煙だ。それは天井に向かって昇っていくが、途中で渦を巻き、カトラの頭上へと吸い寄せられていった。
リオは目を見開いた。煙が、まるで意思を持った生き物のように、カトラの周りを回っている。
他の側付きたちも気づいたようだ。何人かが小さく息を呑む音が聞こえた。
カトラは、祈り続けている。
やがて、不思議なことが起きた。カトラの稲穂が、これまでになく大粒の米をつけるようになったのだ。稲はもはや立ってはおれず、だらりとなりながら、それでいて活き活きと日に光っていた。
祈りの場でカトラは目を丸くして、自分の鉢植えをぐるりと一周した。
「これ、間違いなくあたしの稲だ……でも、どうして?」
すると、大きな笠を被りベールで顔を隠した、見慣れない年寄りの巫女が一人、側付きを三人も連れ、向こうからしずしずと歩いてきた。彼女が前を通るとき、巫女も側付きたちは揃ってみんな頭を下げ、微動だにしない。その巫女はカトラの稲までやってきて、手をやり、熱心に見始めた。
ああ、兎の神様に仕える巫女の最上位、一の位様だ、とリオは直感した。彼女は宮の最奥から出てきた。わざわざ、カトラの稲を見るためだけに。
なにか新しいことが起こる気がした。それも、とても良いことが。
彼女はカトラに言った。
「来なさい」
0
あなたにおすすめの小説
腹に彼の子が宿っている? そうですか、ではお幸せに。
四季
恋愛
「わたくしの腹には彼の子が宿っていますの! 貴女はさっさと消えてくださる?」
突然やって来た金髪ロングヘアの女性は私にそんなことを告げた。
愛しの第一王子殿下
みつまめ つぼみ
恋愛
公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。
そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。
クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。
そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。
愚かな側妃と言われたので、我慢することをやめます
天宮有
恋愛
私アリザは平民から側妃となり、国王ルグドに利用されていた。
王妃のシェムを愛しているルグドは、私を酷使する。
影で城の人達から「愚かな側妃」と蔑まれていることを知り、全てがどうでもよくなっていた。
私は我慢することをやめてルグドを助けず、愚かな側妃として生きます。
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
聖女追放 ~私が去ったあとは病で国は大変なことになっているでしょう~
白横町ねる
ファンタジー
聖女エリスは民の幸福を日々祈っていたが、ある日突然、王子から解任を告げられる。
王子の説得もままならないまま、国を追い出されてしまうエリス。
彼女は亡命のため、鞄一つで遠い隣国へ向かうのだった……。
#表紙絵は、もふ様に描いていただきました。
#エブリスタにて連載しました。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
好きな人ができたなら仕方ない、お別れしましょう
四季
恋愛
フルエリーゼとハインツは婚約者同士。
親同士は知り合いで、年が近いということもあってそこそこ親しくしていた。最初のうちは良かったのだ。
しかし、ハインツが段々、心ここに在らずのような目をするようになって……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる